220312紫式部日記㉔「道長との問答」

前回で長い手紙の部分は終わった。紫式部日記は評論、批評から再び記録日記へと戻る。但しすぐに記録に戻ったのではない。手紙の部分に源氏物語の想い出からの連想で、道長との和歌の贈答が語られる。

 

「朗読1」源氏物語を見て、道長は「御前は浮気者だなという」歌を、私は「まだ靡いたことは

     ありません」と返歌をする。

源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅のしたに敷かれたる神にかかせたまへる。

すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ

たまはせたれば

「人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ

めざましう」と聞こゆ。

「現代語訳」

源氏物語が中宮様の御前に有るのを、道長様が御覧になって、いつもの冗談を仰ったついでに、梅の実の下に敷かれた紙に歌をお書きになった。

あなたは浮気者と評判ですから、あなたに逢う人が自分のものにせず、そのまま見過ごす事はないでしょう。

こんな歌を下さったので

人にはまだ靡いたことはありませんが、いったい誰が私を浮気者と言いふらしたのでしょうか。

心外です、と申し上げた。

「講師」

紫の上が登場する若紫の巻は、藤原公任の口から話題になるほどであった。紫のゆかりという言葉がある。桐壺の更衣から藤壺へ、藤壺から紫の上へというヒロインの系譜を意味している。紫式部という女房名を持つ源氏物語の作者は、桐壺の更衣、藤壺、紫の上というヒロインの源流、水源地なのである。ここで、源氏物語の想い出に道長が登場したことから、紫式部日記には次の道長との関係が語られる。

 

「朗読2」ある晩、寝ていると戸を頻りに叩く人がいる。相手が誰か分かっていたが

     明けなかった。この事で歌の交換。

渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明したるつとめて、

夜もすがら水鶏よりけになくなくぞまきの戸くちにたたきわびつる

かへし

ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし

「現代語訳」

寝ていると、戸を叩いている人がいる。恐ろしいので、そのまま答えないでいた。そのあくる朝、道長より歌。

夜通し、水鶏が戸を叩くように、私は泣くほど戸を叩きながら嘆いていた。

返歌

ただではおくまいとばかり、戸を叩く貴方の事ゆえ、もし戸を開けて居たらとても後悔していたでしょう。

 

「朗読3」彰子に次男敦良 あつなが親王、後の後朱雀天皇が生まれている。

     その正月の描写。道長の上機嫌。

ことし正月三日まで、宮たちの御戴餅に日々にまうのぼらせたまふ、御供にみな上臈もまゐる、左衛門の督抱いたてまつらせたまひて、殿、餅はとりつぎて、主上にたてまつらせたまふ。二間の東の戸にむかひて、主上のいただかせたてまつらせたままふなり。下りのぼらせたまふ儀式、見もの也。

大宮はのぼらせたまはず。

「現代語訳」

今年は正月三日まで、若宮様たちは、御餅戴の儀式で、毎日清涼殿に上られる。そのお供に上臈の女房たちも参上する。左衛門の督(藤原頼通)が、若宮様たちをお抱きになって、道長様はお餅を取り次いで主上に奉られる。主上が若宮方のおつむに御餅をいただかされるのである。若宮様たちが抱かれて主上の前に昇り降りされる儀式は見物である。

「講師」

此処で中宮彰子にもう一人、若宮が生まれている。寛弘6年、男宮(敦良 あつなが)、後の後朱雀

天皇。道長の我が世の春の始まりである。

 

「朗読4」宴会で、公卿たちが居並ぶ中で、若宮を抱いた道長が、上機嫌で若宮を

     あやしている情景。

二日、宮の大饗はとまりて、臨時客、東面とりはらひて、例のごとしなり。上達部は、傅の大納言、右大将、中宮の大夫、四条の大納言、権中納言、侍従の中納言、左衛門の督、源宰相、むかひつつゐたまヘリ。源中納言、右衛門の督、左右の宰相の中将は、長押の下に、殿上人の座の上に着きたまヘリ。若宮抱き出でたてまつり玉ヒデ、例のことどもいはせたてまつり、うつくしみきこえたまひて、上に、「いと宮抱きたてまつらむ」と殿ののたまふを、いとねたきことにしたまひて、「ああ」とさいなむを、うつくしがりきこえたまひて、申したまへば、右大将など興じきこえたまふ。

「現代語訳」

二日、火事などがあって、中宮様の祝の式は中止となり、摂関が行う祝宴はいつも通りに行われた。列席の公卿たちは・・・・・・。道長様が長男の若宮(敦成 あつひら)親王をお抱きになって、いつもの挨拶などをなさって、若宮を可愛がっておられる。道長が北の方に、「弟宮を抱いてあげなさい」と仰るのに、若宮は焼餅を焼いて「いや-」と駄々をこねられる。

それを又、道長様があやしておられるので右大将などは面白がっている。

 

「朗読5」管弦の遊び。道長は酔ってご機嫌。歌を詠めと仰るが、自分で古歌を歌っていて、

     その場に相応しいこと。

上にまゐりたまひて、主上、殿上に出でさせたまひて、御あそびありけり。殿、例の酔はせたまへり。わづらはしと思ひて、かくろへゐたるに、「など、御父の、御前の御遊びにめしつるに、さぶらはでいそぎまかでにける。ひがみたり」など、むつからせたまふ。「ゆるさるばかり歌ひとつ仕うまつれ。親のかはりに、初子の日なり、詠め詠め」とせめさせまふ。うち出でむに、いとかたはならむ。こよなからぬ御酔ひなめれば、いとど御色あひきよげに、火影はなやかにあらまほしくて、「年ころ、宮のすさまじげにて、一ところおはしますを、さうざうしく見たてまつりしに、かくむつかしきまで、左右に見たてまつりるこそうれしけれ」と、おほとのごもりたる宮たちを、ひきあけつつ見たてまつりたまふ。「野辺に小松のなかりせば」と、うち誦じたまふ。あたらしからむことよりも、折ふしの、人の御有様、めでたくおぼえさせたまふ。

「現代語訳」

公卿たちも清涼殿に参上して、主上もお出ましになって、管弦に遊びがあった。道長様はいつものように酔っておいでだ。

私はうるさいので隠れていたが見付けられて、「どうして御前の父親は、招待したのに、急いで退出してしまった。ひねくれているな」などと機嫌が悪い。「その罪が許されるような見事な歌を詠みなさい親の代わりに。今日は初子の日だし、詠め詠め」と。すぐ読んだとしてもいい物は出来ないだろう。とても酔ってられるので、道長様の顔色は美しく、火に照らされた姿は輝いている。「ここの所、中宮様がお子もなく寂しそうであったが、今ではこのように、うるさいくらい左右に若宮方がいらっしゃるのをみるのは、嬉しいことだ。」と仰って、眠っておられる若宮たちを、帳台の垂れ衣を引き開けて、覗いておられる。「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんでおられる。この場面で、新しい歌を詠むよりは、ぴったりの古歌を吟唱される道長様は立派に思われた。

「講師」

紫式部の父親は藤原為時、歌人、漢詩人。

子の日する野辺の小松のなかりせば千世のためしに何をひかまし  拾遺和歌集 壬生忠岑

子の日の遊びをするのに、野辺に小松がなかったら、どうしたらいいのだろう。

 

「コメント」

 

色々な行事の中に、道長の事も見えてくる。普通の日記に近付いてきた。壬生忠岑の歌は私には意味不明。