221105 ㉛「大伴旅人 『凶間に報ふる歌』」と山上憶良『日本挽歌』巻5

前回は巻14の東歌の話をした。東歌は直接的な愛情表現に特徴があり、中央から下った官人達と同じ素材でも、異色の表現が目立つ。東国は文化文明の遅れた地域とされ、和歌が入るのも奈良時代からであるが、それだけに一風変わった和歌が作られ、それが和歌の文化圏が東国にまで及んだ

証明として、中央にとっても重要であった。

 

大宰府とは

さて今回から暫くは、東国と反対側の辺境である大宰府を舞台とする歌を見て行く。大宰府は、今の福岡県太宰府市であるが、元々は福岡市の博多湾沿いにあり、大陸や半島に対する玄関口であった。先進文明に真っ先に触れる場所であると共に、唐や新羅とは7世紀の半ばに、戦火を交えた仲なので、国防の最前線でもあった。その点では同じく辺境と言っても、東国とは全く意味が違う。

大宰府とは、大いなる命(みこと)持ちの役所という意味で、命持ちとは、天皇の命令を持って地方に下る者の事である。だから、各国に命持ちがいるのだが、大宰府はその大いなるものという意味である。因みに太宰府市や太宰治は太宰と書くが、古くは大の字を使っていた。その大宰府は筑前国に置かれたのは、勿論外交、防衛の最前線であったからである。

大宰府は西海道、今の九州全体を管理下に収めていて、その長官・大宰権帥(ごんのそち)は地方官としては例外的に高い従三位のものが任じられた。

大伴旅人

さて万葉集で大宰権帥と言えば、例外なく大伴卿 大伴旅人を指す。任命されたのは、神亀5728年の春、大納言を兼任して帰京したのは、天平2年 730年の冬と考えられる。考えられるというのは、正史 続日本紀には、何故か旅人を、大宰権帥任命したという記事も、大納言に任命したという記事も載っていない。そして、この頃の遥任と言って、実際には大宰府には下らないのが普通であった。

旅人の前任者 多治比池守(たじひ いけもり)も、後任の藤原南家の武智麻呂も、大納言との兼任だったので遥任である。旅人は中納言で大宰権帥を兼任したが、何故か九州に下っている。

大伴旅人の歌は、これまで一つ読んだ。聖武天皇即位の神亀元年 724年に行われた、吉野行幸で、身分の低い宮廷歌人達に混じって、勅に従って長歌を作った。その時は既に正三位中納言であった。三位以上の官人は万葉集では、名前で呼ばれず、なになに郷と呼ばれる。貴人の名前を直接呼ぶのは失礼に当たるとされていた。旅人の歌は、その吉野の歌が一番古く、後は全部それ以降の歌なのである。吉野で聖武天皇を寿いだ時、旅人は既に60歳になっていたから、大宰府に下ったのが、神亀5年だったとすると、既に64才である。かなりの高齢である。

旅人は50才半ばで、九州の隼人族と呼ばれる異民族視されている人々を征伐する役目、征隼人大将軍として九州に下った経験があり、それで白羽の矢が立ったのかも知れない。

しかし60代になってから改めて赴任するのは、肉体的にも辛いものがあったであろう。なお辛いことには、旅人は着任早々、伴ってきた妻を失ったのである。その事は巻8 雑歌部に載る次の二首から分かる。

 

8-1472  石上堅魚(かつお) 

左注 

右 神亀五年大宰師 大伴卿の妻 大伴郎女を病にて長逝す ここに勅使式部大輔 石上朝臣堅魚を大伴卿に遣わして、是を弔う併せて物を賜う そのことが終わってから諸大夫と共に基肄(きい)に登って望遊する日にこの歌を作る

原文 霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎

訓読 霍公鳥 (ほととぎす) 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 問はましものを

 

8-1473 大伴旅人 

題詞 大宰師(だざいのそち) 大伴卿の応える歌一首

原文 橘之 花散里之 霍公鳥 片恋為乍 鳴日四曽多寸

訓読 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き

 

題詞と左注から見て行くと、最初の歌は石上堅魚という人の歌である。彼は式部省の主席次官で、当時従五位の下。旅人の妻、大伴郎女が病で亡くなったことを、朝廷として弔問するためであった。

律令の定めで、都に勤める三位以上の官人は、正妻が亡くなった場合、勅使が弔問する事に成っていた。旅人は地方の長官であったが、規定により弔問を受けたのである。歌はその弔問の儀が終わり、使いと大宰府の官人たちとで、直会の為に大宰府西南にある基肄(きい)城に登った時に作られたものである。

 

1472  石上堅魚(かつお)   霍公鳥 (ほととぎす) 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 

                    問はましものを

「霍公鳥が来て声をあげている。卯の花の御供に来たのかと 尋ねたいものだ」

霍公鳥は初夏にやってきて、ひっきりなしに鳴く鳥である。独特な鳴き声は、特許許可局とか てんぺんかけたか とか聞きなしている。(とよ)もす は、声を響かせることで 田鶴(たず)とか雉とか声の大きい鳥に使うことが多い。卯の花は初夏に小さな花を沢山つける植物である。万葉集では動物を男に、植物を女になぞらえて、一対として扱うことが多いが、この一首もその発想に基づいている。そこで石上堅魚の歌も、何か寓意があると解釈されることが多い。例えば、ホトトギスが来て鳴いているのに、卯の花が周囲にないので、ホトトギスに卯の花と一緒に来たのかと問い、卯の花がいなくなってしまって気の毒にと言った気持ちを表現すると解釈する説がある。ホトトギスを旅人に、亡くなった妻 大伴郎女を卯の花に例えたと見る訳である。しかしそこにない卯の花をわざわざ呼び込んだというのは不自然だし、ホトトギスと取り合わせるのは橘や藤も同様で、卯の花だけではない。卯の花がそこに有ったと考えるのが自然である。

問はましものを を、ホトトギスに卯の花と一緒に来たかと問いたいものだが、妻を失った旅人の手前、気が引けて問わないという説もあるが、問はましものを と言った時点で問うたことと同じで、これも無理である。私は堅魚の歌自体は、直接な寓意はなかったと思う。伴にや来しと は、「一緒に来たのか」と解するのが普通である。しかしホトトギスは飛ぶ鳥なのに対し、卯の花は植物で山にずっとあるものなので、富んで来たホトトギスに「御前は卯の花のお供をしに来たのかと、問いたいものですが」と解するのが正解で、旅人と妻とが一緒に大宰府にやって来たのと同じではない。そもそもホトトギスと卯の花に、旅人夫妻を例えるのは、妻を失った旅人に失礼である。

 

1473 大伴旅人 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き

「橘の花が散った里のホトトギスは、片恋をしながら鳴く日が多いのです。」寓意は明らかである。散った橘が亡き妻、片恋をしてなくのが自分を表す。堅魚の卯の花に対して、旅人が橘を歌っているのに注意される。卯の花のお供に来たのではなく、散ってしまった橘の行方を追って、鳴きながらここまで来たのではと、堅魚の問いに答えているのである。つまり、寓意を意図した訳ではない堅魚の歌に、寓意を強引に読み込みホトトギスに代わって答える形で、自分の心情を歌ったのであろう。それらの事が許されるのは、旅人が正三位 大宰師という高位高官であるからだろう。妻を失った旅人の悲しみは深いものであった。

 

妻が亡くなって数十日経った頃に、一首の挽歌を作っている。妻の死の知らせが都に届いて、勅使がやってくるまでの時間を考えれば、先の石上堅魚との唱和し相前後する頃であろうか。

3-438 大伴旅人 題詞 神亀五年 大宰帥大伴卿故人を思って歌三首

原文 愛 人之纏而帥  敷細之 吾手枕乎 纏人将有哉

訓読 愛しき 人のまきてし 敷栲の 我が手枕を まく人あらめや

 

堅魚の歌に妻の名は大伴郎女とあった。それは妻が大伴氏の出身であることを示している。旅人は恐らく妻が幼いころから知っていた仲なのであろう。旅人には家持をはじめ三人の子がいた。それから又、二ヶ月ほど経った夏の終わりの六月二三日に次の歌が残されている。

5-793 巻頭の歌 作者不詳 題詞 大宰帥大伴卿 凶問に答える歌一首 

書簡 禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 漢文

原文 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

訓読 世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり

 

5は、旅人と山上憶良とを中心とした交流を描く巻であるが、和歌だけでなく漢文を伴う作品がほとんどを占めるのが特徴である。この歌の場合は、旅人の書いた書簡文、歌の前・題詞に置かれている。題詞の凶問に答える歌とは、凶事の知らせ 訃報に答える歌という意味で、都から誰かが亡くなったという知らせが届き、それに対する返事という事である。書簡は大体次のような内容である。「禍が続き、訃報が相次いでくる。心が頽(くずお)れるような悲しみを抱き、はらわたがちぎれるような涙を流している。ただお二人の大いなる助けによって、この老いぼれた命を漸く繋げているだけである。筆に思いを尽くせないことは、昔の人も今の私も嘆く所である。」

文中に出て来る両君は、この二年後旅人自身が足の病気で危篤になった時に、異母弟の大伴稲公(いなきみ)と大伴古麻呂の二人が、遺言を聞きに大宰府に下ってきているので、その二人だと言われる。神亀5年に誰が亡くなったかははっきりしないが、同母弟の宿奈麻呂ではないかと推定されている。宿奈麻呂は、旅人に少し遅れる形で官位を上げているが、丁度この頃に名前が見えなくなるので、蓋然性の高い推定だと思う。片腕のような存在なので、旅人には大いにショックであったろう。

永懐崩心之悲→永く崩心の悲しみを抱き という文面からは、三か月ほど前の妻の死から旅人は

まだ立ち直っていなかったことが伺われる。禍故重疊 凶問累集→禍故 重疊し 凶問 累集す 次々と周囲の人が亡くなっていく。 獨流断腸之泣→独り断腸の涙を流す。大宰府に取り残された老人は一人悲しみに暮れる。そう書いても自分の思いは尽くせないと文末に記す。

 

そこでその思いを尽くすように歌うのが、

793 世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり

世間(よのなか)は 空しきもの というのは、なにかの命題のように聞こえる。

「世の中は空しいものと知る時に、いよいよ悲しくなるものだなあ」現代語訳は難しくないが、解釈は中々大変である。

世間(よのなか)は 空しきもの というのは、何かの命題のように聞こえる。丁度仏教に世間空という言葉がある。世間は日本語の世の中に当たるが、元のサンスクリットでは壊れるべきものと言う意味で、この世に一つとして変化しない物はないというのが、仏教の教えである。但し教義でいう空は、

ただ空しい何も無いというのではなくて、全ては固定的実態ではなく、流動の相にあると言った所で、旅人の世間(よのなか)は 空しきもの は、そうした教義自体を歌っているのではないだろう。実際、仏教的な悟りを開いたのなら、いよいよ益々悲しくなるはずはない。それはむしろ悟りを開けない者の深い嘆きなのである。周囲の人々が次々といなくなって、この世が虚ろに感じられる。なるほどこれが仏教の言う世間空 という事かと、死ぬ時に心は落ち着くどころか、いよいよ悲しみが深くなる一方だったというのではないだろうか。

宗教的な救済には収まらない思いが、和歌に込められているのである。

 

そうした歌はこれまでにはなかった。その旅人の心に共感する人が傍にいた。筑前守であった山上憶良である。旅人にとっては下僚で、位は従五位下に過ぎなかったが、遣唐使の経験があり、豊かな漢籍の知識があった。その憶良が722日の日付で、漢文、漢詩、長反歌という大規模な作品を旅人に奉っている。まず漢文、漢詩から読んでみよう。

山上憶良の追悼の漢詩 万葉集 巻5-794反歌五首の先頭 795の題詞にある

前半

(けだ)し聞く、四生の起滅は、夢の皆空(むな)しきが如く、三界の漂流は環(たまき)が息()まぬが諭(ごと)し。所以(かれ)、維摩大士は方丈にありて、染疾(せんしつ)の患(うれい)を懐くことあり、釈迦能仁(のうにん)は、双林に座(いま)して、泥旦(ないをん)の苦しみを免るること無しと。故(かれ)知る、二聖の至極も、力負(りきふ)の尋ね至るを払ふこと能はず、三千の世界、誰か能く黒闇(こくあん)の捜(たず)ね来るを逃れむと。二つの鼠競(きほ)ひ走り、目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四つの蛇(へみ)争ひ侵(をか)して、隙(げき)を過ぐる駒夕(ゆうへ)に走る。磋呼痛(ああいたま)しきかも。

後半

紅顔は三従(じゅう)と長(とこしへ)に逝()き、素質は四徳と永(とこしへ)に滅ぶ。何そ図(はか)らむ、偕老の要期(ようご)に違(たが)ひ、独飛(どくひ)して半路に生きむことを。蘭室の屏風徒(いたづ)らに張りて、断腸の哀しみ弥(いよよ)痛く、枕頭に明鏡空しく懸りて、染竹(せんいん)の涙(いよよ)落つ。泉門一度(ひとたび)(おほ)はれて、再(また)見るに由無し。嗚呼哀(ああかな)しきかも。

 

愛河(あいが)の波浪は既に滅()え、苦海の煩悩も亦(また)結ぼほることなし。

従来この穢土(えど)を厭離(えんり)す。本願をもちて生を彼(そ)の浄刹(じょうせつ)に託せむ。

 

最初の漢文は万葉集では類例がない。漢籍では供養願文といって、死者の冥福を祈る文に近いが、全く同じ形式の物はない。内容は仏教の説く、この世の道理を述べて、嗚呼哀(ああかな)しきかも と終る前半と、妻を失い二度と会えない嘆きを述べる猴半とに分かれる。

前半は次のような意味である。

「この様に聞いている。あらゆる生命が、生まれては死ぬことは、夢が全て空しいようなものである。輪廻を繰り返すことは、輪に終わりがないようなものである。だから維摩様もこの世で病気になられたし、お釈迦様も涅槃の苦しみを免れなかったのだ。この最高の聖人でさえ、死の力に逆らえなかったのだから、あらゆる世界で誰も死の訪れを拒否することは出来ない。死ぬという事が巡り巡って、時は瞬く間に経ち、人体を構成する元素は互いに背き合って、あっという間に分解する。ああなんと痛ましいことか。」

世間無情は仏教の教えである。しかし道理では分かっても納得は出来ないというのが、この文章のト-ンである。冷厳な道理を突きつけられて、何と痛ましいことかと嘆く他はない。お釈迦様だって、涅槃を免れなかったという。仏教では、涅槃は煩悩の消滅を意味しむしろ良いことなのだが、この文章は苦しみと表現している。決して教義そのものではない。

後半は、以下の如し。

「血色の良い顔も、つつましい人柄と共に長く去り、白い肌も女らしい美徳と共に永久に消滅した。思いもしなかった。

共に老いを過ごすという約束は違えられ、一人切りで残りの人生を送ろうとは。寝室に屏風が徒に立つのを見ると、断腸のような悲しみが募り、枕元には鏡が空しくかけられていて、妻を失った涙がいよいよ落ちる。黄泉の国の門が閉じられれば、二度と会うことは出来ない。なんと悲しいことか。」

 

この辺りは仏典よりも、様々な漢籍の死者を哀悼する漢文による影響が色濃い。例えば最後の方、配偶者を失った悲しみの涙を表す染竹(せんいん)の涙 は、古の聖帝 舜が亡くなった時、后たちが流した涙の跡が残ったのが斑点の有る竹 染竹(せんいん) だという伝説に基づいている。中国では仏教的な文章も、漢籍の伝統的な表現と習合しながら書かれたものだが、憶良もまたそうした作文の方法を取っている。

 

詩は七言絶句の形である。愛河(あいが)の波浪は ~浄刹(じょうせつ)に託せむ。

「愛の河の浪は既に消え、苦しみの海の煩悩も又結ぶことがない。元よりこの汚い世の中を厭い離れようとしていた。

本願通り、この命を浄土に寄せて欲しい」

愛は私たちにとっては貴い観念であるが、仏教的には凡夫の抱く愛は執着・煩悩に外ならず、これを捨てなければ往生は出来ないと教える。妻の死によってそうした執着は消滅したというのである。この詩については後半の

従来この穢土(えど)を厭離(えんり)す。本願をもちて生を彼(そ)の浄刹(じょうせつ)に託せむ が、自分の事なのか、妻の事なのか、或いは両方なのかという問題がある。判断は難しいが、供養願文の中に、最後に死者に対して往生を呼びかける一節を持つものがあり、それに憶良が触れた可能性があるという 早稲田大学の高松久雄さんの説に従って、妻の往生の呼びかけと考えておきたい。それでも妻は、私への愛、執着は無くなったはずだと自ら言うのに痛切な悲しみを感じないではいられない。

 

この哀悼の文と詩の後に、日本挽歌と題して長歌と5首の反歌が置かれている。まず長歌を見てみよう。

5-794 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良

原文 

大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀<>母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那i枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良i為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須

訓読

前半

大君の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思わぬ間に うち靡き 臥()やしぬれ 

後半

言はむすべ 為()むすべ知らに 岩木をも 問ひ放():け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離(さか)りいます

 

794 長歌 略

歌はまず経緯から述べる。

「大君のお治められる遠い政庁だとて、この遠い筑紫の国まで、泣く駄々っ子のように後をついていらっしゃって、息さえ休ませる暇もなく、年月もいくらも経っていないで、心の片隅にも思っていなかったうちに、草木が靡くように横になってしまわれた。

前半

泣く子なす 泣いている子供のように の意味で、どうも妻は聞き分けが無くて、どうしても一緒に行くと言って、筑紫に下ってきたようである。それなのに、着いた途端に病に伏してしまった。うち靡き 臥()やしぬれ  本来 五七であるべき所が、五五の破調になっている。憶良はわざと破調にすることで、段落を作っているのであろう。

後半

「病気になった妻を前に、自分はなす術を知らない。言いようもなくしようもなく、岩や木に尋ねることも出来ず、家に居れば顔、形もしっかりしていただろうに、恨めしい妻よ、私に一体どうしろと言うつもりで、カイツブリのように二人並んで座って、相談した事を反故にして家を離れてしまったのか。」

岩木をも 問ひ放():け知らず岩や木のように人語を解さない自然物に死に行くものを、助ける方法を尋ねようにもそれも出来ないという事。勿論、人知は尽くした上ですがる思いで、岩や木に尋ねようとしてそれも空しいのである。最後は妻に恨み言を言うしかないのである。妻は無理に筑紫に下ってきたのである。そのまま奈良の自分の家にいれば、今でも元通りの顔形だと思うのにと言っている。その後のにほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離(さか)りいます→何故、偕老同穴の契りを破って死んでしまったのかと解されることが多いが、私はもっと具体的に

「自分は筑紫に下るが、お前はここで待ってなさいという約束を破って、家を離れてしまったのか」という意味に取るべきと思う。家離(さか)り は、確かに死ぬということの譬喩になる事があるが、今の場合それだと家ならば 形はあらむを との関係が不明確。「その時に二人で決めたではないか。何故それを破ってついて来たのだ。全部それが原因だ。俺にどうしろと言うのだ と死んだ妻に詰問しているのである。

 

続いて反歌5首。

5-795 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良  この題詞に既に述べた漢文、漢詩がある。反歌1

原文 伊幣尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母

訓読 家に行きて いかにか我がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも

 

5-796 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良 この題詞に既に述べた

             漢文、漢詩がある。反歌2

原文 伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左

訓読 はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ

 

5-797 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良 この題詞に既に述べた

             漢文、漢詩がある。反歌3

原文 久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎

訓読 悔しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと みせましものを

 

5-798 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良 この題詞に既に述べた

      漢文、漢詩がある。反歌4

原文 伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓

訓読 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干()なくに

 

5-799 作者不詳 左注 神亀五年七月㏴筑前国守 山上憶良 この題詞に既に述べた

       漢文、漢詩がある。反歌5

原文 大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流

訓読 大野山 霧立ちわたる 我が嘆くおきその風に 霧立ちわたる

 

五首の反歌は異例中の異例で、これに勝るのは憶良自身の後半の作のみである。反歌の中に展開があるので、数が必要なのであろう。

 

795 家に行きて いかにか我がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも

「家に行って私はどうしようというのか。枕の有る寝室が淋しく思われるだろう。」

これも妻を葬った場所から家に戻って、どうしたらよいのかと解されることもあるが、妻は下ってきてすぐ亡くなったので、筑紫に家とか妻屋と呼ぶべき場所はない。家とは英語のホ-ムに当たる言葉で、自分の本拠、いるべき場所という事なので、奈良の家が相応しい。地方官にとって、家に帰る事は最大の願いであるが、折角それが実現しても妻がいないでは、夫婦の寝室が淋しく思われるだけだという事である。我れをばも いかにせよとか という長歌の当惑の思いがまだ残っている。

 

796 はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ

「何と愛しいことか。こうなるだけだったのに、後をついてきた妻の心の何といいようのなさよ。」

はしきよし は、愛おしい、懐かしいと言った意味であるが、独立して詠嘆を表す。ここに心境の変化が見える。

それまでは自分は一体どうしたらいいのかという事ばかりあったが、ここでは妻の心のあり様に思いが向けられている。妻は自分を慕って此処迄やって来たんだった。結果が悪かっただけなんだ。その妻の心を思えば自分には何ともしようがない。

 

797 悔しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと みせましものを

「悔しいことよ。こうなると知っていたら、奈良の周囲のあちこちを見せてやれば良かった。」国内(くぬち)ことごと みせましものを を、筑紫のあちこちを見せてやれば良かったとする説もあるが、違う。あをによし 、奈良に掛かる枕詞だし、筑紫に着いてすぐ亡くなった妻には、元々そこを案内するような時間はなかったはずである。初句の悔しかも は、悔いるという動詞の形容形なので、自分のしてしまったことを後悔する気持ちである。なのでかく知らませば→こうなると分らなかったことを後悔するのではない。それは結局、自分が筑紫に下ったのが原因という事ではないだろうか。単身赴任など断って、仕事を辞め、夫婦で奈良の周りを訪ね廻る、生活をすれば良かった。それなら妻が奈良の家を離れる事もなかったはずだと解される。

 

798 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干()なくに

「妻が最後に見た楝(おうち)の花は、散ってしまいそうだ。私が流す涙はまだ乾いていないのに。」

楝は、今は栴檀(せんだん)と呼ばれる香木で、初夏に白い花を咲かせる。妻が亡くなったのは、楝の花が咲き始めの頃であったのだろう。時が経ち、それも散り際になっている。しかし自分の涙はまだ乾かないと歌っている。恨みも後悔も去り、悲しみが自分を浸している。

 

799 大野山 霧立ちわたる 我が嘆くおきその風に 霧立ちわたる

「大野山に霧が立ち込めている。自分がつくため息の風できりが立ち込めている。」

大野山は、大宰府政庁の裏にあって、頂上には砦がある山である。そこに霧が立ち込めているのは、自分のため息だという。霧は秋に立つものなので、前の楝の花の歌よりも時間が経っている。漢文からこの歌までの全体が、七月二十一日という、秋の日付で旅人に献上されているので、この時に近い時点を考えて良いであろう。季節が変わっても、悲しみは癒されない。妻に死なれ一人残された筑紫で、ため息をつき続けて居る。霧立ちわたる のリフレインは霧に深さと共に悲しみの深さをも表している様である。

 

日本挽歌のまとめ

日本挽歌の終わりはあまりにも感情が率直で、憶良自身も妻を亡くした体験があったのではないかと言われている。

しかしこれが、数ヵ月前に妻を失った旅人に献上された事は注に明らかであるし、体験が無ければ歌えないものでもない。

強いて言えば、この 我 が旅人自身でも、彼自身でもないのであろう。筑紫に下って妻を失った男の悲しみを造形することで、旅人を慰めようとしたのだと思う。その前の漢文や漢詩は、世間無情の理(ことわり)と悲しみ、往生の願いを込めていた。普通ならそこで終わりであろう。しかし憶良は、それを越えて妻を死なせてしまった事への、より生の感情を表現している。日本挽歌と言う題は、私達の使い慣れた言葉で歌う挽歌ということなのであろう。だから漢詩文とは全く異なるアプロ-チをしていると思われる。旅人が、漢文書簡を書いた上で 筆は言を尽くさず と述べて、世の中は空しきもの

と歌った。憶良はそれに触発されて、漢詩文からはみ出した思いを、和歌に記したのであろう。筑紫で二人の交流は、このやりとりが発端だったと思われる。

 

「コメント」

 

この時代の中級、高級官人たちの大陸文化の教養に驚く。むしろこれが不可欠だったのかも知れない。そしてそれを使っての和歌。驚嘆する。個人的な関係もあろうが、旅人と憶良の付き合いの深さ。いよいよ筑紫歌壇のスタ-トか。