220625⑫柿本人麻呂の近江荒都歌 巻1

前回は天武天皇の皇子・大津皇子を巡る歌を読んだ。文武両道に優れ、豪放な性格で人望があり、極めて貴い血筋であった為、臣下としては身を全うできないと考え、皇太子に対する謀反を計画して破滅した人物である。当時から人々に惜しまれた様子が、日本書紀や懐風藻の中から窺われるが、それが記録されていることは、歴史の中に位置づけることによって、そうした非業の死を遂げた偉人の魂を鎮める意味があったと思われる。

万葉集に大津皇子自身の辞世の歌や、姉・大伯皇女の都へ帰る弟を思いやる歌、刑死した弟を悼む歌等が載せられているにも、同様の意味を認めて良いように思う。

 

本日読むのは、持統朝の作と思われ、柿本人麻呂が近江の大津宮の跡を歌った作品であるが、やはりそうした鎮魂と歴史意識を感じることが出来る。

1-29 柿本人麻呂 近江の荒れたる都を通り過ぎる時に歌う歌 近江荒都歌と言われる

玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生まれましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

畝傍の山のある橿原で即位された神武天皇の御代から、神としてお生まれになり、栂の木ではないが、次々に天下を治められたのに、その大和の地を置いて、奈良山を越えたのは如何に思われてのことでしょうか。遠く離れた田舎である近江の国は琵琶湖の大津宮に天下をお治めになった。その神の命がいらっしゃったのはここにあったと聞いている。

大殿はここだと言われているが、そこには春草が生い茂っている。霞がたなびく春の日が、霧に煙っているのだろうか。草茂るここが、大宮人たちがいた大宮どころかと、見るのは悲しい。

大津宮の廃都の状況

大津宮は天智天皇6667年 即位前だった中大兄皇子が遷都して、都になった所である。しかし5年後の672

壬申の乱の際に、そこの主であった大友皇子が破れ、勝者となった大海皇子が飛鳥に都を戻して、廃都となった。

現在の大津市錦織町で発見された遺跡では、内裏や廟堂院の建物が見つかっている。その配置は、孝徳天皇の難波宮や斉明天皇の飛鳥宮と似ていて、急拵えの為か、それらと比べて建物の密度は薄い。又琵琶湖畔の狭い場所なので、周辺に寺院があったことを除けば、都としてそれ程充実していたとは思えない。それでも、宮は良材を使って建設するので、廃都となると、別の所に持ち去られ、荒廃したという印象を強く与えたと思われる。

歌の解釈 枕詞の意味

柿本人麻呂もその現状を見ていたが、まず歌うのは遠い過去のことである。歌い出しの玉だすきは、畝傍にかかる枕詞で、畝傍山は大和三山の一つ、その麓の橿原で、初代の天皇・神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)神武天皇が即位したと古事記、日本書紀は伝えている。勿論事実ではないが、日本書紀によれば、その頃には初代天皇の霊性も既に形成されていたのであろう。橿原の ひじりの御代とは初代天皇の御代という事である。その聖なる御代から栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししをと続く。栂は今も建材として使われる真っすぐ伸びる針葉樹である。それが枕詞となっていや継ぎ継ぎにに掛かる。その掛かり方は、栂と継ぎが似た音、類音であることによるが、一方その木が真っ直ぐ上の伸びている様子を次々と皇統が受け継がれている事の譬喩とするのであろう。

枕詞は玉たすき 畝傍の山あおによし奈良の様な地名、或いはあしびきの山やすみしし我が大君の様な普通名詞に係るのが一般的であるが、いや継ぎ継ぎにといった副詞的、行く水のすむのように動詞に掛かるのもあり、そうした歌詞の多くは比喩的な意味を持っている。

その様な枕詞は、初期万葉の歌では稀で、柿本人麻呂の歌に目立つので、柿本人麻呂の開発した技法と推測される。

 

柿本人麻呂の歌には、日本語そのままの訓字や仮名で書くのではなくて、その言葉のイメ-ジを増幅するような別の訓字で書く文字使いが時たま見られる。そしそれはおそらく柿本人麻呂の工夫の一つであろう。

柿本人麻呂には柿本人麻呂歌集があって、それは自編である事は明らかである。柿本人麻呂は歌を書き残す歌人なのである。さて神武天皇以来ずっと受け継がれてきた皇室を中心とする朝廷の幸福な歴史があった。その先に近江に都を移す天皇が現れる。そらにみつは大和に掛かる枕詞、万葉集巻頭の雄略天皇の歌に空みつ大和の国はとあった。これは意味の良く分からない枕詞であるが、元々名詞に係る枕詞は、その掛かる言葉をほめたたえる意味を持つと言われているが、柿本人麻呂は伝統的な枕詞を改造し、そらにみつと書くことで、その意義を明確化している。

大和は殆どの天皇が宮を置いた素晴らしく充実した土地であった。その大和を置いて奈良山を越えて、どのように御思いになったのか、鄙の地ではあるのだが、近江の大津で天下をお治めになったと続く。石走るは近江に掛かる枕詞、楽浪は大津周辺の地名であると共に、大津の枕詞になる。こうしてそれぞれに枕詞を付けた地名を並べることで、朝廷が大和から近江へと移っていく事が示される。この遷都の時に、額田王は味酒(うまざけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の山際()に い隠(かく)るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を

(こころ)なく 雲の隠さふべしや味酒の三輪の山を 美しい奈良の山の間に 隠れてしまうまで 何度でも 道の曲がり角毎に しみじみと 振り返って見て行こうと思っているこの山を 心なくも雲よ隠さないでいておくれ と歌ったのであった。柿本人麻呂はこうした古歌を踏まえて作っている可能性がある。しかしいかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど の中にはという句が入っているのは重要である。いかさまに思ふは挽歌によく用いられ、常に世を去った人の意志をいぶかる表現である。この場合は近江大津を都と定めた天智天皇の意思をどのように思われたのか、思い巡らせているのである。天離るにかかる枕詞、鄙は今でも鄙びたという言葉に残っており、都会に対する田舎を意味するが、万葉集では訓字で書く時には必ず夷と言う漢字を用いる。それは中国では野蛮人を表す字だから、鄙とは文化程度の劣った地域を表す訳である。近江は逢坂山を越えてすぐの国で、古くから大和の政権と縁の深い土地ではあるが、鄙の地である事には変わりはない。天智天皇がそこを都とするのは、白村江の敗戦後の緊急避難だったと見られる。そしてそれは大層評判が悪かった。

近世萬葉集研究の祖となった契沖は、長い間政権の基盤となった大和を置いて鄙の地などに遷都した結果、この様な無残な滅びの姿を見せる事になったのだというのは理解しやすいようにも思える。しかしいかさまに 思ほしめせかは、今亡くなって見えぬ世界にいる人の意思を問う表現である。そこにはやはり畏敬の念があったと考えてよいだろう。ましてここには天皇(すめろぎ)の 神の命と呼ばれる天皇のしたことで、契沖は又大化の改新を断行した天皇で、凡人には及びもつかない優れた考えだからこうしたのかとも言っている。恐らくそうした方が歌の解釈としては正しいのかもしれない。いかさまに 思ほしめせかと係り結びになって、一応そこで句は切れる。

しかしこの天皇が凡人の及び難い英断で建設された宮だから、当然今でも繁栄していて然るべきである。それなのにどうした事か。

国見歌では理想的な景を言葉の上で作り出す表現であった。しかしこの圧倒的な廃墟の有様を見れば悲しいと言う心情しか出てこないのである。天智天皇の頃までは、旧都が荒れるというのは普通のことであった。万葉集巻1、巻2にはどこそこの宮にという具合に、天皇の代毎に宮の所在が変わっている訳で、代替わりの度に木材の引っ越しも行われて、元の宮は跡地になる。実際には元の宮は縮小しながらも、昨日は残されて又次の時代で別の名を付けられ、宮になったりするが、景観が変わるのは確かである。

持統天皇の藤原遷都

しかし、それは嘆かれる事ではなく、歌の主題になる事もなかった。この歌の存在は時代が変わったことを示している。

この歌が配置してあるのは、巻1の持統天皇の代で、持統8694年には、飛鳥から隣接する藤原京後に遷都が行われた。藤原宮はそれまでと違って、恒久的に使用することを想定して建設された宮殿であった。此の歌の作られたのが、その遷都の前か後かは分からないが、天武天皇の時代から藤原宮の計画は策定されていた。都は永遠に繁栄すべきものとする新しい観念が、そうでなかった都を痛ましく見せるのであろう。そして古代文学研究者の西郷信綱さんが言うように、大津宮は大和で最初の文化的宮廷だったことが、無残さを際立たせている。

 

古事記でも万葉集でも天智期は画期であった。その華麗な宮廷が内戦によって滅びたということが、悲劇的印象を強め、大津宮時代が新たな要素を持っていたのである。そして、宮殿は永続するという観念や滅びた都を悼むという主題も又、中国に起源を持つ。長安(西安)や洛陽、又南朝の都・建康(南京)等は無論、恒久的に使われる都であった。しかし中には王朝が衰亡すると共に荒れてしまった都もあった。

春の草と霞 歌の最後の部分  滅びた都を歌う漢詩は省略

春の草と霞が歌われているのが、滅びた都を歌う漢詩の部分と一致するのは偶然ではない。ここには自然が再生し、永続するのに対して、人間の作った物が失われ、自然の中に埋没していくというモチ-フが見られる。それを最も強く印象付けるのが春という季節である。春の自然の繁栄は、人の作ったものの荒廃を対比される。

漢詩に普遍的に見られる発想が和歌に本格的に流用された跡を、柿本人麻呂の歌に認められるのである。

平 忠度の歌

因みに後の時代に此の近江の荒れた都を歌ったのが平忠度の 

さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

この歌は平家物語では都落ちしていく忠度が勅撰和歌集に採られることを望んで、藤原俊成に託していった歌である。千載和歌集に詠み人知らずで載せられている。歌の内容は平家滅亡を鎮魂するに相応しい哀れ深い一首である。この歌が春の山桜を歌っているのにも、滅びと再生を見る事が出来る。万葉集でもこの歌の後、遷都がある度に、旧の都の荒廃を嘆き惜しむ歌が作られる。非常に影響力の強い歌である。

 

反歌に移る。

1-30 柿本人麻呂

楽浪の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 舟 待ちかねつ

さざ波の志賀の唐崎よ、よいところだよ 御前は大宮人が舟遊びに来るのを待っているのか 待ってもやってこないのに

1-31 柿本人麻呂

楽浪の 志賀の大和田 淀むとも 昔の人に又も 逢はめやも

さざ波の志賀の大和田の流れが止まったように静かになる。このように待っている。昔の人にこんなに会いたいので。

 

志賀の唐崎は、天智天皇の挽歌で舎人吉年(えとし)の歌にも出てきた大津宮近くの湖畔の景勝地。(さき)は、有間皇子の結び松のまさきくあればと同じで、幸いである、無事であるという意味。恐らく舎人吉年の歌を踏まえているのであろう。大和田とは湾入した入り江の事で、波の静かな場所である。めやもは反語の繰り返しで強い否定を表す。全体は志賀の大和田は今も昔も変わらず淀んで、静かな佇まいを見せているが、どれほど時間がたっても、昔の人にあうことがあろうか、絶対に会わないと繰り返しているのだ。これまた擬人法である。この二首とも自然と人事の対照である。しかも長歌の春草の 茂く生ひたるという自然と反歌の自然とはやや違う。春の草は勢いよく廃墟を覆い隠してしまう。しかし志賀の唐崎や大和田は今も辛抱強く、かっての大宮人の訪れを待っていると言っている。それらは変わらずに移ろいゆく人々の営みを見続けているのだ。反歌のように、その土地が昔を記憶し続けていると言った表現は日本独特で、漢詩には見えない。そこに和歌独特の抒情が生まれつつあると言ってよいのではないか。此の長、反歌の歌は、主体は

大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へどもとあるので、大津宮の時代を知らない者の立場である。永続するはずの偉大な天皇の都が、訪れて見たら何もない廃墟だったという悲しみは、しかし静かな湖畔に出て大津宮から昔から変わっていない風景に出合うとすると、そこにいたものと擬人化される唐崎や入り江と共感して、昔の大宮人に又会いたい、しかしそれは決して叶わないのだという新たな悲しみに転ずるのである。

柿本人麻呂は歌を書いたが、この時代でも歌は歌われるものであった。逆に言えば、この様に大津宮が荒廃している事を悼み、悲しむ感情が柿本人麻呂のみならず宮廷全体に共有されていたと思われる。

 

柿本人麻呂には近江朝に関わる歌がある。

3-264 柿本人麻呂

もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも

宇治川の網代木に漂う川波はどこへ流れていくのか、行方知れない。

3-266 柿本人麻呂

近江の海() 夕波千鳥 汝()が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

近江の海に夕波が立っている。千鳥、お前が鳴くと、しみじみと昔のことが思われる

 

歌の意味 表と裏

264は柿本人麻呂が近江から大和に上って来る時に、宇治川の川べりで歌ったと題にある。宇治川は琵琶湖の唯一の流れの出口で、急流で知られる。もののふの 八十は宇治川の名を引き出す修辞である。またこれは宮廷の武者が多くの氏族に別れていることを表す。網代木は鮎の幼魚を採る仕掛けである網代にかけておく木である。

いさよふは躊躇う、漂う。宇治川の網代木に漂う波がやがて流れ去っていく。行方も分からないことよ が表の意味である。しかしそれだけを歌っているのではない。柿本人麻呂の歌では、川の流れは時間の進行の象徴で、流れの中で一瞬漂う波が流れ去るのは、一時この世にあらわれてやがて消えていく人間の譬喩である。題に近江から上って来たと特定するのは、それが近江朝の人々を暗示する。もののふの 八十宇治川 単に地名を引き出すだけではなく、近江朝に仕えていた文武百官を連想させるであろう。華やかな宮廷の人々が、時経って四散していったことが、宇治川の急流の波の中に偲ばれている。

266の方は、第一回の放送で既に話した。近江の湖の夕方に戯れる千鳥よ、お前が鳴くと心がしおれるほどに古が思われるという事。先の歌が昔の人を歌っていたのに対して、こちらは古である。両方とも近江朝を指していることは言うまでもないが、今は昔という様に、昔が今と対比される過去であるのに対し、古はいにし→去ってしまった方という事で、遠く離れた過去である。思ほゆ 心に浮かんでくるという表現には、連結した時間の経過が辿れる古の方が相応しいのであろう。そして、古を心に呼び起こすのは、湖畔に鳴く千鳥である。鳥の鳴き声は人の泣き声に聞きなされることがある。この場合も千鳥よ、古を恋うて鳴いていると考えられるのである。千鳥のいる風景は、古と変わらない。自然と人間が一体となって悲しむ、先に呼んだ反歌二首と共通の抒情を短歌に読み取っていいと思う。大津宮関連の柿本人麻呂の歌には、次のものもある。

 

1-217 柿本人麻呂 吉備津の采女が亡くなった時に

秋山の したえる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄の 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕は 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は笑すといへ 梓弓 音聞く我れも おほに見し こと悔しきを 敷栲(しきたえ)の 手枕まきて剣太刀 身に添へ寝けむ 若草の その嬬の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと

秋山の様に色づき、なよなよとした竹のようにしなやかな乙女。どう思ってかその長い命を、朝に置いても夕には消える露のように 夕に立ったかと朝には消えてなくなる霧のように、儚く散ってしまった。世を去ったという知らせを何気なく受けた私さえ、悔しかったのに。まして手枕をして寄り添って共寝した、彼女の夫は一人寂しく寝ることになって、どんなに悔しく恋しい思いをしているだろう。朝露のように、夕霧のように、この世を去ってしまったその子を思って。

1-218 柿本人麻呂 備津の采女が亡くなった時に

楽浪の 志賀津の子らが 罷り道の 川瀬の道を 見れば寂しも

大津京に仕えていたあの子が、葬送の道を送られていく川瀬の道を見るのは寂しい

1-219 柿本人麻呂 吉備津の采女が亡くなった時に

そら数ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき

大津宮であったあの子が、こんなことになるのなら、良く見ておくのだった。今は悔しいな。

 

217

吉備の津の采女は吉備の豪族から献上された女性で、その人が死んだときに柿本人麻呂が作った歌という題である。

その采女は紅葉のように美しく、若竹のようにしなやかだった。それなのに何を思ってか若い命を絶ったらしい。

いかさまに 思ひ居れかは故人の意思をいぶかる表現である。但し今の場合、その原因は恋の悩みと見当がつく。彼女には夫がいた、公認とは限らないが。采女は天皇の許可なく結婚することは禁じられていて、采女は将来を悲観して死んでしまった。歌い手は本人とは一寸逢っただけでそれだけ悔やまれるのだから、まして共寝をした夫は今頃恋しく思っているであろう。そして若くして亡くなった采女は、朝露や夕霧の様だと表現している。

長歌だけだといつの歌かは分からないが、反歌になってそれが明かされる。2首 采女は入水したのだと語られる。それ以上に吉備津の出身の采女がさざ波の志賀の子らと呼ばれるのは何故か。それは此の采女の自殺が近江の大津宮の出来事だったからである。

218

第二反歌にもそら数ふ 大津の子と、亡くなった采女を大津にいた女性とする呼称が見られる。

219

そら数ふは大津に掛かる枕詞。あの子に出会った時に、ぼんやりと見ていたことが今は悔やまれる。と歌っている。

楽浪の 志賀津の子ら そら数ふ 大津の子と、采女を呼ぶことは、今ぞ悔しきという、今は大津の時代ではないという事を表す。

此の長、短歌の製作は持統朝である。しかし、一方長歌の方は、残された采女の夫をらむという現在推量の表現で思いやっていることから、むしろ大津宮時代に歌っていると考えられる。つまり長歌と短歌の間には20年くらいの時差があって、長歌に表れる我は、大津宮時代に采女が自殺した時点に立って、その美しさと儚さを長歌に歌い、時を経て大津に戻って、采女の悲劇を痛ましく思い起こして、短歌二首を歌っていることになる。恐らく大津宮での采女の自殺は、持統朝まで悲劇として語り継がれていたのであろう。それを柿本人麻呂は、昔を知る者として長、短歌に歌い上げたのだ。

それは大津宮の事を知らない者とは違う。夫々の作品に、異なる立場を加工しながら、柿本人麻呂は幾度も大津宮時代を振り返って歌うのであった。壬申の乱に勝利した天武天皇にとって、近江朝廷は敵であった。しかし、その後を継いだ持統天皇が即位したのは、天智天皇の娘であったからである。偉大なスメロギの神の命が建設した文化的宮廷が今、廃墟になっていることを傷み、その時代の悲劇を美しく回想することが持統朝には必要であったであろう。最初に帰れば、それは大津宮時代を歌でもって歴史の中に位置づける営みであったと考えられる。

 

「コメント」

 

天智、天武、持統朝の一つのハイライトである。自分の父と母を壬申の乱でなくした持統天皇の意を受けた柿本人麻呂の一世の晴れ舞台となったのだ。そして采女の悲劇が更に盛り上げていく。里中満智子お好みの舞台である。