220507⑤額田王と斉明天皇 巻1

前回、前々回と舒明天皇の歌を扱った。万葉集は舒明天皇の時期を、和歌の実質的スタ-トと示している。その時代の歌は、古事記、日本書紀の歌謡の表現を受け継ぎつつも、異なる質を持つものであった。

隋統一王朝の出現と共に、東アジア社会の全体が改まり、大和も隋と直接外交をして、新たにポジションを得ようとていたので、それに応じて、変革が国内的にも行われていた。和歌という詩型が誕生したのもこの頃である。舒明天皇の国見歌、中皇命の狩りの歌がそれを示している。

但し舒明天皇は日本書紀を見る限りでは、それほど記事のある天皇ではない。在位中の最も大きい業績は、630年に初めて遣唐使を送ったことである。治世の時に動乱と動乱等はなかったが、天変地異は記されている。

その舒明天皇が崩御すると、皇后であった宝姫皇女が即位して、皇極天皇になる。それと共に歌人らしい歌人が出現する。額田王である。額田王は遥か後の持統朝まで歌があるが、初出は皇極天皇の御代である。

1-7 額田王 皇極天皇の御代 但し作者はつまびならずとある 

秋の野の み草を刈葺き 宿れりし 宇治の京(みやこ) 仮廬(かりほ)しおもほゆ

秋の野のすすきを刈って、屋根に葺いた、あの宇治の仮の宿か懐かしいものです。

 

この歌は額田王が、かって旅した宇治の狩りの宿を懐かしんで歌った一種である。題詞に「いまだつまびからず」とあるのは、実際に額田王の作かどうか不明で、後半の注を読めば、皇極帝の歌となる。

そして編者は山上憶良の類従歌林を引用して考証している。類従歌林によると、皇極天皇が行幸した時の御製歌となっている。そして様々な考証の元に、皇極天皇の弟・孝徳天皇の崩御の後で皇極天皇重祚、斉明天皇になった5年、659年紀国行幸から帰って、33日に近江の比良宮に行幸。回想しているのはこの時の事ではないかと考えている様である。勿論、皇極帝よりずっと後のことである。編者はこうした事から、この歌が額田王か皇極帝のものなのか信用ならないとするのである。万葉集においては、皇極帝時代の歌は、作者が怪しい、この一首のみである。

乙巳の変・大化の改新645年 蘇我氏滅亡

次は斉明朝(655661)までになるが、その間には極めて大きな体制の変化がある。乙巳の変・645年と呼ばれるク-デタ-、それからそれに続く大化の改新。強力な権力を握っていた曽我氏が、中大兄皇子、中臣鎌足によって打倒された事件である。推古天皇の時代から、曽我氏は権力の中枢にいた。何しろ、崇峻天皇は曽我氏に暗殺されて、擁立されたのが推古天皇である。

第三回で述べたようにこの頃の天皇は天皇と呼ばれておらず、推古天皇は群臣に推戴されて、何度か辞退した後に即位されたとある。推古朝には皇太子として聖徳太子がいる。即位の前に亡くなったので、推古天皇の崩御の際に、又皇位継承の問題が起きた。有力な候補として、敏達天皇の孫・田村皇子と聖徳太子の子・山背大兄王がいて、群臣も二派に分かれる。この時暗躍したのが、曽我馬子の子・蝦夷で反対派を殺害して、田村皇子を即位させる。舒明天皇である。

その妃、皇極天皇の時には蝦夷と共に入鹿の力が強くなる。

日本古来の女帝は、適当と思われる男子がいなかったり、有力な皇子たちが対立した時に、緊急避難的に即位する性格が濃くて、天皇よりも背後の力が強くなりがちであった。

皇極期にも、天変地異、気候不順が続き、日本書記ははっきりと不適当な政治がなされていたからだと記している。

それはやがて乙巳の変が起きる事を予告していたのだ。

皇極天皇の46月、宮中の儀礼の場で、曽我入鹿が謀殺され、ついで蝦夷も誅殺され、曽我氏は滅亡する。

皇極天皇は退位し、中大兄皇子に即位させようとするが、固辞して、結果孝徳天皇が即位して、中大兄は皇太子となる。

孝徳天皇の即位

都は難波に移り、そこで展開されたのが大化の改新である。いわゆる公地公民制、戸籍を作って朝廷が直接民衆を支配し、貴族たちを官人とする詔を出した。国家体系の大きな変化があったことは確かである。但し万葉集は巻1、巻2とも孝徳天皇の代を立てておらず、和歌は全く載せられていいない。資料がなかったと言えば、それまでであるが、孝徳天皇と中大兄皇子との間には、対立があり、皇極天皇、中大兄皇子、孝徳天皇の妃・間人(はしひと)皇女までが、明日香に帰ってしまい、孝徳天皇は独り難波宮に取り残され、病死する。皇極天皇が重祚して斉明天皇となる。

 

万葉集では巻1において、皇極天皇の後は孝徳天皇が省かれて、重祚した斉明天皇となり、再び額田王の歌が置かれている。

1-8 額田王 斉明天皇御製とも

熟田津に 船乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

熟田津で船に乗ろうと月を待っていたら、潮も良くなったので、さあ船出しよう

 

題詞と左注に注意して見よう。類従歌林が引用されてややこしいことになっている。

編者は類従歌林に次の様な事が書いてあると言っている。

舒明天皇9637年の12月に、天皇と皇后が伊予の道後温泉に行幸した。その皇后が二度目に即位した時、即ち斉明天皇7661年正月6日に、天皇を乗せた船が西に向かい、14日に熟田津に停泊した。斉明天皇は勝って、亡き夫舒明天皇と共に来た時の物が残っているのを、御覧になって俄に追憶に耽られた。その為に自ら歌を作って、悲しみの心を現した。

以上が書いてあったことで編者はそれに反論している。これは額田王ではなく斉明天皇の歌であると言っている。そして額田王の歌はこれである。次に四首あると言っている。この事は様々なことを提起する。

最初に類従歌林にあった舒明天皇と皇后の行幸は、伊予国を目的とする普通の行幸であった。第四回の中皇命で話したように帝王は時々地方に出掛けて、視察する一方、文武百官を集めて遊ぶことによって、地方の民衆に天皇の威を見せるのである。

斉明天皇の旅の目的   朝鮮半島情勢の緊迫 「 熟田津に・・・」の解釈

しかし斉明天皇のこの歌が作られた時の行幸には、別の目的があった。軍事目的の旅であった。それは朝鮮半島の事態が緊迫していたからである。そこでは小国が分立して、最南端には任那という大和の影響の強い地域もあったが、6世紀中に東北部に新羅、西南部に百済、北方には高句麗と別れた状態であった。三国は徐々に中央集権化を進めていく。隋は高句麗を繰り返し攻め、遂には疲弊して滅亡した。中国と高句麗の争いは唐になっても続く。

唐は、新羅と同盟して百済を滅ぼした。百済王と皇太子は唐に捕虜となる。その時大和には既に

人質として、百済の王侯がいた。百済の残党は、人質の王族の返還と援軍を求め、大和政権はこれに応じる。百済が復興すれば朝鮮半島の拠点が復活するからである。百済復興を支援するために、斉明天皇、中大兄皇子は九州に移動した。その途中で立ち寄ったのが、伊予の熟田津。日本書紀によれば、群書類従にもある通り、661年正月14日に熟田津に到着し、そこに暫らく逗留した。そして3月に那の津(博多)に移った。戦争準備のための旅の途中で歌われたのである。

だからこの歌の結びは「今は漕ぎ出でな」と勇ましく、漕ぎだしていくと解釈されることが多い。

しかし類従歌林のいう作歌事情はこれとは大きく違う。

かって、舒明天皇が皇后を連れて、この伊予の磐井の宮(道後温泉)に行幸した事があった。皇后が斉明天皇になって24年振りに来てみて、昔を偲び夫舒明天皇を偲んで、悲しみの歌を作ったのがこの歌という。

悲しみの歌と見るのは難しいが、「この懐かしい土地に居たと思うが、次に行かねばならない」と未練を述べているとする説とするならば、可能性はあるであろう。伊予風土記逸文にも、舒明天皇皇后の行幸の記録が残っている。

 

奈良時代山部赤人も道後温泉に来て長歌を歌っている。

3-322 山部赤人の道後温泉に来ての回想 長歌

すめろきの 神の命の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の 高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変わらず 遠き代に 神さびゆかむ 幸(いき)しところ

神たる天皇が治める国のどこにも温泉はあるが、鳥や山の美しい国、険しい伊予の国の高嶺にあるような温泉は滅多にない。その裏手の射狭庭の岡に立たれて歌を作られ、言葉を考えられた。この温泉の上の木を見ると、臣下のように立っている。鳥の鳴く声も相変わらず聞こえ、この先もずっと神々しくなっていく事だろう。行幸されたここ伊予の湯場は。

3-323 山部赤人の道後温泉に来ての回想 短歌

ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく

かって、大宮人が船乗りしたという、その熟田津にいるが、船乗りしたのはいつの年の事だろう

 

この地で歌を歌ったとされるのは、類従歌林には斉明天皇以外にはない。赤人は斉明天皇を念頭に、歌っているのであろう。尤も熟田津は温泉の近くではあるが、海岸なので行幸の宮とは別の場所である。

斉明が歌ったとしても「熟田津に船乗り・・・・」とは異なると考えざるを得ない。しかし短歌ははっきりと熟田津の歌を踏まえている。

日本書紀には斉明天皇7年と分かるが、赤人の活動時期から70年ほど後なので「年のしらなく」

実感であろう。

注意したいのは赤人の歌で、宮人の船乗りを舟遊びと意味している事だろう。

次の目的地への進軍という読み方、新しい土地へ未練を断ち切って漕ぎ出そうとする読み方、そして舟遊びをしようとする読み方。三通りある。

私は月を待って夜、船出することから見て、次の目的地に出発するというのが良いと思う。

あの時代の歌は、歌の場に密着していて、それを知らない私達には理解の難しいことがあると申し上げた。先に見た皇極期の歌も、題詞には額田王の歌とあるに、類従歌林には天皇の御製とされている。中皇命の紀伊行幸の歌も類従歌林には斉明天皇御製とされている。

行幸や儀礼の場の歌は、集団に所属する。個人の歌とはならない。

次回、話しする天智朝の額田王にも同じ現象が起きている。それは偶然とか、誤りとして処理する問題ではない。

これら行幸や儀礼の歌は、集団の場で表に出して歌われて、初めて意味を持つ。いわば歌は集団に共有されるのである。それが、誰の歌かという時になって、歌の詞を作った人とは別に、集団の中の人物が、歌の持ち主とされることが考えられる。類従歌林は、集団の主、歌の持ち主を作者として伝えているのであろう。集団の共有物であることは受け継がれていく。

例えば新古今和歌集の時に、盛んになる「本歌取り」という技法も、過去の歌を共有物として享受しなければなり立たない。歌が集団の中でのパフォ-マンスとしてしか意味を持たないというのは、初期万葉に固有の現象で、次の時代にはなくなる。

左注を書いているのは、おそらく奈良時代の人で、既に初期万葉の事は理解できなくていたのであろう。

熟田津の歌で類聚歌林の既述の方を選択して、これは斉明天皇御製歌であると判断しているのは、それを示す一例といえる。以後の時代では、歌の作り手を作者とするのが常識で、編者は全編にわたって実に丹念にその歌の作者を追及している。

1に斉明天皇の代の歌として額田王の歌、中皇命の紀伊行幸歌、もう一つ歌文が載せられている。読んでみよう。

 

1-13  中大兄

香具山は 畝傍愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古もしかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

香具山は畝傍山を愛しいと、耳成山と争ってきた。神代からこうであったらしいし、古からそうであった。今でもそうであるらしい。

1-14  反歌1題詞には「中大兄皇子の三山の歌の反歌」とある

香具山と 耳成山と 闘いし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)

香具山と耳成山が印南国原で闘った時、立って見に来た大神がいる。

1-15 反歌2 題詞には「中大兄皇子の三山の歌の反歌」とあるが、

          左注には「三山の反歌にはあらず」とある

海神(わたつみ)の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけくありこそ

遥か沖合の豊旗雲に入日が射して、今夜の月はさぞかし清らかな光を放つだろう

 

中大兄は、乙巳の変、大化の改新の立役者の天智天皇である。但しこの例のように中大兄とだけ呼ぶのは異例であり、律令で規定される前の呼び方である。三山は大和三山のことである。三つの山が妻争いをした事が題材である。どの山が男で、女であるかは諸説があって決着がついていない。

この歌は、額田王を巡る弟・大海人皇子との三角関係と結びつけられて論評されてきた。

 

長歌は三山の妻争いがあったことを述べた後に、「神代から妻争いはあっただろう。遠い昔もそうだったからこそ、今の世の人も妻争いをするのだろう。」と続く。そして、自分が経験している妻争いを、三山の故事にこと寄せて歌ったと解されてきた。それで自ずと、複数の男で一人の女を争う話と見る事になった。

しかし、例えその様な恋のさや当てがあったとしても、この歌を実際の人間関係にあてはめる必要はない。

この歌も又集団の場で、歌われたとすれば、自分の個人的関係を歌ったのではないと考えられる。

第二反歌「海神の・・・・」の訓読には異説が多い。

この歌は海の神の豊旗雲と歌う所に、神話的要素があるが、三山の神話とは関係ない。編者も不思議に思って、反歌の様には見えないけれども、原稿には反歌とあるので、そのまま載せておくと左注にある。

 

三山の歌は中大兄が播磨を旅していた時に歌われた可能性がある。もし播磨で歌われたとすれば、これは熟田津の歌が歌われたと同じ、斉明天皇以下が、九州に下る時に歌われたと考えることになる。

長歌には神代には、大和三山が妻争いをしていた。この世の人も妻争いをするのだろうという歌。神代と今を確かめる歌である。

そして今、自分たちは出雲の阿菩大神(あぼのおおかみ)が、三山の争いを止めようとした場所・播磨の国揖保郡にいる。

故郷から離れているが、ここは神代から大和と繋がっている土地だと実感できると感じていた。

ここで中大兄という権力の中心にいる人物が、この様に大和の三山の事を歌うのは、同行している

朝廷の人々に安心を与えたことであろう。その上で、反歌2で、これからも続く航海の安全を、神に祈る歌を歌ったのではなかろうか。

 

皇極、斉明朝はク-デタ-と国家体制の革新、それと対外戦争へと向かう動乱の時代であった。

万葉集の和歌も、宮廷中心の人々に関する歌ばかりで、そうした情勢と深く結びついていたのである。

 

「コメント」

当時の歌というのは、祈りであり願いであったのだ。そして、何事か朝廷儀礼の時には、お雇い歌人が歌う。それは天皇の名で、皆で斉唱したのであろう。万葉集の題詞、左註をしっかり読みながら、歌を解釈していくのが本筋なのだ。

そして、古事記、日本書紀、山上憶良の「類従歌林」を常に脇に置いて。単なる現代にる歌集ではないのだ。

私は大岡信の「私の萬葉集」全五巻だけをざっと読んだだけ。それには歌数も抜粋だし、題詞も左注も少し。矢張り本格的な学問とは大したものである。さわりに触れた感じ。