230218 ㊺「大伴家持の出金詔書を賀く歌とその周辺」

前回は天平16年744年 聖武天皇の皇子・安積皇子が僅か17歳で亡くなってしまった時、家持の挽歌を中心に話をした。

安積皇子は残っていた唯一の聖武天皇の男子で、その時皇太子であった安部内親王の次に即位することが期待されていた。当時右大臣であった橘諸兄の縁者を母としていた点でも、新興の藤原氏に支配されがちな政界で、家持のような旧氏族に属する者たちの希望を一身に集めていたのである。ところが聖武天皇が3年前に移ってきたばかりの恭仁京を放棄し、民意も無視して慌ただしく難波宮に移る。そのさなかに急死したのである。藤原氏による暗殺説もあるが、
足の病と資料にあるので、脚気による心不全と通説に従っておく。恭仁京は橘諸兄が主導して建設に当たり、彼の根拠地にも近い場所であったが、二重の痛手だったと思われる。朝廷全体にとっても、これまで女帝達の中継ぎによって、
何とか引き継がれてきた、天武天皇以降の男子直系相続が絶望になったという点で、その後に大きな不安を残す出来事であった。
家持は長歌二首を作って、安積皇子の早すぎる死を悼んだ。皇太子にならず皇位にもつけなかった高市皇子の挽歌の枠組みを借りつつ、皇子の命 という皇太子 草壁皇子 を呼んだ言葉で、安積皇子を呼ぶ柿本人麻呂の歌を引用することで、安積皇子が本来は皇太子になり、やがて即位すべき人であったということを表したのである。

歌群末尾の万代に 頼みし心 いづくか寄せむ という表現は、今の皇太子安部内親王を忠誠の対象として認めていない点で、家持の政治的立場の表明といえるだろう。

 万葉集の節目 家持歌日誌に入る

この天平16年は、万葉集にとっても大きな節目になる年である。万葉集の巻16以前で製作年代の分かる歌は、すべて天平16年までの歌である。つまり家持の安積皇子挽歌は巻3下部だが、巻16以前では殆ど最新の歌なのである。

一方天平16年より後の歌は全て、巻17以降に配列されている。何度か触れてきたように巻17から20までは、家持の歌を中心に並ぶ家持歌日誌と呼ばれる部分で、巻16以降に対する続編の様になっている。

もっとも巻17は家持の父・旅人が天平2年に大宰府から帰京する時のお付きの者たちの歌で始まるし、これまで読んだ天平13年の弟 書持 との霍公鳥の歌の贈答や、安積皇子が亡くなった後の天平16年4月に、旧都平城京で孤独に過ごした時の歌も、巻17に収めている。そのように巻17に天平年以前の歌がない訳ではない。しかしそれは巻17ごく初めの部分だけで、それらの歌はそれ以降の為の序奏のように見える。

天平16年はこの様に境となることは、今まで万葉集の編成論の側から考えられてきた。

家持が天平16年以降間もなく一旦巻16まで編纂し、その後に自分の歌日誌を編纂し接合したと万葉集の形成を推定する見方である。そのように見ることは不可能ではないが、家持がもっと後になって、この天平16年を一つの境と見做してそこで分けたという見方もある。それは、一つは先ほど述べた様に、この年の安積皇子の死と共に、天武天皇以来の男子直系による皇位継承が終わることである。もう一つは家持が天平17年正月に正六位上から従五位下に昇ることである。従五位下は天皇に直接与えられる位で、貴族の一番下に属する。いわば家持自身が政界に本格的に参加し、行動する時期を歌日誌に描き、それ以前の歌は巻16までに収めることにしたと考えることが出来る。

 陸奥の国に黄金を出だす詔書を賀()ぐ歌 出金詔書

ともあれ、この講座もここからは家持歌日誌の世界に入っていく。家持が従五位下に至ってから最初に任命されたのは、天平18年3月の宮内少補 宮内省の次席次官で、6月に越前守に任ぜられ7月に任地に赴いた。

これから足掛け5年家持29歳から33歳までの越中時代が、家持の歌の最も多い時期である。

今日はまず巻18の半ばに寄せられている 陸奥の国に黄金を出だす詔書を賀()ぐ歌 を読む。陸奥の国に黄金を出す詔書・通称 出金詔書、天平21年749年の4月1日 聖武天皇が発する

宣命である。宣命とは天皇の言葉だが、独特の文体で述べられ、表記も宣命書きという特殊な書き方をされる。この宣命は東大寺に建造中の大仏に貼る金が足りなくなっていた所、陸奥で黄金を産出したという報告があり、喜んで聖武天皇が大仏に感謝を捧げ、続けて人に喜びを述べるものであった。家持はその詔書を越中で受け取って読み、その感激を歌に述べる。歌は長歌と反歌3首からなる。

18-4094 大伴家持 陸奥国出金詔書を賀ぐ歌一首 並びに短歌

原文 省略

訓読 

蘆原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金(くがね)かも たしけむあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(あい)うづなひ すめろきの 御霊助けて 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十(やそ)伴の緒をまつろへの 向けのまにまに 老人(をみな)も女童()も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしとも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづく)屍 山行かば 草生()す屍 大君の 辺()にこそ死なめ かへり見はせじ と言い立て 大夫(ますらお)の清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たたず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)ぞ 

梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきを 聞けば貴(たふと)

 
長歌は天孫の神話から語り起こす。
蘆原の 瑞穂の国 は大和の国の神話的呼び方である。

4094 長歌略

「蘆原の 瑞穂の国を天下って治められた皇祖の神の命の御代を重ねて、天津神の子として統治されてきた天皇の御代で支配される地方の国には山や川が広く厚くあるので、献上される貢物や宝は数え切れず尽くすこともできない位である。

しかし我が大君 聖武天皇 が、諸々の人々をお誘いになり大仏建立という素晴らしい事業をお始めるになったら、建立に必要な黄金が足りるだろうかと密かに悩まれていたことだ。天皇が心配していた所に陸奥の小田という山から金を産出したと申し上げると、天皇は御心を晴らされ、天地の神々が賛成し、代々の天皇たちの御霊が助けられて、遠い過去にこうしてあったことを、我が御代に出現させて下さったのだとすると、この治めている国は栄えていくことだろうと、神の御心のままにお思いになって、朝廷に仕える者たちをお仕えする役目のままに、老人も女子供もその者たちの願いが満たされるように恩寵を与えるのである。金が発見され皆に恩沢が下されたことが無性に貴く思われ、嬉しさがいよいよ勝って、大伴の遠い上の先祖が、その名を大久米主と背負って仕えた役目、海を行くなら水に漬かった屍、山に行くなら草に覆われた屍になっても、大君のお側で死ぬのだ、振り返りはしないと誓いを立てて、立派な男子という清らかな名誉を大昔から今現在まで保ってきた先祖の末裔だ。大伴と佐伯の一族は。人の先祖が立てた誓いとして、人の子は先祖の名を絶つことなく大君に従うものと言い継いで来た言葉通りの役目だ。

梓弓を手に取り持って剣太刀を腰に佩き、朝の守り夕の守りに大君の宮の守り、その役目では自分たちを措いて他の人たちはいるまい、と益々誓いを立て思いが募っていく。大君のお言葉の幸いなのを聞くと貴いのだ。」

 

古事記には

「高天原から、葦原中つ国へ天孫 ニニギノミコトが降臨するとき、大伴氏の先祖 天忍日命(あめのおしひのみこと)は、天津久米命と共に天の石(いははぎ)→矢を入れる道具 を背負い、頭椎(かぶつち)の太刀を佩き、天之波士弓(あめのはじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかこや)を手ばさみ、天孫の前に立って先導したと伝えている。またニニギノミコトの三代後のカムヤマトイワレヒコが日向から大和へ上って行く時、大伴氏の祖 道臣命(みちのおみのみこと)、久米氏の先祖 大久米命が大和の国の樫原で、初代の天皇に即位するのを助けた」という。家持が歌う大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) とは、そうした神話に皇室の祖先に仕えた大伴氏の先祖の働きを言っている。

大久米主 という人の名は、古事記や日本書紀には見えないが、それらでは神武東征の時に、久米部という兵士集団を率いている様に書いてあるのでそのことを言うのであろう。

海行かば 水漬(みづく)屍 山行かば 草生()す屍 大君の 辺()にこそ死なめ かへり見はせじ は、聖武天皇の宣命にも出てくるが、これも国家の創世期に天皇自ら戦っていたのに、付き従うものというイメ-ジである。無論これは物語であり、実際にあったことではないが、奈良時代の始め位まではこの様な皇室と国家の歴史が創作され、その中で大伴氏は創世記に天皇の側で働いた臣下と

位置づけられていたのである。

 

聖武天皇は海行かば 水漬(みづく)屍 山行かば 草生()す屍 大君の 辺()にこそ死なめ かへり見はせじ は、大伴氏の代々が言ってきた言葉だと言っている。家持はそれを言い立て・誓いだとして、大伴氏の代々はその誓い通りに働き、勇武な男たちという名を太古から現代まで護持してきたと表現する。

また聖武天皇が言うとおりに家持も、人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たたず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 先祖が立てた誓い を、子孫は先祖の名誉を傷つけることなく、天皇に仕えるものと言い継いでいる と歌う。

聖武天皇は大友氏の誓いを言葉に挙げ、内の戦=親衛隊だと思っていると述べ、これからも忠誠を尽くしてくれと求めている。家持もそれに応えて、梓弓 手に取り持ちて~ と武装して建設された国家を守る。当代の大伴氏が勤め上げるべき職掌を歌い上げるのである。

聖武の内の戦という言葉に、家持は自分たち以外にこの役目を継ぐ者はいないと言うプライドを感じさせている。

題に「黄金を出だす詔書を賀ぐ歌」とあるように、家持が歌うのは黄金が出たという瑞祥よりも、むしろ聖武天皇が述べた宣命なのであった。
長歌最後の
大君の 御言のさきを 聞けば貴(たふと)み が、完璧にそれを表している。

 

反歌三首に移る。

18-4095 大伴家持 陸奥国出金詔書を賀ぐ歌一首 並びに短歌三首

原文 太夫能 許己呂於毛保由 於保伎美能 美許登乃佐吉乎 聞者多布刀美

訓読 大夫(ますらお)の 心思ほゆ 大君の 御言(みこと)の幸を 聞けば貴(たふと) 1/3

 

18-4096 大伴家持 陸奥国出金詔書を賀ぐ歌一首 並びに短歌三首

:原文 大伴乃 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弖 比等能之流倍久 

訓読 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 奥城(おくつき)は しるく標立て 人の知るべく 2/3

 

18-4097 大伴家持 陸奥国出金詔書を賀ぐ歌一首 並びに短歌三首

原文 須賈呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜尓 金花佐久 

訓読 天皇すめろぎ)の 御代栄むと 東なる陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲 3/3

 

この反歌三首は長歌を遡って対応する為に作られている。

4095 大夫(ますらお)の 心思ほゆ 大君の 御言(みこと)の幸を 聞けば貴(たふと) 1/3

「立派な男としての心が湧いてくる。大君のお言葉の幸いなのを聞くと貴いので」これは長歌末尾の繰り返しである。

大夫(ますらお)の 心 とは、自分の身を投げうっても、天皇に対して忠誠をつくし、宮廷を守ることへの決意を表すものである

4096 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 奥城(おくつき)は しるく標立て 人の知るべく 2/3

「大伴氏の遠い上の先祖たちが眠る墓には、はっきりと目印を立てよう。人がそれと分かるように」

これは海行かば~ と誓いを立てて、先頭に立って戦った大伴氏の上の先祖のことを述べているので、長歌中盤と対応する。またこの歌の場合は、出金詔書に「御代御代に天下の治世や防衛に功績のあった墓は、ずっと人に侮られたり、穢されることの無いようにはっきりとさせておきなさい」との聖武天皇の命令に基づいてもいる。

4097 天皇すめろぎ)の 御代栄むと 東なる陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く 3/3

「皇室の御代御代が栄えていくのを祝して、東の陸奥の山に黄金の花が咲く」天皇すめろぎ) はこの長歌の中で何度か出てくるが、天孫降臨から続く皇統、またその中の天皇たちを指す言葉である。この歌ではその系統は未来へと続き、黄金の花が咲くという瑞祥に祝福されてずっと栄えるだろうと寿いでいる。最後に天平感宝元年5月12日に越中国守の館にて大伴宿祢家持という注がある。4月1日の出金詔書には黄金が発見されたことを瑞祥として、天平に感宝 という二字を加えることとなった。4月1日から改元されたので、天平感宝5月と記すのは分かる。しかし 越中国守の館にて とはどういうことか。家持は3年も前から越中で国守をしているので、わざわざその官舎で作ったと書かなくてもよさそうなものだ。ここには何か意味があるのではないか。

「出金詔書を賀ぐ歌」の直後に、吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌 と題が付いた長歌作品が置かれている。

歌日誌には度々前もって作る歌がある。

18-4098 大伴家持 吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌一首 並びに短歌

原文 略

訓読

高御座 天あめ)の日嗣と 天の下 知らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十(やそ)(とも)の男()も おのが負える おのが名負ひて 大君の 任()けのまにまに この川の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ継き゜に かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長(とほなが)に 

 

18-4099 大伴家持 吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌一首 並びに短歌

原文 伊尓之敝乎 於母保須良之母 和期於保伎美 余思努乃美夜乎 安里我里比賈須

訓読 いにしへのを 思ほすらしも 我ご大君 吉野の宮を あり通ひ見す 1/2

 

18-4100 大伴家持 吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌一首 並びに短歌

原文 物能乃布能 夜蘇氏人毛 与之努河波 多由流許等奈久 都可倍追通見牟

訓読 もののふの 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつみむ 2/2

 

4098 略

天あめ)の日嗣 は、天孫以来繋がれてきた天皇の位、高御座 は、儀式のときに天皇が座る玉座で皇位のシンボルである。

「高御蔵にいます天津神の子孫として、天下をお治めになった神の如き古の天皇が、畏れ多くもお建てになり貴くもお定めになった、吉野のこの大宮に通い続けご覧になるらしい。宮廷の仕える諸氏族も自分の負った自分の名を背負い、大君がお任せになるままに、この川が絶えることがないように、この山がますます続くように今現在と同じくお仕え申し上げよう。いよいよ遠く長く」この長歌は前半に遠い皇祖が定めて以降、吉野の宮はずっと受け継がれて行幸が続けられてきたことを述べ、後半に各氏族が天皇に委任されたそれぞれの役目を永久に果たし続けることを述べている。

この構成は反歌にも反映されていている。

4099 いにしへを 思ほすらしも 我ご大君 吉野の宮を あり通ひ見す 1/2

「古をお思いになるらしい我が大君は、吉野の宮に通い続けてご覧になる」と天皇が昔を思って吉野に通うこと。

4100 もののふの 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつみむ 2/2

「宮廷に仕える多くの氏族の臣下たちが、吉野川が絶えないようにいつまでも奉仕を続けながらここを見ることだろう」臣下たちがずっと吉野を訪れることを歌っている。その天皇と臣下という構成は、出金詔書を賀ぐ歌 にもみられるのである。

 出金詔書を賀ぐ歌 と 吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌 の関係

前半に天孫降臨以来の皇統と、当代の聖武天皇が出金を喜び、御徳を下されたことを述べ、後半は臣下である大伴氏が皇統に忠誠を尽くしてきて、自分もその通りに奉仕する決意を述べ、またこの吉野離宮行幸の為の歌に出てくる おのが負える おのが名負ひて は、自分の氏族がこれまでの

奉仕で得た名誉を自分の名誉として働くことを言う。

名を歌う点ではその名をば 大久米主と 負ひ持ちて とか、大夫(ますらお)の清きその名を とか、祖の名絶たたず などと歌う 出金詔書を賀ぐ歌 と大きく重なっている。この吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌 には、日付が付いていない。行幸に備えて作る歌なので当然とも言えるが、歌日誌では日付のない歌は前の歌との関連が強いことが多い。今述べた様に、この歌は 出金詔書を賀ぐ歌 と構成や表現の面でも近い。ではなぜ 出金詔書を賀ぐ歌 の後に 吉野讃歌が来るのであろう。吉野は天武天皇に始まる皇統の聖地であることは繰り返してきた。天武天皇にの創業の地で、天武8年には諸皇子に子々孫々争わないことを誓わせ、持統朝では30回以上の行幸が行われた。そして久々に男子直系の聖武天皇が即位する前後には、繰り返し行幸が行われた。

天武天皇が 巻1-27 よき人の よしとよく見て よしといひし 吉野よく見よ よき人よく見つ と歌においてこの吉野に来ることを命じた。持統朝では柿本人麻呂が 巻1-37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また還り見む と歌い上げた。聖武天皇即位前後の吉野行幸は、やはり笠金村や山辺赤人らが柿本人麻呂の表現を踏襲して、巻6-910 笠金村 (かむ)からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内(かふち)は 見れど飽かぬかも とか6-923 長歌の部分

 この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ などと歌ったのであった。

家持もまた長歌に み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし 反歌二首に 吉野の宮を 

あり通ひ見す とか吉野川 絶ゆることなく 仕へつつみむ と繰り返し通って見ることを歌っている。

吉野讃歌の伝統に従うのである。

 吉野の離宮に出でます時に準備して作る歌 の意味

しかしすでに五位に達し、越中守の身分にある家持が、吉野讃歌を歌うのは、柿本人麻呂や金村赤人といった下級官人が歌うのとは異なり、それはむしろ父 旅人が神亀元年 短い長歌と反歌

3-316 昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば いよよ清(さや)けく なりにけるかも と聖武天皇即位を寿いだのに倣っている。それは自分の政治的立場の表明となるのであった。陸奥国で黄金を産出した事を聖武天皇は瑞祥と扱い改元した。それは708年の正月 武蔵国から銅を産出して和銅元年と改元したのと同じである。そして奈良時代の瑞祥や改元の多くは、皇位に関する重大な変更と繋がっていた。715年霊亀は元正天皇即位、725年 神亀は聖武天皇即位、729年の天平は藤原光明子の立后といった具合である。その度に宣命が出され、瑞祥を臣下と民衆と共に喜ぶと称して、大量の恩典が与えられるのである。それは皇位継承や立后を承認し忠誠を求めるための、一種の取引という性格を持っていた。

出金詔書の発せられた前の年、天平20年に元正天皇が崩御。

このところの皇位継承は上皇・天皇・皇太子の三人の順送りが慣例となっていて、上皇が崩御するとすぐ譲位が行われる。さらに聖武天皇は天平末年には著しく健康を害し、次第に政務に耐えない状態になっていた。臣下や民衆に向けた宣命の前には、廬舎那仏に北面して三宝の奴と仕えまつる皇命(すめらみこと)と名乗り、仏弟子として宣命を述べている。実は 出金詔書 を発する4月1日にはすでに出家していたことが明らかになっている。うるう5月になると寺々に施入するときの願文にまだ譲位前にも関わらず、太上天皇沙弥勝満と名乗り、やがて薬師寺に居を移してしまう。

その様に着々と譲位の準備を進め72日に正式に安部内親王に譲位する。

天平感宝元年は、また天平勝宝元年に改元された。天平感宝は僅か3か月で終わった。

都からは東大寺の使者などもその前に来ており、政界の動向は越中にも知らされていたと見られる。家持は 出金詔書 の持つ意味を正確に理解していたであろう。

それは安部内親王への譲位の布石であり、大伴氏を名指しで称賛しさらなる忠誠を求めたのも、女性皇太子への譲位という前例のない皇位継承を、承認させる方策の一環であった。

譲位があれば天武皇統の聖地・吉野への行幸があっても不思議ではない。吉野讃歌を準備したのは、家持がそのように考えたことを表している。しかし まけ作る歌 準備して作る歌 という題は、それが結局吉野では歌われなかったことを意味する。女帝孝謙天皇即位に当たっては、吉野への記念の行幸はなかった。皇太子への譲位とはいえ、男子直系の皇位継承とは異って、行幸の場でにぎにぎしく讃歌が歌われるようなことはなかったのである。

出家した聖武上皇は政治から退く、皇太子は決まらない、孝謙天皇、その母光明皇太后という二人の女性だけが中心になる状態となる。これから世の中がどうなるのか。

 

出金詔書を賀ぐ歌 の2が月前の日付で家持は 一人帳(とばり)の内に入りて遥かに霍公鳥の鳴くを聞きて作る歌という長歌を作っている。

18-4089 大伴家持

原文 省略

訓読 

高御倉 天の日嗣(ひつぎ)と すめろきの 神の命の 聞こしをす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥の 来居(きい)て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別()きて 偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 玉貫()くまでに 昼暮らし 夜わたし聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし

 

高御倉 天の日嗣(ひつぎ)と すめろきの 神の命の 聞こしをす 国のまほらに と吉野讃歌に酷似した出だしを持っている。そして第一反歌 巻18-4090 ゆくへなく ありわたるとも 霍公鳥 鳴きし渡らば かくや偲はむ は「行き場がなく、ここに居続けたとしても霍公鳥が鳴き渡ったら、こうして気が晴れるだろう」と歌っている。

かくや偲はむ  は不本意の表現である。霍公鳥は以前読んだように、家持にとっては孤独を慰める鳥であった。

それは慰めにはなるが、逆に言えば慰めにしかならない。霍公鳥は素晴らしい声でも山深い越中で、それは慰めにして暮らすことは、家持にとっては決して本意ではない。越中暮らしももう三年になる。

ゆくへなく ありわたるとも には、いつまで越中に居るんだろうという溜息が含まれている。

長歌の出だしからして、これは出金詔書を読んだ時の家持のもう一つの感想であることに疑いはない。

大伴氏が名指しで称賛された、自分も位が一つ上がって従五位下になった、出金詔書を賀く歌 も嘘ではないだろうが、その裏には遠い越中に居ることへの焦りもあった。都で大きく政治が動こうとする時、局外にいるのは長屋王の変の際に大宰府に置かれた父 旅人と同じである。出金詔書を賀く歌 の注に 越中国守の館にして とあるのも同じであろう。家持の歌は裏表両面から見る必要がある。

 

「コメント」

 

旧名門の子弟が時流に乗れず焦っている様子がよく分かる。それを歌で表している所が凄い。歌が歴史の一つの手掛りとなっている。まさに万葉集は歴史である。