220521有間皇子と挽歌の始発 巻2

前回、前々回と初期万葉のスタ-額田王について話した。今回は挽歌について話す。

挽歌について 挽歌というのは万葉集のみ 後の勅撰和歌集では哀傷歌という

挽歌はご承知の様に、人の死に関わる歌である。挽歌は三大部立ての一つで、万葉集の中では大きな存在である。

2の後半が挽歌の部の最初だが、巻3791314と数多くある。

死が人生の終わりという関係があるのだろう。因みに、古今和歌集以降の勅撰和歌集には、挽歌の部立てはない。哀傷歌という名になり、全体に占める割合も低くなる。挽歌は巻2に古い歌が集められているが、巻1の雄略天皇、巻2巻頭の磐の姫皇后のように、天皇、皇后の仮託の歌が置かれている訳ではない。

7世紀中ごろの斉明天皇の時代から始まる。

有間皇子に関する挽歌

2-141 有間皇子 後の岡本の宮の天皇の御代 、有間皇子が松の枝を結んで、自ら悲しんで歌った歌二首

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあれば また帰り見む

岩代の浜の松の枝を引き結び、命があれば、又この結びを帰りに見よう

2-142 有間皇子

家にあれば 笥に盛る飯(いい)を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る

家に居れば、ご飯を立派な笥に盛るものを、旅の途中なので椎の葉に盛る。

2-143  長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)が持統天皇行幸に随行の時に、磐代の結び末を見て詠んだ

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも

岩代の岸の松が枝を結んだ皇子は、無事お帰りになって、結びをご覧になっただろうか。

2-144 長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)

磐代の 野中に立てる 結び末 心も解けず 古む思ほゆ

岩代の野中に立っている結び松、その昔処刑された有間皇子のことを思うと心苦しくなり、古の事が思い出される。

2-145 山上憶良の追慕する歌一首  

鳥翔(かけ)り 成(あり)通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ

皇子の生まれ変わりの鳥が飛んでいく。目を凝らして見ても、人には分からない。ただ松の木だけが知っている。

2-146 柿本人麻呂

後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを またも見むかも

後で見ようと皇子が結んだ岩代の松の梢を、私も見る事になったでしょうか。→皇子は無念であったろう。

有間皇子事件の経緯

分類としては最初に天皇の代毎に分ける標目がある。皇極天皇として即位し、乙巳の変、大化の改新の時に弟・孝徳天皇に譲位し、皇極の崩御後、又即位して斉明天皇になった次第も述べられている。

2141142の作者、有皇子の経緯について書かれている。有皇子は孝徳天皇の遺児で、その死については日本書紀に詳しく書かれている。孝徳天皇は退位した皇極天皇に代わって即位したが、大化の改新が進行中で、中大兄と対立するようになる。その内、中大兄、皇極上皇、皇后の間人(はしひと)皇女まで文武百官を連れて、飛鳥に戻ってしまい、難波宮で独り崩御する。有皇子は孝徳天皇の唯一の皇子。

皇位継承の有力者だが、斉明天皇の重祚、皇太子は中大兄という体制では、有皇子に居場所はなかった。

日本書紀には、ずる賢い性格で精神に異常がある振りをしていたとされている。

斉明天皇3657年、有馬皇子は紀州の牟婁(のむろ)(白浜温泉)に出掛け、湯治して病気が快復したという。斉明天皇はこれを聞いて、自分も行きたいと思った。そして翌年に、皇太子・中大兄を伴って行幸した。

   蘇我赤兄との関係

その時、留守を預かる曽我赤兄が有皇子に会いに来て、斉明天皇の失政を列挙する。大きな倉を立て、民の財産を集めている。長大な運河を作って、民衆を疲弊させている。石垣など無駄な建設を行っている。日本書紀によると、斉明天皇は土木工事を好んだと書かれている。香具山の西から石上山(天理市)まで、運河を掘って船で石を運び飛鳥の山に石垣を作った。この石垣は実際に飛鳥の山の頂上に、酒酔石という溝を掘った巨石が置かれている山の中腹から見つかっている。また、運河もその跡が見つかっている。そのように斉明天皇を批判した曽我赤兄は、曽我氏の実力者なので、有皇子は彼が味方してくれそうな今こそ、決起する時だと喜んだ。そこで、翌々日に自分から出向き、謀略の相談をした。その時に、肘掛けが折れたので、不吉と判断し誓いを立てて別れた。

その後赤兄は、有皇子の家を包囲し、紀伊行幸中の天皇に報告をした。その後皇子は逮捕されて、紀伊へ護送される。中大兄が訊問すると、有皇子は「天と赤兄が知っている。私は何も知らない」と答えた。有皇子は再び大和へ護送された。その途中、紀伊の藤白坂という所で、絞首刑となる。

日本書紀を見る限り、犯意を抱いた有皇子が、曽我赤兄に利用され、裏切られたという事であるが、中大兄の謀略であったという説もある。

経緯の説明が長くなったが、日本書紀に見えるこのような事情を踏まえなければ、この歌文は理解できない。

   歌の題詞

歌の題詞に戻ると、その意味は有皇子が自らを悲しんで、松の枝を結ぶ時の歌という事である。この題詞だけでは良く分からないのだが、歌によればその松とは磐代の松だという事が判明する。磐代=日高郡南部町。

第三回で中皇命が巻1-9 君が代も わが代も知るや 磐代の岡の草根をいざ結びてな その歌も巻1の斉明天皇の代で、紀国に行く時の歌とある。磐代は紀州を旅する者が、決まって植物を結んで命の無事を祈る場所であった。

しかし有皇子はただの旅ではない。謀反の罪で捕らえられ、護送される途中である。松を結ぶ心は悲痛なものであったろう。

第一首 2-141 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあれば また帰り見む

ポイントは、ま幸くあればにある。仮定でしか考えられない所に、有皇子の境遇を表している。命の不安を抱えたものの表現である。しかし一方では、死を覚悟したのではなく、希望を持っているのでもある。

第二首 2-142 家にあれば 笥に盛る飯(いい)を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る

昔の旅は辛い、きついもののイメ-ジ。楽しい事、嬉しいことの時には、旅という言葉は使わない。旅の不便さ、辛さを歌っている歌という事になる。家と旅と対照的に歌うのは、古代の歌の類型である。但し、椎の葉は柏やホオノキみたいな大きな葉ではないので、小さな葉にご飯を盛って食べるという事に、疑問を持つ説もある。

これは磐代の神への捧げもので、自分の無事を祈願する時に、椎の葉に盛って捧げるという事と解する。この説にも一理はある。しかしこの神へのお供えと見るのは、無理がある。家で祀る神と磐代で祀る神とは違う神であるはずである。旅の安全を祈る神に対して、家でどうしているかという事を持ち出す理由はない。旅先で、不自由な生活をしていると歌っていると、解するべきであろう。そしてなお不思議なのは、自ら傷みて松枝を結ぶ歌 二首という題詞の下に収められた歌の片割れでありながら、松枝と結ぶと関連しないことである。

皇子は一旦、紀の湯白浜温泉まで行き、訊問を受けてから道を戻り、途中の藤白坂で、縊られたのであった。

藤白坂は現在の海南市藤白で、磐代よりは都に近い。つまり、有皇子は磐代を二回通っている。有皇子が願ったのが、往路か復路か分からないが、紀伊の湯で殺されることも可能性としてはあるので、往路の方が自然ではある。すると、復路で通過する時に、自分で結んだ松を見たかもしれない。続く歌はその事に拘っていく。

 

2-143の作者・長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の大宝7702年の歌がある。有皇子よりは半世紀後の人である。題詞は結んだ松の枝を見て悲しみに沈んだ作った歌

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りてまた見けむかも

磐代の岸の松が枝を結んだ皇子は、無事お帰りになって、結びをご覧になっただろうか

2-144の作者・長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)

磐代の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしえ思ほゆ

磐代の野中に立っている結び松 その昔処刑された有皇子を思うと心が痛む

三句までは序詞

 

皇子の結び松は今でも、磐代に残っている。これを譬喩に用いて、有皇子の昔を思わないではいられないと言っている。この歌には、今だ解らずと註がついている。何が分からないのか不明であるが、この歌は拾遺和歌集で、柿本人麻呂の作とされ、疑いがあるという註が後から付けられたとある。

その次に山上憶良の供養の歌が続く。

2-145 山上憶良 追和の歌(後から他人の歌に同調して答える歌)長忌寸意吉麿に追和している

鳥翔成(あまかけり あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ

翔る鳥になって皇子は、常に見ておられるかは私達には分からないが、松は知っているであろう。

これは、有皇子の歌というより、有馬皇子の結んだ松を見たであろうという、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の歌に応えたものである。憶良は、有皇子より後年の人で、有皇子の歌を起点として、この事は歌い継がれていったのである。憶良の歌の後ろに長い注がついている。→これらの歌は、棺を引く時に作った歌ではないが、歌の内容が挽歌に類する。さて、以上の左注の外に、有皇子関連の歌が並んでいる。

 

大宝元年 紀伊国行幸の際、結び松を見て歌ったと題にある。

2-146 柿本人麻呂(柿本人麻呂歌集)

後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを またも見むかも

後で見ようと、皇子が結んだ磐代の小松の梢を私も見る事になるのだろうか。

この歌は内容的には、2-143の長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)に近いものがある。

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りてまた見けむかも

人麻呂の歌の題詞には、この歌が柿本人麻呂歌集に載っている註がある。柿本人麻呂歌集については、後に詳しく話すが、巻7912には、その家集に出ていたとされる歌が沢山収められている。しかし巻6以前には見えず、巻3では別の歌の異伝として掲載されている。

前にも言ったように、万葉集の歌は宮廷文化の共有物なので、同じ歌が別の場で別の人の作品として扱われることもある。ただ不思議なのは、この歌は先程読んだ棺を引く時の歌に非ずという左注より、後ろに並んでいることで、この歌も有皇子の死よりずっと後の作であることは確かなので、左注の前に置かれてしかるべきである。しかし、現状では致し方ない、万葉集のバグの一つというしかない。

総じて万葉集はこのように、人が亡くなった時の歌ではないという異例な歌から始まっていることにある。しかし晩歌の類という事になっている。一方、有馬皇子の歌とそれを追悼する人々の歌から始まることは、挽歌が使者の慰霊という意義を持つことを明らかにしている。

 

死者は目に見えないという点で神に近く、生きる者にとっては恐るべき存在なのである。特に皇位継承の上で有力な血筋を持つ貴人が、無念の死を遂げたような場合は、念入りな弔いが必要とされた。いわゆる御霊信仰は、平安次第にははっきりするが、万葉時代から潜在的に存在した。まさに、この歌文がそれを表す。孝徳天皇の唯一の皇子で、苦境から決起しようとして、罠にはまった有皇子の歌を掲載し、松を結んだその人の心を思いやる後代の歌を何首も載せる、それは御霊を防ぐ宮廷社会の全体の意志に沿っていると思う。

親しい人の喪失を悲しむ歌の例

近しい存在の喪失を悼み、悲しむ歌がなかったかと言えばあった。日本書紀の歌謡を見てみよう。

 

中大兄の妻の曽我石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)が、父の死で傷みて、自ら死ぬる時、中大兄の野中川原史満に作らせし歌

日本書紀114  中大兄の妻の曽我石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)が、父の死で傷みて、自ら死ぬる時、中大兄 

が野中川原史満に作らせし歌 二首。

山川に 鴛鴦(おし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶へる妹を 誰か率(いにけむ

山側に鴛鴦が二羽いた。仲の良かった妻をだれが連れていったのだろうか。

日本書紀115

本毎(もとごと)に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)妹が また咲き出で来ぬ

一本一本に花は咲くが、愛しい妻はもう二度と咲くことは無いだろう。

これらの歌は孝徳天皇の代。造媛は中大江の妻の一人。曽我石川麻呂は乙巳の変の功労者であったが、讒言を受けて中大兄に殺される。無実だった父を殺された造媛は、心労の余り亡くなる。中大兄も大いに悲しむ。この時、野中川原史満が二首を奉る。

この二首の組み合わせは中国の挽歌の模倣

この二首の発想であるが、一首目 誰が愛しい人を冥界に連れて行ってしまったのか。二首目 花は咲くけれど、愛しい人は二度と咲かないという組み合わせになっていることに注意したい。この組み合わせに記憶はないだろうか。

中国の挽歌そのものである。自然の再生と人間の不帰を対比させている。いずれにせよ、野中川原史満は、中国文化の挽歌に学んで歌を作ったのである。この二首は必ずしも、和歌的ではない。歌謡性を感じるので、箏に合わせて歌ったとされる。

また、一首目の死者を誰かが連れて行ってしまったというのは、万葉集の挽歌からすると異例。万葉集の挽歌は、死者が自分から冥界に行ってしまったという発想かで歌われることが多く、死を擬人化して人を連れ去る発想はない。

この二首は五七五七七の短歌形式であるが、万葉集よりは、中国の挽歌との縁を強く感じさせる歌である。

しかし、日本書紀の斉明天皇の巻には、かなり挽歌的な歌も見える。

日本書紀 斉明天皇 孫の健王(たける)の死を悼んで作る歌

今城(いまき)なる 小丘が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ

孫の健王の(もがり)の宮を立てた今城の小山の上に雲がはっきりと沸き立ったなら、それを糧として何を嘆くことがあろうか  雲を亡き健王と見立てている

射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ 川上(かわへ)の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに

弓で射られた鹿猪の足跡が続く、川辺に生えている若草が萌えるような幼さで、あの子は逝ったのであろうか。私はそう思いたくないけど。      若草を譬喩として、あの子はまだ8歳だったにといっている。

飛鳥川 張(みなぎ)らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも

飛鳥川が水を湛えながら流れ行くのと、同じ様にあの子の事を思っているのです。

三句までが、序詞。行く水のように絶え間なくあの子の事が思い出される。

健王は中大兄の皇子で、斉明天皇にとっては孫に当たる。斉明天皇4658年 8歳で亡くなる。

今城の丘という飛鳥から南に行った土地に、殯の宮を立てて遺骸を収める。殯は埋葬する前に安置し、祀りをする風習である。斉明天皇は、孫の健王を可愛がっていたので、悲しんで自分が死んだら、かならず合葬してくれと言い残す。そして、上の歌を歌ったのである。

以上三首の結びでは、いずれも万葉集の恋の歌によく見られた類型がある。その表現が、亡き孫を恋うる表現に用いられている。相聞かと挽歌の表現が、相似することは萬葉集ではよく見られる現象である。

 

斉明天皇が健王を思う気持ちはやまなかった。日本書紀に次のような歌が残っている。

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ

飛鳥から海を渡って紀国に出掛けていく。途中の景色は楽しませてくれるだろうが、いま今城の殯の宮にいる健王ほど、私の心を晴らしてくれるものはない。旅をしても、あの子の事は決して忘れられない。

 

これらの歌を口述し、世に忘れられない様にすることを命じた。亡き孫に対する愛情と悲しみを感じさせる点で、仁徳天皇や雄略天皇で、出てくる歌謡物語とはレベルが違う。日本書記は日本書紀で、古代人にとってその当時に相応しい歌を載せているのである。

 

斉明期の最後には、崩御した斉明天皇を、子である中大兄が恋慕う歌も載せられている。天皇や皇太子が家族の死を悼み、恋うる歌から日本の挽歌は始まった。しかし、それは日本書紀によってであり、万葉集は有皇子の命のかかった旅の歌から始めている。万葉集の挽歌の歴史が、本格的に始まるのは天智天皇崩御の時からである。それは次の次の会で話す。

 

「コメント

 

今日も実に長かった、歌が万葉集だけではなくて、日本書紀まで行くので、資料収集に実に手間取った。一部,届かなかったところもある。Pc検索なくしてはとても書けない。テキストもないのに、皆さんどうして聞いて理解しているのか不思議になってきた。