230204 ㊸「大伴家持をめぐる恋の歌と忘妾悲傷歌」

前回は大伴家持が詠物歌、景物の歌を中心に読んだ。詠物歌は宴会などで題に基づいて、いかに読みこなすかを競う遊戯的な面もあるが、家持の場合はその時に固有の景物を歌うことで、詠んでいるその時の自分を記し留めるという機能を持つようになる。それは複数集まることで、自らの気分の推移を描く連作となり、さらには自分の境遇と心境の変化を記録する歌日誌へと展開していく。その中では叔母 大伴坂上郎女の指導を受け、20代で経験した恭仁京時代では、弟 大伴書持が贈答の相手になっていた。パートナ-は時々に代わっていくが、家持は歌を通じての交流を大事にし、歌日誌にもその様を描き出している。

 家持と坂上大嬢との結婚

今日はそうした雑歌に載せられる景物の歌、詠物の歌と平行して作られていた女性にかかわる歌を見たいと思う。万葉集の巻4は巻丸ごと相聞で、おおよそ年代順に配列されており非常に古い歌で始まるが、途中からは大伴氏内での人間関係を表す歌が多くなる。大友坂上郎女をめぐる部分は、既に扱ったが、さらに後の方になると家持と女性たちの歌が多くなる。
その最初は大伴坂上郎女の長女 大伴坂上大嬢から家持に贈られた恋歌4首、581-580、しかしこれに対する家持の返歌は残されていない。あったのかもしれないが、万葉集には見えない。それどころか二人の間の歌は、双方ともその後
しばらく見えなくなる。

次に現れるのは150首近く隔てて、727番に家持から大嬢に贈られた歌で、その題の注に 離別数年 また逢えて相聞往来す とある。家持と大嬢とは一旦結婚したものの、間もなく立ち消えになり、数年後にはよりを戻したようである。

二人の結婚は坂上郎女の望むところであったと思われ、坂上郎女が恨みの歌を大嬢に代わって家持に示したことがあったことは話した。母親の望む結婚をしたものの、互いに若すぎて上手くいかなかったのだろう。

 

 郎女と女郎の呼び方の違い

なお私はジョロウ と音読している。反対に郎女と書いてある イラツメ と音読して問題ないのだが、女郎のほうはどう訓読するのか不明である。家持は郎女を大伴氏内の自分より上の世代に使い、女郎を他の氏族の女性に用いて、はっきり書き分けているので、混同を防ぐために音読している。同じ理由で大伴氏内の家持と同じ世代を表す大嬢、二嬢と書いてあるのも音読する。

 

 家持の恋歌

離別数年の間の約100首には、多くの女性たちと家持との恋歌が載せられている。中でも巻424首もの歌を載せる笠女郎の歌は大変目立つ。5首を読む。

4-587 笠女郎 笠女郎が家持に贈る歌24

原文 吾形見 見管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛将思

訓読 我が形見 見つつ偲はせ あらたまの 年の緒長く 我も偲はむ 1/5

 

4-594 笠女郎 笠女郎が家持に贈る歌24

原文 吾屋戸之 暮陰草乃 白露之消蟹本名 所念鴨

訓読 我がやどの 夕陰草の 白露の 消()ぬががにもとな 思ほゆるかも 2/5

 

4-596 笠女郎 笠女郎が家持に贈る歌24

原文 八百日往 浜之沙毛 吾恋二 豈不益歟 奥嶋守

訓読 八百日(やほか)行く 浜の真砂も 我が恋に あにまさらじか 興つ島守 3/5

 

4-600 笠女郎 笠女郎が家持に贈る歌24

原文 伊勢海之 磯毛動尓 因流波 恐人尓 恋渡鴨

訓読 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波 畏き人に 恋ひわたるかも 4/5

 

4-608 笠女郎 笠女郎が家持に贈る歌24

原文 不相念 人尓思者 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如

訓読 相思わぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方(しりへ)に 額(ぬか)つくごとし 5/5

 

587 我が形見 見つつ偲はせ あらたまの 年の緒長く 我も偲はむ 1/5

「差し上げた形見を見て、私を思い浮かべて下さい。これから末永く私も思いましょう」

このころは相思相愛だったのである。しかし間もなく笠女郎にとっては苦しい片恋になる。

594 我がやどの 夕陰草の 白露の 消()ぬががにもとな 思ほゆるかも 2/5

「家の庭の夕陰草に降りる白露が消えるように、消え入りそうになるまでどうしようもなく貴方が偲ばれる」

夕方は訪れる頃で、来ない家持を待ちながら、一人庭に向かって草を見て、自分もあそこに降りる

白露のようだという。

596 八百日(やほか)行く 浜の真砂も 我が恋に あにまさらじか 興つ島守 3/5

800日も掛けて行く長い浜にある砂の数だって、私の恋しさの回数には及びません 沖の島守よ」

問いかける相手を沖の島守にしているのは興味を引く。むろん家持に贈っているのであるが、見も知らぬ人に呼びかける態で歌うことによって、家持につれなくされることが露わになっている。

600 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波 畏き人に 恋ひわたるかも 4/5

伊勢は風や波の激しく打ち付ける土地である。それほどに家持は畏れ多い人だったのに」
そんな人に恋してずっと苦しんでいることを嘆いている。笠氏は大伴氏のように高位高官を輩出する名門ではない。

二人の格差は最初からはっきりしていたのに、冷たくされてみると身分の違いが思い知らされるのであろう。尤も笠女郎というのは、その氏を代表する女性の呼び方である程度の有力氏族でないと、この様な呼び方はしない。さて家持につれなくされた続けた笠女郎は、ついに別れを決意する。

608  相思わぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方(しりへ)に 額(ぬか)つくごとし 5/5

「互いに思いあってくれない人を思うのは、この寺にある餓鬼の像の後方から礼拝するようなものだ」

餓鬼は巻16の痩せた人をからかう歌にも出てくるから、寺にその姿を絵にかいたものがあったのだろう。せっかくお寺に行って礼拝しても、そんなものの後ろではご利益はない。捨て台詞を吐いて、笠女郎は平城京を離れていった。

家持にはどう応じたかというと、笠女郎の歌は巻4に24首そのほかに5首 計29首も載せながら、自作はたった2首それも笠女郎が都を去った後、送ってきた2首に答えた歌しか載せていない。しかも

4-611 いまさらに 妹に逢はめと 思へかも ここだ我が胸 いぶせくあるらむ 

「今更あなたに逢うこともないと思うから、こんなに自分の胸は気が晴れないのだろうか」
4-612 なかなかに 黙(もだ)もあらましを 何すとか 相見そめける とげざらまくに

「却って声をかけなければよかったのに、なんだって逢ったりしたのだろう実らぬ恋だったのに。」 二度と会うつもりはないとか最初から逢わなければよかったのだと二人の仲を全否定している。笠女郎には同情するしかない。

 

巻4には他にも多くの女性から家持に贈られた恋歌があるが、ほとんど家持は返歌を残していない。逆に家持から女性に贈った恋歌では相手が乙女とか童女とかになっていて、誰と対したのかが分からないようにしている。この辺りは家持の編集に依って作られたと考えるしかない。いわば編集者の特権である。

 紀女郎との歌

ただし紀女郎の場合だけは、家持と紀女郎の双方の歌がある。紀女郎は安貴王の妻であったが、王が采女との関係で処分されたのを機に離婚している。このころから家持と歌を交わしている。巻8の相聞部に載る。

8-1460 紀女郎 家持に贈る歌二首

原文 戯奴之為 我手母須麻尓 春野尓 抜流茅花曽 御食而肥座

訓読  戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に 抜ける茅花(つばな)ぞ 食()して肥えませ 1/2

 

8-1461紀女郎 家持に贈る歌二首 左注 合歓木(,ねぶ)の花 と茅花(つばな)を折り取って贈った

原文 晝者咲 夜者恋宿 合歓木花 君耳将見哉 和気佐倍尓見代

訓読 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木(,ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ 2/2

 

8-1462 大友家持 

原文 吾君尓 戯奴者恋良思 給有 茅花手雖喫 弥痩尓夜須

訓読 我が君に 戯奴は恋ふらし 賜(たば)りたる 茅はな(つばな)を食()めど 痩せに痩す 1/2

 

8-1463 大友家持

原文 我妹子之 形見之合歓木者 花耳尓 咲而蓋 実尓不成鴨

訓読 我妹子が 形見の合歓木(ねぶ)は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも 2/2

 

最初の二首は紀女郎の贈る歌で、後ろの二首は家持の答える歌である。

1460  戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に 抜ける茅花(つばな)ぞ 食()して肥えませ 1/2

戯奴は若い者という意味でここでは戯けた奴という字で表されている。それが家持の事である。元人妻だった女郎のほうが年上だったらしく、家持が坊や呼ばわれされている。茅花(つばな) は、チガヤの花のことでまだ伸びきらないうちに抜いて食べるが、一寸したおやつである。歌全体では若い者の為に手を忙しくして、春の野で抜いた茅花(つばな) を食べて栄養をつけてください。

1461 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木(,ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ 2/2

合歓木(,ねぶ) は今の ねむの木で、夜となると開いた花が閉じ眠るので、男女和合の象徴とされ、(よろこび) を、(あわせ)る と書く。それで昼は咲き夜は恋しく思いながら寝る 合歓木(,ねぶ)の花 と歌い、君のみ見めや 戯奴さへに見よ →主人だけが見ていてよいものか、若い者も見なさいと命じる。君 が自分。万葉集では女性から男性を君と呼ぶのが普通だが、男性から女性を君というのはまれで、まして女性が自分を君と呼ぶのはこれしかない。自分を主人に、家持を若い下僕に見立てて、しかも共寝を誘うかのような媚態を見せる。注によれば、合歓木(,ねぶ)の花 と 茅はな(つばな) とを添えて、この歌を贈って来たとある。

1462 我が君に 戯奴は恋ふらし 賜(たば)りたる 茅はな(つばな)を食()めど 痩せに痩す 1/2

家持は茅はな(つばな)の歌に答えて、「我が君にこの若い奴は恋しているらしい。頂いた茅はな(つばな)を食べたが、益々痩せていきます。」

1463 我妹子が 形見の合歓木(ねぶ)は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも 2/2

紀女郎の合歓木(ねぶ)の歌には「あなたから頂いた形見の合歓木(ねぶ) ですが、花ばかり咲いてもしかして、実に成らないのではないのですか。」と疑っている。凡そ恋の歌は、男からの求愛に対して女が誠意を疑うのが普通で、この二人は完全に役割が転倒している。家持は嬉々としてこの年上の人に対して、下僕の役を演じている。

 

こうしてみると家持はどうしようもない奴に見えるが、それもまた家持が見せている姿である。そんな家持にも悲しい別れがあった。巻3-挽歌部 亡妾悲傷歌 と呼ばれる歌群である。妾とは正妻以外の妻を指す。第二夫人である。家持の場合、のちに大嬢が正妻となる。この妾を悼む歌が亡妾悲傷歌 で、巻3-462から13首にわたる大きな歌群があるが、まず最初の4首を読む。

3-462 家持 十一年夏6月家持亡妾を傷んで作る歌一首

原文 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿

訓読 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか一人 長き夜をねむ 1/4

 

3-463 大友書持 すなわち答える歌一首

原文 長夜乎 獨哉将宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓

訓読 長き夜を 一人や寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに 2/4

 

3-464 又家持 砌(みぎり)の上の撫子の花を見て作る歌一首

原文 秋去者 見乍思跡 妹之植之 屋前乃石竹 開家流香聞

訓読 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植えし 宿のなでしこ 咲きにけるかも 3/4

 

3-465 家持 月移りて後に秋風を悲嘆して家持が作る歌一首

原文 虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞

訓読 うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 偲ひつるかも 4/4

 

11年は天平11年739年。家持は22歳。その夏6月に亡くなった妾を悲しんで作った歌というのも最初の歌の題詞である。

462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか一人 長き夜をねむ 1/4

「今から秋風が寒く吹くだろう。どうやって一人で寒い夜を過ごしたらいいのだろう。」

 夏なのに寒い理由

秋6月とありながら何故吹くと歌うのかというと、この天平11年は6月20日に立秋が来ていた。

当時の暦は1月とか6月とかの月は、文字通り月の進行で定められ、1日はいつも新月で15日は満月である。ただし新月から次の新月までは約29、5日なので、12ヶ月経っても太陽の運行に基づく1365日には7日足りない。そのまま放置するとどんどん月と季節とがずれてしまうので、太陽の進行に基づく 啓蟄 とか 春分 とかの24節気によって補正するのである。具体的には24節気の内、立春から数えて偶数番目にあたる節気が入っていない月をうるう月として、うるう月のある年は年13ヶ月とする。そうすると今の太陽暦では立秋は大体87日で一定だが、旧暦では立秋は何月何日にあたるかは一ヶ月くらいの幅があるということになる。月としては7月から9月は秋の月とされたので、立秋が秋7月にくる年と、夏6月にくる年とがある。

 

家持は6月も20日なのに早くも立秋を迎えたことに驚き、改めて妾が亡くなった悲しみを覚えたのである。尤も当時の暦の立秋620日は太陽暦の83日にあたるので、日本ではこれから暑く成る頃で、秋風寒く 吹きなむをというのは、実感には即していない。これは中国の季節感で、秋風は寒いとか夜が長いとかの観念も中国詩にはよく見られる。中国の文学では秋はひたすら凋落を感じさせる、

物悲しい季節なので家持はこの中国の季節感の観念によって、亡き人を偲んだのである。

463 長き夜を 一人や寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに 2/4

この歌は家持の作ではなく、弟の書持がその場で和した歌である。前々回見たように、家持の20代前半歌の友となったのは弟であった。「長い夜を一人で寝なくてはならないのかとあなたが言うと、この世を去ったあの人が思われる」弟も家持の妾とは顔見知りであった。家持の歌を引き取って、そうあなたが歌うと私もあの亡くなった人を思い出して悲しいと歌っている。

464 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植えし 宿のなでしこ 咲きにけるかも 3/4

次は家持の歌に戻る。軒の下の石畳の所に撫子の花が咲いたのを見て作ったと題詞にある。撫子は秋の初めに咲く花で、憶良の歌った秋の七草の中にも入れられている。偲へ という言葉は二つの意味があり、目の前のあるものの美しさ、見事さを賞美すること、目の前にあることから何か目の見えないものを連想することである。秋さらば 見つつ偲へと は、亡くなった妾の言葉だから、そのどちらとも取れる。秋になって自分が植えた撫子が咲いたら見て喜んでくださいという意味と、この花のころ私のことを思ってくださいというという意味と両方に解せるのである。そして妾は両方の意味を込めてそう言ったのではないか。撫子を私だと思って、見て可愛い花だと思ってくださいということであろう。妾は自分の死期を悟っていたのだという見方もあるが、続く歌からするとそうではない。妾は家持のいる所の庭に、撫子を植えにくる仲であったが、普通は別々に暮らしている。しかし妾が亡くなることで、今言う意味での形見になってしまった。

465 うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 偲ひつるかも 4/4

月が経って7月に入って秋風を悲しんで家持が作った歌 と題詞にある。うつせみ は、柿本人麻呂の 流血哀慟歌 にも出てきた、この世の人を表す言葉である。柿本人麻呂の頃は、この世で活動する人間であったが、家持の頃になると仏教を背景に所詮有限の存在という意味が強くなる。父である旅人は、妻を失った後は、巻5-793 世の中は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり と歌った。家持はそれに倣っているのだろう。しかし旅人の 世の中は 空しきものと 知る時し が、将に今であるのに対して、家持が うつせみの 世は常なしと 知る のは、今でなく前から知っているのであった。旅人が仏教の説く無常を知って、いよいよますます 悲しかりけり とそれがいよいよ悲しみを増すことに気付いたのに対して、家持は無常の法則に照らして妾の死を致し方ないと諦めるべき事は知っている。しかし月の上でも7月になってやはり吹き出した風の冷たさが身に染みて、亡き人を偲ばないではいられないと歌うのである。秋風寒み 偲ひつるかも は、第一首に 秋風寒く 吹きなむを と歌ったのを受けている。事前に予想していたことが実現してしまうということは、旅人が大宰府を出発する前に 巻3-440 都なる 荒れたる家に ひとり寝ば

旅にまさりて 苦しかるべし とやはりそうだったと嘆いたのに似ている。家持は父の亡妻挽歌を踏襲するだけではなくて、歌群の構成方法も学びながら歌っているのである。

 

続いて家持は反歌3首を伴った長歌を作っている。

3-466 

原文 省略

訓読 

我が宿に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず はしきやし 妹がありせば 水鴨(みかも)なす ふたり並び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の 消()ぬるがごとく あしひきの 山道さして 入日なす 隠(かく)りにしかば そこ思()ふに 胸こそ痛き 言ひもえず 名づけも知らず 跡もなき 世間(よのなか)にあけば 為()むすべもなし

 

3-467 反歌 1

原文 時者霜 何時毛将有乎 情哀 伊去吾妹可 若子乎置而

訓読 時はしも いつもあらむを 心痛く い行く我妹(わぎも)か みどり子置きて 1/3

 

3-468 反歌 2

原文 出行 道知末世波 豫 妹乎将留 塞毛置末思乎

訓読 出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 関を置かましものを 2/3

 

3-469 反歌 3

原文 妹之見師 屋前尓花咲 時者経去 吾泣涙 未干尓

訓読 妹が見し 宿に花咲き 時は経ぬ 我が泣く涙 いまだ干()なくに 3/3

 

466 

我が宿に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず はしきやし 妹がありせば 水鴨(みかも)なす ふたり並び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の 消()ぬるがごとく あしひきの 山道さして 入日なす 隠(かく)りにしかば そこ思()ふに 胸こそ痛き 言ひもえず 名づけも知らず 跡もなき 世間(よのなか)にあけば 為()むすべもなし

「家の庭に花が咲いているが、それを見ても心は満たされない。愛しい妾がいるなら、水の上の浮かぶ鴨のように二人並んで手折って見せようものを。この世の人の仮の身であるから、梅雨や霜が消えるように足引きの山路の方に入日のように隠れて行ったのだ。そこを見ると胸が痛んでばかりだ。言いようもなく、名付けようもなく跡も残らない世の中なので、どうしようもない。」

長歌の出だしは荘重な響きを持たせているが普通である。例えば柿本人麻呂の長歌では、枕詞で始まることは多い。

それに比べるとこの長歌の 我が宿に 花ぞ咲きたる →家の庭に花が咲いている という出だしはいかにも軽い。その花とは先の短歌に 妹が植えし 宿のなでしこ 咲きにけるかも と歌った撫子なのであろう。その点ではこの長歌は歌が並んでいる中でしか理解できない、自立性の低い作品だと言わざるを得ない。これが残された家持の最初の長歌作品で、まだ作りなれていない面がある。この歌にもう一つ目立つのは、先にある作品の引用である。

水鴨(みかも)なす ふたり並び居 は、憶良の 日本挽歌 巻5-794 憶良の長歌 にほ鳥の 二人並び居 はそっくりだし、あしひきの 山道さして 入日なす 隠(かく)りにしかば は、柿本人麻呂の 石見相聞歌 の、いさなとり 海辺をさして や、泣血哀慟歌  入日なす 隠りにしかば を連想させる。また 言ひもえず 名づけも知らず は、高橋虫麻呂の富士山を詠むに出てくるし、()むすべもなし は、憶良の 世の中の留まり難きを悲しぶる歌 と全く同じである。

どれもこれまで読んできた有名な歌である。そして 跡もなき 世間(よのなか) というこの歌を覆う無常観は、父 旅人の友人 沙弥満誓の巻3-351 世間(よのなか)を 何に譬えむ 朝開き 漕ぎ去()にし船の 跡なきごとし に依ったのであろう。
 

こうした繋ぎ合わせはこの歌の評価を著しく低くしているが、家持がこれまでの和歌史を総合して歌おうとしていると見ることもできる。未熟な面と将来に繋がる面の両方が見えるのである。
467
 
時はしも いつもあらむを 心痛く い行く我妹(わぎも)か みどり子置きて 1/3

第一反歌は「時もあろうにこの世を去る我が妾が赤子を置いて」妾は赤子を残して亡くなったのである。
赤子を抱えて呆然とする男は、柿本人麻呂の 泣血哀慟歌 にも見える。この歌で注目されるのは、
い行く我妹(わぎも)か それは今亡くなってこの世を去るという言い方である。時はしも いつもあらむを というのも 「よりによって今」 ということだから、同じく妾の死に立ち会っての感慨である。

この亡妾悲傷歌群は、妾が亡くなった後、立秋を超えて歌いだされたのである。しかし第一反歌は作られたのは秋になっていたであろう。妾の死の時点に立ち戻って歌っていると見られる。
468
 
出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 関を置かましものを 2/3

「ここを出ていく道を知っていたならば、前もって留める関所を置くのであったのに」 この歌は憶良 日本挽歌 巻5-797の 悔しかも かく知らませば 青によし 国内(くぬち)ことごと 見せまとものを を連想させる。そして 出でて行く 道 は、長歌の 山道さして 入日なす 隠(かく)りにしかば を受けるのだから、第一首と同じく、妾の死を振り返りながらその時点に立って歌っている。

469 妹が見し 宿に花咲き 時は経ぬ 我が泣く涙 いまだ干()なくに 3/3

「あなたが見た庭に花が咲いて時は終わった。私の流す涙はまだ乾いていないのに」

これは明らかに 日本挽歌 の 巻5-798 憶良 妹が見し (あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに

この宿に咲いた花は、長歌と同じく撫子だろうから、この歌は秋の時点で歌っている。妾がここにいた時から時間が流れ、あなたは去り花は咲いた。秋になっても自分の流す涙は止まらない。日本挽歌 は、反歌5首の中で時間の進行が見られる作品であった。家持は長反歌を作るうえでは、憶良の構成法に倣おうとしている。

 

最後に家持は 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5首 を記している。

3-470 家持 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5

原文 如是耳 有家留もの乎 妹毛吾毛 如千歳 憑有来

訓読 かくのみに ありけるものを 妹も我れも 千年(ちとせ)のごとく 頼みたりけり 1/5

 

3-471 家持 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5

原文 離家 伊麻須吾妹乎 停不得 山隠都礼 情神毛奈思

訓読 家離(さか)り います我妹(わぎも)を 留めかね 山隠しつれ 心ともなし 2/5

 

3-472 家持 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5

原文 世間之 常如批耳跡 可都知跡 痛情者 不忍都毛

訓読 世間(よのなか)し 常かくのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも 3/5

 

3-473 家持 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5

原文 佐保山尓 多奈引霞 毎見 妹乎思出 不泣日者無 

訓読 佐保山に たなびく霞見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日はなし 4/5

 

3-474 家持 悲傷 未だ止まずさらに作る歌5

原文 昔許曽 外尓毛見之加 吾妹子之 奥槨常念者 波之吉佐寶山

訓読 昔こそ 外(よそ)にも見しか 妹妹子が 奥つ城と思へば はしき佐保山 5/5

 

470 かくのみに ありけるものを 妹も我れも 千年(ちとせ)のごとく 頼みたりけり 1/5

「こうなるだけだったのに、あなたも私も千年生きるように安心していたのだった」撫子を植えた頃には、妾が死ぬなどとは想像もしていなかったことが分かる。こうなるだけだったというのは、妾の死に際しての感慨であろう。家持は再び妾の死の時点から歌い直そうとしているのだと考えられる。一般に人が亡くなった時点では、家族は動転して歌にするなどということなど、考えつかないものだと思う。時間を経た後、その時点に立ち戻って歌うというのは、自然のことのように思う。

471 家離(さか)り います我妹(わぎも)を 留めかね 山隠しつれ 心ともなし 2/5

「家を出ていく愛しい人を引き止められずに、山に隠れさせてしまったので、はっきりした意識も保てない」
山に隠れさせたというのは、具体的には山に埋葬したことを言うのであろう。やはり妾の死に近い時を反芻しながら、
そのころの自分になって歌うのである。

472 世間(よのなか)し 常かくのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも 3/5

「世の中はいつもこうと決まっているのは、一方では知っているが、痛み、悲しむ気持ちはやはり抑えられない。」無常の認識は最初の短歌群や表現に繰り返し歌われていた。歌の時点としてはこれらと同じく、妾が亡くなった後、迎えた秋頃と見て無理はない。

473 佐保山に たなびく霞見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日はなし 4/5

「佐保山に棚引く霞を見る度に、愛しい人を思いだして泣かない日はない」

恐らく妾は佐保山で荼毘にふされたのであろう。霞は火葬の煙を思い出させるのであろう。注意されるのは、この頃には春の景物として固定化していることである。翌年の春の時点とするのであろう。
そしてこの5首全体が実際に作られたのは妾が亡くなってから一年近く経ってであることが窺われる。

474 昔こそ 外(よそ)にも見しか 妹妹子が 奥つ城と思へば はしき佐保山 5/5

歌群の結びである。「昔は無関係なものと見ていたが、愛しい人のお墓だと思うと、愛しく思われる佐保山よ」妾は自宅近くの佐保山に葬られたようである。
弟もよく知った人だった事から見ても、この人は一族の女性であったのではないか。

この歌では妾が亡くなる前のことが、 昔 と振り返られている。それはやはり 妾が亡くなってからかなりの時間が経っていることを表している。この5首が制作されたのは、翌年の春以降であるが、5首のなかでも歌の時点は、妾の死から現在までが進行していると見られる。それは長歌の反歌3首の中で、試みられたいたことだが、もう一度短歌の連作として、自分の来し方が振り返られたのである。その経験は家持の歌のこれ以降の展開に大きく生かされたように見える。

実際には 亡妾悲傷歌 が歌いだされる天平11年秋、その9月には坂上大嬢から歌と稲穂で作ったカズラが贈られ、歌の贈答が始まったことが 巻8 秋相聞部の歌で分かる。
巻4で 離列数年 又会いて相聞往来す とあるのはこの頃である。巻17以降の歌日誌の中では、坂上大嬢は家婦と呼ばれ、正妻としてあらわされている。こうして家持の青春時代は終わりを告げる。

 

「コメント」

 

家持が父旅人や憶良、沙弥満誓・・などの筑紫花壇を意識して、歌を作り始めている時期なのであろう。何事も歌の題材とする。しかしやはり最初は模倣から始まるしかない。こういう並べ方をするとその軌跡がよく分かる。亡妾悲傷歌 などその典型なのであろう。そして歌の修行の犠牲になったのが、笠女郎なのであろう。次にどういう展開を見せるかが楽しみである。