221015 ㉘「山辺赤人・高橋虫麻呂の伝説歌」 巻3、巻9

前回

前回は奈良時代初期の歌人山部赤人や高橋虫麻呂といった歌人が作った富士山、筑波山の歌を読んだ。彼らは地方官として諸国へ下り、そこで見聞きしたことを歌にすることがあった。奈良時代になると全国の隅々までを、朝廷が直接支配するようになって、富士山のような巨大な山や、関東一円から人の集まる筑波山の歌垣の様に、畿内にすむ人々が目を見張るような、東国の物事にも関心が集まり歌にされたのである。

 

本日の話はそれと深く関わっている。地方に関わる伝説をやはり山部赤人や高橋虫麻呂が、長歌で語っている作品がある。それを読む。

 高橋虫麻呂について

その前に高橋虫麻呂について簡単に触れて置く。高橋虫麻呂も続日本紀など史書には全く見えない人で、履歴もはっきりしない。年代の分かる歌は、天平4年 732年に藤原宇合(藤原不比等の三男)が都から九州に下る時の送別する歌 巻6-971972だけである。高橋虫麻呂の歌とされているのも、この歌だけで後は巻3の富士山の歌や、巻9の筑波山の歌等も高橋虫麻呂歌集から抜き出したものである。

柿本人麻呂歌集が他人の歌を多数含んでいるのと違って、高橋虫麻呂歌集は大体高橋虫麻呂が作った歌と見てよい。

ただそれらは年代が示されていないので、天平4年より前なのか後なのかが分からない。前回、高橋虫麻呂が検税使・大伴卿を筑波山に案内した歌を取り上げた。それで虫麻呂が常陸の国の国司だったと考えられるであるが、実は藤原宇合も養老3年 719年から数年間 常陸国常陸守を勤めていた。もし虫麻呂と宇合の関係がその時期に出来たとすれば、虫麻呂の東国の歌も、養老年間を中心に作られたことになる。その虫麻呂は赤人や笠 金村の様に、天皇の行幸に従った時の歌はない。関わるのは宇合や大伴卿と言った上級官人で、旅愁や孤独感を歌った歌があるのも特徴である。

そして何といっても多くの伝説歌を残しているのが見るべきである。

 勝鹿の真間の娘子(おとめ)

虫麻呂が東国伝説を歌った作品に勝鹿の真間の娘子(おとめ)を読む歌がある。勝鹿は、今は東京都の区に名前を残しているが、元々は下総国の江戸川沿いの広い地域を指した。真間は、今は千葉県市川市で今も国府台、国府と言う地名があり、国府と国分寺があった下総の中心地であった。そこに住む娘子・手児名という女性を歌った歌である。

9の挽歌部 1807の長歌と、1808の反歌である。

9-1807 高梁虫麻呂 勝鹿の真間の娘子(おとめ)を詠む歌一首 並びに反歌

原文

鶏鳴 吾妻乃国尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言来 勝鹿乃 真間乃手児名我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹包 斎児子毛 妹尓将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏蟲乃 入火乃如 水門入尓 船己具如久 帰香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物呼 何為跡歟 身乎田名知而 浪音乃 驟湊之 奥津城尓 妹之臥勢流  遠代尓 有家類事乎 昨日霜 将見我其登毛 所念可聞

訓読

鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児奈が麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻()き梳(けず)らず 沓(くつ)をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める (いわひ)子も 妹にしかめや 望月の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 湊入りに 舟漕ぐごとく 行きかくれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒ぐ港の奥城(おくつき)に 

妹が臥()やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも

 

9-1808 高梁虫麻呂 勝鹿の真間の娘子(おとめ)を詠む歌一首 並びに反歌 第一反歌

原文 勝鹿之 真間之井見者 立平之 水汲家武 手児奈之所念

訓読 勝鹿の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ

 

1807 長歌 略

虫麻呂の伝説歌はただ地方の伝説を内容としているだけでなく、伝説を語る形式を持っているのが特徴である。

最初に鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと→「東の国で遠い昔にあったこととして、現在もずっと語り伝えられてきた」という。その伝説の主人公であるが、勝鹿の 真間の手児奈が麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻()き梳(けず)らず 沓(くつ)をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める斎(いわひ)子も 妹にしかめや

→「勝鹿の真間の手児奈は、麻の上着に青い衿を付け、飾り気のない麻のスカ-トを自分で織って着て、髪も梳(くしけず)ることなく、靴もはかないで行くけれども、錦や綾に包まれたお嬢さんも彼女には及びもつかない。」と語られる。

質素で化粧っけもないのに、どんな豪華な衣装をまとったお姫様も敵わないのである。青い衿だけが彼女の御洒落てあった。古代の色の名は、赤→明るい色、黒→暗い色、白→目立つ色 とあと 青→目立たない色の四つであった。他の色、例えば紅は染料の名前、緑は若葉の事で、本来は色の名前ではない。青は白の反対で、目立たない色の範疇であった。飾らなくとも誰よりも美しい手児奈には、男達が群がる。

望月の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 湊入りに 舟漕ぐごとく 行きかくれ 人の言ふ→「満月の様に満ち足りた顔に、花のような笑顔を湛えて立っていると、夏の虫が火に飛び込んでくるように、港に舟が漕ぎ入ってくるように、男達は手児奈に集まってきて、声をかけた。」

健康な笑顔に魅了されて求婚者は引きも切らない。その時に何故か、手児奈は死を選ぶ。

いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒ぐ港の奥城(おくつき)に 妹が臥()やせる

→「幾らも生きていないのに、一体何故か自分の身の上を見切って、波の音が騒ぐ港にある墓にあの子は横になった。」

短い人生をより短くするのは何でなのだろうと問うのである。しかし若く健康な女性なので、外側から命が短いように解するのは少々違和感がある。身をたな知りては、藤原宮の役民の歌に、身の棚しらず→自分の身を顧みず と用いられていた。手児奈は逆に十分に顧みすぎて、自分の身が所詮無情であると知ってしまったのであろう。それならば 「いくらも生きていない内から、なんで人生の有限を覚ってしまったのか」と解する方が自然だと思う。どちらにしても、これから幸の多いはずの人生を、手児奈は何故自分で断ち切ってしまったのか。語り手にも私達にも分からない。最後はもう一度、この長歌が語る形式を確かめて結びとなる。

遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも →「遠い昔にあったことなのだが、昨日見てきたことの様に思われることだ。」

虫麻呂は手児奈の様子を印象鮮明に描いていて、男達が群がる様子も譬喩を用いて、思い浮かぶように述べている。

湊入りに 舟漕ぐごとく などは、真間の土地が江戸川の河口で港だったと考えられるので、現地の描写でもあった。

 

1808 勝鹿の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ

「勝鹿の真間の井戸に来てみていると、繰り返し水を汲んでいた手児奈が偲ばれる」 見れば~思うという、見えるものから見えないものを思い起こす形の歌である。立ち平(なら)は、地面を平に何度も踏んで という事で、働き者であった手児奈を想像している。

 手児奈の墓

虫麻呂は手児奈の墓を波の音の 騒ぐ港の奥城(おくつき) と言っている。これは今残っていないが、江戸川の河口付近に古墳があったのを、手児奈の墓と称したのであろうと考えられる。

古墳は土地の豪族の墓で威勢を誇示するために、人の集まる場所、目立つ場所に建設した。しかし次第に誰の墓か分からなくなると、その起源に関わるような物語が作られ、手児奈も美女もそのようにして造形されたのではないか、

 山部赤人の手児奈の歌

山部赤人にも手児奈の歌があるが、やはりその奥城(おくつき) を中心にしている。巻3 挽歌部431の長歌と、432433の反歌である。

3-431 山部赤人 勝鹿の真間の娘子(おとめ)の墓に作る歌一首 並びに短歌 ①

原文 

古昔 有家武人之 倭文幡之  帯解替而 蘆屋立 妻問為家武 勝鹿乃 真間之手児奈之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者不可忘

訓読

いにしえに ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交()へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児奈が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らゆましじ

 

3-432 山部赤人 勝鹿の真間の娘子(おとめ)の墓に作る歌一首 並びに短歌 ②

原文 吾毛見都 人尓毛将告 勝鹿之 間間能手児奈之 奥津城處

訓読 我も見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児奈が 奥津城ところ

 

3-433 山部赤人 勝鹿の真間の娘子(おとめ)の墓に作る歌一首 並びに短歌 ③

原文 勝鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手児奈志所念

訓読 勝鹿の 真間の入江に うち靡く 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ

 

 

431 長歌 略

題詞は勝鹿の真間の娘子の墓に立ち寄った時に、赤人が作った歌。しかし虫麻呂の歌と違い、真間の手児奈の様子は長歌には歌われない。手児奈に対しては、いにしえに ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交()へて 伏屋立て 妻問ひしけむ と述べるだけである。→「遠い昔にいた人が、和風の模様の織物の帯を解き替えて、伏屋(伏屋)を立てて、求婚したという真間の手児奈である。」倭文幡(しつはた) というのは、外国製の綾に対して、大和の昔からあるデザインで、東国の古ではこうした古風な帯をしていたというのであろう。帯解き交()へて というのを当節では、手児奈と帯を取り換えてと解している。しかし妻問をするとは求婚するという意味である。その準備として伏屋立て →夫婦の寝室を立てて となる。だとすると、帯を互いに交換してから求婚するというのは理屈に合わないと思う。むしろ和風で古風な帯を解き、もっとおしゃれな帯に取り換えてというのが良いと思う。男達が手児奈の気を引くために、帯を取り換えて見たり、立派な部屋を立てて見たりして、求婚したという事であろう。本文ではなく、周囲の男達の行動から手児奈が如何に美しかったかを暗示するのである。その後はどうであろうか。勝鹿の 真間の手児奈が奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき→「勝鹿の真間の手児奈の墓はここだと聞いたのだけど、真木の葉は茂っているのだろうか。それとも松の根が遠く久しいのだろうか。」一寸聞いただけでは、何のことだか分からないが、これは墓がそことはっきりしないことを言っているのである。前に述べた様に手児奈の奥津城とは、当時の豪族によって築かれた古墳で、年を経て伝説の美女の墓と言い伝えられる様になったのであろう。今見る古墳はただの山 なのである。

手児奈の墓と言われても、真木の常緑樹の葉が茂って、それと見えないのか、或いは辺り一面 松の根が盛り上がっているのを見ると、遠く久しい時間が経ったのか。ともあれ、手児奈の墓らしいところは、全く見つけられなかったのだが、言のみも 名のみも我は 忘らゆましじ→「何も手児奈を偲ぶものは残っていないからこそ、その言葉や評判だけでも自分は忘れられないだろう」と歌い納めている。

伝説の美女は、言葉の上にだけ残っているのである。こことは聞けど 以下の文脈は、柿本人麻呂の近江荒都歌、巻1-29番の歌の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる に似ている。あるはずの大宮、大殿が見えず、草に覆われた土地が霞みに霧がかった春の日の中に存在するだけだ。そして柿本人麻呂の明日香皇女挽歌 巻-196 の 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ

とあるのに近い。→「飛鳥川の流れを見ながら、その名前を持つ皇女を、名前や思い出だけでも偲んでいこう。」と歌う歌であった。赤人は、人麻呂の語句を引き込んで、遠い昔の物語の存在を未来へと語り継ぎ歌い上げたのである。

 

432 我も見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児奈が 奥津城ところ 第一反歌

「私も見た、人にも教えよう。勝鹿の真間の手児奈の墓の在る場所を」はっきりせずとも、手児奈の墓と言われる場所を自分は確かに見たのだ。それを人にも教えたいという。人にも告げむ は、富士山の歌の 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 冨士の高嶺を に通じる。物語ゆかりの場所だから、それを都の人々に物語と共に伝えたいというのである。墓の存在が物語にリアリティを与えているのである。

 

433 勝鹿の 真間の入江に うち靡く 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ 第二反歌

「勝鹿の 真間の入江に靡く、玉藻を刈っていたという手児奈が思われる」

これは虫麻呂の水汲みする手児奈の歌に通じる。水汲みも玉藻苅るのも、女の仕事として昔から今まで行われてたいたのであろう。今の状態から伝説の昔を思う歌である。赤人の歌を虫麻呂の歌と比較すると、ずっと曖昧だが、恐らく意図的に曖昧にしているのであろう。男達を引き付けてやまなかった手児奈が何故か亡くなり、時を経て墓さえもはっきりしなくなっているという事の哀れさが赤人の主題であったのだろう。手児奈が何故死んだのかは、虫麻呂の歌でも訝られていた。

 

次の歌は対照的に、二人の男に求婚されて進退窮まり、死を選んだとはっきり語られる女性・兎原処女(うないおとめ)を歌った高橋虫麻呂歌集の歌である。

9-1809 高橋 虫麻呂 兎原処女の墓を見る歌一首 並びに短歌 ①

原文 

蘆屋之 兎原処女之 八年児之 片生之時従 小放尓 髪多久麻丞尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿之 牢而座在者 見而師香蹤 憤時之 垣蘆成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 蘆八燎 須酒師競 相結婚 為家頼時者 焼太刀乃 手頸押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭手纏 賎吾之者 大夫之荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打嘆 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 兎原壮士 仰天 叫於良妣 踏地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小剣取佩 所都良 尋去祁礼婆 親族共 射帰集 永代尓 標将為跡 遠代尓 語将継常

処女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨

訓読

蘆屋の 兎原処女之 八年子(やとこせ) 片生(かたお)ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿(うつゆう)の 隠りて 居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅淳壮士(ちぬおとこ) 兎原壮士(うないおとこ)の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の  手かみ押しねり 白真弓 (ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 吾妹子(わぎもこ)母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふみれば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延()へ置きて うち嘆き 妹が去()ぬれば 茅淳壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 兎原壮士 い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋()め行きければ 親族(うがら)どち い行き集ひ 長き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと娘墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆえよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭()泣きつるかも

 

9-1810 高橋 虫麻呂 兎原処女の墓を見る歌一首 並びに短歌 ②

原文 蘆屋之 宇奈比処女之 奥槨乎 往来跡見者 哭耳之所泣

訓読 蘆屋(あしのや) 兎原処女の 奥城(おくつき)を 行き来と見れば 哭()のみ泣かゆ

 

9-1811 高橋 虫麻呂 兎原処女の墓を見る歌一首 並びに短歌 ③

原文 墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母

訓読 墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 茅淳壮士(をとこ)にし 寄りにけらしも

 

この歌は主人公から歌い出す。この女性は兎原処女(うないおとめ)という。但し題詞には、ウサギに原という字が書いてある。うはらとよむことが出来る。歌の中ではうない と呼べるように、万葉仮名で書かれており、題詞の方も歌に合わせて、うないおとめと呼ぶのが普通である。題詞の方は、うはらおとめ、歌の方はうないおとめ と読み分ける方がよい。題詞は広い地名で、歌の方は狭い地名で呼ぶのであろう。

 

1809 長歌 略

蘆屋の 兎原処女之 八年子(やとこせ) 片生(かたお)ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿(うつゆう)の 隠りて 居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 →「芦屋の宇奈比処女が、八歳の幼い時から、うばなりの形(振り分け髪)の形に髪を束ねており、ずっと近所の人にも顔を見せず家に籠りきりであった。見てみたいと皆がじりじりしていた時、人垣の様に求婚者が押し寄せているその時に」

蘆屋は兵庫県芦屋市。「和名類聚抄」平安時代に万葉仮名で作られた辞書  にも摂津国菟原郡野中に蘆屋(あしや)郷があると示されている。宇奈比処女はそこに住む女性であるが8歳の幼い頃から成人まで近所にも顔を見せない深窓 の令嬢であった。片生(かたお) は、まだ十分に育っていないこと。小放(をばな)り は、髪型の一つで紙を部分的に結って、残りを垂らしておく、完全に成人して髪を上げる前の女性の髪型と言われる。この様に髪型によって女性の年齢を表すのは他にも見られる。虚木綿(うつゆう) 、隠りて に掛かる枕詞。木の皮を剥いだ木綿(ゆう)で、中空になっていたものと解されるが、どの様な物かは分かっていない。ともあれ、滅多に外に出ないので、宇奈比処女がどんなに美しく育ったのか、却って関心を引いて、人が覗きに来たり嫁に欲しいと男が押し寄せてきたりする。その中で主な求婚者は二人。

茅淳壮士(ちぬおとこ) 兎原壮士(うないおとこ)の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は →茅淳壮士(ちぬおとこ) の茅淳は、和泉国大坂の西南部、一方兎原(宇内比)は処女と同じ名前なので同じ地に住む男であろう。よそ者と地元の男とが、恋敵になったのである。

伏屋 は、先程の真間の手児奈の歌に、求婚の準備として男が立てた建築物と出ていた。茅淳壮士 が、兎原壮士の建てた伏屋を焼いたと解する。よそ者の茅淳壮士が、地元の男が建てた伏屋を焼いて挑戦状を叩きつけたのである。

すすし競ひ は、他に例がなく明確でないが、互いに進み出て火花を散らすとしておく。「二人とも気負って求婚する時には」 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 (ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に「焼き鍛えた太刀の柄を押しひねり、又白い弓と矢を入れる(ゆき)を背負って、水に入っても土に入ってでもと争った時」

男二人はけんか腰で相手を殺してまでも、自分が宇奈比処女の夫になろうと、もう結婚したいというより、自分のプライドをかけた戦いになっているのである。宇奈比処女はどうしたか。

吾妹子(わぎもこ)が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふみれば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に 待たむと 隠り沼の 下延()へ置きて うち嘆き 妹が去()ぬれば

→「愛しき彼女が母に語るには、取るに足りない私のために立派な男達が争っているのを見ると、生きていても結婚など出来ない。黄泉の国で待ちたいと思うと、ひそかに言い置いて嘆きながら彼女が去っていくと」しつたまき は、賤しき に掛かる枕詞。隠り沼の は、下延()へ置きて を修飾する言葉で、流れ出すことはなく、濁って見えない沼の底を密かに言い置くことの譬喩としている。

お嬢様でも宇奈比処女は、謙虚な女性で、自分の為に男達が争うのは耐えられないと言う。

しかし実は彼女には意中の人がいた。この状況では、決してその人とは結婚できないというのが彼女の苦しみだった。

この世で一緒になれないなら、黄泉の国でと母に言い置き、宇奈比処女は死出の旅に出ていく。

茅淳壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 兎原壮士 い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみ たけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら ()め行きければ→茅淳壮士は、その夜、宇奈比処女の夢を見て引き続いて跡を追って行く。つまり自らも命を絶ったのである。

天智天皇挽歌の所で話したように、夢は異界との間を繋ぐ回路なのであった。夢に現れたのは、

宇奈比処女の心が、茅淳壮士 の方にあったからである。茅淳壮士 はよそ者なので、周りのものは

地元の兎原壮士を薦めるであろう。

この世では一緒になれないというのは、宇奈比処女自分の血縁や地縁を切り捨てる事を出来なかっ

たという事でもある。

夢の中に現れて、茅淳壮士を呼ぶことで、黄泉で一緒になろうとした。しかし残された兎原壮士も又、一人この世で生き

恥をさらすよりは、黄泉の国に追って行く事を選ぶ。「天を仰いで喚き、泣き叫び、地団太踏んで歯が

みをし、いきり立って、ライバルに負けてなるものかと、腰に佩いた小太刀をつけて探し求めて行って

しまうと」

ところづら は、ヤマトタケルの后や子供が歌った大御葬歌おおみはふりうた)に出て来るが、山芋の

蔓の事である。長く延びるので()め行き→後を追って行く の譬喩として用いられている。

物語は結局三人共に死んでしまうという悲劇に終わってしまう。そこで親族(うがら)どち い行き集ひ 長き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと娘墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける→親族同士は、そこに集まり、長くこの悲劇を印にしようと、遠い未来まで語り継ごうと宇奈比処女の墓の中に造り置き二人の男の墓を、こっちとあっちに造り置いた と話される。

この墓は現存する。大阪と神戸の間の海岸近く阪神電車沿いに、2kmの間隔で三基の古墳が並んでいる。物語の通り、真ん中にあるのが兎原塚古墳と呼ばれ、全長 70mの前方後円墳で、3世紀後半の築造と考えられている。その東に

あるのが処女塚古墳と呼ばれ全長80mの前方後円墳だが、原形を留めていない。但し出土した遺物

からすると4世紀後半に位置づけられるとのこと。これらは地元の豪族が、大阪湾に行き来する船

からよく見えるように築造した古墳で、

代も形式もバラバラであった。従ってこの物語自体が、この古墳群の由来を語るものとして創作

されたと考えられる。しかし創作された物語は、複数の男に愛された女は死ぬという類型にありつつ

も、死んで愛を成就させ壮烈な悲劇になった。故縁(ゆえよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごと

も 哭()泣きつるかも と語り納められる。

「この三つ並んだ墓の由来を聞いて、自分の体験ではないけれども、新たに人が亡くなった時の様に声を上げて泣いてしまったことよ。」

語り手は真間の手児奈の歌の様に、語り伝えられたことを、聞いたという自らの立場を明らかにしている。そして、この歌時代が聞き手に、語り継ぐことになるので、語り手は媒介者なのである。それが例えば近江朝にあった吉備津采女の事の様に、自分で見聞きした事として、 見ればさぶしも とか 今ぞ悔しき 等と歌う人麻呂とは異なるのである。

 

1810 蘆屋(あしのや) 兎原処女の 奥城(おくつき)を 行き来と見れば 哭()のみ泣かゆ 第一反歌

「芦屋の兎原処女のお墓を見ると、声に出して泣いてしまう」阪神間は山が海岸に迫っているので、三つの古墳は陸路の街道沿いでもあった。行きに帰りにそれを見ると、あの悲劇を思いだして泣けてくるというのである。

 

1811 墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 茅淳壮士(をとこ)にし 寄りにけらしも 第二反歌

「墓の上の木の枝が靡いている。聞いていたように兎原処女の心は、茅淳壮士に寄り添っていたらしいな」

墓の上に立つ木が一方に靡いているのは、物語の通り兎原処女の心が、茅淳壮士の方にあったことを表しているのだろう という。兎原処女が現れたのは、 茅淳壮士の夢であったという話なので、よそ者の方が恋の勝利者であったに違いない。この物語は次の第四期の歌人 田辺 福麻呂 が歌う 巻9-18013、又それを受けて大伴家持も歌にしている。巻19-42112. 彼らは虫麻呂程、詳しくスト-リ-は語らない。虫麻呂の歌をなぞり、又墓を見た感想をのべる形で歌っている。先行する歌を前提として、更にそれを歌い継ごうとしているのであろう。やはり語り継ゆかんと言うのが、奈良時代の精神なのだと思う。

  平安時代の大和物語の場合

兎原処女の話は、平安時代の大和物語にも収められているが、そこでは二人の男は全く対等で、生田川で鳥を射る競争をしても決着がつかない。どちらも選べない女が、思い余って川に飛び込むと、男達も次々と飛び込んで、女の手を足を掴んでそのまま全員が死んでしまう。ある旅人が墓の前で夜を明かして、いると、片方の男が現れて、刀を貸してくれと言うので貸すと、争いの音がして、又男が現れお陰でやっと敵を撃ち殺したと礼を言う。夜が明けてみると、墓の前に血が流れ、刀には血が付いていたという。凄惨な話になっている。万葉集の歌との違いは、やはり和歌と散文の違いという事に成るであろう。

高橋虫麻呂歌集には伝説を歌う歌として、他に、豊満で奔放な美女・珠名娘女 巻9-1739が収められている。又浦島太郎として知られる浦の島子を詠む歌もある。巻9-1740

 

平仮名がまだなく、散文的な物が漢文に委ねられた上代には、長歌が物語を語る器であった。虫麻呂や赤人の伝説歌は、民間に伝えられた話を文芸化することで、和歌の世界を大きく広げたといって良いであろう。

 

「コメント」

 

日本上代の昔話も長歌の形で残っていたのだ。もしこのような万葉仮名での書き方が無かったら、殆どが散逸し忘れられてしまっていたであろう。古人の創意工夫と努力に脱帽。伝説の三大美女 真間の手児奈、兎原処女 珠名娘女。