220903㉒「天武天皇子女の歌 巻2

12回から19回まで、8回にわたって柿本人麻呂の作る歌、人麻呂作歌を読んだ。続いて、20回、21回と二回にわたって柿本人麻呂歌集に載っている歌々について話した。長かったがそれだけ柿本人麻呂歌という歌人は、万葉集にとって特別な歌人なのである。

 山柿の門 とは  柿本人麻呂の存在

後に万葉集の編纂者と思われる大伴家持が、自分は幼い時に山柿(さんし)の門に至らなかったので、和歌が拙いのだと巻17-2969についている手紙に書いている。その山柿が誰を指しているのかは議論があって、柿は柿本人麻呂に違いないとして、もう一方の山は山部赤人か山上憶良などと言われる。しかし私は山柿で柿本人麻呂一人を指しているという万葉学者 芳賀紀雄 の説に賛同する。山部赤人も山上憶良も奈良時代の歌人であり、一方人麻呂には奈良時代の歌はない。人麻呂と赤人を並べるのは古今集の序であるが、この講義の最初に述べた様にそれは奈良の帝の時代に共に活躍したという時代錯誤の言説なのである。赤人や憶良とは時代が重なっている時期のある大伴家持が、この様な認識であるはずはない。又赤人や憶良が人麻呂と並ぶ高名な歌人だとしたら、幼い頃それと知りながら入門し指導を受けなかったことになる。勿論家持の謙遜の言葉かもしれないが、万葉集の中で和歌のお師匠さんといわれる様な扱いをされているのは、やはり人麻呂一人である。巻7101112と作者を記さない巻が、人麻呂歌集の歌を冒頭に置くのは、それがモデル、見本、手本であることを意味している。旋頭歌や相聞歌、譬喩歌の卑俗で軽い歌が人麻呂歌集の歌に含まれるのも、見本だと思えば理解できる。それに倣って作る人達は、そんなに難しいことばかりを歌う訳ではない。和歌が難しい物では広がり難くなってしまう。こうすれば一通りの歌は出来ますよと示してあげれば、他の人も作り易いのである。

実際、巻1112の出典不明の相聞歌には人麻呂歌集に倣って作ったらしい歌が沢山見える。

 人麻呂と天武天皇の皇子、皇女との関係

本日は人麻呂の同時代人である天武天皇の皇子、皇女の歌を取り上げる。先には人麻呂作歌の草壁皇子、高市皇子に対する挽歌を扱ったし、前々回には巻9に乗る人麻呂歌集に収められた舎人皇子に奉る歌や、舎人皇子自身の歌にも触れた。人麻呂の身分は低かったが、和歌の上では天武天皇に親しく接したようで、歌を指導するという事もあったと思われる。そして皇子、皇女の側でも人麻呂の影響を受けながら歌を作っていた様である。

 皇子、皇女の序列

天武天皇の皇子、皇女は、日本書紀、天武天皇の項に、最初に母の名と共に記されている。それは母の身分による序列に従っていて、実際の年齢順ではない。記載順に並べると、皇子が、草壁、大津、弓削、舎人、新田部、穂積、高市、忍壁。皇女は大伯、但馬、紀、田形、十市、泊瀬部、多喜の7人。

この内、天武天皇崩御の直後、皇太子・草壁皇子に対する謀反の廉で刑死した大津皇子と、その同母姉の大伯皇女の歌は、以前纏めて話をした。草壁皇子の歌もその時に触れた1首しか残されていない。

 

それ以外の子女の歌を見る事にする。

高市と十市

大津と大伯の同母姉弟もそうであるが、異母兄妹の間の歌が多い。年齢順では皇子では、高市、皇女では十市が一番年長と考えられるが、十市の挽歌を作っているのは高市である。

日本書紀によれば、十市は天武天皇7年 678年の4月、山津神、国津神を祀るために、今の桜井市倉橋に設けられた斎宮に行幸が行われる当日、突然発病し亡くなってしまう。その為に行幸は中止となった。

2-156  高市皇子が、十市皇女が亡くなった時に作った歌 1

原文 三諸之 神之神須疑 己具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多

訓読 みもろの 三輪の神杉 い寝()にのみ 見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き

 

2-157  高市皇子が、十市皇女が亡くなった時に作った歌 2

原文 神山之 山辺真蘇木綿 短木綿 如此耳故乍 長等思気伎

訓読 三輪山の 山辺真麻(まそ)木綿(ゆう)  短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき

 

2-158  高市皇子が、十市皇女が亡くなった時に作った歌 3

原文 山振之 立儀足 山清水 酌乍雖行 道之白鳴

訓読 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

 

156  みもろの 三輪の神杉 い寝()iにのみ 見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き 三句、四句己具耳矣自得見監乍共 

三句四句は、実は有名な難訓の部分で、漢字10字に対して何通りもの訓が試みられているが、いまだに結論が出ていない。今は仮に土屋文明の「万葉集私注」の説に従って読んでもらった。その訓に従えば、「みもろの三輪神社の神杉ではないが、夢にばかり見えて眠れない夜が多くなったものだ。」みもろは何度か出てきたように、神の憑代の事で三輪山の別名にもなる。三輪の神杉は、大神神社のご神木の杉の事で、おそらく序詞になって下に続くと思われているが、今の訓ではどう続いているのかはっきりしない。難訓なので致し方ないであろう。

157 三輪山の 山辺真麻(まそ)木綿(ゆう)  短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき

再び三輪山を歌っている。第二句の真麻(まそ)木綿(ゆう)が、麻の繊維で作った飾りで、榊(さかき)に付けて祭祀の際に使った。三輪山の山辺にある真麻(まそ)の結は短い結だ。そのように短い命であったのに、自分は長いものだと思い込んでいた。」

158 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

「山吹が咲いている山の清水を汲みに行きたいが、道が分からないことだ。」山吹は晩春に花をつける植物だが、その山の清水を飾っているというのは黄泉の国を表していると言われる。死者の行く所である。その黄泉の水を汲みに行きたいけれど、道が分からないというのは、黄泉の国に行った十市皇女に会いに行きたいが、その手立てが無いという事である。

 

三首共に非常に暗示的で分からない所のある歌である。第一首、第三首が三輪山に関わるのは、十市皇女が神事に関わっていたからかもしれない。巻1-22 伊勢神宮に十市皇女が参拝する途中、波多横山という所の巌を見て、吹芡(ふふき)刀自が歌った歌がある。川の上の ゆつ岩群(いわむら)に 草生()さず 常にもがもな 常処女にて「川辺の神聖な巌に草が生えないように、いつまでも変わらずにいましょう、永遠の乙女のままで」

それは皇女に対する祈りでもあったが、十市皇女の命は短く終わってしまった。十市皇女の母は額田王で、夫は壬申の乱で敗れて死んだ大友皇子である。息子は高市皇子が亡くなった後、演説して草壁の遺児・軽皇子・後の文武天皇の立太子を推し進めた葛野王。十市皇女と高市皇子の仲がはっきりしないが、壬申の乱後再婚したのかも知れない。父と夫が皇位を争い、夫を死に追いやった天武方の総大将・高市皇子と再婚するというのは想像もつかないが当時の人生であったかもしれない。亡くなった当日の斎宮行幸は、神々に壬申の乱の勝利の礼をする為と考えられ、十市皇女の死は自殺とする説も有力である。

 

次に穂積皇子と但馬皇女。まず但馬皇女の三首を、巻2相聞歌より。

2-114 但馬皇女 高市皇子の宮にいる時、穂積皇子を思い作る歌 1

原文 秋田之 穂向之所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母

訓読 秋の田の穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなむ 言痛くありとも

 

2-115 但馬皇女 穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣わす時に、但馬皇女の作る歌一首

原文 遺居 恋管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢

訓読 (おく)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及()かむ 道の隈廻(くまみ)に 標結へ我が背

 

2-116 但馬皇女 但馬皇女 高市皇子の宮に居ます時に密かに穂積皇子に会い、事既に顕れて作らす歌一首

原文 人事乎 繁美許知痛美 己世乎 未渡 朝川渡

訓読 人言(ひとごと)を 繁み言(こち)()み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る

 

114 秋の田の穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなむ 言痛くありとも

但馬皇女が高市皇子の宮にいるという事は、高市皇子の妻の一人であったという事である。但馬皇女の母は藤原鎌足の娘 氷上娘(ひかみのいらつめ)という人であった。持統天皇4年以降高市皇子は、太政大臣で皇太子に準ずる地位にあったので、異母妹を妻にすることもあった。しかし但馬皇女は高市皇子より若いもう一人の異母兄 穂積皇子に恋していた。

穂積皇子の母は曽我赤兄の娘 大蕤娘(おおぬいのいらつめ)。蘇我赤絵は斉明朝に、孝徳天皇の皇子・有間皇子を陥れた人物で、天智朝では左大臣となり壬申の乱の結果破れて流罪となった。後に天武朝で復活する。大蕤娘(おおぬいのいらつめ)は天武天皇に愛され穂積皇子を生んでいるが、穂積皇子は皇位からは遠かったであろう。

歌は「秋の田に実る稲穂が一つの方向に寄せるように貴方によりそって居たい。どれほど噂が広がっていても。」

115 (おく)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及()かむ 道の隈廻(くまみ)に 標結へ我が背

穂積皇子に勅命が下りて、志賀の山寺に派遣された時、但馬皇女が作った歌という事である。

志賀山寺は、崇福寺といって近江の大津宮の北西にある山の中に、天智天皇が造営した寺である。都が大和に戻っても、引き続き造営された。穂積皇子は何の為に志賀の山寺に派遣されたのかは分からない。

但馬皇女の歌は、「後に残されて恋しく思っているよりは、追って行って一緒になりたい。道の曲がり角に標を結って置いて下さい。恋ひつつあらずは、恋に苦しむよりはいっそ、こうしてしまいたい という定型句である。

116 人言(ひとごと)を 繁み言(こち)()み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る

但馬皇女が高市皇子の宮にいた時、穂積皇子と会って、その事が露見して作った歌である。歌は「人の噂が激しく、うるさいのでまだ我が人生で渡る事の無かった朝の川を今、渡る事だ。」朝川渡るは、何か重大な決断をしたようにも取れる。

しかし柿本人麻呂の吉野讃歌1-36に、舟並()めて 朝川渡るとあったように、朝は人が活動する頃で、むしろ人目に付く恐れがある。人言(ひとごと)を 繁み言(こち)()おのが世に いまだ渡らぬに続くのであり、事が露見したので今はもう堂々と渡るのだと言っている。皇女という立場とブライトがこの様に強い歌い方をさせていると思う。

穂積皇子は霊亀元年715年に一品に登って、その年に亡くなった。

 

穂積皇子の歌には次のようなものがある。

2-203 穂積皇子 但馬皇女(こう)じた後に、冬の白雪の降るに御墓をはるかに望み悲傷流流涕して作る歌一首

原文 雫雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓

訓読 振る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 塞(せき)なきまくに

 

16-3816  穂積皇子 穂積親王の御歌一首 左註 右の歌 穂積皇子が宴の時、よくこの歌を歌う

原文 家尓有之 櫃尓カ刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而 

訓読 家にありし 櫃(ひつ)にかぎさし 蔵(をさ)めてし 恋の奴が つかみかかりて

 

203 振る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 塞(せき)なきまくに

「降る雪は多く降ってくれるなよ。吉隠(よなばりの猪養(ゐかひ)の岡が寒いだろうから  (吉隠(よなばり)は今の桜井市で、初瀬の谷を更に東に入った所である。この辺りは飛鳥藤原京時代に、陵墓が多く営まれた所である。

3816 家にありし 櫃(ひつ)にかぎさし 蔵(をさ)めてし 恋の奴が つかみかかりて

「家にある物入れの箱に鍵をかけて、閉じ込めて置いた恋の奴がいつの間にかつかみかかって来て」

穂積皇子は家持の義母・大伴坂上大郎女の最初の夫であることが万葉集に記されている。大伴坂上郎女の年齢から、穂積皇子の最晩年の結婚であった。

 

さて天武天皇の皇子、皇女で最も多く歌が残っているのは弓削皇子である。

この人は異母妹 紀皇女への恋の歌がある。

1-119 弓削皇子 紀皇女を思いて作る歌四首  1

原文 芳野川 逝瀬之早見 須臾毛 不通言無 有巨勢濃香間

訓読 吉野川 行く瀬を早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも

 

1-120 弓削皇子 紀皇女を思いて作る歌四首  2

原文 我妹子尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾

訓読 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを

 

1-121 弓削皇子 紀皇女を思いて作る歌四首  3

原文 暮去者 塩満来奈武 住吉乃 浅鹿乃浦尓 玉藻刈手名

訓読 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉(すみのえ)の 浅香の浦に 玉藻刈りてな

 

1-122 弓削皇子 紀皇女を思いて作る歌四首  4

原文 大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能児故尓

訓読 大船の 泊()つる泊りの たゆたいに 物思ひ痩せぬ 人の子故に

 

119 吉野川 行く瀬を早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも

「吉野川の背の流れの早い所の様に、暫らくでも二人の仲は停滞しないで欲しい。」

行く瀬を早みは序詞で、吉野川の清冽な流れが順調に進んで欲しいと願う、二人の恋の譬喩となっている。

淀むが、こいがうまくいかないことを示す恋歌は多い。ありこせぬかもは、在ってくれないだろうかという事で、実際には二人の仲には障害があってうまくいかなかったのだろう。

120 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを

「私の愛しい人を、恋しく思っているより、秋萩の咲いて散ってしまった方がよかったのに」ずはで、恋の苦しみを歌う類型である。散った萩の花でありたいという表現は、自己陶酔がある様に思う。

121 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉(すみのえ)の 浅香の浦に 玉藻刈りてな

「夕方になったら、潮は満ちてくるだろう、その前に住之江の浅香の浦で、玉藻を刈ってしまおう。」

ここには恋に関わる言葉は全然出てこない。藻を刈るというのは観光地の遊びの一つで、柿本人麻呂の伊勢行幸時の歌巻1-41にも、今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむなどとある。しかしここでは題詞に 紀皇女を思う歌とあるので、譬喩歌として読解することになる。

122 「大きな船が停泊する港で、舟が揺蕩(たゆた)う様に物思いして、自分は痩せてしまった、あの人のために」大きな船はゆっくりと揺れるので、それが希望を持ったり絶望に打ちひしがれたりして、安定しない自分が露わになっている。

 

弓削皇子は、持統朝に、額田王と歌を贈答した事でも知られる。

2-111 弓削皇子 芳野行幸の時に額田王に贈る歌一首

原文 古尓 恋流鳥鴨 弓弦葉乃 三井(三位)能上従鳴遊久

訓読 いにしえに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆづるは)の 御井の上より 鳴き渡り行く

 

2-112 額田王奉る歌一首 

原文 古尓 恋良武鳥者 霍公鳥 葢哉鳴之 吾念流碁騰

訓読 いにしえに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし我が念()へるごと

 

2-113 額田王  弓削皇子が吉野行幸で松を額田王に贈った時に、額田王が奉った歌

原文 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久

訓読 み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言を 持ちて通(かよ)はく

 

111 いにしえに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆづるは)の御井の上より 鳴き゜渡り行く

「古を恋しく思う鳥なのか、ゆづる葉の御井(みい)の上を通って鳴きわたっていくことよ」

吉野行幸は天武天皇を偲んで、その遺言を思い起こす為に行われているので、古を思う事も多かったであろう。弓削皇子はその思いを飛んでいく鳥に託して歌っている。

112 いにしえに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし我が念()へるごと

それに対する額田王の歌。額田王はもう60歳くらい。行幸には同行せず飛鳥にて答えている。

「古を恋しく思う鳥というのは霍公鳥ですね。きっと鳴いたでしょう、私の古への思いを込めて。」

額田王は天智、天武二人の妻となり、十市皇女の母であった。ホトトギスは後には、死出の田長(たおさ)という別名も出来て、冥界を往復する鳥と信じられた。初夏の頃飛来して、ひっきりなしに鳴くので亡き人を偲んでいる様にも思われたのであろう。

弓削皇子自身の歌として、巻8-1467 雑歌部に霍公鳥を歌った歌がある。弓削皇子は額田王と同じく、自己の苦しみ悲しみを霍公鳥に投影していたようである。

113 み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言を 持ちて通(かよ)はく

吉野から苔の生えた松の枝が贈られたのに、額田王がそれに答え送った歌である。「吉野の美しい松はいとしいことよ。

皇子様の御言葉を持って通うのだから。」題詞の生松の蘿(草かんむりに羅)は、サルガセオという苔。この蘿は松の千年の命を表すものと考えられ、それを送るのは額田王の長寿を祝う意味を持っているのだ。額田王はその松の枝を、弓削皇子の言葉を持って来てくれるのがいとしいと誉めることで、弓削皇子の好意に感謝している。

弓削皇子の額田王に対する敬意

天武8年吉野で天皇、皇后と6人の皇子が盟を立てた時、弓削皇子もその兄の長皇子も入っていないので、天武天皇の皇子の仲では年少で、恐らく持統朝でも十代ではないかと推測される。従って弓削皇子にとって、特別吉野で懐旧の念に耽る理由はない。それでも古に恋うる歌を歌い、それに共感するだろう額田王に特別な好意を寄せている。皇子にとって額田王はかつて歌でもって活躍した人に対する尊敬と敬意の対象であったのだろう。

弓削皇子と柿本人麻呂

皇子は柿本人麻呂友深く関わったようである。巻9の人麻呂歌集歌には弓削皇子に奉った歌が5首もある。そして皇子自身の歌で深く人麻呂の歌と関わるのは巻3-242である。

3-242 弓削皇子 吉野に遊ぶ時の御歌一首

瀧の上の 御船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに

やはり吉野の歌である。「吉野川の激流の畔に立つ御船の山に掛かる雲の様に、いつまでもこの世に居られるとは思わないが」これはすぐ後の244に或る本の歌として知られている。御船の山に立つ雲がいつの間にか消えてしまう様に、自分の命の定めのなさを述べている。余りにも頼りない歌の思いなので、傍にいる春日王という人がその場で243の歌を歌い慰めた。

3-243 春日王 弓削皇子が吉野に遊ぶ時に奉った歌一首

大君は 千年(ちとせ)に座()さむ 白雲も三船の山に 絶える日あらめや

皇子は千年でもこの世にいらしゃるでしょう。白雲だって三船の山に掛からない日がありましょうか。

弓削皇子の言葉を打ち消すように歌っている。

 

天武天皇の皇子、皇女の特徴

見て来た様に弓削皇子の歌は、繊細な譬喩を巧みに用いた作が多い。雲を気持ちの譬喩に用いるなどは、仏典に基ずくもので、そうした知識を人麻呂歌集とも共有しているのである。弓削皇子の母は天智天皇の皇女・大江皇女であった。高市皇子が亡くなった後、自分や同母兄の長皇子にも皇位継承の資格があると主張しようとして、葛野王に怒鳴られたという懐風藻の逸話は既に紹介した。そうした不遇感のある弓削皇子は常にあらむと 我が思はなくに(3-242)を見る様に、文武天皇3年 699年に恐らく20代で亡くなる。

天武朝の皇子、皇女は互いにひかれあう関係が多くあった。皇子、皇女の結婚相手がその身分の高さゆえに限られていることが大きな原因であった。天武天皇はその後の万葉時代には天皇の新たな始祖とされていたので、その皇子、皇女は特別な存在であった。大半の皇子、皇女は歌を残していないけれども、万葉集の何処かに言及されている。人麻呂が活躍した時代、その近くにいた皇子、皇女たちは自分達自身が和歌の担い手となり、又後の時代の語り部になったのである。

 

「コメント」

 

天武天皇の皇子、皇女たちというタイトルだが、この時代が特別な時代であったことが良く分かる。しかし特別にしたのは、むしろ持統天皇ではなかったのか。奈良時代末まで続く天武系の天皇の系譜を作ったのであるから。それに協力した一人が柿本人麻呂であったのだ。