220709⑭柿本人麻呂の草壁皇子挽歌 巻2

前回は柿本人麻呂の近江行とか吉野讃歌を扱った。吉野讃歌の第一首では、見れば飽かぬかも 絶ゆることなくまた帰りこむなどを吉野行幸の繰り返しまた永続を寿ぐ言葉が繰り返されていた。

それは近江荒都行とかに歌われたように、永続すべき都が何もない廃墟になってしまうという事と、

表裏している。寿ぐとは、言葉で寿ぐ、言葉の力、言霊の力で望ましい未来を招き寄せようとすることである。

断絶が現実にあるからこそ、永続を祈念しなければならないのである。一方、吉野讃歌の第二首では、持統天皇が神のご意思のままに神々しく振舞い、国見をすることによって、山や川の国つ神たちの奉仕を受けて、神同然になっていく事が歌われている。それは近江行とかで、亡き天智天皇を

スメロギノ神の命と呼ぶことと並行している。

天皇を皇族たちの盟主といった存在から、天つ津神の意思を担ったその子孫という超越的立場置き換えることが起きている。それは、古事記、日本書紀といった史書によって、奈良時代の初めに全体像が現れるのであるが、それに先んじて和歌という形で、柿本人麻呂によって表現されているのである。和歌という朝廷に共有される特別な言葉によって、臣下たちに定着していったのである。

 

本日読む草壁皇子挽歌もそうしたイテオロ-グとしての柿本人麻呂を示す作品である。改めて言えば、草壁皇子は天武天皇と持統天皇との間に生まれた子で、日本書紀によれば天智元年662年の誕生で、天武10681年に立太子し、天武天皇崩御後は母皇后と共に政務を摂り、いずれは即位するはずであったが、果たさないまま持統3689413日に亡くなった。柿本人麻呂による挽歌は、その殯宮(ひんきゅう)の時の歌と記されており、巻1-4に収める柿本人麻呂の歌の作る歌と、題されている作品の中で、年代の分かるものとしては最初の歌である。なお、草壁皇子は皇太子として皇位を目前にしていたので、日並皇子と呼ばれ、題詞はその名前で書かれている。長歌一首と反歌二首とからなり、長歌は巻2-167. 少し長い。

2-167 柿本人麻呂 日並皇子の命が殯宮にいらっしゃるときに作る歌

天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万(やおよろず)千万神(ちよろず)の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の九重かき別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 浄御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原岩戸を開き 神上がり 上りいましぬ 我が大君 皇子の命の天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の丘に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問とはさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも

天地の初めの時 天の河原の八百万(やおよろず)、千万(ちよろず)の神々がお集まりになって、神の領分をご相談なさった。天照大神が世界を支配なさることになった。葦原の瑞穂の国、すなわち天地の寄り合う極みまで支配なさる神として、天雲を八重にかき分けて、一柱の神をお下しになった。その、日の御子は飛ぶ鳥の清御原の宮で、神のまま統治なさった。そしてこの国は、天皇が支配する国と仰って、天の原の岩戸を開いて神としてお上りになった。そこで、われらが大君となられる皇子の命が天の下をお治める世は、春の花のように貴くめでたいことだろう。満ちる月のように満たされるだろうと、人々は大船に乗った気持ちで皇子を仰いでお待ちしていたが、何と思われたのか、ゆかりのない真弓の丘に宮柱を太々と建てられ、御殿を高々と建てられたが、朝の御言葉もなく、日月が積もり積もってしまった。それ故、皇子の宮人達は途方に暮れている。

 

近江荒都行では、橿原で即位した初代天皇の事から歌を起こしていたが、この歌では更に遡って、天地(あめつち)の初めの時から歌い出している。高照らす日の御子が基本的に天皇を表す言葉なのもその正しさを表している。

天武天皇は壬申の乱を平定して世を治めたので、この天下を天皇が代々治める国だと確定させて、天上世界に帰って行かれたとする。ここまで挽歌の対象の草壁皇子については、何も触れていないことに違和感がある。しかし天武天皇を始祖として神格化することが、この歌には必要だったのであろう。天武天皇こそが、吉野で主だった皇子たちに誓いを立てさせ、草壁皇子を皇太子に指定した本源なのである。そして、天武天皇は、武力で政権を握った覇王ではなく、天にまします日の御子 天照大神の存在を受けてこの世を平定し、代々の天皇の基礎を作ったと述べることが、皇太子の正統性を保証するためにも大事だったはずである。

春花の 望月の、貴くあらむ 満しけむという形容詞に掛かる比喩的な枕詞である。この種の表現が、柿本人麻呂に多いことは以前に話した。草壁皇子は当時の習慣からすれば、皇位に就くには若干若いと言われていた。しかし母 皇后のバックアップの下に、共に政治を摂りながら、力量を高め立派な天皇になることが期待されていた。その即位の暁には、桜の満開の様な、満月の様な素晴らしい世の中がやってくるはずであった。しかし、春花にしろ、望月にしろ、散ったり欠けたりするはずである。そのような景物を、ここで用いるのはやはり挽歌だからであろう。繁栄の中に、ひそかに

暗い影が、忍び寄ってきている様にも見える。

 草壁皇子の墓 束(つか)明神古墳

いかさまに 思ほしめせか→ どのようにお思いになったのか で事態は暗転する。それは近江荒都行とかや、吉備の津の采女の挽歌にも用いられた、亡くなった人の心をいぶかる表現である。あらゆる人々の期待を集め、若々しく素晴らしい世の中を作っていくはずが、どの様にお考えになったのか、縁もゆかりもない真弓の丘に太い柱を立てて、御殿を高く作って、朝の言葉をかけられることもなくなった。月日も随分と経ったと続く。真弓の丘は今の近鉄飛鳥駅から西側に広がる丘陵地帯である。草壁皇子の墓は、岡宮天皇の真弓の丘陵と呼ばれ、鷹取町の森という所にある。岡宮天皇というのは、草壁皇子に天平宝治2758年に贈られた名前で、草壁皇子は即位しなかったが、その血筋の天皇が奈良時代の半ばまで続くので、天皇号を贈られたものである。ただし、この周辺には飛鳥時代の陵墓が多数あり、やや北にある束明神古墳と呼ばれる古墳は、天武天皇陵、後に持統天皇も合葬されたが、それと同じ石材が使われている。ここが草壁皇子の墓として有力とされている。岡宮天皇陵は円墳であるのに対し、束明神古墳の方が八角墳である。天武持統陵も八角墳で、これも束明神古墳が草壁皇子の墓である蓋然性を高めている。更に北の明日香村には牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)も八角墳。最近復元工事が完了した。ここは斉明天皇陵ではないかと言われている。飛鳥時代終末期の陵墓は八角であるのが特徴で、八つの角を知ると書く やすみししという枕詞と関連があるという説もある。

宮柱 太敷きいましは、草壁皇子の殯宮(もがりのみや)を立てたことを言う。そこに皇子はお移りになって、皇子が朝、臣下たちに声をかける事もなくなった。そうした日々が、何日も続いている。

 いかさまに 思ほしめせかの係りは、日月の 数多くなりぬれで結ばれるのである。皇子の言葉が無ければ、仕えている者たちは、どうしてよいのか分からない、将来も。→そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずもである。

 

若き皇太子の死去はまるで予想外のことで、臣下もどうしてよいのか分からない。しかし、柿本人麻呂は一番身近に仕えていた者に、焦点を当てて彼らの惑いを表現する。額田王は天智天皇挽歌、山科御陵を退散する時の歌で、ねのみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむと歌う。→悲しみを抱えたまま別れていく不本意を、ももしきの 大宮人に広げたのである。それとは

違う方法が、柿本人麻呂にはあった。外側からある人を描き出し、その内部、心の中に入って、それに共感していく表現方法である。近江荒都行にも見られ、この先にもそうした表現が見られることであろう。

 長歌の概要

長歌は天つ津神の意思を追って下ってきた天武天皇が、この世を治めてお帰りになった、その世を治めるべき皇太子がどう考えてか、即位せずに縁もゆかりもない真弓の丘に移って、ずっと沈黙されている。それで岡宮の者も途方に暮れている。それを見る私達もどうしてよいか分からない。という風に纏められるであろう。

 

2-168 柿本人麻呂 反歌一

ひさかたの (かみ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しむ

遠く遥かな空の彼方を見る様に、仰ぎ見た皇子の御門が荒れていかなければいいが。

2-16 柿本人麻呂 反歌二

あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも

(天皇)は輝かしく照っているが、夜渡っていく月が雲に隠れるのは惜しいことだ

 

草壁皇子の宮殿は島の宮といって、今も明日香村の島の荘と言っている所にある。有名な石舞台古墳の近くである。

そこは7世紀初め、推古天皇の頃に権勢を奮った蘇我馬子がいた所で、馬子は島の大臣(おとど)といわれていた。蘇我氏滅亡と共に接収され、天武天皇が天智朝末期に吉野入りした時に、島の宮に一泊している。壬申の乱を経て、天武天皇の時に、皇太子草壁皇子の宮とされたのであろう

その島の宮の御殿は、皇子がいらっしゃった時は天を見る様に仰ぎ見ていたのだが、真弓の丘の殯の宮にお移りになった後は寂れてしまうだろう。その事が惜しまれるというのである。実際には、島の宮にある機能は維持されていくが、皇太子の宮であった繁栄は失われてしまう。荒れるは、人の作った物が、人手が入らないことで自然に戻る事を言う。近江荒都行でもそうであるが、主を失った場所が荒れるということは、柿本人麻呂も嘆く所であった。

草壁皇子を、(あめ)見るごとく 仰ぎ見しという視点はそこに仕える者のそれではないであろうか。つまり第一反歌はそこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずもという長歌末尾の表現を受け継ぎ、その宮人の帝を見る痛ましい視線で嘆いているのである。

 

第二反歌もまた、隠らく惜しもで結ばれる歌である。隠らくは上代に多い句法で、動詞などについて~する、~な事の意志の表現を作る。荒れまく→荒れていくだろう かくらく→隠れること  現在は、曰くつきなどと言うように、いわ、人の思惑などと言う時の思惑という言葉に残っている。

あかねさすは鮮やかで明るいものに掛かる枕詞で、額田王の蒲生野(かまふの)の歌では、紫に掛かっていたが、ここではに掛かっている。逆にぬばたまのはぬばたまが、ヒオウギという植物の真っ黒な実の事だと言われるように、黒く暗いもの、又夜に掛かる枕詞で、ここでは夜に掛かっている。全体ではあかねさす 日は照っているが、ぬばたまの夜に渡る月が隠れるのが惜しいことだと意味になる。これは表面的には天体の運行を言っているが、夜の月が隠れる明りの乏しい古代では確かに惜しまれることであろう。しかし3-264柿本人麻呂 もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふなみの ゆくへしらずも これが単に宇治川の波を歌っているではなく、近江朝の貴族たちの運命を暗示していたように、この歌にも暗示がある。長歌前半に天照らす 日女の命(天照大神)が歌われ、その神によって下された天武天皇が、日の御子と呼ばれたように、日は天皇のシンボルなのである。日が厳然として毎日上がる様に、天皇は不変の存在なのである。草壁皇子が亡くなった翌年には、母 皇后が即位し持統天皇になる。日が天皇なれば、月が隠れることは必然的に皇太子が亡くなったことを象徴しているのである。日並皇子と呼ばれるように、草壁皇子は日に並ぶような存在であった。額田王の歌にあげたように、大和歌には譬喩歌というジャンルがあり、男女関係を植物や動物に例える発想があった。そうして伝統的な表現法を受け継ぎ乍ら、柿本人麻呂は天皇や皇太子を広く世の中に光を与える存在として、宇宙的に捉えたのである。それは長歌前半の神話的呪術と呼応するものであろう。長歌の末尾から第一反歌にかけて、皇子の最も身近な人々に焦点が当てられたのに対して、最後では再び夜の闇に包まれてしまったような痛惜が歌われた。

 

皇太子の死去という大きな出来事の中、他にも何首もの歌が作られている。

2-170 柿本人麻呂

嶋の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かず)かず

嶋の宮のまがりの池に放たれた鳥、人目を恋しがって潜ろうとしない

嶋の宮とは池のある庭園を中に島があるので、庭園自体を島と呼んだことに由来する。鳥に感情移入する方法は

2-166 近江の海 夕波千鳥 汝が゜鳴けば 心もしのに 古おもほゆ を思いだす

2-171 柿本人麻呂

高照らす 我が日の御子の 万代に 国知らさまし 嶋の宮はも

我が日の御子が生きておられれば、長くお治めになるはずであった嶋の宮なのに

 高照らすは皇子を指すが、柿本人麻呂の長歌に出てきた表現で、万葉集では天武天皇の皇子に対してのみ用いる

2-172 柿本人麻呂

嶋の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君座さずとも

島の宮のまがりの池に放った鳥、自然化しないでおくれ 御主君がいなくても

2-173 作者不詳 舎人

高照らす 我が日の御子の いましせば 嶋の御門は荒れず あらましを

わが日嗣の御子がご健在であれば、嶋の御殿は荒れなかっただろうに

 この後に、皇子に仕えていた舎人達の歌が続く。舎人は貴人の身辺の世話をする者の総称

2-174 作者不詳 舎人

(よそ)に見し 真弓の岡も 君坐せば 常つ御門と 侍宿(とのい)するかも

これまで無縁と思っていた、真弓の岡も皇子がいらっしゃれば、嶋の宮と同じ様に警護することになろうか

2-181 作者不詳 舎人

み立たしの 嶋の荒磯(ありそ)を 今見れば 生()ひざりし 草生ひにけるかも

ご健在であった皇子の島の宮の荒磯を今見ると、生えていなかった草が生えている

2-184 作者不詳 舎人

(ひんがし)の たぎの御門に 侍へど 昨日も今日も 召す言もなし 

東のたぎの御門に近侍しているが、昨日も今日もお召しになる言葉もない

 

この様に柿本人麻呂歌と舎人の歌は深く結びついている。柿本人麻呂は、草壁皇子の舎人を悲しみの焦点に据えたのも、舎人達のこうした歌があったからだと思われる。計画された皇位継承は、大津皇子の謀反でつまずき、草壁皇子の死で破綻した。自ら即位した持統天皇であったが、難しいかじ取りを迫られることになる。柿本人麻呂の歌の営みは、それを言葉の力で強く支えるものであったろう。

 

「コメント」

 

全て持統天皇の指示でなされた事であろう。政務を見ながら、草壁皇子の軽皇子に繋ぐまでをどうするか。藤原不比等、犬養三千代などの協力を得ながら、必死であったろう。大した女傑であるが、父 天智天皇、夫 天武天皇 子 草壁皇子の思いを託されての大奮闘である。