220611⑩天武天皇と持統天皇 巻1

前回は天智天皇に対する挽歌を話した。645年の乙巳の変以来26年間、皇太子中大兄・天智天皇が権力の座に着いた時代を広い意味で天智朝と捉えるならば、それは確かに大和の国が文明化していく大きな画期であった。

漢詩集「懐風藻」が、我が国の漢詩文の興りとされていたのと並行して、日本書記でも万葉集でも、新たな日本文字による文芸が生まれていることが窺われる。

天智天皇挽歌群は、挽歌の上でもここに画期があったことを示すと共に、一つの時代が終わったことも示している。

「天武天皇とは」

今日は次の時代の支配者・天武天皇とその皇后にして、次の天皇でもある持統天皇について話す。この二人の天皇の時代は、天武・持統朝と一括して呼ばれることもあり、やはり古代史の上では一つの画期である。

天武天皇は舒明天皇と皇極天皇とのあいだに生まれ、天智天皇の同母の弟にあたる。大海人皇子と呼ばれ、崩御した後は、和風諡名(おくりな)天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)と呼ばれた。

日本書記は全30巻の内、2巻を天武天皇に割いており、最初にその人となりとして「生まれつき抜群の優れた容姿」であり、成人するに及んで勇猛で徳があったとしている。「天の智を読み取ったり、事ぬの吉凶を知るのに優れて居た」と述べている。これは天智天皇崩御の後間もなく起こった壬申の乱に勝ち抜いたことと深く関わっており、それは万葉集に残る天武天皇の歌 1-25にも表れている。

1-25 天武天皇  後から、あの吉野に逃れた時の辛かったことを回想した歌であろう

み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を 

み吉野の耳我の嶺に時しれず雪が降る、絶え間なく雨が降る。その雪の時が知れないように、その雨の絶え間が無いように、曲がり角という曲がり角に不安を覚えつつやってきたことだ、この山道を。

 

この歌は、み吉野の耳我の嶺から歌いだされている。吉野はその南の熊野と共に聖地である為に、美称をつけてみ吉野、み熊野と呼ばれる。耳我の嶺は、吉野の山で巻13にあるこの歌の類歌 3293に御金が岳(みかねがたけ)と同じく、金峯山の事とする説もあるが、はっきりしない。

天武天皇が吉野山で、雨や雪の中、山中を辿ると歌うことで、直ちに思い起こさせるのは、天皇自身が天智朝の末に吉野山に入ったことである。

病の天智天皇と大海人皇子との譲位に関する会話

前回述べたように病気になった天智天皇は、天智106711017日、皇太子であった大海人皇子を病室に呼んで、自分はもう病が重いので、後を託したいと告げる。しかし大海人皇子は自分も病だとして固辞し、天下の大要を倭姫皇后に預け、政務を大友皇子に執り行っていただきたいと述べる。そして、自分は天皇の為に仏門の入りたいと告げて、吉野に旅立った。以上は日本書記の天智天皇の巻に記されていることである。

でも日本書記でも、天武天皇との面会の様子からして異なる。呼び出しの使者は、大海人皇子と入魂の中であった。

それでささやいて、「用心してお話しください」と忠告した。それに従い、大海人皇子は、譲位を辞退して、倭姫皇后と大友皇子に政治を預け、自分は出家すると申し出たという運びになっている。

天智天皇は後継者として、実子大友皇子を考えるようになったのである。安易に譲位を受け入れると謀反の疑いをかけられかねない。

その後の大海人皇子の行動 吉野脱出  

大海人皇子は武器を全て返納し、吉野に入ると従者たちにも繰り返し、ここに残る者は共に修行せよ、都に戻りたいものは去れと諭す。

しかし翌年の夏になると、前回にも触れたように、近江朝は天智天皇の陵墓を作るという名目で、伊勢・尾張の民を集めながら、武器を持たせている。恐らく陵墓を作るのではないだろう、早く吉野を避難しないと危ないという知らせが吉野に届く。政治的敗者が吉野に出家すると称して隠棲した例としては、天智天皇の異母兄弟の古人大兄皇子があったが、結局謀反の疑いで誅殺されている。大海人皇子は吉野を脱出し、兵を集めることにした。

先程読んだ、巻1-25の歌が、失意の大海人皇子が吉野に入った時の事を歌ったのは確かである。それは冬1020日、今なら11月末である。吉野の山の中では、雨混じりの雪が降っていたと考えて無理はない。但しこの歌がいつ歌われたかは、良く分からないと言うだけではなく、歌詞がいつを現在としているか分からないのである。中皇命の狩りの歌も、「今、立たたるらし」でも似たような問題があったが、これは狩りの行われた日の間という事は出来る。

しかしこちらの方は、現に山道を歩いている時点で、歌っているというのが、辛かった昔を回想しているのかどうか確定できない。私はその山道をそのが、中皇命の狩りの反歌朝ふますらん その草深のと同じく目の前にないものを指す言い方ではないかと思うので、後から当時を振り返っているのではないかと考える。

ともあれ、この歌が大海人皇子の吉野入りの辛さと苦悩とを、強い臨場感でとらえていることは確かである。

天武天皇・鸕野讚良皇后(うののささら)と、6人の皇子との吉野の盟約

天武天皇は皇位継承にも争いが起きないようなル-ルを定めようとした。それと深く関わるのが、天武867955日の吉野への行幸である。まず天皇と皇后と6人の皇子、即ち天武天皇の皇子の草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子の4人、天智天皇の皇子、川島皇子、志貴皇子の2人に向かって、ここで盟を立てて千年の後まで、争いが無いようにと呼びかける。

そこで草壁皇子が、「我々は別の腹からに生まれたが、皆 天皇の仰るように助け合って争う事の無いようにしよう。もしこの盟を破ったら、自分は命を失い、子孫は絶えるだろう」と誓う。残りの五人も同様に誓いを立てる。その後天皇が皆 別々の腹から生まれたが、同じ腹から生まれたように、平等に扱うと宣言し、3人の皇子を抱いて「この盟を破ったら、我が身は忽ち滅ぶだろう」と誓う。鸕野讚良皇后も同様に誓う。

こうした儀式が、後に皇太子を定める布石となったのである。この行幸の時、天武天皇が歌ったとされるのが次である。

1-27 天武天皇が吉野宮に行幸された時の御歌  

()き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見て 良き人よく見

昔から吉野は素晴らしい所だと言われているが、そうではないか、お前たちもよく見て、頭に刻み付けておきなさい。

 

よしという言葉が8回繰り返されている。実際に、こういうくり返しで、ふざける歌もある。11-1640

梓弓引きみ 緩(ゆる)へみ 来ずは来ず 来ばこそをなぞ 来ずは来ばそを

梓弓を引くのか緩めるのかは、はっきり分るように、来なければ来ない、来るなら来るとはっきりしてよ。来ないの来るの。

詞の繰り返しの歌とは

勝手ではっきりしない男をなじる女の歌である。実際に交わされた恋の歌ではなく、面白みを狙って机上で作られたのであろう。しかし天武天皇の歌は、先程述べたように、大きな政治的イベントの中で、天皇自身によって歌われたことが明らかなので、この様に遊戯的な歌ではない。「よし」という言葉は良い言葉である。それを繰り返し唱えることで、言霊が良き未来を招き寄せる。そう云った呪術的な意味を持った繰り返しなのである。歌の書き方にもそれが反映はている。よしには多様な表記が用いられている。

書き出しの()き人のと書くのは、詩経に「熟人君子」→立派な人の行いはいつも変わらないという意味の一節があり、

その影響が指摘されている。この歌も初期万葉の歌と同じ様に、行幸の場で、口頭で歌われて、意味を持ったのだろうから、歌の意味はよく伝えられたと思う。

この歌の意味を確かめると「立派な人が好い所だと、よく見て良しといった吉野をよく見なさい。今の良き人達も良く見なさい」

上の句は吉野という地名の由来について触れている。吉野は山岳信仰の聖地で、後には明確に仙境とみなされるようになる。そうした信仰と仏教が習合していたので、天武天皇自身も出家する事になったのである。

最初の()き人のは、そうした信仰に関わる過去や、仙人や聖人たちが念頭にあるのであろう。その人たちが、よい所だとよく見て良しといった、それで吉野と言う素晴らしい地名を持ったこの場所を今の良き人も良く見なさいと諭す。今の良き人の代表は勿論誓いを立てた6人の皇子たちである。永遠の平和を誓った良き人たちに向かって、この良き土地をよく見て、記憶に留めよという事である。「よし」と共に3回繰り返される「見る」も大事である。舒明天皇の国見歌の時にも触れたが、古代人にとって「見る」ということが、単なる視覚以上に現実認識の根幹にかかわる事であった。

今の場合、よく見る事がこの荘厳な土地の記憶と結びついて、誓いが永遠に守られることを保証すると考えられていた。

吉野の盟のその後 天武の死 持統天皇誕生

皮肉な事に、6人の皇子を平等に扱うと誓いながら、実はこの儀式の目的は、彼らの序列化にあって、2年後に最初に誓いを立てた皇后の子、草壁皇子が皇太子になる。そしてその5年後、朱鳥(あけみどり)元年6869月、天武天皇崩御。

朱鳥は、天皇の病気平癒を願って建てられたので、その年限りの元号であった。

その跡を継いだのが皇后であった持統天皇である。天智天皇と曽我石川麻呂の娘(遠智媛)の間に生まれ、姉娘三人と共に天武に嫁いだ。名を鸕野讚良(うののささら)という。天武天皇即位と共に皇后にたてられ、その後、草壁皇子が皇太子に立てられたのは既に述べた。

日本書紀には、人となりを「帝の娘なりと言えども、礼を好み節倹にして・・・・」→帝王の娘でありながら、礼を重んじ、つつましく母としての徳があった。」とある。天武にとって皇后は大事な存在であった。先の吉野での盟約でも、天皇に次に皇后が盟を立てているし、皇后が病気になると、薬師寺を建立して平癒を祈る。壬申の乱の際に、吉野から東国へと脱出する時にも、同行していたことが、日本書紀からも知られる。天武にとっては、創業以来の同志の様な存在なのであろう。

天武天皇への持統天皇の挽歌

天武天皇の病が重くなると、「天下の事は大小を問わず、すべて皇后と皇太子に申せ」と勅が下された。この二人の統治は、天武が亡くなった後も続く。いずれは皇太子が即位する予定であった。所が3年後689年に草壁皇子が先に亡くなってしまう。それを受けて、翌年春に正式即位したのが持統天皇である。持統天皇の歌で最も多いのは天武天皇に対する挽歌である。

2-159 持統天皇 天武天皇崩御の時に皇后が歌う歌 一首目

やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明けくれば 問ひたまふらし 神岳(かむおか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし  明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし (あらたえ)の 衣の袖は 干()る時もなし

お亡くなりになった大君は夕方には御覧になっている。夜明けにはきっとお訪ねになっている。神の山の黄葉を。もしも生きておられたならば、今日も又その黄葉の事をお尋ねになり、明日も又御覧になるだろう。神の山をふり仰いで見ながら、夕方になると無性に悲しくなり、夜明けにはうら寂しくなり、

白栲(たえの袖は乾くまもありません。

 

神岳(かむおか)→ 神の宿る聖なる山  ここでは飛鳥の甘樫丘が雷丘ではないかと言われる。ここまでは亡き天皇が生きて、近くにいる様に歌っている。しかしらしは見えないものを、根拠を持って推定する言い方なので、今も近くで神岳の山の黄葉を見たり、生前と同じ様に並んで一緒に見られるわけではないが、それでもいつまでも近くに居て欲しいという思いの表現が、次の今日もかも 問ひたまはまし  明日もかも 見したまはまし→今日も訪ねて下さらないだろうか、明日も又御覧になって下さいないだろうか。ましは「もしもそうであったらいいのに」を表現する。もし生きていらっしゃったらと仮定を補って解釈することもあるが、前のらし併せて考えると、目に見えないけど霊となった天皇が、今日も明日も神岳(かむおか)の 山の黄葉をお訪ねになり、御覧になって頂きたいと解するべきであろう。その山神岡を遠望しながら、夕べになると無性に恋しくなり、明け方になると無性に恋しく、朝になると心寂しく暮らし、(あらたえ)の 衣の袖は 干()る時もなしと、歌い収める。(あらたえ)の 衣の袖は→麻の繊維で織った簡素な服で、喪服を表している。

総じて亡き天皇は、すぐ傍で生前と同じく神岳の黄葉を訪ねたり、御覧になっているに違いない、いつまでもそうして頂きたいとは思うものの、目に見える世界と見えない世界との間には壁があって、これが無性に恋しくて、涙が止まらないという事が歌われている。夕と朝、今日と明日と言う時間の対比が繰り返されていて、感覚の営みがずっと続いているのに、生前と今ではすっかり変わってしまったという事が、嘆きの中心にある。

2-160  持統天皇 天武天皇崩御の時に皇后が歌う歌 二首目 

燃ゆる火も 取りて包みて 袋にも 入ると言わずやも 智男雲

燃える火さえ包んで袋に入れると言うではないか。私も御棺に入って直にお会いしたい

 

一書に曰くと言う題詞は、天智天皇挽歌にもあった。ある本にはこういう歌が載っているととう異例の書き方である。歌の内容に関わっているのかもしれない。

燃ゆる火も・・・・は、「燃えている火も、取って包んで袋に入れられるというではないか」という意味に解されるが、これが何を指しているのか分からない。おまけにこの歌の五句智男雲であるが、何と読むか決められない。難訓なのである。

2-161 持統天皇 天武天皇崩御の時に皇后が歌う歌 三首目

北山に たなびく雲の 青雲の 星離り行き 月を離れて

神山にたなびいていた青雲が、星から離れ、月からも離れていく

天皇と神仙思想

如何にも暗示的で何を言わんとしているかが、明確に出来ない。書き方も向南山(仮名)→北山、陳→たなびくと読んだりと、分かるように読み方をしなければならない。どれも表記が特殊で読みにくいが、内容は神秘的、暗示的なのは間違いない。

それは今回の初めに述べた天武天皇の諡(おくりな) 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)に象徴されるような天武天皇のカリスマ性と関係するのではないか。

中国の道教は公式には輸入されていなかったが、斉明天皇が道教のお寺を建てたという記録もあって、道教的な神仙思想は、日本土着の信仰と習合しながら、定着していったと見られる。

先程述べたように、吉野はそうした神仙思想の聖地になっていくし、仏教もそこに絡んでいった。天津神の子孫として、天皇を超越的存在とする神話と共に、天皇は神仙と見做すことも行われた。

崩御した一代の英雄を、この様に神秘のベ-ルに包む事には、こうした思想的背景があった。次の長歌一首もそうした事を考えさせる。

 

2-162 持統天皇

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめ嗣子やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしせめか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 

味凝り(うまこり)  あやにともしき 高照らす 日の御子

明日香の浄御原の宮で、天下を治められた亡くなられた我らが大君、日の御子。どのようにおぼし召してか、神風の伊勢の国の、沖の藻が波に漂い、塩気のみが香る国に行かれたものだろうか。味凝りのように慕わしいのです。高照らす日の御子よ。

 

天武天皇崩御後、8年の99日、天武天皇の命日に追善の為の仏教行事、御祭礼をした時に持統天皇が夢の中で習い覚えた歌と題詞にある。神秘的で歌詞もそれに相応しい。飛鳥浄御原宮は、天武天皇の宮で、

天の下 知らしめ嗣子やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子は、天武天皇のことである。従って前半は殆ど天武天皇を呼び出すだけの叙述である。いかさまに 思ほしせめかは、「どのようにお思いになってか」という意味で、挽歌にはよく使われるが、「どう思って、何をなさったのか」という行為が歌の中には出てこない。

神風の 伊勢の国は、天照大神を祀る神宮がある場所で、壬申の乱の時に天武天皇一行は伊勢を通過し、神宮を遥拝して、神の助けを得た。皇后は自ら即位した後、再び伊勢に行幸して、そこの海を見ている。

沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国という叙述は、その記憶が蘇っているのかもしれない。

しかしその国でどうしたというのは述べられず、最後は味凝り(うまこり)  あやにともしき 高照らす 日の御子

→「無性に心惹かれる高照らす御子よ」と恋慕う心を秘めつつ、天武天皇を呼んで終わる。

文脈が不整合と言うか、切れ切れで、確かに夢の中で習い覚えた歌のように見える。

天智天皇の挽歌にも、夢に天皇が見えたという夫人の歌があった。夢は見えない世界との交信の手段であった。この持統天皇の歌では、天武天皇を見たとは歌われていないが、冥界との神秘的な繋がりを強く感じさせる。

さて持統天皇の歌としてよく知られているのは、次の歌である。

 

1-28 持統天皇

春過ぎて 夏来るらし 白(たえ)の 衣干したり 天の香具山

春が過ぎて夏がやってきたようだ。目に痛いほど真っ白な衣が干してあるように見えることだなあ。

 

この歌は現代、衣替えの為に衣を天の香具山に干しているのを見て、春から夏への季節の移り変わりを感じたという、実景に即した感慨を歌った作と解されるのが普通である。この歌は新古今和歌集を経由して、百人一首に採られ、そこでは衣干してふという形になっている。それを指して万葉学者は来にけらしは、調子がなだらかで優雅だけど、季節の交替による感動がぼやけるとして、衣干してふは、衣を干すという伝聞だから実景ではなくなってしまうなどと非難する。後の時代の人が誤り伝えて歪んだのだという見方である。私は実景そのままの歌うのが良いなどとは全然思わないが、果たして実景そのままを歌っているのであろうか。

国学者 契沖の解釈

この歌の訓(よみ)も、実景もそのまま歌った歌だという解釈も、それほど古いことではない。それは江戸時代の元禄時代、契沖と言う国学の祖に当たる僧が立てたものである。契沖は万葉学の基礎を打ち立てた大学者であるが、その人のこの歌の訓を今の様に定め、これまでの解釈を改めたのであった。例えば連歌で知られる15世紀の宗祇は、百人一首の注釈で次の様に述べている。「天の香具山は高山で、春は霞に隠れてよく見えないが、夏になると霞が去ってよく見えるのを、山も衣替えをするのだと見て、季節の変化を歌ったのだ、霞の衣を山が干しているというのである。」衣が何であるかと言うのは諸説あり、夏になって卯の花が咲いているのを見立てたとか、夏になると雲が立つのを見立てたとか、様々であるが、およそ中世の解釈は天の香具山が衣替えしたとする点では動かない。中世で本格的になるこの歌の本歌取りもそうで、例えば百人一首の選者藤原定家の「花も散り 霞の衣 ほころびて 嶺白妙の 天の香具山」なども、季節を春の花を指しながら、香具山の霞の衣を歌っている。新古今や百人一首に表される「干すてふ」という読み方もそれに関連しているのであろう。

山の様子が違って見えるのは、山が衣を干しているのだと言い伝えられていたのだ。つまり中世では、山の神が季節が変わると、衣替えをするという神話を歌った歌とされていた。それを近世江戸時代の宮中が、霞なんて詞に出てこないではないか、夏になってはっきりみえるのに、霞の衣を干しているのは変ではないかと批判して、人々の衣替えという実景説を唱え、続く国学者たちが、それに従って現在に至っている。確かにその方が合理的に見える。そして宮中の定めた訓は、漢字本文に無理がなく衣干したりが、確かに「衣が干してある」という意味で間違いない。しかし人々が天の香具山で衣を干しているというのは、必ずしも合理的ではないと私は思う。

山は人の住む所ではないし、そこに人々が衣を干しに来る必然性はない。自分の家で干せばよい。国見の歌の時に

ふれたが、天の香具山は神山と見なされていた。その山が衣替えしているのを見て取って、春から夏への移行を宣言しているのが、この歌なのであろう。

古代により近い中世の人の神話的感覚を私は信じる。つまりこの歌はそもそも普通の人には分からない神の仕業として、言い切る歌だったと考えられる。それが可能であったのは、やはり作者が天皇だったからであろう。

この歌は神話的に解してこそ、持統天皇に相応しいと感じ取れるのである。

間は1、巻2に見られる天武天皇、持統天皇の歌はいずれも何等か不思議で神秘的な所を含む歌々であった。

それは彼らがまさに、天皇・天津神の子孫として超越的な存在である事を表しているように思われる。

 

「コメント」

 

持統天皇の歌の解釈は、長々しくて、結局何をいいたいのかよく分からなくなった。やはり時代が進むにつれて物事の解釈が合理的になり、神秘的でなくなり詰まらなくなる例かも。この歌は、万葉集の訓の方が私は好きだ。