230225 ㊻「家持の越中時代と巻19巻頭歌群」

前回 出金詔書について

前回は巻18に載る楊餅の「出金詔書を賀ぐ歌」を読んだ。いわゆる出金詔書は、特に大伴、佐伯氏の名を挙げ、これまでずっと 海行かば 水漬く屍 ~死なめ と誓ってきた氏族であるから、これまでの先祖がそうした通りにこれからも忠誠を尽くしてほしいと命じている。家持も恩賞に与り従五位下から上に上げられた。「出金詔書を賀ぐ歌」 は宣命を引用しながら、その感激を述べる作品である。しかし、聖武天皇は出金を瑞祥として改元を伴うもので、譲位への布石であった。

前年には元正上皇が崩御、聖武天皇はこの年の春にはすでに出家しており、譲位は規定路線であった。前例のない女性皇太子への譲位を承認させるために、まず大量の恩典を臣下に与えたと解釈される。

 孝謙天皇即位 

それを貰った印として、吉野行幸に際して歌う長歌を準備し、「出金詔書を賀ぐ歌」の次に載せている。

天武天皇直系の天皇が即位する時には、吉野行幸が行われるはずだということであろう。しかし7月に実際に孝謙天皇が即位しても、吉野行幸は行われなかった。恐らく無用になると知った上での、吉野讃歌製作だったと思われる。上皇は出家して皇太子は未定。藤原氏出身の皇太后と女帝が支配する世の中がどうなっていくのか。激動が予想される時に、都から遠い越中に居ることに、家持は焦りを感じないではいられなかった。「出金詔書を賀ぐ歌」 が、吉野讃歌の直前にそれと共通の言葉を使いながら、霍公鳥の声に慰められる生活を歌うのは、それを表していると見られる。

 家持の越中守への赴任

天平18年、家持歌日誌では、巻17の途中から越中に国守として赴任しているのだが、それは左遷ではない。越中は 大国 上国 中国 下国 と 4ランクに分けられる国々の中では二番目の上国 で、当時は能登国まで含めたかなり広い領域であった。特にトラブルが多い地域でもないので、29歳の名門の貴公子が、初めて地方官を経験する場所としては好適な国であった。

しかも赴任した時には三等官である越中掾(じょう)として、同族の大伴池主がいた。池主とは都での宴席に出た時の歌もある、旧知の間柄であったし漢文の知識が豊富で、父旅人が大宰府で憶良と共にしたように、文芸を通じて交流することが出来た。特に赴任した次の年の春、家持が病気で寝込んだ時には見舞いに何度も書簡を寄越し、その度に家持の創作意欲を刺激して、漢詩文を交えた贈答がなされた。

 

夏になると病の癒えた家持は、一旦報告のために帰京する。四度使(しどつかい)として国司たちは、
交代で都に戻って報告を行うことになっていた。それを前に家持は、二上山の賦 という長歌作品を作った。反歌二首。

17-3985 大友家持 題詞 二上山の賦  左注 3月30日 興によって作る

原文 略

訓読 

射水川 い行き廻れる 玉櫛笥(たまくしげ) 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出でたちて 振り放()けみれば 神(かむ)からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ ()め神の 裾廻(すそみ)の山の 渋谿(しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 朝なばに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ

 

17-3986 大友家持 題詞 二上山の賦  左注 3月30日興によって作る

原文 之夫多尓能 佐伎能安蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由 第一反歌

訓読 渋谿しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ 1/2

 

17-3987 大友家持 題詞 二上山の賦  左注 3月30日興によって作る

原文 多朝久之気 敷多我美也麻尓 鳴鳥能 許恵乃孤悲思吉 登岐波伎尓家里 第二反歌

訓読 玉櫛笥 二上山に鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり 2/2

 

3985 長歌 略

は漢詩文の文体の一つで、韻文と散文の中間あたりに位置する。賦 というのは並べるという意味で、何かについて多くの事柄を述べ立てるので、言葉より長いのが普通である。

家持はそれを和歌に持ち込んで長歌を、賦 と呼ぶことにした。二上山は今の高岡市にあった越中の国府から近い所にあり、その名の通り峰が二つある。いわば越中国府のシンボルで、歌の中にも ()め神 天皇の治める国土の神と呼ばれているように、朝廷から神の位を授けて祀られていた。玉櫛笥 は美しい櫛の箱の意味で、蓋もあるので 二上山の枕詞になっている。歌の出だしの射水川 は、今は小矢部川といい、国府のある台地の下を流れる川。

また渋谿 (しぶたに)の 崎 は、二上山の山裾が富山湾に落ち込む辺りで、富山湾を挟んで立山連峰の絶景の見える場所として、今も人気がある土地である。以上を総合して長歌は次のような意味になる。

射水川 が、巡り流れる 玉櫛笥 二上山は春の花の咲く盛りに、また秋の紅葉が輝くときに外に出て遠望すると、山の神のせいであんなにも貴いのか、山の柄でこんなにも目を引かれるのか、神の山の山裾の 渋谿(しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 重なり寄ってくる白波のように、夕凪に満ちてくる潮のように、益々絶えることなく古から今に至るまで見る人は、今私がしている様に心に懸けて賞美してきたことだろう」

3986 渋谿しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ 1/2 第一反歌

(渋谿しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 寄する波のように、ますますましきりに古が思われる」これは長歌末尾にその二上山を古から今に至るまで、人々が神の山として賞美してきたというのを受けて、その遠い昔が偲ばれるということで、第二句までの序詞も長歌に歌われた渋谿(しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 寄する波 である。

 

一方第二反歌

3987玉櫛笥 二上山に鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり 2/2 

玉櫛笥 二上山  に鳴く鳥の声の恋しいときがやってきた」と言う歌で、玉櫛笥 二上山 は、長歌にあるが、鳥の声はここで初めて出てくる。二上山の賦 の前後には、立夏を迎えてなかなか鳴かない霍公鳥を恨む歌があるので、この二上山の賦 でも霍公鳥を待つ心を歌ったのであろう。

この歌には左注に 3月30日に興によりて作るというのがある。3月30日は春の終わる日である。漢詩は春を惜しむ情がよく歌われるがむしろ夏にて霍公鳥が鳴くことを待望している。その違いはあるが、興による という注の表現には漢詩文の理論が窺える。中国の文学論では、興は自分の置かれた時節や環境によって引き起こされる感情でそれが詞になったものが詩文であるという。逆に時節や環境を述べる事でその時の感情を表現する方法のことも興という。その興によるという注は、最後の4巻だけに使われ、ここが最初の例で繰り返し出てくる。日付を伴って造られた形式に特有な物だと言ってもよかろう。その時節に感じた情は単純ではない。家持は越中にいる間は常にと言って良い程、都を思い帰ることを望んでいた。越中の風土、様々な景物は慰めにしかならない存在である。しかし今一時帰京が近づくとその越中の風土や景物に対する愛着が生まれてくる。家持は父 旅人が 巻6-960 隼人(はやひと)の 瀬戸の巌を 鮎走る 吉野の滝にしかずけり と歌って筑紫の自然にさっぱり関心を示さなかった事を述べたが、余程越中の風土に馴染み、その自然を好んで歌っている。

越中は家持にとって天皇に統治を委任された土地でもある。そしてその愛着は共に越中に暮らした池主ら部下との交流の為もあるだろう。

家持が帰京する前に池主たちとの間に何度も惜別の宴が開かれている。その中で今の氷見市にあった 布施の海を遊覧する や、越中で今も名高い 立山の賦 が家持によってつくられ、それぞれ池主の それに 和ふる賦 も歌われた。そうした官人同志の友情を歌うことは、漢詩には普通にあるが万葉集では旅人や大宰府の官人達に始まり家持達に受け継がれている。

しかし家持が数か月後に越中に戻ってきた時に、池主は隣の越前国の掾として転任していた。勿論他にも部下がいて彼らと宴を開いて歌を詠み交わす事もあったが、池主ほど深く高度な文芸上の付き合いの出来る人は居なかった。

家持は越中の風物とそれを和歌に歌う事を慰めにして、生活するより仕方なかった。

 

家持は翌天平20年の春、越中の諸郡を巡行する。当時の越中は能登を含め7つの郡からなっていたが、義理堅く各郡で12首、計9首の歌を作っている。そこから5首を読む。

17-4021 大伴家持 砺波郡雄神川にして作る歌一首

原文 乎加未河 久礼奈為尓保布 乎等賈良之 葦附等流登 湍尓多多須良之

訓読 雄神川(をがみがわ) 紅にほふ 娘子(おとめらし) 葦付取ると 瀬に立たすらし

 

17-4023 大伴家持

原文 賈比河波能 波夜伎瀬其能尓 可我里佐之 夜曽登毛乃乎波 宇加波多知家里

訓読 婦負川(ねひかわ)の 早き瀬ごとに 篝(かがり)さし 八十伴(やそとものお)は 鵜川立ちけり

 

17-4024 大伴家持

原文 多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛

訓読 立山の 雪し消()らしも 延槻(はひつき)の 川の渡り瀬 鐙(あぶみ)漬かすも

 

17-4026 大伴家持

原文 登夫佐多弖 船木伎流等伊布 能登乃嶋山 今日見者 許太知之気思物 伊久代神備曽

訓読 鳥総(とぶさ)立て 船木(ふなき)伐るといふ 能登の山 今日見れば 木立繁しも 幾代神(かむ)びぞ

 

17-4027 大伴家持

原文 香嶋欲里 久麻吉乎左之弖 許具布祢能 河治等流間奈久 京之於母倍由

訓読 香島(かしま)より 熊来(クマキ)をさして 漕ぐ船の 楫とる間なく都し思ほゆ

 

4021 雄神川(をがみがわ) 紅にほふ 娘子(おとめらし) 葦付取ると 瀬に立たすらし

砺波郡は越中の南西部。雄神川(をがみがわ) は今の庄川である。

雄神川(をがみがわ) は、紅に輝いている。娘さんたちが 葦付 を取ろうと瀬に立っているらしい」
葦付 は川藻の一種で食用にする。現地の言葉らしい。それにしても現地の女性たちが、藻を刈りに集まる時に、川が紅に輝くほどに派手な格好をしていたのだろうか。瀬に立たす と敬語を使っているのも少し変である。
このどこそこに 紅にほふ という歌の形は先例があり、巻7-1218藤原房前 に 黒牛の海 紅にほふ ももしきの 
大宮人し あさりするらし という歌がある。「黒牛の海が紅に輝いている。大宮人が磯遊びをしているらしいよ」という歌で、黒牛の海は紀州の海南市黒江付近で、紀伊行幸の時の歌と分かる。つまり家持はこの巻7の歌に倣うことによって、砺波郡の娘たちを大宮人に見立てていると考えられる。それは旅人ら大宰府の官人たちが、肥前国松浦郡で神功皇后を記念して釣りをする現地の娘たちを仙女に見立てて、その娘との贈答を仮想していたのに似ている。それは家持の都恋しさの表現といってよいであろう。

4023 婦負川(ねひかわ)の 早き瀬ごとに 篝(かがり)さし 八十伴(やそとものお)は 鵜川立ちけり
題詞によれば、鵜を潜らせている人を見て作った歌とある。婦負川(ねひかわ) は今の神通川である。

婦負川(ねひかわ) の早瀬毎にかがり火をもって、男たちが鵜飼をしている」これは当地の風俗を歌っているが、やはり八十伴(やそとものお) が気になる。それは宮中に仕える多くの氏族達を表す言葉である。家持自身も夏になると、八十伴(やそとものお) の一人として、国府の官人たちと共に鵜飼をするのだが、今は巡行中なので自分たちがする訳ではない。やはり地元の男たちの鵜飼を、朝廷に仕える者のように歌うのであろう。それもまた、家持の都志向の表れとみられる。

4024 立山の 雪し消()らしも 延槻(はひつき)の 川の渡り瀬 鐙(あぶみ)漬かすも

新川郡に来て延槻(はひつき)川を渡る時に作る歌。新川郡は越中国の東部、延槻(はひつき)は現在の早月川で、立山連峰の一つの剣岳から流れ出している。「立山の雪が消えているらしい。延槻(はひつき)川 の辺りでは、馬の鐙が水に浸るようだ。」立山に降った大量の雪が春のになって消え、それで水量が増えた川が馬に乗った自分の足を浸している。それは都では見られない越中ならではの春の景で、その水の勢いに驚嘆しているのでもあろう。そうした地の雄大な自然を歌った作品もある。

4026 鳥総(とぶさ)立て 船木(ふなき)伐るといふ 能登の山 今日見れば 木立繁しも 幾代神(かむ)びぞ

題詞 能登郡にして香嶋の津より船を発して熊来(くまき)村を指して行く時に作る歌

能登半島と能登島との間に挟まれた七尾湾を、船で行く間の歌で、香嶋の津は現在の七尾市。熊来村は七尾市中島町辺り。この歌は 577577の旋頭歌方式である。鳥総(とぶさ) は木を切る時に神に捧げる御幣のようなものである。
鳥総(とぶさ) を立てて船の木を切るという能登島の山、今日見ると木立がこんなにも茂っている。どれだけの世を経て、こう神々しくなったものか」船の材木を切る山といわれるだけあって、能登島の木立はうっそうとしている。それに感動してこの森の経てきた時間に思いを馳せている。それは二上山の古を思う気持ちに通じているのだろう。

4027 香島(かしま)より 熊来(クマキ)をさして 漕ぐ船の 楫とる間なく都し思ほゆ

「香嶋から熊来を指して漕ぐ船が、楫を取るのに間隔がないように、絶えず都のことが思われる。」ここまで遠くにいると、ひと際都が偲ばれるのである。以上の2首は旅先の地をたたえる歌と望郷の歌という万葉集の旅の歌によくある組み合わせになっている。異郷の風物は見る人の心を魅了する。しかしそのことは自分が異郷にいることを意識させて、本来自分がいるべき土地を思い起こさせるといった仕組みがあるのだろう。

 有名な巻19 巻頭歌群

家持はかように越中の風土と都への思いとの間で揺れている。それは有名な巻19の巻頭歌群12首にみられる。これは天平勝宝2年 750年3月1日から3日まで細かく時を追って、自分の気分の揺らぎを歌った一種の連作である。最初の5首を読む。

19-4139 大伴家持 天平勝宝2年3月1日の夕べに春苑桃李の花を眺(ちょうしょく・眺め渡す)して作る歌2首

原文 春苑 紅尓保布 桃花下照道尓 出立

訓読 春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)1/2

 

19-4140 大伴家持 天平勝宝2年3月1日の夕べに春苑桃李の花を眺して作る歌2首

原文 吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母

訓読 吾が園の 李(すもも)の花か 庭に散る はだれのいまだ のこりたるかも 2/2

 

19-4141大伴家持 飛び翔る鴫を見て作る歌一首

原文 春儲而 物悲尓 三更而 羽振鴫志藝 誰田尓加須牟

訓読 春まけて 物悲しきに さ夜更けて 羽振(はぶ)鳴く鴫(しぎ) 誰か田に住む

住む

 

19-4142 大伴家持 2日、柳の枝を切り取って都を思う歌一首

原文 春日尓 張流柳乎 取持而 見者京之 大路所念

訓読 春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大道し思ほゆ


19-4143 大伴家持 堅香子の花を攀じ折る歌一首

原文 物部乃 八十嬬等之 汲乱 寺井之於乃 堅香子之花

訓読 もののふの 八十娘子らが 汲み乱(まがふ) 寺井の上の 堅香子の花

 

最初の二首4139、4140は題詞からして特殊である。日付は晩春の月を迎えた日だが、夕べと時間帯まで示すのは異例である。春苑は漢語であるが、第一種の歌詞に 春の園 と読み下して現れる。桃李(桃とすもも)は、桃李 言(モのいわ)ざれど その下(もと) 自ずから 蹊(みち)をなす に記された言葉にも見えるように、中国では馴染みの素材だが、和歌ではともにこれまで詠まれたことはない。矚は、眺めることで、これもここで初めて出てくる言葉である。

4139 春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ) 1/2

「春の園が紅に照り輝いている。モモの花が下を照らす道に、出で立っている乙女たちよ」

この歌は初句三区切れで歌うせつもあるが、先ほど見た4021 雄神川(をがみがわ) 紅にほふ 娘子(おとめらし) 葦付取ると 瀬に立たすらし と同じ歌の形とみるのが良いであろう。この桃の花の歌の乙女は、嬬 と書いてあるが、万葉集の中では 概ね 宮廷に仕える女性を表す。そうした女性は華やかな裳を付けているので、紅い桃の花が下を照らすのに、輝いて春の園が紅に照り輝くのも分かるが、ここにそうした女性がいたかどうかは疑問である。

これも 4021 雄神川(をがみがわ) 紅にほふ 娘子(おとめらし) 葦付取ると 瀬に立たすらし と同様に、見立や想像があると考えてよいと思う。少なくともこの歌が、中国的文化に彩られた都ヘの憧れを表しているのは確かであろう。

4140 吾が園の 李(すもも)の花か 庭に散る はだれのいまだ のこりたるかも 2/2

「家の庭の李(すもも)の花が地面に散っていのか、それともはだれに降った雪がまだ残っているのか」この歌には園と庭が両方出ているが、庭は現代の庭というより広場のニュアンスが強く、ここでは地面をそしている。有加田の薄暗い中、ぼっと白く見えるのは李の花なのか、それとも残雪なのかというのである。

白い花と残雪が紛れることは父 旅人が 大宰府で巻8-1640 旅人 わが丘に 盛りに咲ける梅の花 残れる雪をまがへつるかも も同様で、梅の花が散る、あれは天から雪が流れてきているのか と花と雪と どちらかに決めてはしまわないことに、今の4140との共通点が見られる。

しかしそれらはいずれも梅の花の例で、早春の歌である。対して4140の歌うのは、晩春の花 李 で日付は3月1日、太陽暦では4月11日である。春の時期になっても、あれは残雪かというのは、雪国越中に居るからであろう。
つまりもものはなの歌の都への憧れに対して、李 の花の歌は異郷にいることの感慨が自ずと現れるような作りになっている。モモの紅と李の白という色の対照も見逃せない。そうした色彩の対は、漢詩文が登場する中で意識された。

三年前の3月、病気見舞いに 池主がくれた書簡や詩とその序の中では、 桃の花は顔を照らし、もって紅を分かち、柳の色は苔を含んで緑を競う。 等繰り返し 桃と柳の色彩的な対句が用いられている。漢詩文で扱われる桃の花の歌が、巻19巻頭に現れるのは、都への憧れと共に池主が越中に居た三年前を回想していることも意味する。

4141 春まけて 物悲しきに さ夜更けて 羽振(はぶ)鳴く鴫 誰か田に住む

「春を待ち受けて物悲しいこの時に、夜更けになって羽ばたきなく鴫が、誰の夕べに居ついているのか」

第二は 飛び翔る鴫を見て作る歌 とあるが、歌われるのは夜でむしろ 耳が働いている歌である。
鴫は鳩くらいの大きさで渡りである。秋になると飛来し、春になると北へ帰っていく。
羽ばたきの音、鳴く声に呼び起されて漂泊の鳥に感情移入する。それもまた家持も異郷に居るからであろう。

この歌は 春まけて 物悲しきに と始まる。晩春を迎えてなお 春まけて と春を待ち受ける と述べる所にやはり雪国に居ることが窺われ、なかなか春の実感が得られないもどかしさが 物悲しきに と表現されている。このように感情表現が歌のはじめに来るのは、万葉集中でも珍しく、家持には巻8-1568 雨隠(あまごも)り 情(こころ)いぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり  などが既にあるが、この若いころの歌ではこのうっとおしいさが、紅葉を見て晴れていくのに対して、この鴫の歌ではもの悲しさが鳥への感情移入と共に、漂い続けている印象がある。

4142 春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大道し思ほゆ
「春の日に芽吹いた柳を取り持ってみると、都の大路が思われる」大路には街路樹として柳が植えてあった。そこには柳の形に眉を書いた美女も多く歩いていただろう。都への憧れは題からしても明らかだが、柳もまた3年前に池主が繰り返し用いた素材である。

次の歌は堅香子の花を攀じ折る歌 である。

4143 もののふの 八十娘子らが 汲み乱(まがふ) 寺井の上の 堅香子の花

「宮廷に仕える多くの氏族の乙女たちが、次々と汲む寺井の井戸の辺に咲く堅香子の花よ」

堅香子は今 かたくり と呼び、もとはこの植物の柄から片栗粉を取った。群生して春に赤紫の花を咲かせる。
歌は寺の水くみ場の辺りに群生している様を歌うのであろう。しかし花の名が最後に出てくるだけで、印象に残るのは上の句である。これも桃の花の歌と同様、
宮廷に仕える女性たちのことを歌っているので、越中の現実の風景かどうかは疑わしい。むしろ群生する堅香子の花が多くの宮廷の女性たちを連想させていることが考えられる。

 

次は後半の歌を詠む。

19-4144 大伴家持 帰鴈(きがん)を見る歌2首

原文 燕来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧

訓読 燕来る 時になりぬと 鴈がねは 国偲ひつつ 雲隠り鳴く 1/2

 

19-4145 大伴家持 帰鴈(きがん)を見る歌2首

原文 春設而 如比帰等母 秋風尓 黄葉山乎 不超来有米也

訓読 春まけて かく帰るとも 秋風に もみたむ山を 越え来ざらめや 2/2

 

19-4146 大伴家持 夜のうちに千鳥の鳴くを聞く歌 2首

原文 夜貝多知尓 寝覚而居者 河瀬尋 情毛之努尓 鳴知等理賀毛

訓読 ()ぐたちに 寝覚めて 居れば 川瀬尋()め 心もしのに 鳴く千鳥かも 1/2

 

19-4147 大伴家持 夜のうちに千鳥の鳴くを聞く歌 2首

原文 夜降而 鳴河波知登里 宇倍之許曽 昔人母 之努比来尓家礼

訓読 夜くたちて 鳴く川千鳥 うべしこそ 昔の人も 偲ひ来にけれ 2/2

 

19-4150 大伴家持 遥かに川を遡る船人の歌を聴く歌一首

原文 朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唄船人

訓読 朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄う舟人

 

4144 燕来る 時になりぬと 鴈がねは 国偲ひつつ 雲隠り鳴く 1/2

帰鴈(きがん) 春に北に帰っていく雁のことで、万葉集では秋の来鴈は例が多いが、帰鴈(きがん) は稀である。また雁は抑留された前漢の文人 蘓武が匈奴に捕らえられ抑留された時、蘓武からの手紙を雁に付けて送った故事が知られ、旅人の故郷への思いのシンボルとなる鳥である。
「燕の来る季節になったと、雁は国を思いながら雲に隠れ鳴いていることだ」

雁は故郷を偲んでいるのは、もちろん家持の感情移入で、それは家持こそ都を偲んでいるからに他ならない。燕も和歌としては、ここで初めて登場する素材である。しかし3年前の春、家持自身が池主に答えた言葉に 「やってきた燕は泥を啄んで、家を祝うようにして帰る。帰っていく雁は、葦を咥えて遠く沖の方に飛んでいく」やはり池主との漢詩文を交えたやりとりを反芻しながら歌っていることが分かる。

4145 春まけて かく帰るとも 秋風に もみたむ山を 越え来ざらめや 2/2

「春を待ちかねてこうして帰っても、秋風が吹く頃になると、黄葉する山を越えて戻ってくるだろうに」

自分は恐らく秋まで都に帰れず、ここにいるだろう。今帰っても、かならず黄葉の頃にはここに帰って欲しいと歌う。

霍公鳥を引き留めようとする弟 書持 や 家持の歌が思い出される。それは孤独感の表現である。
次の二首は2日夜に千鳥が鳴くのを聞いて作った歌である。

4146 夜ぐたちに 寝覚めて 居れば 川瀬尋()め 心もしのに 鳴く千鳥かも 1/2

「夜更けに目覚めていると、川瀬を求めて心がしおれる程に鳴く千鳥よ」

心もしのに は、巻3-266柿本人麻呂が 近江の海() 夕波千鳥 汝()が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ と千鳥の歌に用いた言葉である。しかし夜の沈潜した情感では、むしろ巻8-1552湯原王の 夕月夜 心もしのに 白露の 置くこの庭にこほろぎ鳴くも に近いものがある。家持の心もしのに は、鳴く千鳥の心根もあり眠れない夜を過ごす家持の心でもあろう。千鳥は夜中にも川瀬を求めて鳴いている。先の鴫の歌と同じく漂泊の為に対する家持の感情移入もあるのであろう。

4147 夜くたちて 鳴く川千鳥 うべしこそ 昔の人も 偲ひ来にけれ 2/2

「夜更けになって鳴く川千鳥よ、成程昔の人たちもずっとこの声を賞美してきた訳だ」

昔の人には柿本人麻呂の他、巻6-925  ぬばたまの 世の更け行けば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く と歌った山辺赤人も含まれる。千鳥の声をしみじみと聴きながら、同じように千鳥を歌ってきた歌人たちに思いを馳せている。家持には歴史を受け継ぐものという自意識が強くあった

4150 朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄う舟人

12首の最後の歌である。題にある 江 は大河という意味だが、歌によれば二上山の賦 にも歌われた国府の北を流れる射水川である。そこから遥かに舟人の歌が聞こえてくる。

「朝の寝床で遥かに聞こえてくる、射水川を漕ぎながら歌う舟人の声が」ここまで都や池主との贈答など、失われたものを歌う、哀愁や孤独感に包まれた歌が多かったが、この歌は朝の寝床で遠くから聞こえる舟歌をのんびりと味わっている。

 

今日3月3日は上(じょうし)の宴を下僚たちと張る日であった。中国由来の節句を、都同様に満喫する。

続く三首はその宴での家持の歌で、三首とも 今日 という言葉を用い、この日が待ちに待っていたことを表している。この日は越中の土着の民謡も機嫌よく聞いているのだろう。遥かに聞こえる音を賞美する情感は、家持自身 巻8-1494

夏山の 木末(こぬれ)の茂に 霍公鳥 鳴き響(とよ)むなる 声の遥けさ などと、若いころから何度か歌ってきたことであった。

 

以上の12首はいずれも~をどうするという形の題を持っている。~に当たるのは具体的な景物である。つまりこれらは詠物歌なのである。詠物歌の元になる詠物の詩は、素材をどう詠みこなすかを競うものであった。12首に桃、李(すもも)、堅香子、帰鴈、燕、舟歌など万葉集中に素材が出てくるのは、そうした詠物詩のあり方にも沿うものであった。一方、どうするは見る・聞く という感覚動詞が多い。それも視覚と聴覚とを対局で組み合わせるような漢詩の見本を取り入れたものと思われる。
そうした漢詩との関連は都、3年前の池主との贈答の回想と結び合っていたであろう。研ぎ澄まされた感覚は、感覚、センチメンタルな心情表現を作る。家持の本領がそうした孤独な感傷にあるとすれば、やはりこの12首は家持の代表作といえるであろう。それらは細かく時間を追って並べられることで、様々な感情に揺れ動く家持を説明に陥ることなく表しだしている。

 

「コメント」

越中の景物を歌った歌で、ある意味こうするしかなかった孤独な状況なのであったろう。どんどん藤原氏中心に政局は展開し、自分は参加できず地方にいる。焦りと孤独。