220723⑯「安騎野の歌と人麻呂の連作 巻1

今回も柿本人麻呂の歌を扱う。前々回は日並(ひなみし)の命と呼ばれた皇太子・草壁皇子の挽歌。前回はその後に皇太子に準ずる太政大臣であった高市皇子の挽歌を読んだ。今回の安騎野の歌とは、正しくは軽皇子安騎野に宿る時に、柿本人麻呂が作る歌という題で、軽皇子は草壁皇子の子である。軽皇子は、高市皇子が持統天皇10696年に亡くなった後、翌年の2月に皇太子になり同じ年の8月に、持統天皇から譲位されて文武天皇となった。

この作品は文武天皇がまだ軽皇子と呼ばれたころの歌という事になるが、やはり非常に政治的で草壁皇子、高市皇子二人の皇位継承資格者の挽歌と深く関係している。

作品は長歌一首・巻1-45と、4首の反歌1―4649からなる。

1-45 柿本人麻呂 軽皇子安騎野に宿る時に、柿本人麻呂が作る歌

やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を過ぎて 隠口(こもりく)の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしえ 思ひて

我が大君・日の御子は神のまま神々しくいらっしゃる。その御子は太く立派な御殿におられるが、そこからお出掛けになられた。険しい初瀬の山は木々がそそり立つ荒々しい山道。遮る岩や木々を乗り越え、押しのけて進まれる。朝を超えてこられ、夕方には雪が降る安騎の大野に、旗のようになびくススキや小竹を押しのけて旅寝をなさる。遠い昔を偲んで

 此の日の御子・軽皇子は、草壁皇子の子である

安騎野は現在の奈良県宇陀市大宇陀にある式内社・安騎野神社のある所である。そこに軽皇子が宿泊した時に、柿本人麻呂が作った歌という題である。この歌で先ず注目されるのは、最初の4句である。

やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子は、軽皇子を指している。やすみしし 我が大君は、万葉集中全部で27回使われ、その内22例までは天皇を指している。しかし前回高市皇子挽歌で見たように、高市皇子に対してもこの言葉は使われていた。その他、長(ながの)皇子、弓削皇子、新田部皇子、という天武天皇の皇子に対しては、此の呼び方が見られる。軽皇子は御子と呼ばれているが、実は天皇の子ではなく、皇太子のまま亡くなった草壁皇子の子である。父親が即位していなくても、非常に有力な皇子であるならば、御子と呼ばれる例はある。ともあれ、天皇でもなく天武天皇の皇子でもない軽皇子に、この言葉を使うのは例外である。

 光ると照らす

高照らす 日の御子は、更に例外である。この表現は万葉集中、7例ある。この例以外は全部天皇を指している。草壁皇子挽歌を読んだ時に、高光る日の御子という表現が出てきて、これが高照らす 日の御子の元になったと述べた。結論で言うと、高照らす 日の御子は、それまでの高光る日の御子よりも格の高い、天皇に対する称号として新たに作られたと思われる。照らすは光るより強い光を表すのである。光るとは言うが、星が照らすとは言わない。最初の使用例は柿本人麻呂の高市皇子挽歌で天武天皇を天から下された神の命と歌う中で用いられた。恐らく、柿本人麻呂の作り出した表現と思われる。天皇を皇子たちに対して別格とするための表現を、ここで柿本人麻呂は天皇の子でない軽皇子に対して用いるのである。極めて特別な事と言わざるを得ない。

 神ながら神さびますと→神のご意思のままに神々しくいらっしゃる

その次の神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を過ぎてそうである。神々のご意思のままに神々しく振舞われるとて という意味である。これは吉野讃歌巻2-38に見えた。持統天皇が「神々のご意思のままに吉野に高殿をお建てになり、国見をなさると国つ神達が寄り添って奉仕をする」という文脈である。ここも同様に「神々のご意志のままに、都をおいて狩りの野に出掛ける」というのである。

 太敷かす→ 太い柱の立派な宮

持統天皇と同様、軽皇子の行動も神意を背負ったものとされるのである。太敷かすは太い柱の宮を立てて、君臨することを言う。これは亡き草壁皇子が、殯宮を真弓に立てる事に用いたりしたが、やはり原則的に天皇に対して用いる言葉である。意味は軽皇子が都に立派な宮を建てているというのであろう。この世にいる御子に用いるのはやはり特別。

軽皇子は都を離れて安騎野に向かう。

隠口(こもりく)の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥の 朝越えましては、途中の初瀬の山は、巨木の立つ荒々しい山道を、岩や邪魔な木々を押しのけて、坂を越えていく鳥のように、軽々と朝の内に越えていらっしゃる と歌っている。そうした山道をものともせず、障害はことごとく軽々と越えていく。これは国つ神を従わせる天津神のような業である。夕方には安騎野に到着する。

  夕方に安騎野に到着する

玉限る 夕去り来ればみ雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしえ 思ひて玉限るは、キラキラした光を放つものに対する枕詞。ここでは夕に掛かっている。夕方になると雪の降る安騎野にススキや篠竹を押し分けなびかせて、古を思いながら旅宿りをなさる。これだと、御子自ら野宿をするような表現であるが、安騎野からは建物の跡が発掘されていて、実際には宿泊施設があったとされる。最後のいにしえ 思ひてとあるのは、何を指すのであろうか。これは歌の中で次第に明らかにされていくのであるが、軽皇子の父・草壁皇子がこの世にいた頃の事と思われる。草壁皇子を悼む舎人達の歌の中に、

けころもを 時かたまけて 出でましし 宇陀の大野は 思ほえむかも 巻2-191

けころもは、毛皮の衣。時かたまけては、準備して待つこと。→毛皮を着る春や冬を待ちかねて、お出掛けになった宇陀の大野が偲ばれるだろうな。宇陀の大野は、安騎野と同じなので、草壁皇子のなじみの土地であった。亡き父を偲びながら、軽皇子は旅宿りをなさるというのが、長歌の最後の部分であった。

 次に反歌4

1-46 柿本人麻呂 軽皇子が安騎野に宿る時に作る歌 1

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寝も寝()らめやも いにしえ思ふに

安騎野に泊まった一行は、草木が靡くように横になって眠っているのであろうか、いや眠れないであろう。いにしえを思って。

長歌は軽皇子を主語として歌っていたが、この第一反歌は、安騎野に宿る旅人と軽皇子だけでなく、お供のものも含めて、一行全体を主語としている。同時に長歌が朝から夕まで、都を出て安騎野に宿るまでを述べているのに対して、この歌は寝る時間、夜へと進んでいることが注目される。

寝らけめやも ぬ→寝るという動詞、らめ→現在推量、やも→反語である。いにしえは、長歌のそれと同じく草壁皇子が生きていたころの事である。かっての皇太子・草壁皇子を偲んで厳粛な気持ちで眠れないのであろうと推測するのである。長歌の最後に歌われたいにしえに対する、軽皇子の思いが旅人全体に広げられている。

 

1-47  柿本人麻呂 軽皇子が安騎野に宿る時に作る歌 2

ま草刈る 荒れ野にはあれど 黄葉(もみじば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

黄葉の季節は過ぎて、雑草を刈らねばならないほどの荒れ野ですが、あの方を偲んでこの地にやってきました。

君というのは草壁皇子。黄葉は楓、イチョウのような今でいう黄葉ばかりではなく、色が変わって落葉するもの全てを指している。万葉集ではもみじは黄葉と書くのが普通で、枯葉まで含んでいる。そんな黄葉を比喩的枕詞として、枯れ葉が枝を離れて、どこかに去っていくように世を去って行った人として、軽皇子の父・草壁皇子を表したのである。いにしえがより具体化されたことになる。

 

1-48  柿本人麻呂 軽皇子が安騎野に宿る時に作る歌 3

(ひんがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

東の開けた野に光が立ち上るのが見える 振り返ると西空に月が輝いている

万葉集の名歌として教科書にも載っているが、大変難しい歌で、これだけ取り出して中学生高校生に教えるのはどうかと思う。まず読み方からして問題がある。この歌は江戸時代までは、東野(あづまの)の 煙の立てる所にて 返り見すれば 月かたぶきぬ と読まれていた。平安時代の読み方を教える写本には、訓のついていないもの多い。本文の書き方が特殊で、意味を読めなかったのであろう。例えば、月かたぶきぬ と現在読まれている最後の句は、 月西渡 と三字で書かれていて、江戸時代の契沖は 月西渡る と読むべきといっている。今、一般的に読み方になっているものを提唱したのは、江戸時代中期の国学者賀茂真淵で、その読み方が広まって、現在に至る。

しかし、これには文法的な問題があって、問題をクリアした形で述べた。しかし江戸時代の読み方に戻るべきではないかという意見もあって、最近出た岩波文庫本では、「東の 野らに煙の 立つ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ」採用している。煙・かぎろぃと読まれているのは、実は ほのお と訓読みする 炎である。この字は、万葉集の中で他に、けむりと読むべきでも、かぎろひと読むべきでもどちらも存在している。舒明天皇の国見歌でも述べたように、 けむり は基本的に人が立てるものだと思う。軽皇子が来ているこの安騎野で、人が煙を立てるようなことがあるであろうか。月が傾いているという最後の句に相対するのは、やはり自然現象と考えたい。ならば かぎろひ の方が、勝ると思う。かぎろひ は、他の例では春の物で み雪降る 安騎野 とは合わない。疑問は残るが、ここでは 東の野では、上がった朝日が当たって、かげろうが立つのが見え、振り返って見ると月が西の空に傾いている と訳しておきたい。

 この歌の意味 西に沈む月は亡き草壁皇子、東のかぎろひは、軽皇子を意味するのでは。

更に問題なのは、その景のあらわす意味である。教科書などでは、雄大な景歌という事で済ませているが、長歌を読み進めてきた時、ただ朝の情景を写生しただけではないという事は明らかである。東にはかげろうが立ち、西には月が沈もうとしている。そこに連想されるのは、柿本人麻呂の草壁皇子挽歌の代に反歌 1-169 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しむ

日は照っているけれども、夜空に照っている月が雲にかくれるのは惜しいというのは、日には天皇、月は皇太子だった草壁皇子が寓意されていることは確かであろう。草壁皇子が世にあったいにしえを思い、黄葉のように世を去った君の形見として、ここにきたのであれば、西に傾く月はやはり草壁皇子なのではないか。そして東に上がる日によって立つかぎろひは、若き軽皇子ではないだろうか。

 

1-49  柿本人麻呂 軽皇子が安騎野に宿る時に作る歌 4

日並(ひなめし) 皇子の尊の 馬並めて み狩り立たしし 時は来()向かう

日の御子が馬を勢揃いさせて狩りをなさるときが来た

  日並皇子の説明 皇太子の特別な称号 軽皇子は草壁皇子の再来と位置付けられていく

終に草壁皇子が歌の詞の上に登場する。日に並んでいた皇太子が馬を並べて、狩りをなさった時が来てしまったというのである。草壁皇子の別の呼び方が、日並皇子で、この歌はその呼び方で読んだと考える。確かに草壁皇子挽歌1-167

題詞に 日並皇子の殯宮の時にとあるし、大津皇子との恋争いの所、巻2-110 題詞に日並皇子の尊 石川女郎に贈りものをする時の一首 このように日並皇子という呼び方があったのである。しかしそれは当然草壁皇子が亡くなった後、天皇に並ぶ存在であったという意味で付けられたのである。その元になったのは、この歌なのではないかという説がある。

日に並んでいた皇子と初めて表現したと考えられる。皇子の尊は皇太子を呼ぶ特別な称号であるという事は前に述べた。

日並皇子が皇太子草壁皇子であることは間違いない。その人が、馬並めて み狩り立たしし 時とは何か。→それは草壁皇子が安騎野に出掛けた時に相違ない。それは過去の事であるにも拘わらず今、来て向かい合っているという。それは草壁皇子の子、軽皇子が草壁皇子と全く変わらない姿でそこに立っているからではないか。いにしえを思って、その荒野にやって来た旅人他は、このいにしえの光景をまざまざと目にしたのである。こうして長歌から反歌4首を通じて、古が次第に肉付けされて行く一方、軽皇子は草壁皇太子の再来としての姿を明らかにしていくのである。

だとすれば長歌の最初に、やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子と原則的には天皇に用いる称号を軽皇子に使っていることもそれに関わるのである。の長反歌は軽皇子を皇位に押し上げる歌なのである。

 軽皇子の皇太子選定の際の葛野(かどの)王の働き 

この歌の背景となるようなことは、懐風藻の葛野君伝にある。葛野王は壬申の乱に敗れて死んだ大友皇子の子で、天智天皇の孫。母は十市皇女で、天智天皇と額田王の子。その人の皇太子についての考えである。訳文要旨

高市皇子が亡くなった時、持統天皇は重臣たちを集めて、皇太子を定めようとした。その時、群臣は自分の好みを述べ立てて、議論は纏まらなかった。葛野王は進み出て、我が国の決まりは、神代以来子・孫という順で皇位を継いでいる。もし兄弟に及ぼしたらそこから乱れが起きるであろう。天の意思を問うと言っても、誰がそれを知り得ようか。逆にこの世の道理で考えるならば、後継ぎは自然に定まる。このほかに誰が口をはさめようか。と、申し上げた。その時、弓削皇子が何か言おうとした。しかし葛野王が声を上げ、それで黙らせてしまった。持統天皇は、葛野王のその一言が、国を定めた事を誉め、特に式部卿に任じた。

しかし兄弟間継承が乱の始めというのは、その通りであるが、むしろそれで騒乱が起きるのが伝統であって、直系相続が伝統だとはとても言えない。現に天智天皇の後は、同母弟の天武天皇が壬申の乱の結果、即位している。皇位継承の地位は、草壁皇子の死去で、高市皇子に移っている。ならば高市皇子から別の天武天皇の皇子に移ってもいいはずである。弓削皇子が言おうとしたことも見当がつく。弓削皇子の兄、長皇子たちも皇位継承の資格はあるはずだと言いたかったのであろう。それを葛野王が大声で黙らせた。

それが出来たのは、葛野王こそ壬申の乱が大津側の勝利になれば、天皇になっていたかもしれないからである。しかし、敗者の子として、天武・持統朝では低い官位に留まらざるを得なかった。それだから、説得力があったのである。

そしてそれは自分の孫に皇位を継承させたいと考える持統天皇の意を迎える事でもあった。柿本人麻呂の歌も持統天皇の意志に沿ったものという事が出来る。 

  軽皇子に天皇並みの呼び方をする理由

亡くなった皇太子の子でこそあれ、天皇の息子でもない軽皇子に対して、天皇並みの呼び方を用い、最後に皇太子の再来のように描くのは、軽皇子即位への布石である。この安騎野の長反歌は、持統6692年の冬とするのが一般的である。それは後に見る伊勢行幸の時の歌が前に置かれていて、これが持統6年の春であり、後に置かれているのが、持統7年、8年の藤原京遷都に関わる歌だからである。安騎野の歌は高市皇子が太政大臣として在位している間は、少々無理がある表現とも考えられるからである。軽皇子は持統6年にわずか10歳、持統10年でも14歳。立太子は15歳の時。草壁皇子が立太子したのは20歳で、28歳で即位せずに亡くなったので、軽皇子の立太子は早いものであった。

皇太子の再来、高照らす日の御子、天武天皇の再来というイリュ-ジョンを作り出す必要があったのである。長歌と4首に及ぶ反歌という規模は、その為に必要とされたのである。この特徴は長歌で、都から安騎野に至る夕までの行程、第一反歌の夜、第三反歌の朝、そして第四反歌の狩りの時と、歌の進行に従って時間も変化している。その時間の中でいにしえの草壁皇子の狩りは、映像として人々の心の中で具体化されていき、遂に軽皇子の狩りの姿として立ち現れた訳である。その時間の進行はその時点・時点で歌った結果、自ずから出来上がったというようなものではないであろう。歌われたこと実際に起こった事柄かも知れないが、しかしその事柄を取り上げて歌にするのは、決して無意識に出来る事ではない。歌を並べてその時を映していく事によって、時間の進行を作り出しているのである。フィクションとして作られた時間といってもいいであろう。

 長歌と反歌を並べることによって時間差を作る事 連作

以前、吉備津采女の挽歌 巻2-217219を読んだことがあった。采女が密かに夫を持ち、世をはかなんで川に身を投げたのを悼む歌があった。その長歌は、夫の嘆き悲しみを想像しているので、采女が亡くなった当時に、身を置いて歌われている。しかし反歌二首は、采女を志賀の子、大津の子と呼び近江大津宮時代の悲劇であったことを明かしながら、今ぞ悔しきと振り返る事で、今と大津宮時代との時間的距離を作り出している。これも長歌と反歌の間に、時差を設定することで持統朝から大津宮時代を回顧することを可能にしている。このように複数の歌を連ねる事によって、一首一首の積み重ね以上の意味を持たせる作品を、連作と呼ぶことが出来るであろう。柿本人麻呂の場合は、フィクションとして作品内に時差を作ることで、連作の効果を挙げている場合が多い。但しこうした連作も、いきなり現れたものではない。その方法を用いるきっかけとなったと言われる作品が巻1-4042.

 

1-40 柿本人麻呂 持統天皇伊勢の国に出でます時に都に留まれる柿本人麻呂が作る歌 1

鳴呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉裳の裾に 潮満つらむか

あみの浦に船乗りしている乙女たちの、玉裳の裾に潮が掛かって綺麗だ。潮が満ちてきたのだろうか。

舟遊びをする女官たちの美しい裳の裾に潮が掛かっているだろうが、赤い裳が濡れて色が照り映えるさまは、水辺の見物の一つであった。特に伊勢の海は、万葉人が馴染みの瀬戸内海と違って、風が強く浪も荒い。その波しぶきが掛かって女性たちが騒ぐ様子までが、目に浮かぶようである。楽し気な行幸への憧れが表現されている。

 

1-41 柿本人麻呂 持統天皇伊勢の国に出でます時に都に留まれる柿本人麻呂が作る歌 2

(くしろ)着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

飾り立てた釧のように、美しい答志の崎。今日も大宮人が玉藻を刈り取っていることだろうか。

答志は、現在の答志島。(くしろ)着くは、それに就く枕詞。今日もという所に、待ち遠しさが表れている。もう大宮人達が行幸について行って何日になるだろうかといった所。

 

1-42 柿本人麻呂 持統天皇伊勢の国に出でます時に都に留まれる柿本人麻呂が作る歌 3

潮騒に 伊良(いらこ)の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)

潮が騒ぐ伊良湖の島の辺りを漕ぐ船に、彼女は乗っているだろうか。あの荒い島のあたりを。

伊良(いらこ)の島は、鳥羽と伊良湖岬との間、伊良湖水道に浮かぶ上島の事といわれる。三島由紀夫の「潮騒」の舞台。妹は愛しい女性の呼び方だが、ここでは特定の女性を心配しているのではなく、それに代表させて一行の危険を慮っているのであろう。

 

三首は全てらむという助動詞を用いて、行幸の有様を想像しながら、都から遠ざかっていく一行に、最初はあこがれ、次には待ち遠しさ、最後に危惧という次第に変化する心情を歌っている。それは行幸の行程に則ったものであるが、やはり連作といってよいであろう。そして、こうした歌の製作が、

安騎野の歌のような高度な連作を準備したのではないか。

安騎野の歌に寿がれ、15歳で即位した軽皇子、文武天皇であるが、わずか25歳で崩御する。皇位継承は、又危機に直面するのであるが、それは次の話になる。

 

 長歌に反歌があるのは

4首という反歌の数は柿本人麻呂の反歌の中で最も多く、万葉集中でもこれを越えるものは山上憶良の5首、6首の作品がそれぞれ一つずつあるだけである。初期万葉の長歌は舒明天皇の国見歌、額田王の春秋判別歌、山科御陵退散の歌など反歌を持たない作品が多く、反歌がつくのは中皇命の宇治野の狩りの歌や額田王の三輪山の歌など僅かである。

柿本人麻呂の作品は必ず反歌がある。技法も展開し、定型にしていったことが伺われる。

 

「コメント」

万葉集の一つのハイライト。草壁皇子、軽皇子。持統天皇の思いがひしひしと伝わってくる感じ。軽皇子の皇太子選定の時、葛野王の意見。藤原不比等の事前の入れ知恵説があるが、

何もなしにはこうはいくまい。無茶でも屁理屈でもなんでも言った方が勝ちか。