230311 ㊽「防人歌と家持」

前回、家持歌日誌の中から巻19の3首を取り上げて、それが名歌とされるのは近代に入ってのことであること。また私たちが孤立した内面が外界を甘受するという、近代的自我を当たり前のものとして持っている為であるということを話した。そしてそれは中国文学の自他の対立や感覚性を、和歌に取り入れることで表現されることであり、暗示的にしか表現できない政治的苦境が背後にあることが、巻19後半部から読み取れると言った。巻19の巻頭の歌と、巻末の歌は孤独の表現として共通性があり、むしろ相対称させることによって、巻19が越中での孤独から都での孤独へと向かう三年間の家持の足跡を描いている。巻19は巻17以降の歌日誌の中でも最も家持に密着した巻である。巻末歌の注が、この巻で作者名の無い歌は全て家持作である巻末期に連続しているのはこの為だということもできる。

 家持と防人との接点

さて話は最終巻20に入る。巻20は大きく三部に分けることが出来る。それは中央に東国諸国の防人の歌、それに触れる中で作られた家持の歌、計110首余りが載せられているためで、その前と後にと割れられている部となる為である。

家持は帰京した時は少納言だったが、天平勝宝6年754年 秋に兵部少輔・兵部省の次席次官になった。大伴氏は武門の家柄なので相応しい官職と言える。翌年正月から天平勝宝7年改め天平勝宝七歳というように改められたが、その春、家持は防人の検査の為に難波に下る。そこで防人歌に触れた。

 防人のシステム

防人歌を見る前に防人について説明しておく。防人は岬や島を守る人という意味で、壱岐、対馬や九州北部の海岸線の防衛に当たる兵士である。もとは中国の兵制で、名前も借りている。646年の大化改新の詔に設置のことが見えるが、本格的に整備されたのは、663年の白村江の戦で、唐新羅連合軍に大敗した後と考えられる。持統朝にはすでに防人の交代制が行われていた。
大宝元年701年大宝了が制定されると、防人は諸国の軍団の兵士の中から派遣されることになった。人数の規定はないが約三千人と見られ、三年間の任期で毎年千人ずつ交代した。これまた規定はないが八世紀を通じて、ほとんどは東国の兵であった。なぜ九州の防衛に東国の兵を充てるのか疑問だが、東国は以前から舎人や衛士など大和朝廷の武力の基盤で、徴発が容易だった。諸国の防人はその国の部領使(ぶりょうし)に引率されて、難波津に至りそこからは船で筑紫まで行く。防人の難波津までは食料は自弁で、難波津からは支給となる。九州に着いた防人は、防人の司の定めた配置に従って勤務に就く他、農地を貰って農耕をした。

帰国したら3年間兵役免除となる。それでも兵士の負担は重く、家族の生活は成り立たなくなるため、兵士による防人制度は度々停止するが、復活したりした。天平9年736年天然痘大流行の為に、防人制度が停止された時には、二千人余りの東国の兵士が帰国したことが通過した国々の資料から分かる。

防人歌は引率の部領使によって提出されている。

2月6日の遠江(とおとうみ)が最初で、以下相模、駿河、上総、常陸、下総、下野、信濃、上野と続き、2月19日提出の武蔵が最後である。計10カ国。どれも東海道、東山道の国々である。どのように記録されているのか、最初の遠江国の防人歌7首を見てみよう。

 

20-4321 物部秋持 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

 左注 国造丁長 物部秋持 

原文 可之吉伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖

訓読 畏きや 命(みこと)(かが)ふり 明日ゆりや 草(かえ)がむた寝む 妹なしにして 1/7

 

20-4322 若倭部身麻呂 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

 左注 主帳丁 若倭部身麻呂

原文 和我都麻波 伊多久古非良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受

訓読 我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず 2/7

 

20-4323 丈部真麻呂 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

原文 等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波波登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟

訓読 時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出()()ずけむ 3/7

 

20-4324 丈部川相 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

原文 等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃牟宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟

訓読 遠江 志留波(しるは)の磯と 尓閇(にへ)の浦と 合ひてしあらば 言も通はむ 4/7

 

20-4325 丈部黒當 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

原文 知知波波母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐佐己弖由加牟

訓読 父母(ちちはは)も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧げて行かむ 5/7

 

20-4326 生玉部足国 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

 左注

原文 父母我 等能能志利弊乃 母母余具佐渡 母母与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖

訓読 父母が 殿の後方(しりへ)の ももよ草 百世(ももよ)いでませ 我が来(きた)るまで 6/7

 

20-4327 物部古麻呂 天平勝宝七歳 筑紫防人の歌

 左注

原文 和我都麻母 畫尓可伎等良無 伊豆麻母我 多妣由久阿礼波 美都都志努波牟

訓読 我が妻も 絵に描()き取らむ 暇(いつま)もが 旅行く我は 見つつ偲はむ 7/7

 

全体の左注に、防人部領使遠江の吏生 坂本が奉る歌18首 但し拙劣な歌11首は乗せず とある。

4321 畏きや 命(みこと)(かが)ふり 明日ゆりや (かえ)がむた寝む 妹なしにして 1/7

作者が左注に 国造丁長(こくぞうていちょう) 物部秋持 とある。国造とは律令制以前に朝廷に認められて

その土地の支配を行っていた土地の豪族の事である。国造丁長 というのは防人軍団の階級名としてその名が残っていることは、防人を出す軍団がその土地の国造が持っていた軍隊の組織を引き継いでいることを示している。恐らく彼はその防人たちのリ-ダ-なのである。

「畏れ多いご命令を頂き明日からは、草と共に寝ることになるのだろう。妻のいないところで」

防人歌には言葉の訛りが入って表現されている。

4322 我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず 2/7

主帳丁 は、帳簿をつかさどる兵士なので、読み書きが出来た。

「私の妻はひどく恋しがっているらしい。飲む水に影まで映って忘れられない」水を飲もうとすると水面に妻の面影が浮かび忘れられないのは、妻が自分を恋しがっているからだろう という。旅の歌では家族と旅人との共感関係を歌うことが多い。

4323 時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出()()ずけむ 3/7

「季節季節の花は咲くけれども、どうして母という花は咲かないのだろうか」旅先で見る花は慰めにはなるが、故郷の母の代わりにはならない。母が花であったら良いのに」

これは中大兄皇子の妻 曽我造媛(みやつこひめ)が亡くなった時、野中川原史満(のなかのかわらのふひとみつ)が奉った歌 本毎(もとごと)に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)し妹が また咲き出で来() 日本書紀によく似ている。これと無関係ではないだろう。

4324 遠江 志留波(しるは)の磯と 尓閇(にへ)の浦と 合ひてしあらば 言も通はむ 4/7

「遠江の志留波(しるは)の磯  尓閇(にへ)の浦 が地続きだったら言葉も通わされたのに」志留波(しるは)の磯 が故郷近くで、尓閇(にへ)の浦 がそことは離れた別の場所と思われる。

4325 父母(ちちはは)も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧げて行かむ 5/7

前の歌も前々の歌も作者が同じ姓だが、郡が違うので血縁はないと思う。一般民衆の姓は戸籍を作る時にその土地の人々全部に一斉に与えたものらしく、血筋とは関係はない。与えられた姓は大抵~部という姓で部の民という氏族社会に隷属させられていた人々に由来する。

「父母は花であって欲しい。旅に行っても捧げ持って行けるのに」

この歌は父母になっているが、花であったらと仮想する点で前の前の歌と母とふ花の 咲き出()()ずけむ と共通している。

4326 父母が 殿の後方(しりへ)の ももよ草 百世(ももよ)いでませ 我が来(きた)るまで 6/7

ももよ草 は植物の名前だが不詳。百世(ももよ) 百世代 という言葉の序詞になっている。

「父母の住まいの裏手にある百世草ではないが、百世(ももよ) までお達者でいてください。私が帰るまで。」
4327
 我が妻も 絵に描()き取らむ 暇(いつま)もが 旅行く我は 見つつ偲はむ 7/7
「我が妻を直に描きとる時間があったらなあ。旅行く自分はそれを見ながら妻を思うだろう」

絵を描くというのは珍しい。

 

以上が遠江の防人の歌であるが、最後の注によると部領使であった坂本朝臣が献上した歌は18首、拙劣な歌11首はここに載せないで7首となっている。こうした各国部領使の奉った歌の数と、下手な歌は載せないということは、10ケ国すべての歌の末尾に記されている。ただし途中からは載せない歌の数は書かなくなる。載せた歌の数を数えれば、
載せなかった歌の数は自動的に分かるので省略したのである。

10ケ国合わせると奉られた歌の数は166首、載せられた歌が84首なので、載せられなかった歌は82首。半分である。

 防人歌の特徴 先頭の歌は建前の歌 後は家族、故郷の歌ばかり

さて7首全体を見ると、最初の4321国造丁長 物部秋持 だけは、畏きや 命(みこと)(かが)ふり と天皇の命令を恐れ多いと歌っているが、あとは全て妻や両親といった家族を思う歌になっている。これはどの国の歌も同様で、例えば下野の歌の最初に 巻20-4373 今日よりは 返り見なくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ我はという歌が出てくる。作者は火長の今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)。火長 とは10人のチームのリーダ-。唐の兵士の制度が10人を1火 としたのに倣ったもの。下野国の防人歌は214日に18首が奉つられ、11首が載せられていて比較的多様な歌を含んでいるが、天皇のことを歌うのは先頭の歌だけである。この歌などは太平洋戦争で戦意高揚のスローガンとして使われた。聖武天皇の宣命や家持の歌に使われた 海行かば 水漬く屍 山行かば 草蒸す屍~などと共に、自己犠牲を厭わないことを述べる文言として政治利用された。

その最中である昭和18年国文学者吉野裕(ゆたか)は「防人歌の基礎構造」を書いて、防人歌が宴の場で謡われたこと、それは防人としての宣誓式のようなものであったが、公的な言建ての発想は崩れ去って私の抒情へと向かうのだと記した。大変勇気のある発言だと思う。          
確かに防人歌の本質的な勇ましい、忠君愛国などという所にはない。旅先にあって、家族を思う情や別れの悲しみを歌うが殆どである。実は大君のご命令を歌う歌でさえ、妹なしにして と末尾に歌うし、今日よりは  返り見なくて ということは、昨日までは家の方を帰り見ていた のであるから、故郷や家族と無縁ではない。

そこで戦後の防人歌研究は専ら、故郷や家族から引き離された防人たちの悲しみや不安という私的な抒情詩という見方で一致する。ただしそうした抒情がどこに由来するのかについては見解が分かれている。10ケ国の防人歌は提出された日がバラバラで、互いに触れ合った形跡はない。それなのにどの国の歌も同じ様に家族を思う歌で占められるのは何か要因があったはずだ。

それを東国にも抒情詩的和歌の伝統があったと考えるのが一つである。もう一つには集合場所の難波で家持などを中心にして、歌の査問のようなものが出来、その指導の下で防人たちはそれぞれの歌を作っていたという推定で、元は中央の奈良にあったという考え方である。
結論から言うと、どちらの考え方にも足りないところがあると思う。
吉野裕(ゆたか) は、防人歌は宴や集団の場で作られ、互いに影響しあっていると考えていた。確かに先に見た7首の中には、家族が離れあったらと仮想する歌が2首、父母ではじまる歌が二首、我が妻で始まる歌が2首ある。偶然とは考えにくい。しかし一方これらの歌がどの地点で歌われたかと見るとバラバラであることが分かる。

最初の歌は明日ゆりや 草(かえ)がむた寝む と言うのであるから出発前。最後の 我が妻も 絵に描()き取らむ 暇(いつま)もが も出発前は忙しく妻の肖像画を描く暇もなかったというのである。一方 我が妻は いたく恋ひらし などは確実に出発後をその時点としている。母とふ花の 咲き出()()ずけむ なども道中の花を見ながらの詠と見るのが自然であろう。

遠江の歌には無いが、集合地の難波での歌も多くあり、難波での歌を含む国の防人が全員一つの場で歌ったとすれば、その場は難波での宴と考えざるを得ないか、そういう国の歌が全部難波到着後の時点とすればそんなことはない。

それどころか巻20-4380下野国の大田部三成の 難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく 「難波津から沖に出て見ると、神々しい生駒山の高い峰に雲が棚引いている」と難波出港後を時点とする歌までがある。

これが難波にいる家持の手に入ったのは不思議である。
武蔵国の夫婦の歌

どうも防人たちは今現在の状況から歌を発想しているのではないらしい。最後の武蔵国の防人歌は夫婦の歌を記録している。やはり拙劣歌を除いてあるので、二人そろっているのは4組だが、最後に並ぶ3組を見よう。

20-4419 物部真根 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 伊波呂尓波 安之布多気騰母 須美与気乎 都久之尓伊多里弖 古布志気毛母

訓読 家ろには 葦火(あしび)焚けども 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけ思はも

 

20-4420 椋椅部弟女 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都気呂 居礼乃波流母志

訓読 草枕 旅の丸寝の 紐絶へば 我が手と付けろ これの針持し

 

20-4421 服部於由  筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢

訓読 我が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延()ほ雲を 見てて偲ばね

 

20-4422 妻服部呰女 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈奈 阿也尓加母祢毛

訓読 我が背なを 筑紫へ遣りて 愛(うつく)しみ 帯は解かなな あやにかも寝も

 

20-4423 藤原部等母麻呂 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 安之我良之 美佐可尓多志弖 蘇弖布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母

訓読 足柄の 御坂(みさか)に立ちて 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも

 

20-4424 妻物部刀自賣 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無

訓読 色深く 背なが衣は 染めましを み坂給はば  まさやかに見む

 

4419 家ろには 葦火(あしび)焚けども 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけ思はも

「家では葦火を焚く貧しい生活だったけれども、住みよかった。筑紫に着いて恋しく思うだろう」

対する妻の椋椅部弟女の歌は
4420 草枕 旅の丸寝の 紐絶へば 我が手と付けろ これの針持し

「旅に出ると着の身着のままで、服の紐が切れるでしょう。そうしたら自分の手で付けなさい。この針でもって」
紐をつけるのは私の仕事だけど、一緒に行けないからこの針で付けてください と歌っている。

次は服部於由の歌

4421我が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延()ほ雲を 見てて偲ばね

「自分が不在になって苦しくなって溜息が出たら、足柄の峰に這う雲を見て偲んでくれよ」

足柄峠は関東平野から外に出る地点であった。その向こう側におれがいると思って足柄山を見て過ごしてくれと言うのであろう。

次は妻の妻服部呰女の歌。

4422 我が背なを 筑紫へ遣りて 愛(うつく)しみ 帯は解かなな あやにかも寝も

「あなたを筑紫に旅立たせ、いとおしさに帯は解かずに切ない思いで寝るのでしょうか」

 

以上二組の夫婦はともに相手を思う情を歌いあっているが、歌の言葉の共有が見られない。巻15の遣新羅使の別れの歌は、妻の歌の言葉を引き取って男が歌っていた。

 

4423 足柄の 御坂(みさか)に立ちて 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも

4424  色深く 背なが衣は 染めましを み坂給はば  まさやかに見む

最後の一対は夫 藤原部等母麻呂 が足柄の坂に立って袖を振ったら、家にいる妻ははっきり見てくれるだろうか。妻 妻物部刀自賣 が 色濃くあなたの衣を染めれば良かった、そうすればあなたが坂を越える時にはっきり見えるだろうに。と 共通の話題で歌っている。しかしよく見ると妻は夫の歌った袖に触れていないことに気付く。妻の歌 み坂給はば は坂を越えることを神に許可を得る事を表現したもので、袖を振るよりむしろ背中を見送っている様である。やはり夫婦には、ずれがある。それはその場で相手の歌を聞いて作っているのではないと思わせる。

 

難波での歌で次の様な歌がある

20-4329 丹比部国足 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 夜蘇久尓波 那尓波尓都度比 布奈可射里 安我世武比呂乎 美毛比等母我毛

訓読 八十(やそ)国は 難波に集ひ 船かざり 我がせむ日ろを 見も人もがも

 

20-4330 丸子多麻呂 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 奈尓波都尓 余曽比余曽比弖 気布能比夜 伊田弖麻可良武 美流波波奈之尓

訓読 難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに

 

20-4363 若舎人部廣葦 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 奈尓波都尓 美布祢於呂須恵 夜蘇加奴伎 伊麻波許伎奴等 伊母尓都気許曽

訓読 難波津に 御船下()ろ据え 八十楫(やそかじ)貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ

 

20-4365 物部道足 筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 於之弖流夜  奈尓波能都由利 布奈与曽比 阿礼波許藝奴等 伊母尓都岐許曽

訓読 押し照るや 難波の津より 船装ひ 我は漕ぎぬと 妹に告げこそ

 

20-4383 丈部足人  筑紫派遣諸国の防人の歌

原文 都乃久尓乃 宇美能奈伎佐渡尓 布奈餘曽比 多志弖毛等伎尓 阿母我米母我母

訓読 津の国の 海の渚に 船装ひ 立し出も時に 母が目もがも

 

4329 八十(やそ)国は 難波に集ひ 船かざり 我がせむ日ろを 見も人もがも

「多くの国の人が難波に集まり、船の支度をする。その私を見る人がいたらなあ」

4330 難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに

「難波津では船を飾り立てて今日の日を迎えた。さあ出帆だ、見送りにくる母もいないままに」

4363 難波津に 御船下()ろ据え 八十楫(やそかじ)貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ 

「難波津で船を浮かべて多くの楫を取り付け、今は漕ぎ出でて行ったと愛しい人に告げてくれ」

4365 押し照るや 難波の津より 船装ひ 我は漕ぎぬと 妹に告げこそ

「光り輝く難波津から船の支度をして漕ぎだしていったと愛しい人に告げてくれ」

4383  津の国の 海の渚に 船装ひ 立し出も時に 母が目もがも

「摂津の国の海の渚で船の支度をして出発する時に、母に一目会えたらなあ」

 以上5首が作者の国が違ってもとても似ているのは何故か

気付いたと思うが、これら5首は全て難波津で船の支度をして出港する時に、家族に見て欲しいという順序で言葉が繋げられている。多少の言葉の出入りがあるだけで同じものと言ってよい。相模の国同士、常陸の国同士でそうなってしまうのはお互いの影響関係で説明がつく。
しかし他国同士がどうしてここまで似てしまうのか。それは当人同士の関係では説明がつかない。実は武蔵国の防人歌の後には、積年の防人歌つまり昔の防人歌8首が載せられている。それは家持の部下が選び写して家持におくったものだという注がある。つまり防人歌が保存されて歌集になったということである。そしてその中の一首 巻20-4428 作者不詳 我が背なを 筑紫に遣りて 愛(うつく)しみ えひは解かなな あやにかも寝む→「あなたを筑紫に遣って、愛おしくて帯は解かないで悩ましく寝るのだろうか」 これは先ほど読んだ 4422 
我が背なを 筑紫へ遣りて 愛(うつく)しみ 帯は解かなな あやにかも寝も と同じ歌であることは明白である。過去の歌を使ったのである。

 防人歌には手本があってそれを毎回真似て作られた

殆ど同じ歌が国を跨いで続出するという現象は、共通の手本があってそれを真似て作っていると考えれば簡単に説明がつく。夫婦の歌が打ち合わないのも、それぞれが自分の気持ちに合わせて、歌を選んでそれを元に作ったとすればあり得ることである。しかしそれを盗作というのは適当ではない。

 名作もあるが殆どは類型的である。

前回述べた様に、和歌とは共有された先行の歌に沿いながらいくのが本来の在り方である。しか防人たちが普段から和歌を作る習慣があったとも思えない。勿論巻20-4401 信濃国 他田舎人大嶋 の 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞきのや 母なしにして の様に耐えがたい別れの場面を彷彿とさせる名作もあるが、防人歌全体では非常に類型的な作品が殆どである。拙劣として半分が掲載されないのだから、当然と言える。和歌表現には技術が必要で、心情があれば必ず良い歌が出来るものではない。東歌の時にも言ったが、東国に和歌は移植されたが、根生いの文化ではない。防人歌は表現を引き継いで歌われてはいるが、難波津での出港の歌で分かるように、所詮防人歌という狭い範囲での継承でしかない。防人たちは防人になったから手本に従いながら、歌を作っていたのだと考えられる。
それは何故かと言えば公に求められているからである。
吉野裕(ゆたか) が宣誓式だというのは本質をついているのである。ただし求められるのは忠君愛国の表現ではなく、自分がどれだけ辛い思いをして出てきているかを、歌で証立てることである。家族や故郷を振り捨てた悲しみが奉られているのだ。歌うべき感情は予め決まっていている。

20-4382 下野国 大伴部広成 ふたほがみ 悪()しけ人なり あたゆまひ 我がする時に 防人にさす→ふたほがみは悪い人だ。急病に罹った私を防人にするのだから。軍団で自分を防人に指名した人物を恨む歌は例外的にあるが、防人制度自体を批判する作は一首もない。

提出された歌に家持が手を入れている 

防人たちの歌う、辛さや悲しみは彼らの真情であり、それを歌うことが彼らを慰めたかもしれないが、軍隊で組織的に行われることが私的行為である筈がない。各国防人歌の最後に記される注の中には、提出の日付があり、実際に提出された日が補筆されている国がある。それは防人歌を記したものが、部領使の公文書で、それに家持が手を加えていることを意味する。つまり各国の部領使たちが提出した文章を兵部少輔である家持が受け取り、その中から拙劣な歌を除いて万葉集に移したと推測される。そして防人たちの歌は全て奉られたものであり、その相手は天皇あるいは朝廷だから、部領使たちが提出した原本はそのまま都に送られたであろう。防人歌は家持が収集したといわれるのが通例である。また家持が部領使を通じて防人たちに歌を作らせたという説もある。しかし家持は防人たちの歌の水準が低いことは知っていた筈で、万葉集に載せる歌を作られるために、わざわざ手配したとは考えにくい。やはり職務上防人たちの歌に触れてその中から、良い歌を歌日誌に採用したと考えるべきであろう。但し家持は彼らの辛さや苦しみには大いに共感したようである。

 

長歌作品3首、短歌3首を防人たちの歌の間に挟み込んでいる。その中から2月19日製作の 防人が心の為に思いを述べて作る歌の長歌を読む。

20-4398 大伴家持 防人が心の為に思いを述べて作る歌一首並びに短歌

原文 省略

訓読

大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫(ますらお)の 心振り起こし 取り装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取りつき 平らけく 我は斎(いはは)む ま幸(さき)くて 早帰り来()と 真()袖持ち 涙を拭ひ むせひつつ 言問ひすれば 群鳥(むらとり)の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠に 国を来()離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来()いて 夕潮に 船を浮けすえ 朝なぎに 舳()向け漕がむと さもらふと 我が居る時に 春霞 島廻(しまみ)に立ちて 鶴(たづ)が音()の 悲しく鳴けば はろはろと 家を思ひ出 負ひ征矢(ソや)の そよと鳴()るまで 嘆きつるかも

「大君のご命令を畏れ多いものとして、妻と別れるのは悲しいけれど、勇武な男としての気持ちを振り起こし支度をして、門出をすると、母は自分を掻き撫で妻は取りつき、私たちは変わらずに祈っています、ご無事で早く帰ってくださいと袖で涙を拭い、咽びながら別れの言葉を告げるので、大勢で出発するのもし兼ねて、足も進まず振り返りながら、
ますます遠く故郷を離れ、いよいよ高く山を越え過ぎて、葦の花の散る難波に到着する。夕方の潮に船を浮かべて、朝凪の中、舳先を筑紫に向け漕ぎ出そうと準備している時に、春霞が島の辺りに立ち込め、鶴が悲し気に鳴くので、遠く離れた家を思い出し、背負った矢が共鳴するほどに溜息をついてしまったよ」

 家持が長歌を作った意識

家持は門出の場面、故郷を離れていく場面、難波で出向を待つ場面と、防人たちが歌った時点をそれぞれ抑えながら、その時々の感情を丁寧に歌っていく。春霞 島廻(しまみ)に立ちて 鶴(たづ)が音()の 悲しく鳴けば を 難波の情景はいかにも家持らしい表現で、防人たちの歌とは大きく異なるが、家持はこれが和歌の表現だというつもりなのである。

防人が心の為にという題詞は代作の形式なのである。自分では上手に歌えない人の為に作るという、意識を表している。

繰り返し言うが、拙劣歌という判断を下したのは家持である。
それでは家持は防人歌のどこに、それほど共感したのか。それは 大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫(ますらお)の 心振り起こし 取り装ひ 門出をすれば という所であろう。
天皇のご命令を畏れ多く受け止めて、家族との別れの悲しみを堪え、勇猛な心を振り起して出発する。それは家持自身も越中で赴任早々病に沈み、巻17-3962 大君の 任()けのまにまに 大夫(ますらお)の 心振り起こし あしひきの 
山坂越えて天(あま)(さか)る 鄙ひな)に下り来( と歌うのと同じである。

公の為に私を犠牲にする悲痛感に、自己と共通するものを家持は感じたのである。東国の兵士たちが天皇と特別な関係を結んでいるとされている。それ故にわざわざ東国から筑紫まで防衛に赴くのである。

難波には勅使が都から下っていた。防人たちは難波に寄って天皇に誓いを立て、天皇の代理である勅使から労いの言葉を受けたのであろう。家持の属する大伴氏は 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ という言立てをして天皇に仕え、出金詔書では名指しでその忠誠を称えられたのであった。
従五位上の位を持つ家持と東国出身の防人たちはとは天地の身分差があるが、それを越えて犠牲を厭わず天皇に仕えるものとして共に歌ったのである。ただしそれは古代国家の必要としたフィクションであって、現代にそのまま肯定できる訳ではないし、まして政治利用など許せるものではない。

防人たちは一度も戦闘に出たことはなかった。

 

「コメント」

 

どうしても字も読めない東国の兵士が仮に手本を示されたとしても、歌を作れたとは到底思われない。部領使たちリーダが手本を元にして相当手を取り足を取りして作ったのであろう。それでも半分は拙劣歌として不合格。後世そのことを置いて、防人たちが、さも自力で作ったが如く言われているのには違和感がある。