220702⑬柿本人麻呂の吉野讃歌 巻1

前回は柿本人麻呂の近江荒都行と呼ばれる作品を中心に扱った。天武天皇時代と持統天皇の時代とは、天武持統朝と一括される。持統天皇は天武天皇の皇后で天武天皇のカリスマ性をバックにして、その政策の継続を図る。一方、持統天皇が即位できたのは、天智天皇の娘であるから、天智天皇崩御の後、天武天皇が滅ぼしてしまった近江朝廷をも、適切に歴史の中に位置づけ鎮魂する必要がある。天智天皇をスメラミコトの神の命、過去の偉大な天皇と呼び、その都の荒廃を悲しむ、近江荒都歌は、まさにそうした政治的課題に応えるものであった。

柿本人麻呂は歌人としてその様な役割を担ったと考えられるのである。政治的課題などと言うと、芸術性や成功とは無縁だと思う方もいるかもしれない。しかしそれは近代以前の西欧以降の概念で考えるからそうなるので、前近代では決してそうではなかった。そもそも和歌は、宮廷で生まれてずっと宮廷を中心に維持されてきたので、政治と関わりがないはずがない。特に万葉集の前半では、和歌は人々の前で歌われ、その共感を引き出して集団を一体化させる。だから、人を感動させなければならないし、高い芸術性を持っていなければならないのである。

 

本日の柿本人麻呂の吉野讃歌と呼ばれる歌も、その様な政治的意味を持つ歌である。長歌二首がある。

1-36 柿本人麻呂 長歌

やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 華散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 龍の宮処は 見れど飽かぬかも

我が大君のお治めになる、天の下には多くの国があるが、山と川の清らかなここの川。吉野の国の花が散っては咲き、又散る秋津の野辺に、太く立派な宮柱お建てになったこの宮。大宮人達は舟を並べて、朝、川を渡る。夕へは競うようにして川を渡る。この川が絶えることなく、この山のように、高く立派にお治めになる。滾る滝の、宮が立っている場所は見ていても飽きないことである。

1-37 柿本人麻呂 反歌

見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む

見ても飽きる事のない吉野川。磐にいつも生えている水苔の周囲を清流が流れていく。又来て眺めたいものだ。

 

やすみしし 我が大君の きこしめすは、天皇の呼び方としてこれまで何度も出てきた言い方。天皇がお治めになった天の下に国は沢山あるが、大和川の清らかな土地だと御心を寄せる吉野の国と始まる。国はしも さはにあれどもは、舒明天皇の国見歌の時に触れた選択的発想である。多くの中から優れた場所が選ばれるのである。吉野が選ばれたのは、山川の清き高地であるためである。高地は山が流れている辺りを山が取り囲んでいる地形のことである。古代の吉野の宮は、今桜の名所として賑わう吉野よりもう少し吉野川を遡った、現在宮滝と呼ばれる場所にあり、ここは切り立った岩の間を激流が下る本当に見事な景観の場所である。

吉野川の北岸から、宮跡の発掘が現在進められている。その対岸の左側の御殿山は象山と書いて、きさやまとよぶ山が並んでいる。そうして山川の清らかな地だと、心を寄せる吉野の国と掛詞的に続くのである。秋津は吉野の宮のある場所の地名である。華散らふは、その地名の枕詞。今も昔も吉野は花の美しい所であった。その野に大君は太い柱を立てて、宮を建設すると、大宮人達は船を並べて、朝の川を渡り、舟を競わせて、夕べの川を渡る。朝に…夕に・・・と対句が置かれるのは、舒明天皇の国見歌と同じ作りである。

歌全体の構成として、初期万葉の儀礼歌の形を踏まえている。そして国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つが、国土の理想像であったならば、大宮人達が朝も夕も舟遊びしているというのも、理想だったのであろう。つまり世の中に余計な仕事がないからこそ、大宮人達は行幸に従って吉野川で遊ぶことが出来たのである、国見歌のうまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国はという誉め言葉に当たるのが、次のこの川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 龍の宮処は 見れど飽かぬかも→この川のように決して絶えることなくという意味である。この川のは、枕詞とは言えないが、似た修辞である。目の前の吉野川を指し示し、その流れが決して絶えないように、皇統が絶えることが無いと譬喩的に用いるのである。この山の いや高知らすも、同じである。

目の前や背後の山がいよいよ高いように、いや高知らすと続くのである。

この歌は、この吉野川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨される御代と言う構文である。

 見れど飽かぬかも 万葉集の誉め言葉の常用句となる

見れど飽かぬかもも誉め言葉で、見ても見ても飽きないというのである。この句は吉野讃歌で初めて使われ、以後萬葉集を通じて何かを褒め称える言葉として、使われ続け、50近くの使用例がある。反歌は長歌の反復であるが、まさにその事を歌っている。反歌の三句迄は序詞、常滑とはいつも水が被って苔が生え滑らかになっている所、見ても見飽きぬ吉野川の常滑、それがいつまでも変わらないように、いつまでも吉野に帰ってきて、この景観を見る事だろうというのである。

 持統天皇の吉野行幸31回  くり返し行幸する意味 吉野盟約の順守 しかし天武崩御と共に崩壊

実際に吉野行幸は持統天皇の下で、31回も行われている。天武天皇はてんじてんのうから譲位提案を辞退して、吉野にいったん隠棲し、それでも迫害されることを知って決起し、壬申の乱に勝利したのである。天武天皇とその跡を継ぐものにとっては、創業の地となったのである。そして天武8679年には6人の主だった皇子たちに、今後決して争わないことを誓わせた。自らも息子たちを平等に扱う事とした。その時の天皇の歌として万葉集に載せられているのが1-27

よしという言葉が繰り返されると共に吉野を繰り返し見る事を命じている。持統天皇がくり返し行幸するのは、まさに天武の遺言を守る事にあった。柿本人麻呂はその行幸の意義を見れど飽かぬかもという言葉で表している。

絶ゆることなくが、長歌、反歌に繰り返されているのが重要である。此の言葉も又、万葉集の中で繰り返し用いられるので、あった。絶ゆることなくだけで、この二例の他に絶ゆを用いたバリュエ-ションを入れれば膨大な量になる。持統天皇の31回の行幸は、まさに反歌 絶ゆることなく またかへり見むという意思を実行するものであった。天武天皇と皇后、即ち持統天皇と6人の皇子たちがたてた誓いは、千載の後に事に事無からしめん→千年後にも無事なために立てられたものである。しかし現実には、それは天武天皇と言うカリスマ性あってのことで、天武天皇が崩御されると、即ちすぐ破られ、大津皇子の事件が起こったのであった。だから持統天皇は何度でもこの誓いを読み上げねばならないと考えたことであろう。絶ゆることなく は、その様にその様に事揚げしていなくては絶えてしまうという危機感と表裏していたのである。この絶ゆることなく は千年の未来を射程に入れた表現である。それは長々と続いてきた皇統と対応している。柿本人麻呂の歌にはそうした直線的に流れ去る時間が表現されている。そのような時間観念は初期万葉には無い。

 

今度は二首の歌文を読んでみよう。

1-38 柿本人麻呂

やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 だぎつ 河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 行き沿う 川の神も 大御食に 仕へまつる 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕えふる 神の御代かも

我が大君は 神であるまま神らしくなさっている。水流が滾り立つ吉野川の中に高殿を高く高く建てられて、お上りになり国見をなさると、幾重にも重なる青柿の様な山々の神が貢物を捧げる 春の頃は花々をかざし、秋がやってくると色づいた黄葉をかかげる 高殿の傍を流れる川の神も、大君のお食事に捧げようと、上流では鵜飼をやり、下流では網を設けている。山も川も、こうして大君に仕える、そんな御代である。

1-39 柿本人麻呂

山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ 河内に 舟出せすかも

山も川も大君をよりどころにして仕える神であるから、大君は激流の渦巻く川の中に船出をなさる

天皇は神ではない修辞的な事である  諸説からの推論

二首とも一首目と同じく、やすみしし大宮人で始まり、構成的にも似ている。しかし異なるのは、一首目に出てくるのは大宮人であるのに対して、二首目は神だという事である。従って天皇の立ち位置も変わってくる。神々からは、神の思し召しのままにということ、神ながら神の思し召しのままにということ、神さびせすと は神々しい振る舞いをなさるという事である。

天皇の儀礼的な言葉である宣命では、天津神自身がこの世にあらわれた神と天皇が名乗って、その意思をして神ながらという言葉が使われている。それなら、神として神であるままにと解してよいのだが、万葉集では在位中の天皇がそのまま神である訳では無さそうである。色々な説があって、何れも天皇のなさることは神技だというに過ぎないのであって、天皇が神であるというのは修辞的な事と思う。

  天孫降臨の概説  天津神は麗しく、国つ神は醜い 国つ神は天津神に奉仕する存在なのである

古事記によれば日向高千穂の嶺に天津神ニニギミコトが下った時、見初めたのがオオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメであった。オオヤマツミは天孫からの求婚を喜んで、コノハナサクヤヒメに姉のイワナガヒメを添えて奉った。所がイワナガヒメは恐ろしい容貌だったため、ニニギミコトは返す。イワナガヒメを用いれば、天津神の命は磐のようにいつまでも、不動になる。コノハナサクヤヒメを用いると花のように栄えるとして奉ったのである。それで皇子の命は桜のように短く儚くなったのである。天皇の命が有限であることの説話である。

ニニギとこの花さくや姫の間に生まれたホオリの命は山幸彦として、無くした釣り針を探しに海に出で,ワタツミの娘トヨタマヒメと結婚する。その間の子ウガヤフキアエズ命トヨタマヒメの妹 玉依姫と結婚して産んだのが、カムヤマトイワレヒコ 即ち神武天皇である。この神武天皇は大物主の娘ヒメタタライスズヒメを皇后とする。天皇はこうして天から降臨した天津神の子孫であると言うだけではなく、地上の国つ神たちの呪術を結婚で身につけることで、天の下の支配権を持つと主張するのである。国つ神たちは、天津神の子供達に対してあくまでへりくだる。彼らが姿を表す時には、動物の姿を取る。トヨタマヒメウガヤフキアエズを生む時には、巨大なワニとなる。見ないでくれと頼んだにも拘らず、ホオリは覗いて恐れたために、トヨタマヒメは恥じ入って、海に帰ってしまう。

三輪山の神、大物主は先程述べたように、蛇であった。前に話した様に、日本書紀ではこの姿を見て驚いた妻ヤマトトトソモモソヒメは死んでしまう。そこでも神が恥をかかされたと怒る場面がある。

オオヤマツミも醜いイワナガヒメを返されたことを恥じるのである。それは天津神の子供達が常に麗しく賢いとされるのと対照的である。

そこには厳然とした差別がある。国つ神は天津神の子孫に奉仕するもので、従わない国つ神は荒ぶる神として征伐の対象となる。吉野の山の神は、春の花、秋の紅葉を自分の髪に挿すという形で、天皇の御覧に入れ奉仕するのである。

  神武天皇と吉野川

無論人がやっている事ではあるが、それを川の神の奉仕として歌い、そして実際に奉仕している人も特別な人々であった。古事記によれば、神武天皇が日向から上る時に、南の熊野から吉野に入るル-トを取る。その時、吉野川の下流では、仕掛けで魚を捕る者に出会い、名をニエモツの子。食物の献上品で最初から奉仕の形である。この人物はアダという場所の鵜飼の祖である。更に進むと井戸の中から尾っぽのある人が出てくる。それは国つ神イヒカである。これは吉野の首の祖先という。次はやはり尾っぽのある人岩をを押し分けて出てくる。それも又、国つ神 イワホオシカミノミコトと名乗り、天津神の御子を出迎えに来たのだという。それは吉野の国栖(くす)の祖とされる。国栖とは先住民、土着の人。

風土記では討伐の対象である。吉野では先祖からして天皇に奉仕する国つ神である。

この吉野の国栖(は、古事記の後ろの方、応神天皇の所に出てきて、酒を醸して奉る時に、口鼓を打って所作をして、酒を薦める歌を歌ったとされる。この歌は国栖らが神を祀る時々に今に至るまで歌う歌ぞとあるので、古事記の成立の頃まで、彼らは奇妙な所作を伴って、その歌を歌って、贄を献上していたのであろう。漁民や山の民は農耕民と異なり、異人化されていたが、特に吉野の人々は国つ神の子孫として特別に扱われた様である。吉野は天武天皇の前から山岳信仰の聖地としてされていたのは確かで、天武皇統の聖地となる事は、吉野の神秘化を促進したであろう。柿本人麻呂の第二首は、吉野を国つ神たちの活動する地と描く。それはまさに聖地である事に基づき、神秘化を進めるものであった。長歌の最後は山川も 依りて仕えふる 神の御代かもと収められている。

 

ここに至って天皇は国つ神たちの奉仕を受ける天津神の御子と同じ立場に立っている。天津神の意思を受け、地上に降り立った存在が統治するのが、神の御代なのである。

 

反歌 巻1-39山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ 河内に 舟出せすかも

第一の長反歌と同じく、長歌の末尾を反復する形で歌う。官人たちは吉野行幸を楽しみにしていた。

 

9に柿本人麻呂歌集に乗っていた官人たちの吉野での歌が載せられている。6

9-1720 元仁 柿本人麻呂歌集

馬並めて うち群れ越え来 今日見つる 吉野の川を いつかかへり見む

馬を並べてみんなで山を越えて来て、今日やっと吉野川を見る事が出来た。この先、いつ見る事が出来るであろうか。

9-1721 元仁 柿本人麻呂歌集

苦しくも 暮れゆく日かも 吉野川 清き川原を 見れど飽かなくに

残念ながら日が暮れていく。吉野川の清らかな川原は見ていても、飽きないもの

9-1722 元仁 柿本人麻呂歌集

吉野川 川波高み 滝の音を 見ずかなりなむ 恋しけまくに

吉野川の川波が高くて、滝が落下する所は見ずに終わるかも。後で後悔するかもしれない。

9-1723 絹 柿本人麻呂歌集

かわづ鳴く 六田の川の 川柳の ねもころ見れば 飽かぬ川かも

川柳が立ち並び河津が鳴いている六田の川 その風情はいくら念入りに見ても 見飽きないものだ

9-1724 島足 柿本人麻呂歌集

見まくほり 来()しくも著(しる)く 吉野川 音のさやけさ 見るにともしく

見たいと思ってやってきた その甲斐あって吉野川は 聞こえる音は清らかで 見ればますます魅せられていく

9-1725 麻呂 柿本人麻呂歌集

いにしえの 賢き人の 遊びけむ 吉野の河原 見れど 飽かぬかも

昔の名高い賢者たちも遊んだという吉野の川原は、見ていても飽きないものだ

 

これらにはそれぞれの作者が書かれている。下級官人らしくて、履歴は分からない。柿本人麻呂歌集には、柿本人麻呂以外の歌も含まれている。最初の三首は元仁(がんにん)、基本には吉野川への賛美がある。

奈良時代の懐風藻の詩では、吉野は仙境となるが、その根は天武天皇の時代にあった。以上の柿本人麻呂歌集に、柿本人麻呂の吉野讃歌の表現が随所に踏まえられている。しかし、天武天皇の歌が全てを規定している事に注意すべきと思う。どの歌にも、約束の様に見るという言葉が含まれているのは、よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人良く見という天武天皇の遺言の実行であろう。大宮人達は清らかな別天地吉野で遊ぶことを楽しみながら、天武天皇の遺徳を偲び、聖なる天皇の下にある事を確かめ、それこそが持統天皇が目指した世界であったと思う。

 

「コメント」

 

宮廷の御用歌人が天武天皇、持統天皇の吉野への思いを最大限に忖度して歌を作ったという事。壬申の乱のスタ-ト、天武朝の開始の物語に満ちる吉野。思い出も苦い悔恨も。解説で良く分かるけど、持統天皇は思い込み過ぎでは、31回も。