220416②雄略天皇と磐姫皇后巻1・巻2

前回は万葉集の凡そについて話した。

・万葉集が歴史的に積み重ねられた歌集である事。

・歴史的に時間を追った配列が基本となって、古い歌から新しい歌を収めた巻へと並んでいる。

・漢字だけで日本語を記録している為に、平仮名がつかわれるようになった平安時代になると、読めなくなった。平安時代半ばから解読が始まり、現在も続いている。

 

さて今日からは、具体的な作品を読みながら、万葉集の語る歌の歴史、或いは歌の語るこの国の歴史を見ていこう。今も言ったように、古い時代の歌を収めた巻が、前の方にあり、巻の中でも古い順から新しい歌へと並んでいる。

 

1の巻頭。1-1 雄略天皇  雄略天皇の歌は、万葉集に三首、古事記に九首、日本書記に三首

泊瀬の朝倉の宮に天の下しらしめす大泊瀬天皇の御製歌一首

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国はおしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも

 

飛鳥から東に進むと、長い谷になっていて、途中に長谷観音がある。その辺りを初瀬という。この天皇は雄略天皇と呼ばれている。巻1が天皇に代毎に分けられている。その天皇は、どこどこの宮で天の下を治めたもうスメラミコトと表されている。これは天皇の代毎に、宮を立て替えていたからである。

先程読んだのは、一応の訓読である。それに基づいて口語訳がつく。これの解釈はマチマチ。

若菜を摘んでいる女の子に、名を名乗れ、俺を知らないのかと凄んでいる、町のアンちゃん風である。

 

これが雄略天皇の歌かというと、古代では不自然ではない。古事記には神武天皇から推古天皇まで33代、日本書記では持統天皇までの記事が載っている。記事の密度には差があって、名前だけで逸話もエピソ-ドもないものもある。

21代にあたる雄略天皇は逸話の多い天皇である。そして共通して言えるのは、雄略天皇は短気で暴力的な人物として語られている。

兄である安康天皇の崩御後、邪魔になる兄弟を殺して即位する。

古事記では、自分の宮のような屋根に飾りを付けた豪族の家を見つけて、怒って焼いてしまう。献上された盃に木の葉が浮いたのを咎めて、侍女を無礼打ちにしようとした。とにかく乱暴で手が付けられない。古事記と日本書記とで違うのは、古事記の方に、滑稽味があること。

古事記・古事記の表現の例  雄略天皇 

・葛城山で狩りをした時、手負いの猪が出てきたので、怖がって木の上に逃げてしまった。古事記

・恐れて木に登ったのは従者で、雄略は冷静に猪をしとめて、従者を戒めたとある。 日本書紀

・葛城山で天皇一行とそっくりな姿で山に登っている一行を見かけると、

古事記では攻撃を仕掛けようとするが、実はそれが山の神であることが分かると、自分一行の着物を全部脱がせて、武器と共に神に献上し、低頭する。日本書紀の方では、すぐに神と見抜き、一緒に狩りを楽しんで送ってもらい、人々は天皇の偉大さを讃えたとされる。

 

もう一つ異なるのは、日本書記の雄略天皇の巻には、外交、政治や戦争の話が多くて、女性に関わる話は殆どない。

それに対して、古事記では外交、政治は殆どなくて女生との婚姻の話が多い。

エピソ-ド1 引田部の赤猪子

そしてその多くが失敗談である。例を挙げると選択をしている少女を見初めて、名前を聞く。迎えを寄こすから妻になれと命じる。しかし家に帰るとその事を、すっかり忘れてしまう。少女は辛抱強く待っていたが80歳になってしまう。

これではと、雄略の所に出向くと、彼はすっかり忘れていた。今更結婚することも出来ないのでと、沢山の褒美を与えて帰した。

エピソ-ド2  和邇のおどひめ

和邇のおどひめに求婚で、春日に行き、道でその少女にあった。少女は隠れた。天皇は沢山の鋤を集めて隠れている岡を掘り返して探そうという。それでその丘を金鋤の岡という。こんなことを云うから恐れられるのである。

 

古事記、日本書記の歌は、形式から和歌ではなくて、歌謡と呼ばれる。→雄略は古事記・日本書紀の人気者

それぞれの場面で雄略は歌を歌っている。ほゞ短歌形式である。

古事記、日本書記には多くの歌が記されているが、多くは五七の定型に合っていないし、又一般とは発想を異にしているので、和歌と区別して、歌謡と呼ばれる。そして、古事記日本書紀では歌は物語の中に組み込まれて、歌を中心に物語を展開するので、これ等を歌謡物語という、先程紹介した赤猪子の物語にも、葛城山の猪の話にも歌謡は出てきて、

やはり雄略天皇は歌謡物語の主人公なのである。この雄略天皇5世紀に実在したことは確実である。

稲荷山古墳・江田船山古墳の徹系の銘、倭王武の宋への上表文

1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘に、ワカタケル大王の名が見えている。

またこれより先に見つかった熊本の江田船山古墳から出た鉄剣の銘に見える名も、ワカタケルであった。共に5世紀後半築造の古墳である。そして当時南北に分裂していた中国の南朝、宗に478年上表文を送った倭王武は雄略であることが確実視されている。

上表文には「自分たちが全国に遠征して従わせ、海を渡り半島にも進出して平定した」と書かれている。

実際に東西の古墳からその名がみえる事から、雄略の勢力が日本列島に及んでいたのは確実であろう。

しかし列島に君臨する大王が、冷徹で粗野な古事記、日本書記の雄略天皇像はデフォルムされていると思われる。

特に古事記の滑稽で女性との結婚ばかり熱心な雄略は、実際からは程遠い。古事記、日本書記の書かれた8世紀の初めころから、250年前を想像して書かれたのである。女に声をかけて従わないと恫喝する、洗濯する赤猪子に声をかけたら逃げられたり、オドヒメに息まいたりする古事記の描写は、雄略天皇に近いのではないか。そうして、歌謡物語風な天皇像が、万葉集の冒頭に置かれている。それは続く巻1の他の歌々とは全く異質である。

 

13-3312 巻13は作者を示さない長歌の巻で、これもどのような経緯で誰が作ったかも分らない

こもりくの 泊瀬小国に よばひせす 我が天皇(すめらみこと)よ 奥床に 母は寝ねたり 外床に 父は寝ねたり  起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 思ふこ゜とならぬ (こも)り妻かも

親に内緒でつき合っている男が夜、訪ねてくる。しかし起き出して会いに行けば、両親に知られてしまう。ああなんと不自由な隠(こも)り妻だろう。

所が此の男がスメラミコトと呼ばれる。天皇を指している。これは天皇の隠れ妻と考えられる。

古事記の歌謡物語の流れが万葉集の歌にも来ている。

1巻頭歌の古事記に語られるような歌謡物語の流れをくむ創作と考えてよい。前回万葉集の和歌の始まりは、7世紀前半630年頃といった。次回、話しする巻1-2が舒明天皇歌である。巻頭歌の作者とされる雄略天皇はそれより150年も前の人。巻頭歌は、雄略の実作でなく、名を借りた作、仮託であろう。万葉集編者も分かっていたはずである。

しかし、あえてそれが万葉集の巻頭に置かれるのは、万葉集に納める和歌が伝説の色好みの天皇がいた時代を引き継ぐものであると宣言するためであろう。和歌が舒明天皇以降の130年に留まらず、深い淵源をもつことが主張されていると思う。

 

さて巻2は相聞と挽歌の部からなるが、巻頭相聞の部の最初に置かれているのも、やはりとびぬけて古い時代の作とされる歌である。仮託と考えられる。

 

難波高津宮で世を治めた仁徳天皇の時代

磐姫皇后が仁徳天皇を思って作った歌四首

 

   2-85  仁徳天皇のことを思って作った 行き→自分の家でない所に滞在している事

君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行く゜かむ待ちにか待たむ

あなたが旅に出てからもう幾日も経ちました。山を訪ねてお迎えに行こうか待っていましょうか。

   2-86  辛いので死んでしまおうかな 

かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましもの

これほど恋しい思いをして生きているよりは、高山の岩を枕に横たわり死んでしまった方がいいでしょう。

   2-87  でもずっと待っていよう 白髪になるまで

ありつつも君をば待たむうたなびくわが黒髪に霜の置くまでに

生き永らえて待つことにしましょう。貴方の帰りを。私の黒髪が霜の置くまで。

   2-88 三句まで序詞 嘆きの譬喩となっている

秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方へ我が恋やまむ

秋の田の上にかかる朝霞のように、私の恋はいつになったら晴れ渡ってくるのだろうか

 

譬喩と譬喩とされるものとは、同じ要素と異なる要素とがある。例 同じ 石のように頑固なひと。

最後の歌の場合には、違いにも意味がある。今、秋の田の上に漂っている霞はなかなか動こうとしない。どうするか、決めかねている自分の心とも共通している。しかし、朝の霧なら消えていくでしょう。しかし自分の恋は何時までも消えそうにない。それでいつになったらという嘆きが起こるのである。この面で、朝霞と我が心は対立的である。

 

この四首は連作であるというのが通説である。

一首目 夫の不在が長くなって、山を訪ねて迎えに行くかと、かすかな迷い

二首目 このまま待つ苦しみよりは、山を訪ねて迎えに行く方を選んで、このまま死んでもかまわない。

三首目 一転して、白髪の年になっても待っていよう

四首目 どちらとも決めかねて、いつまでこの恋を続けて居なければならないのか

しかし、最初から連作で作られたものでは無さそうである。

 

先ず最初の歌に、右の一首は山上憶良の類従歌林に載すという註がある。

山上憶良は、万葉三期の代表的歌人である。その憶良が書いた書物として、類従歌林がというのがある。今は伝わっていない。憶良は遣唐使として、中国にも渡った人だから、中国の類書に倣って作ったのである。最初の一首だけが,この本に載っていたのである。

 

又萬葉集として引用される歌 90番は、今の磐の姫の歌とそっくりである。

2-90 萬葉集が引用する古事記の注にある通り、古事記ではこれを歌ったのは磐の姫ではない別の女性である。

      

君が行き日長くなりぬ山たづの迎へをいかむ待つには待たじ

二句迄は全く同じ。但し三句以降は、言葉は似ているが意味は違う。山たづは、スイカズラ科ニワトコ。葉が対生なので「迎え」の枕詞。2-85と違って、迷いではなく迎えに行く決意を歌っている。これは軽皇子の妹・衣を通して透けて見えるような美女・衣通王(そととおりひめ)。その美しさの故に、兄が恋してしまう。当時は異母兄弟ならばOKだが、同母はNO

この事で人心が離れ、乂皇子は伊予に流罪となり、衣通姫も伊予まで行って心中する。

 

古事記の歌と萬葉集の巻2-85の歌と、どちらが先かというと、古事記の方であろう。万葉集の歌は、古事記の歌の改作か、パロディであったと解釈するべきである。

 

もう一つ第三首巻2-87にも異伝89番が記されている。

2-89

居りあかして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも

夜が明けるまであなたをお待ちしましょう。自分の黒髪に霜が降ろうとも。こちらは居り明かしてとあるので、一晩中待っているとの意味。いくら髪に霜がついても、という意味となる。白髪ではない。この異伝歌と最初の巻2-87との関係も、古事記の異伝歌の方が先である。

 

ここまでのまとめ  何故磐の姫なのか

此処までをまとめておくと、先ず古事記の衣通姫の歌をもとに、磐の姫の恋の迷いの歌が作られ、これが山上憶良の類従歌林に載せられる。ついで、居り明かして・・・の歌を改作して、後の歌が追加され、連作的な磐の姫の歌として、万葉集に載せられたと考えるべきであろう。何故磐の姫かというと、磐の姫も古事記、日本書記では歌謡物語の主人公だからである。仁徳天皇が仁政をしいた天皇として、古事記でも聖帝として讃えられているが、雄略と同じで色好みであって、数々の女性を妻にしようとする。磐の姫は猛烈に嫉妬深い女性とされている。古事記には、磐の姫が足をバタバタさせて嫉妬したと記述されている。

 

磐の姫の家出 自分が熊野の湯に行っている時に新しい女性を妻にしたので遂に切れてしまった磐の姫

遂に怒った磐の姫は、舟を難波の津に止めず、淀川を遡って家出をする。出身の葛城に帰ってしまうと、かつーらぎしとの天皇との争いになるので、山城の綴喜という所で、邸を作ることにする。仁徳天皇が迎えに行くが、聞かいれずに5年後に死去する。

 

これら磐の姫の歌が作られた時期ははっきりしないが、奈良時代、藤原不比等の娘光明子が皇后になる際に、臣下出身の工合の先例として磐の姫があげられた。その時、余り嫉妬深くて扱いにくい皇后では困るので、イメ-ジアップの為に、万葉集では内に情念を秘めた磐の姫像がつくられたという説もあるが、いずれにせよ奈良時代に作られたというのは自然である。

 

大昔の天皇、皇后の歌が巻頭に据えられることによって、万葉集の歴史の始まりが、古い時代に設定されたのには、変わりはない。これらの歌が仮託であることは間違いないが、歴史的な歌集である万葉集にとって雄略天皇や磐の姫の歌は大切であると思う。

 

「コメント」

今回の講義のアウトラインがもう一つ、はっきり理解できなかった。万葉集の元は、古事記日本書紀と言うのか。万葉集よりも、古事記日本書紀の方が、信頼性があるという事か。