221224 ㊳「大伴坂上郎女の歌」

前回

大伴旅人が大納言となって、大宰府から帰京した後の、憶良の歌に付いて話した。旅人が天平37月に亡くなった後、憶良も帰京してその後は官に就かなかった。それでも 貧窮問答歌 に、多くの家族を抱え食べるものにも事欠く呻くだけの生活の者にまで、容赦なく鞭を持った里長がやって来る理不尽さを、自分をモデルにした貧者と、更に窮乏するものとの問題として描き、官人の誰かに献上した。それは男子として世の中の事に働く志を最後まで、憶良が捨てなかったことを表すものであった。

憶良自身、恐らく貧しい家に生れ、懸命に努力を重ねて遣唐使に抜擢され、貴族の末席に名を連ねた経歴を持っている。

それだけに人として生まれ、仏法に触れ得る幸運を得たものという点では、平等であるという仏教的人間観には深く納得していたと思われる。しかしそれで人生を捨て、往生を願う生き方を憶良は選ばない。却って子供への煩悩を、最後まで持ち続けて歌にする。あくまで凡夫としてこの世の人生に執着し、名を立てたいと病床で涙を流すのである。

 

古代の女性の立場

旅人や憶良は、一定の身分の官人が自分の政治的立場で、自分の思いを和歌に託すことを始めた人々である。それは漢詩の 述志(志を述べる) という生活に倣ったものであるが、志 という字が 男という意味の 士 の下に 心を書くように、それは男の世界のもので、漢詩には 閨怨詩(けいえんし)という男を待つ寂しい女性の心を歌う詩のジャンルもあるが、作るのは男で女性は詩の世界からはほぼ排除されていた。古代の大和でも実際に政治を摂る官人は男に限られ、女は位階を持って宮中で働くのだが、主な働き場所は女性だけの空間、天皇の妻たちの暮らす後宮だったのである。

古代はより男中心の世界だったのである。但し前にも述べた様に、古代の大和の社会は、家庭が母と子を中心に営まれていて、男の地位の継承には、母親の出自がものを言ったので、女の発言権もそれなりにあった。そして和歌も相聞歌という形を男と女とが渡り合う契機があった。女歌は男を待つのが基本構図ではあったが、中には但馬皇女の様に決然と行動することを歌う人もいた。しかし裏を返せば、女の歌は相聞歌という私生活の中に押し込められていたともいえる。

女の歌人として有名なのは額田王である。額田王には相聞歌はごく少なく、むしろ雑歌が多い。天皇に対する挽歌もある。しかし初期万葉時代の歌人である額田王は、宮廷のイベントで、集団の中で歌うのが主で、自分の立場に即して歌っているとは言い難い。旅人や憶良に匹敵するような自分の立場で歌う、女の歌人はいないのだろうか。その意味で

旅人の異母妹 大伴坂上郎女は注目に値すると思われる。但し彼女の主戦場はやはり相聞歌である。

 大伴坂上郎女

4は 一巻全部、相聞の歌であるが、ほぼ年代順の配列になっており、途中からは大伴氏の氏族史の様相を呈している。その中で、坂上郎女が舞台に登場する歌群を読む。

4-522 藤原麻呂 題詞 京職(きょうしき)藤原大夫 大伴郎女に贈る歌三首 卿諱(いみな)を麻呂と言う

原文 嬬等之 珠篋有 玉櫛之 神家武毛 妹尓阿受有者

訓読 娘子(をとめら)が 玉櫛笥(くしげ)なる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はずあれば 1/3

 

4-523 藤原麻呂 題詞 京職(きょうしき)藤原大夫 大伴郎女に贈る歌三首 卿諱(いみな)を麻呂と言う

原文 好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来

訓読 よく渡る 人は年にも ありといふを いつの間にぞも 我が恋ひにける 2/3

 

4-524 藤原麻呂 題詞 京職(きょうしき)藤原大夫 大伴郎女に贈る歌三首 卿諱(いみな)を麻呂と言う

原文 蒸被 奈胡也我下丹 与妹不宿者 肌之寒霜

訓読 むし衾〈ふすま〉 なごやが下に伏せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも 3/3

 

4-525 大伴郎女の答える歌4

  左注 大伴郎女は佐保大納言卿の娘なり。はじめ一品(いっぽん)穂積皇子に嫁ぎ、寵を叶ふること類なし。しかして、皇子 薨ぜし後のことに、藤原之麻呂大夫 郎女を妻問う。郎女は坂の上の里に家あり。よりて名付けて 坂上郎女という。

原文 狭穂河乃 小石践渡 夜千玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳

訓読 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬(くろま)来る夜は 年にもあらぬか 1/4

 

4-526 大伴郎女の答える歌4

原文 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者

訓読 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 やむ時もなし 我が恋ふらくは 2/4

 

4-527 大伴郎女の答える歌4

原文 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎

訓読 来むと言うも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを 3/4

 

4-528 大伴郎女の答える歌4

原文 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者

訓読 千鳥鳴く 佐保の川門(かはと)の 瀬を広み 打橋渡す 汝()が来()と思へば 4/4

 

歌の題詞では、この女性は大伴郎女と表わされている。郎女とは、貴族の中心となる高貴な女性、お嬢さんと言った意味。注には、この女性のプロフィルが説明される。この郎女は大納言大伴安麻呂の娘である。はじめ一品に昇った穂積皇子に嫁ぎ、とても寵愛された。皇子が亡くなった後、郎女に藤原四氏の末弟、麻呂が求婚した。郎女は坂上の里に

住んでいたので、大伴氏の者たちは、坂上郎女と呼んだ。穂積皇子は天武天皇皇子で、但馬皇女の恋人である。

和銅三年708年に、但馬皇女が亡くなった後、郎女が後妻に入ったのであろう。穂積皇子は霊亀3715年に亡くなるが、その時皇子は40代前半。郎女はまだ20歳前後。藤原麻呂は平城京を収める京職(けいしき)を長く務めたので、

題詞でもその官の名で呼ばれている。麻呂の子孫たちを 京家 という。持統天皇9年 695年の生まれで、郎女と同世代。坂上郎女の住んだ坂上の里は、今の奈良県北部の法蓮町北町で、この既述の後,郎女は大伴坂上郎女と呼ばれることになる。

 

さてこの歌群では、麻呂が坂上郎女に歌を贈り、坂上郎女が和した贈答である。注には麻呂が坂上郎女を妻問う 求婚したとあるが、歌はどうであろうか。

522 娘子(をとめら)が 玉櫛笥(くしげ)なる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はずあれば 1/3

「貴方の櫛箱にしまい込まれた櫛の様に古びてしまったよ。貴方に逢えないままに捨て置かれてしまって」

坂上郎女に逢えないままに、自分は年を取って段々仙人の様になってきた と言うのであろう。それにしても、

娘子(をとめら)が 玉櫛笥(くしげ)なる 玉櫛の という仰々しい序詞は何なのか。それはこの歌が、三輪山神話を踏まえていることを示すのである。三輪山の神は、人間の妻に正体を見せてくれと言われ、妻の櫛の箱の中に蛇として入っていて、驚かれると恥をかかされたと言って怒り、妻を殺すのである。玉櫛笥(たまくしげ)の中に神とくれば、誰でもその伝説を想起した事であろう。すると第二首も見えてくる。

 

523 よく渡る 人は年にも ありといふを いつの間にぞも 我が恋ひにける 2/3

「よく我慢できる人は、一年でも逢わずにいられると言うが、私は寸時も待てずに恋しさが募ります」一年会わずに我慢する人、思い起こすのは七夕伝説である。柿本人麻呂歌集に始まり、旅人も憶良も七夕の宴を開いている。宮廷では、周知の伝説であった。

 

524 むし衾〈ふすま〉 なごやが下に伏せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも 3/3

「ホカホカの軟らかい布団の中で、横になっているが、あなたと共寝しないから朝が寒いよ」

この むし衾〈ふすま〉 なごやが下 は、古事記の 大国主命の歌に出て来る言葉である。大国主命は、妻であるスサノオの娘である須勢理毘売命が余りにも嫉妬深いので、家を出ていく事にする。しかし須勢理毘売命は、むし衾〈ふすま〉 なごやが下に→ 暖かく柔らかい布団で共寝を誘って、引き留める。

以上麻呂の3首は、いずれも知られていた伝説を匂わせる歌になってたいたのである。

注には、麻呂が坂上郎女に求婚したとあるが、3首いずれも求婚の時の歌とは思われない。一旦仲が成立した後、趣向を凝らして贈ったのであろう。

 

坂上郎女はどう応じたか。

525 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬(くろま)来る夜は 年にもあらぬか 1/4

「佐保川の小石を踏み渡って黒馬が来る夜は、一年中であってくれないか」 ぬか は、殆ど不可能な事への願望である。

これは巻13-3313 川の瀬の 石踏み渡り ぬばたまの 黒馬来る夜は 常にあらぬかも の川を、自分の家の近所を流れる佐保川に変え、常に を、麻呂の 人は年にも ありという にあわせて 年にも にした、いわば替え歌である。

 

526 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 やむ時もなし 我が恋ふらくは 2/4

これまた 巻13-3244 阿胡の海の 荒磯の上の さざれ波 我が恋ふらくは やむ時もなし の改作と思われる。

 

527  来むと言うも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言うものを 3/4

「来ようといっていても、来ない時があるのに、来ないといっているのに来るかと待ったりはしない。来ないと言っているのに。すっぼらかされるのがあるのに、今日来ないと言っているのに、もしかしてくるかしらと期待するのなんてやめよう。」

この歌は以前にも触れた巻11-2640 梓弓 引きみ緩(ゆるへみ 来ずは来ず 来()ば来()そをなぞ 来ずは来ばそを

「梓弓を引いたり緩めたりするように、はっきり分かるように、来なければ来ない、来るなら来るとはっきりして頂戴。どう、来るの来ないの」同じ言葉を反復する歌の もじり絵である。しかしその歌は、男に向かって文句を言っているのに対して、坂上郎女の歌はどうしても期待してしまう愚かな自分を自嘲する趣である点が違う。

 

528 千鳥鳴く 佐保の川門(かはと)の 瀬を広み 打橋渡す 汝()が来()と思へば 4/4

「千鳥の鳴く佐保の川の渡し場は、瀬が広いので板橋を渡しておきますね」()が来()と思へば 貴方が来る という意味と、自分たちの中が長く続くという意味とが、掛詞になっている。万葉集の掛詞は、例えば 御心(みこころ)を吉野の国 と言う時、御心を寄す と 吉野の国 の二つが よし と言う所で重なるように、文脈が入り変わる時に、現われることが多く、今の歌の様に 貴方が来ると思うから と 長く続いて欲しいと思うから の二つが並行して重なるような掛詞は、非常に稀である。坂上郎女の斬新さを思わせる。

 

歌より見る麻呂と坂上郎女との関係

以上坂上郎女の歌4首は、女歌の典型の様に待つことを歌っている。しかし待っていると、相手に訴えかけているのでもなく、自省的なのが特徴である。4首中、3首に佐保川を歌っていることに象徴されるように、坂上郎女は自分の領域に立てこもって、麻呂が自発的に来ることを求めているのである。そして麻呂が、折角作り出した趣向、物語仕立てには殆ど応じていない。却って、作者未詳の歌のもじりや、万葉集では特殊な掛詞といった独自な趣向を持って、麻呂に対抗する姿勢を見せているかの様である。

初期万葉の相聞歌に、互いに挑み合うような関係があったことは以前話した。しかし麻呂と坂上郎女との関係は、それとは違う様に思われる。3首に対して、4首もの歌をぶっつけながら、互いに交わることが余りにも少ない。双方の歌から、麻呂の訪問が稀になっていたことが窺われるが、互いに心も離れつつあったのではないか。

当時の結婚は、男が女の所に通う所謂通い婚であり、やがて同居に至るのが普通である。

麻呂と坂上郎女がそうした関係に至らなかった。妻問う、求婚したとあるのは、その後上手く行かなかったという事を意味するのだと思う。

 坂上郎女の母 石川郎女・石川内命婦

坂上郎女の母は石川郎女といい、大伴安麻呂の後妻であった。石川郎女は蘇我氏の傍流石川氏から大伴氏に入った人である。万葉集にこの人を、石川内命婦と記した所があり、自ら五位の位を持つキャリアウ-マンでもあったが、一方佐保大伴家の大刀自として、大伴佐保大納言家の主婦だったとも書かれている。そのように他の氏族から入り氏族の中心になりつつ、子孫を繋げる存在になる。

 坂上郎女の義理の兄・大伴宿奈麻呂との再婚 

坂上郎女にもそうした道はあった筈。しかし坂上郎女は日の出の勢いの藤原氏の一員になる事は、選ばなかった。彼女は父・安麻呂の先妻・巨勢郎女の子、つまり自分の異母兄である大伴宿奈麻呂(すくなまろ)と再婚し、二人の子を産んだ。いわば大伴氏に留まった母の後を継いだのである。

佐保の名を繰り返す、先程読んだ数首は彼女の人生を象徴するように見える。一族の主婦の仕事は色々とある。例えば、大伴氏には、奈良盆地の南部・藤原京の近くに、いくつか荘園があり、氏の経営の支えとなっていたが、農繁期にはその監督に、坂上郎女は出向いていた様である。

 

その時の歌。

723 坂上郎女 大伴坂上郎女が跡見の庄から、家で留守番をしている娘の大嬢に贈った歌

原文 略

訓読

常世にと 我が行かなくに 小金門(おかなと)に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬまたばの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せけぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ

 

724 坂上郎女 大伴坂上郎女が。跡見の庄から、家で留守番をしている娘の大嬢に贈った歌 反歌

原文 麻髪之 念乱而 如是之 名姉之恋曽 夢尓所見家留

訓読 朝髪の 思ひ乱れて かくばかり 汝姉(なね)が恋ふれぞ 夢に見えける

 

723

これは坂上郎女が、荘園の一つ跡見庄から家に残った長女 坂上大嬢に贈った歌。長歌の大意。

「常世の国に行ってしまうという訳でもないのに、門の所で悲し気な思いに沈んだわが娘の事を、夜昼となく思い続けて痩せてしまった。嘆いていると袖まで濡れてしまう。そんな風に無暗に悲しく思っていたら、古びた里に何か月もいられそうにないよ」

注に大嬢から送られた歌に答えたとある。母恋しさを綿々と歌ったのであろう。母である坂上郎女はいささかあきれ顔である。遠くといったって、別世界に行くわけでもないのに、お前は見送る時に随分悲しそうだった。その顔がずっとちらついて、私も痩せる思いだよ。そんな有様では、何か月もこんな古びた所で過ごせはしない と言うのである。

異母兄 旅人が、故郷の飛鳥藤原京に深く馴染んで、大宰府で痛切に回想し、死の床でもう一度行きたいと望んだのに対して、坂上郎女はその辺りにいたのは、せいぜい10年程度だったので思い入れは余りない。

 

坂上郎女は巻6-992に、元興寺の里を詠む歌があって、故郷(ふるさと)の 明日香はあれど あおによし 奈良の明日かを 見らくし良しも 元興寺は、今 奈良市に極楽坊と言う建物だけが残っているが、奈良時代には大きな寺で、元は法興寺今の飛鳥寺が平城京に移転したものである。それで奈良時代に、平城京の元興寺も飛鳥寺と呼ばれたらしい。歌は「飛鳥の故郷もまあ良いが、この奈良の飛鳥寺は素晴らしいなあ」と述べている。

ピカピカの新しいお寺の方が、立派で良いと言っている。それは旅人とは大いに違う態度であるが、古くからの地盤も天皇の居ない古い都は、もう好んで居たい場所ではないという点では、忘れ草を身につけて忘れたいと歌った旅人に共通していると思う。

 

724 朝髪の 思ひ乱れて かくばかり 汝姉(なね)が恋ふれぞ 夢に見えける 反歌

「寝起きの髪の様に、思い乱れてそんな風にお姉ちゃんが思ってくれたので、夢に見えたんだね」

強く思うと、相手の夢に現れるという俗信が、恋歌によく詠まれるが、それを応用してお前が私の事を恋しく思うのは分かっているよ」と、伝えるのである。お母さん早く帰ってきてよと恋しがる大嬢を宥める趣。毎年かどうか分からないが、一旦出掛ければ、数ヶ月にわたって家を空ける事もあったのである。

 

一族に重要な人物が亡くなれば、葬式を取り仕切るのも主婦の仕事である。

3雑歌部 460461 これは新羅から渡来して、大伴氏の氏寺にいた 尼理願が、天平7735年に亡くなった後、葬儀を終えて、その間有馬温泉に行って不在だった坂上郎女の母 石川郎女に連絡を兼ねて送った歌である。

3-460 坂上郎女 大伴坂上郎女ガ尼 理願の死を悲嘆して作った歌

原文 略

訓読 

たくづのの 新羅の国ゆ 人言を 良しと聞かして 問ひ放()くる 親族兄弟(うがらはらがら) なき国に 渡り来まして 大君の 敷くきます国に うちひさす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす  慕ひ来まして しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者(ひと) 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川の 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠れましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただひとりして 白たへの 衣手(ころもで)干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居になびき 雨に降りきや

 

3-461 坂上郎女 大伴坂上郎女が 尼 理願の死を悲嘆して作った歌 反歌

原文 留不得 壽尓之在者 敷栲乃 家従者出而 雲隠去寸

訓読 留めえぬ 命にしあれば 敷栲の 家ゆは出でて雲隠りにき

 

460 長歌略

たくづのの は、新羅 に掛かる枕詞。「新羅の国から、人の噂に良い国だとお聞きになって、相談する親や姉弟もいない大和国に渡ってこられて、天皇のお治めになる都にはぎっしりと里や家が多くあるのに、どの様に思われたのか、縁も所縁もない佐保の山辺にどうしてもと、慕って来られて、家までも作り、長い期間住んでおられた。と始まる。

注によれば、理願は坂上郎女の父 安麻呂の代に大伴氏に身を寄せてから、20年以上経っていたという。坂上郎女にとっては、長い間馴染んだ人だったのであろう。知る人の誰もいない異国に態々やってきた仏教者としての理願の志に感謝し、広い国の中で沢山ある家の中に、たまたま大伴氏と縁を結んだことを、いかさまに 思ひけめかも と不思議に思っている。いかさまに と、故人の生前の意思を忖度するのは、挽歌の型の一つである。死者の来し方を、たとえながら記憶するように歌うのも、挽歌の大事な機能の一つである。叙事に長けた長歌で歌っているのもその為であろう。

仏教では男女は厳密に区別されるので、坂上郎女や母・石川郎女は女性だけで僧 理願に説法を受けていたのであろう。しかし仏教の教えるように、生ける人 死ぬことを免れぬもの であるから、理願も病に罹って亡くなったのであった。頼りにしていた人々、石川郎女たちが当時、旅に出ていた間に、佐保川を朝渡り、春日野を後に見ながら山辺の方角に、夕方の闇に紛れて隠れてしまった。注には、棺を送ったとあるので、理願の道行きは、実際には葬送の事を言っているのであろう。最後は葬儀を終えての自分の悲しみを伝える。

「言いようもなく仕様もなく、ウロウロしながらたった一人で衣の袖が乾く暇もないように、嘆きながら流す私の涙は、そちらの有間山の雲となり、雨となって降ったのではないでしょうか」と言う。

 

そして、「留められない命であるから、家を出て雲に隠れて行きました」と長歌を纏める反歌で歌い納めている。

401 留めえぬ 命にしあれば 敷栲の 家ゆは出でて雲隠りにき

雲隠りにき と言うのは、死者が仏教者だから、荼毘に付されて煙となっていったことを表すのかも知れない。

 

坂上郎女の役割

母 石川郎女は大刀自と呼ばれており、その留守を預かって葬儀を仕切ったのが坂上郎女であった。だからまだ主婦見習いと言った所であるが、一生懸命に大伴氏の為に働いている様に見受けられる。坂上郎女にとっては、大伴氏を纏めていく事が一番の関心事であった。

大伴氏の氏神を祀る地に作ったという神を祀る歌も、巻3にあるし、大伴氏の人々を招いて宴を開き、ホステスとして、

6-995 かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は咲きつつ 秋散りゆく 「こうやって飲んで遊んでください。草木だって春は芽吹いて、秋は散っていくのです。」と歌ったりしている。兄 旅人の 酒を讃むる歌 と比べると、同じ無常観に裏づけられているが、ずっと陽気である。

 

氏族の変化

しかしそのようにまとめて行かないと、氏族はバラバラになってしまうという、危機感もあったのであろう。大伴氏のような氏族は、かって集団ごとに職を担って大君に仕えていたが、律令制の時代になると、官人の出身母体と言った性格が強くなる。氏族内に複数の家が成立して、利害が対立する場合も出て来る。藤原氏も不比等の四人の子が、南、北、式、京と言う家を立てた。彼らはそれぞれにライバルでもあったが、一致協力して長屋王政権を倒し、内閣を占拠したのである。

坂上郎女は旅人と、夫となった宿奈麻呂と共に、佐保大納言安麻呂の子で、その家の一員であるが、大伴氏の他の家とも連携しなければならない。

 

大伴家 刀自として坂上郎女の役目

以前譬喩歌の話で、巻3-401坂上郎女 山守の ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結ひの恥しつ

「山を管理する山番がいるとも知らず、その山に標杭を立てて縄を張るなんて、恥ずかしいことだった」

それは坂上郎女が一族の宴会で歌ったもので、父 安麻呂の兄・御幸の孫にあたる駿河麻呂に、自分の次女 坂上二嬢との婚約履行を一族の前で迫ったものと思われる。駿河麻呂は致し方なく 巻3-402 山守は けだしありとも 我妹子は 結ひけむ標を 人解かめやも 「山番は例えいても、あなたが付けた目印を、勝手に解くものですか」と答えている。駿河麻呂に対する坂上二嬢への恋の歌も残っているので、その結婚は成り立ったようである。

一族の結束を固めるのに一番有効なのは、一族内の結婚である。坂上郎女自身が、異母兄宿奈麻呂と結婚した。旅人の妻も大伴郎女だから、一族内結婚である。そして、坂上郎女は下の世代にも一族内列婚を奨励したのである。駿河麻呂と坂上二嬢がその例であるが、自分の同母弟 大伴稲公(いなきみ)が宿奈麻呂の娘、即ち自分の義理子である大伴田村大嬢に贈る恋歌の代作までしている。一番大事だったのは、佐保大納言家の嫡男であった家持であったろう。

家持には、自分の長女坂上大嬢との結婚を望んだ様である。しかし、家持は坂上大嬢と一旦結婚したが間もなく別離したらしい。その経緯は巻4を辿ると分かるようになっている。坂上大嬢との相聞歌は途絶え、多くの女性たちと家持との相聞歌が残されている。それに混じって、坂上郎女の次のような歌がある。

4-619 坂上郎女 坂上郎女の怨恨の歌 長歌

原文 略

訓読

おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へは まそ鏡 磨()ぎし心を 緩(ゆる)しても その日の極み 波のむた なびく玉藻に かにかくに 心葉持たず 大船の 頼める時に ちはやぶる 神か放()けけむ うつせみの 人が障()ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓(たまずさ)の 使ひも見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)をなみ 思へども たづき知らに たわやめと

言はくも著(しる) たわらはの 音(,)のみ泣きつつ たもとほり 君が使ひを 待ちやかねてむ

 

4-620 坂上郎女 坂上郎女の怨恨の歌 反歌

原文 従元 長謂管 不令特者 如是念二 相益物

訓読 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かかる思ひに 逢はましものか

 

619 

おしてる は、難波 にかかる枕詞で、おしてる 難波の菅 までは、ねもころ を引き出す序詞である。その他、この長歌には、枕詞が多用されており、かなり修辞的な長歌である。

「難波の菅の根ではないが、ねんごろに貴方が声をかけてくれて、何年も末永くというので、心を研ぎ澄まして靡くまいとしたのですが、一旦心を許したら最後、その日を境にして、波と共に揺れる玉藻の様にあれこれと迷う心は持たず、大船に乗った気持ちで頼みに思っていたその時に、貴方の方から誠意を示して求婚したではないか。私は貴方を信頼して疑う気持ちを捨てたその時に」 時に は、挽歌のようにも見える暗転の印です。「恐ろしい神が引き離したのか。この世の人が邪魔したのか、お通いになっていた貴方は見えなくなり、使いさえ来なくなった。まさかあなたが裏切ったとは思いたくないが、何故か途絶えてしまって、自分はどうしようもない。夜は一晩中、昼は日が暮れるまでずっとため息をついても、思案しても良い方策は思いつかない。たわやめと 言はくも著(しる)く か弱い女と言うのも その通り、幼児の様に声を出して泣いてばかりの状態で、貴方の使い待ちかねていなければならないのか。せめて使いを寄こして訳を説明してください」

 

620 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かかる思ひに 逢はましものか

「最初から末永くなどと、頼みにさせなければ、こんな思いにあうことが無かったでしょうに」

言ったことに責任を取って下さいということが暗示されている。

 

此の二首の題名は 怨恨歌 恨みの歌である。長歌のたわやめと 言はくも著(しる)く は、原文では 幼婦 となっている。幼妻を暗示する。配列からしても、坂上郎女自信とするには年齢的に会わない。坂上郎女の夫である宿奈麻呂はとっくに亡くなっていて、その後の新たな恋の経歴もない。

これは坂上大嬢に代わって、家持に示したのではないかと言われており、私もそう思う。家持と坂上大嬢の結婚は坂上郎女にとって、是非とも実現しなければならないことであった。目論み通り、二人はよりを戻すことになる。

 

大伴坂上郎女の生き方をどうお思いになるだろうか。最低三回結婚しているので、恋多き女等と呼ばれることもある。

しかし、その結婚は、生まれた大伴氏と言う氏族の為にしていることなのである。その点では、氏神を祀ったり、農事の監督をしたり、葬儀を取り仕切ったりすることと同じである。公と私という区別を立てれば、女性の営みは私の世界の事柄である。しかし、その私すらも、公事、政治と深く結びついているのであった。それは、坂上郎女に限ったことではなく、万葉時代の貴族の結婚は全て政略的結婚と言っても過言ではない。

しかし一族の命運に関わることこそ、彼らは真剣に渡り合い、又苦しまねばならない。

恋歌は基本的に、フィクションであるが、仇や疎かに歌われているのではない。その事は声を大にして言って置きたい。

 

「コメント」

 

一族が、家族が、必死に生きねばならなかった古代も大変だ。個人で生きるとしたら、その輪を抜けなければならなかったのであろう。それは死を意味することかもしれない。