220716⑭⑮「柿本人麻呂の高市皇子挽歌 巻2

ここの処、柿本人麻呂の作品を読んでいる。第二期天武・持統朝はとにかく柿本人麻呂の独壇場で、またまだ重要な作品が沢山ある。第一回は天武天皇の皇太子であった草壁皇子挽歌を読んだ。

天武天皇崩御の後は、いずれ皇位を継ぐはずが3年後に28歳で亡くなった。その挽歌は神話的宇宙的に描く作品であった。

本日読むのは、その後即位した持統天皇の下、太政大臣となって、皇太子に準ずる地位で天皇を

補佐した高市皇子の挽歌である。

柿本人麻呂の長歌は格別に長い

柿本人麻呂の長歌作品は、初期万葉の長歌作品に比べて、格段に長くなっている。

草壁皇子挽歌も、65句あり、どの初期万葉の長歌を持ってきても倍以上に当たるが、高市皇子挽歌は更にそれ以上の149句で、万葉集中最長である。そうした長編歌が可能であったのは、やはり柿本人麻呂が文字で歌を書く歌人だったからであろう。口から出る歌では、これほどの長さの作品を構成することは、出来ない。

2-199 柿本人麻呂 高市皇子の城上(きのへ)の殯宮(もがりのみや)の時に、柿本人麻呂

      が作る歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木(まき)立 不破山超えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の 仮宮に 天降(あも)りいまして 天の下 治めたまひ 食()す国を  定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまへば 大御身(おおみみ)に 太刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率 ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角(くだ)の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡(はた)の靡(なび)きは 冬ごもり 春さりくれば 野ごとに つきてある火の風の共(むた) 靡くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ 冬ごもり 春さりくれば つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏しこく 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも露霜の 消なば消ぬべく  行く鳥の争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲の 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わが大君の天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 木綿花(ゆうばな)の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねそす 日のことごと 獣(しし)じものい匍(いわ)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば  大殿を 振り放()け見つつ  鶏(うづら)なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(はぶ)り (はぶ)りいまして あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代(よろづよ)と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に過ぎむと思へや

天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども

心に掛けるだけでも勿体なく、言葉に出すのも恐れ多い。明日香の真神の原に御殿を、恐れ多くもお定めになって、神として岩戸にお隠れになった我が大君(天武天皇)、お定めになる背後の国は不破山を越えた所にあって、仮の御殿を立てて天下を治め給う。諸国を平定すべく、東の軍勢を召し集め、人々を和らげ、従わぬ国を平定せよと皇子に託された。

皇子は大君に代わって尊となり、太刀を佩いて御手に弓をかざして軍勢を統率された。太鼓の音は、雷の声とまごうばかり、角笛は敵に向かって虎が吼え、人がおののく咆哮とまごうばかり。兵士たちの持つ幡が靡く様子は冬明けの春の野火の様に、風にあおられて拡がるとまごうばかり。また兵士の弓の弓弭(ゆはず)のがさがさいう騒音は、雪が降りそそぐ林につむじ風が巻き込んだかと思うほど、聞くも恐ろしい。更に引き放つ矢の多さは大雪が降り来るようなので、降伏しない者は立ち向かって、朝露のように消えてしまえとばかり争う。時に渡会の伊勢神宮から神風が吹いてきて、敵を惑わせ敵に日の目を見せず、暗闇で覆い尽くした。こうして平定した瑞穂の国(にほん)を、統治しようと我が大君(高市皇子)が天下に向かって宣言した。そこで統治するようになるだろうと、木綿花(夕はな)のように、白く美しく栄えていらっしゃった。

そんな折に大君(高市皇子)の御殿を、霊宮として飾り付けることになってしまった。皇子に仕えていた人々も、白い麻の喪服を着て、埴安の御門(皇子の御殿)に集まって、昼は昼で獣のように腹ばいになって悲しんだ。夕方になればなったで、御殿を振り仰ぎ、うづらのように這いまわってお傍に仕える。けれどもそれではどうしようもなく、春鳥の様にさまよう嘆くばかり。その嘆きも静まらず、悲しみは尽きぬのに、言葉もうまく出てこない内に、百済の原を通って、神として葬り申し上げた。城上(きのへ)ノの宮を、殯宮(あらきのみや)として、高く奉り申し上げ、神としてお鎮まりになった。けれど、大君が万代にとお思いになって作られた香具山の宮、そうならないと考えられようか。天を仰ぐように、振り仰ぎながら、たすきをかけてお偲びしよう。恐れ多いことだけど。

前半は 壬申の乱の叙述である 高市皇子の活躍

この挽歌の前半は壬申の乱を中心としている。壬申の乱の叙述を中心にしている。壬申の乱は天武元年672年、高市皇子が亡くなったのは持統10696年なので、25年も前のことである。しかしこの乱では高市皇子は最も年長の皇子として、天武天皇を補佐し勝利に導いたので、それを高市皇子の

最大の功績として描くことから述べ始める。

真神の原は浄御原と同じ場所で、飛鳥の中心部、飛鳥寺や飛鳥宮のある場所である。天武天皇は近江大津宮から、ここに都を戻し即位したのである。なので、このやすみしし 我が大君は天武天皇である。

天武天皇は15年の治世の後、崩御して飛鳥の檜隈(ひのくま)大内陵に葬られた。

叙述は壬申の乱の始まりの時点にさかのぼる。お治めになる巨木の立つ不破山を越えた仮宮(今の関ヶ原)に降臨され、天下を治め領土を平定しようと、東の国の兵士たちをお召しになり、荒々しい人々を治めよ、従わない人々を平定しせよと高市皇子に委任された。ここには古代から不破の関は設けられていた。高麗剣は、朝鮮半島時の剣の根元に輪がついていて、和射見(わざみ)の枕詞になる。鶏が鳴くは、東国の方言が分かりにくくて鳥が鳴くようだと表したものされている。壬申の乱の

記述は日本書紀の巻上に述べられたことと一致する所と、ずれている所がある。

 日本書紀による壬申の乱

日本書紀によると吉野を出た大海人皇子は伊賀で、大津から脱出してきた高市皇子と落ち合っている。その後一行は、伊勢の桑名に落ち着き、高市皇子はここから不破に派遣される。それは美濃の兵士三千人が味方になり、不破関を塞ぐことに成功したという知らせを受けてのことである。又後には尾張の国守が二万の兵を率いて帰順する。これは

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひてと一致する。

東の指す範囲は諸説あるが、不破関を境に先の美濃や尾張を含めて呼ぶと思われる。

高市皇子は不破関に着いた後に、やはり桑名は遠く不便だとして、大海人皇子にこちらに来るように要請する。

大海人皇子はそれに応じて不破関に近い所に移り、そこを本拠とする。

大海人皇子が近江朝廷では大臣他、多くの優れたものがいるが、私には謀をする者が無く、ただ幼い子供達がいるだけだ。どうしたらよかろうと弱音を吐くと、高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、近江の群臣が幾ら多くいても、なんで大海人皇子の霊力に抵抗出来ましょうかと励まし、私とは神々の力により、大海人皇子の御命令を受けて、将軍兵たちを率いて戦います。敵は私達を防ぐことは出来ないでしょうと言う。喜んだ大海人皇子は、高市皇子の手を取り、背をなでて、決して油断するな、と励ました上で、軍事を全て預けるとして全軍に号令をかける。

 

挽歌は、こうした偉大な父・天武天皇の事績がまず述べられ、その委任を受けるものとして高市皇子がようやく登場する。

高市皇子の活躍の場面に移る。まず皇子の雄姿である。体には太刀を佩いて、手には弓をもって

兵士たちを率いる。次に皇子によって統率された軍勢の働きが続けて述べられる。冬ごもりは、春に掛かる枕詞。一斉に打ち鳴らす太鼓の音は、雷の音を聞くようだ、吹き鳴らされるラッパの音は、虎が吼えている様に、兵士たちが差し上げる幡の靡くさまは、春になって野原全体につけられた火が、風になびくように、軍勢の持っている多くの弓の弓弭(ゆはず)の音は、雪の降る冬のように、つむじ風が巻乍ら渡っていくかのように、聞いていて恐ろしく、それで放たれる弓の多いことと言えば、まるで大雪のように飛んでいく・・・・・・高市皇子の活躍の描写である。

更に、日本書紀による瀬田橋の決戦の模様である。 中国の史書の借用

大伴皇子ら近江朝廷の軍は、橋の西に陣取り、その大軍であることは、軍勢の後ろの方が見えない程であった。兵士のあげる土埃は天に及ぶほどであった。矢が降り注ぐ様は、雨のようであった。

 

しかしこれは実際に戦場を見て書かれたものではない。後漢書の洪武帝記には、これと同じような

合戦の様子が書かれている。この描写を日本書紀は借用している。日本書紀は、中国の史書の

パッチワ-クと言っても、過言ではない。

この様な表現の利用は盛んに行われていた。先程読んだ高市皇子挽歌の戦争場面もこれによく似ている。それは、柿本人麻呂も漢書に親しんでいることを感じさせる。近江荒都とかも、テーマも表現も詩に近かったことが思い出される。漢字を使って歌を書く柿本人麻呂は、漢籍に通じていたことは

間違いない。しかし、柿本人麻呂の作品は単に漢籍のパッチワ-クに終わらない。柿本人麻呂は

高市皇子率いる天武側の勢いを描いている。それは神の意志を背負った軍勢なのである。 

 再びの柿本人麻呂の天武天皇讃歌の部分  柿本人麻呂は実意の叙述よりイメ-ジ先行

まつろはず 立ち向ひしも露霜の 消なば消ぬべく  行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲の 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして 従わず立ち向かった者たちも、露や霞のように消えてしまうように、飛んでいく鳥が先を争うように伊勢神宮からの神風に吹き惑わされるように、陽の目も見えないようにを真っ黒に覆って平定した、この瑞穂の国を神のご意思のままにお治めになって・・・・

そしてこの文章の主語は、再び天武天皇である。この挽歌の最初は高市皇子の雄姿であったが、

最後は神の力が神風と闇で従わないものを一掃したのである。

日本書紀によれば、天武天皇は途中の伊勢で天照大神を遥拝している。そしてその後、多くの軍勢が味方に付き、殆ど単身で吉野を脱出しながら優勢に転じている。大伯皇女を斎宮として遣わしたのは、その例であると共に、天皇が天照大神の子孫である、神意を追うものであるという事を象徴的に表す為であった。

天武天皇は軍事を高市皇子に任せた後、激しく雷雨になった後、天地の神々が我を助けるのであれば、この雷雨はやむであろうと予言し、果たしてたちどころに止んだと記録されている。この歌でも

天武天皇は、和射見(わざみ)が原の 仮宮に 天降(あも)りいましてと天下る存在であり、平定したのは瑞穂の国と神話的に呼ばれる国なのであった。全体として、神の意志そのままに、国を治めたと言っているのである。なお先の記述には、冬ごもり 春さりくれば・・・・、といったように譬喩ながら、早春や冬の風景が用いられ、荒涼とした戦場の風景を強めている。しかし、実際の戦いは6月~7月の事で、柿本人麻呂はやはり事実よりもイメ-ジを優先させていることが分かる。

壬申の乱が平定されて、高市皇子が死去するまでの部分の描写

やすみしし わが大君の天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと

木綿花(ゆうばな)の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣(しし)じものい匍(いわ)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば  大殿を 振り放()け見つつ なす 鶏(うづら)なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば (こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(はぶ)り (はぶ)りいまして あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ

ここのやすみしし わが大君は、高市皇子のことである。これまで見てきた歌では、この言葉は天皇を表すだけであったが、柿本人麻呂はこの天武天皇の皇子についても使っている。高市皇子が天下の政治を行うので、いつまでもこのような安定した世の中が続くだろうと、万事が木綿の花のように栄えている時であったと述べている。天武朝では、壬申の乱での功績がまず重んじられていた。見事に

責任を果たして勝利した高市皇子が、勿論最大の功労者である。

 高市皇子の序列

例えば、天武5676年正月に、天皇が臣下達に物を賜った時には、高市皇子より以下小錦(しょうきん)以上で、前つ君と言う云い方がされている。小錦は当時の位で、大宝律令では五位に当たる。しかし高市皇子は天武天皇の一番年長の皇子であったが、母は宗像の君という福岡宗像出身の豪族の娘であり、日本書紀で紹介される天武天皇の皇子皇女の中で、下の方に置かれている。天武85月の吉野行幸で、天武天皇、皇后が誓いを立てた6人の中に、高市皇子は勿論入っている。天武は6人を同じ腹から生まれた様に平等に扱うと誓いながら、差別化に異を唱えさせないための布石とするのであった。天武10年には、草壁皇子を皇太子とし、天武14年、位階を改めた時には、草壁は最高位、大津皇子は一つ下、高市皇子はもう一つ下と、皇子たちを明確に差別化している。天智天皇の皇女を母としている草壁皇子、大津皇子の下に位置づけられた高市皇子であったが、大津皇子は天武天皇崩御直後に、謀反の罪で刑死した。草壁皇子も持統3689年に28歳で亡くなる。結局高市皇子は序列上の二人が消えて、トップになってしまった。690年正月持統天皇が即位すると、その年の7月に太政大臣に就任する。太政大臣はかって、天智朝末期に大友皇子が就いた地位で、臣下としては

これ以上ないという地位である。

やすみしし わが大君の天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと木綿花(ゆうばな)の 栄ゆる時に

壬申の乱を指揮して勝利した英雄が、天下の政を見ていらっしゃるので、万代にわたってこの様であろうと木綿の花のように栄えてきたのに で暗転する。こうした間違いのないと思われた繁栄から一気に凋落するという叙述は、草壁皇子挽歌にも共通する。草壁皇子挽歌では、春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせかと、物事の極みを譬喩に用いることで、その中に兆す影を思わせていたが、ここの木綿花(ゆうばな)の 栄ゆる時にも、似たことが言える。木綿花は木の繊維を漂白したもので作った造花で白く美しいが、神事に用いる飾りである。それは続く葬儀の叙述の呼び水になっている。

皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣着て→我が

大君高市皇子の御殿を神の宮として整えて、お仕えになっていた宮の人々も真っ白な麻の衣を着る。今の喪服は黒が基調であるが、古代では白である。皇子が世を去った悲しみは、使っていた人々の有様を通して表現されている。皇子に近しい人の悲嘆に焦点を当てるのも、草壁皇子挽歌末尾にそこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずもと共通の手法である。

使はしし 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねそす 日のことごと 獣(しし)じものい匍(いわ)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば  大殿を 振り放()け見つつ  鶏(うづら)なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば→喪服を着た宮の人達は、埴安(はにやす)の 御門の原で、昼間は一日中這いまわって、主君の御命令をお待ちするが、その甲斐もないので、春の鳥のように悲しみに呻き、嘆きも消えず、思いも尽きないのにと述べられる。埴安は香具山の西の麓、そこに高市皇子の家があり、その一帯を御門が原といった様である。春鳥の さまよひぬればのさまようは、今と大きく意味が違い、嘆きのあまり声にならない声をあげる事を言う。そうしてまだ悲しみが収まらない内に、皇子は宮を去り城上(きのへ)の宮に移ることになる。

(こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(はぶ)り 葬(はぶ)りいまして あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ  城上(きのへ)の宮がどこであるかは諸説あるが、通過する百済原桜にあった百済の大寺の辺りとすれば、その付近とするのが良いであろう。百済原を通って城上(きのへ)の宮を永久の宮として高く作り申し上げ、皇子はそこに神のご意思のままに鎮まってしまわれた。

長歌の最後の部分 しかれども 我が大君の 万代(よろづよ)と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども

 宮は永久であると歌う意味

最後は皇子不在となった香具山の宮に叙述が移る。皇子が城上の宮に鎮まってしまわれた。しかし我が大君・高市皇子は永久に続くように思われて、御作りになった香具山の宮は、何万代も消えることはないであろう。天空のように振り仰ぎながら、心を懸けて偲んでいく事であろう。生前の宮に言及することも、草壁皇子挽歌と共通している。

草壁皇子挽歌の第一反歌は、ひさかたの (かみ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しもであった。高市皇子挽歌の天のごと 振り放け見つつは、その反復と言っても良いであろう。そして万代(よろづよ)と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に過ぎむと思へや→永久の宮として作られた香具山の宮は永久に消えないであろう。時が経れば人の作ったものは荒れる、自然に戻ってしまう。いつまでも人の力で維持しなければならない。それは高市皇子の事をその宮を見ながらいつまでも偲ぶことであるから。香具山の宮は永久であると歌われるのは、草壁皇子挽歌と高市皇子挽歌との間に、藤原宮への遷都があったのが大きいのではないか。694年持統天皇8年の事である。天武朝から計画は進められていた。藤原宮は永久なものとして作られた様に、香具山の宮も永久に使われるはずであった。

 

反歌二首

2-200 柿本人麻呂

ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋わたるかも

天をお治めになるはずであった大君。いつの間にか月日は流れていくが、私達臣下はずっと皇子をお慕いしています

 

天に上られた皇子の君を、その為に月日が経つのが分からない程、いつまでもお慕い続けることだ。長歌では城上の常宮に鎮まりましぬという所で終わっていたが、この歌では更にそこから天上にお渡りになったとされている。それでもあの立派な方は永久にお慕いしないではいられないと言っている。

2-201 柿本人麻呂

埴安の 池し堤し 隠(こもり)()の 去方 (ゆくえ)を知らに 舎人は惑ふ

埴安の池の堤で囲まれた隠沼の水の行方を知らないように、どうしてよいのか舎人達は戸惑っている

 

埴安の池は、香具山の麓にあった貯水池で、堤が築かれていた。そこに溜められた水の行方は行き場が無くてどんよりと濁って、静まり返っている。それを序詞として、もう皇子の御命令もなくどうしてよいか分からない舎人達の戸惑いを表現している。

 異伝の存在

高市皇子挽歌にも多くの異伝、注記があって、違うバ-ジョンがあったことが知られている。恐らく複数回の発表機会があったのであろう。

高市皇子は皇太子に準ずる立場

読んで来た挽歌の題詞 高市皇子の尊という呼び方は、日並皇子と同じく、他の天武天皇皇子とは異なる。しかし準ずる存在は準ずるに留まり、高市皇子が正式に皇太子になることはなかった。持統天皇が先に崩御すれば即位の可能性はあったであろう。しかしそれより前、持統10年に高市皇子は亡くなった。

草壁皇子挽歌と高市皇子挽歌は、天武天皇を前提に置いて歌うことが共通している。しかし草壁皇子は天の下知らしめすものとして歌われ、高市皇子は天の下まほし給ふものとして歌われ、草壁皇子は歌の中で皇子の命と歌われるが、高市皇子はそうは呼ばれない。高市皇子の壬申の乱での活躍は、あくまでも臣下としての功績である。草壁皇子挽歌にそうした部分は見られないのは、草壁皇子が無能だったからではない。皇位はその能力ではなく、血の貴さによって継がれていくものだというのが、新たに作り出された理念であった。柿本人麻呂はその理念に沿って、高市皇子挽歌を歌っている。そしてその活躍を讃える言葉の最後には、血の論理によって即位を阻まれた高市皇子の悲運がある。

その悲劇性は次の時代にモチ-フとして受け継がれていく。

 

「コメント」

 

今までで一番長かった。長歌は萬葉集中で最長であった。長歌はもう沢山の気分。高市皇子も持統天皇の強い意志で挽歌を作って貰った。よく頑張ってくれたとも感謝もあったであろう。でも持統天皇は自分の血に拘って、関係者は大苦労するのがその後。