230812①「阿仏尼と十六夜日記」

阿仏尼と藤原為家(定家長男)との関係 財産の譲り状問題

今日は十六夜日記に何が書かれているか、どのように読まれてきたかについて話す。これまでは紀行文学と理解されてきたが、実際は和歌を中心とした日本文化論であると考える。作者の阿仏尼は自分が正しいと信ずる美しい日本文化をどうしても守りたかったのである。阿仏尼30歳の頃に藤原為家と出会う。為家は中世文化の和歌の源流である藤原定家の息子であり後継者である。その為家の愛を勝ち取り側室となる。恐らく為家は阿仏尼の書いた随筆「うたたね」を読んで彼女の類まれな文才と源氏物語に対する理解の深さに驚嘆したのであろう。阿仏尼が為家と知り合ったのは、為家が50代の頃である。為家には正室との間に子供が何人かいて、長男は為氏という。阿仏尼はほぼ同じ年頃の男の子の義理の母となったのである。為氏の生母は鎌倉幕府の有力御家人 宇都宮頼綱の娘である。後に宇都宮頼綱は出家して小倉山荘に住んでいた。宇都宮頼綱は小倉山荘の襖を飾る為に、娘の夫である藤原定家に古今の名歌を百首揮毫して貰った。これが小倉百人一首の原型である。為家は当初は正室との長男為氏を、自分の後継者とする積りであったが阿仏尼の登場で事態は一変する。阿仏尼は為相、更に為盛を生んだ。正室の長男である為氏と、阿仏尼が生んだ為相とは

40歳の年齢差もあった。為家が自分の所有する荘園を為氏に与えると書いた譲り状があったが、為家は考え直して阿仏尼との息子為相に譲ると書き換えた。父親の為家が亡くなった後で、為氏と為相の間に相続を巡る争いが発生したのである。食い違う譲り状が二つ残ったのである。具体的に言うと播磨国にあった細川荘の相続である。為相は幼いので母である阿仏尼が為氏と争った。

 京都では敗訴 鎌倉幕府に上訴

当時貴族社会では財産分与に関する譲り状は、書き換えを認めないというのが一般的であった。そこで阿仏尼は敗訴したと考えられるが、武家社会の方では譲り状の書き換えを認めていたので、そこに阿仏尼は活路を見出したのである。阿仏尼は鎌倉に下向して幕府にこの争いを裁いて貰おうとした。下向したのは弘安2年10月16日、十六夜の月だったのでこの旅の日記が十六夜日記とされた。時に阿仏尼50歳。1279年というのは最初の元寇 文永の役 から5年後、そして二度目の 弘安の役 1281年 の2年前である。鎌倉幕府は内外に問題を抱え多忙であったので、阿仏尼の訴訟も進展せず長期化した。ここまで阿仏尼が鎌倉へ下向した理由を説明してきた。私は高校生の頃十六夜日記が書かれた背景を授業で習い、それが財産争いの記録と思い込んだ。それが十六夜日記に対する評価を低くしていた。それが間違いだと気付いたのは、中世文化の本質を本気で考えるようになってからである。

 十六夜日記は財産争いを巡る本ではなくて、文化を巡る戦いの書物である

 その例① 小金井喜美子の「戊辰の昔語り」

我が国の中世文化は源氏物語・古今和歌集・伊勢物語の三つをベ-スとして平和と調和を求めて作り上げられたものであるということが分かってきたのである。その平和と調和を獲得するために、敢えて戦いも避けない覚悟が必要である。阿仏尼はそれを実践したということが、やっと分かったのである。→意味が理解できない。

十六夜日記は財産争いの書物ではなく、文化とは何かを巡る戦いであったのだ。そのことを確認してみよう。

十六夜日記は近代人にどのように読まれてきたかという話をする。今回は二つの具体例を取り上げる。

最初は小金井喜美子(森鴎外の妹)が書いた「戊辰の昔語り」という文章である。小金井喜美子は明治の文豪森鴎外の妹であり、才能に恵まれ外国の詩や小説を翻訳したりした。著名な人類学者小金井良精(よしきよ)の妻で四人の子の親でもあった。

小金井良精は越後長岡の出身。喜美子は夫の母親から、明治維新直前長岡を舞台に繰り広げられた戊辰戦争の中でも、最も激戦であった北越戦争の様子を直接聞いた。夫の母親の名は ゆき で、その聞き書きが「戊辰の昔語り」である。この文章を森 鴎外が自分の著作に収めたものである。司馬遼太郎の「峠」では、長岡藩の河合継之助と政府軍の山県有朋は長岡城争奪の死闘を繰り広げるが、ゆき はこの戦乱を避け幼子と山の荒屋に避難し、更には母子で喜多方、仙台と落ち延びて行く。この回想録に意外なことであるが、阿仏尼の名前が出てくる。

その一説を朗読。

朗読① 戊辰の昔語りから

(おのれ)は二人の幼を伴いてそぞろ歩きし、今まで知らぬものなれど 貧しき人の糧に買うと聞きし カエルナを落人の身なればとて摘み集める。 日をつみて いつ故郷に帰るなと 思い至るに かなしかりけり 不如帰の鳴く声を聞きて 帰るべき すべしなければ 不如帰 我もろともに ねぎそ鳴かるる。

里より人の来る度に戦の有様如何にと問えば、見付をも落ち立ても、はや取らるる。天神峠や大黒のほとりにては戦ありたりなど言うを聴きて、阿仏尼が いとど旅寝ぞうら悲し と詠みしをふと思いい出でぬ。げにその言葉もまことにもおぼしく、向かいにそびえるもちたて峠にはここかしこに官軍の焚く篝火の宵々毎に見られぬ。そこを守りいるのは山県大将にて、吾がよく知れる。吾が守る砦の篝火影失せて という歌はその頃詠まれしものとかや。篝ればはここに人ありと知られん事の悲しさに、夜も灯照らさねば子供らも遊び疲れてうまいする傍らに、

ただ一人闇に起きいて 来し方行く先を思いまどろまれぬ夜も多かりき

越後長岡における戊辰戦争の混乱を語る「戊辰の昔語り」の一説である。時に1868年。
森鴎外が可愛がった妹の喜美子は、夫の母から北越戦争の過酷な戦争体験を聞いたのである。義母 ゆきは生きるために野原に生える草を食べる程の悲惨な状況の中で、平和な日々を願う和歌を詠む教養人であったのだ。

因みに義母の兄は山本有三の戯曲「米百俵」で知られる藩の大参事 小林虎三郎 という知識人で、教育の大事さを説いた人である。
さて二人の子供を抱えて行く山の中で、ゆき は阿仏尼が読んだ歌を自分自身の心境と同じだと感じたのである。
阿仏尼が いとど旅寝ぞ うら悲し と詠みし歌を をふと思い出でぬ これは十六夜日記の一節なのである。ゆき が二人の子どもを大切に思って山の中に潜んでいるように、阿仏尼は為相、為盛という二人の息子の未来の為に鎌倉に向かう一大決心をした。そして 「うたたね」でかって滞在した遠江(とうとうみ)国の日隈を通った。浜松である。その浜松を過ぎた所にあるのが見付という里であった。

 遠江(とうとうみ)の見付

先ほど読んだ「戊辰の昔語り」に 見付をも落ち立ても、はや取らるる という箇所があった。ここに長岡の見付という地名が出てくる。それが偶然に静岡の見付と同じなので、ゆき は阿仏尼が旅の途中、見付という里で詠んだ歌を連想したのであろう。十六夜日記の見付の場面を見よう。

今宵は遠江 見付の里 というふ所にとどまる。里荒れて物恐ろし そして読んだ歌が

誰か来て 見付の里と聞くからに いとど旅寝ぞ 空恐ろしき とある。「戊辰の昔語り」には いとど 旅寝ぞ うら悲しき とあったが原文とは少し違っている。阿仏尼の歌には  誰か来て 見付の里と聞くからに

とあった。見付という地名は、見つける、見つかるという言葉を連想させる。山の中に潜んでいる ゆき は、官軍に見つかったらいけないと恐れて、夜でも灯をつけないと細心の注意を払っていたのである。小金井喜美子の 義母 ゆき は阿仏尼の十六夜日記を暗記する程に熟読していたのである。

山県大将について説明しておく。島根県津和野出身の森鴎外は長州出身の山県有朋の知遇を得る。森鴎外の作品「舞姫」には、山県伯爵という有名政治家が登場するが、山県有朋が

そのモデルとされている。山県が和歌を大変に好み、鴎外と常磐会という和歌の会合を頻繁に開いていた。小金井喜美子も常磐会に和歌を提出していた。山県有朋の生涯の代表作が、戊辰戦争の時、長岡で戦った時の歌である。

吾が守る 砦の篝(かがり) 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

山県はこの時の激烈な従軍記録をこの歌に詠んで 越の山風と名付けている。季節は夏なのに越後の山風は身に染みて寒く感じられたと詠んでいる。山県は森鴎外と入魂(じっこん)の仲だから妹の喜美子も当然知っている。

小金井ゆき は息子の嫁の喜美子に向かってお前たちが世話になっている山県大将の和歌の代表作は、この私が子供たちを抱えて逃げ回った戊辰政争の時に、長岡で詠んだのだと教えたのである。

「戊辰の昔語り」には そこ守りいられしは今の山県大将にて汝れ達もよく知れる 吾が守る 砦の篝 影ふけて という歌は、その頃詠まれしものとかや とあった。この一節は喜美子と山県との不思議な縁を物語っている。喜美子の兄 森鴎外のパトロンである山県は、喜美子の夫の郷里である長岡藩を攻撃した官軍の指揮官であった。この様に「戊辰の昔語り」は明治維新直前に、阿仏尼の歌が広く読まれていたことを示す資料である。

次には明治時代の文学雑誌である「文学界」を紹介する。

 その例②雑誌「文学界」 第一号に掲載された古典評論 吉田兼好と阿仏尼

「文学界」には島崎藤村や北村透谷が作品を発表している。樋口一葉の傑作「たけくらべ」が連載されたことで有名である。明治の文壇を語る上で、避けて通れないのが「文学界」という雑誌である。この「文学界」の編集を担当していたのが星野天知という人物である。「文学界」の第一号は明治26年 1893年に刊行された。日清戦争の前年である。広告欄には会津藩士の娘でフェリス英語学校で学んだ若松賤子訳で、有名な「小公子」が出ていた。

第一号の巻頭には発行の言葉が載り、そこには広く女性の書き手の登場を期待するとの趣旨が書かれていた。

この期待に応えたのが、樋口一葉であった。第一号には島崎藤村、北村透谷、岩本善治の外に古典評論が二編掲載されていて注目される。その一つは平田禿木(とくぼく)の「吉田兼好」である。「徒然草」を愛読していた樋口一葉は共感しながらこれを読んでいたので、一葉は訪ねてきた禿木と意気投合したのであった。一葉が「文学界」

への寄稿を承諾したのは、禿木の評論の力もあったのである。二つ目の古典評論が阿仏尼であった。編集人の星野天知自らが執筆している。加えてこの第一号の巻末に阿仏尼の著作である「乳母(めのと)の文」が掲載されている。但し第一号では途中までで完結したのは第五号である。文学界は女性の書き手を求め、読者層としても女性を意識していた。そこで編集人の星野天知は古典の中から女性文学者として阿仏尼を連想したのである。

そして星野天知は第20号に「清少納言の誇り」という優れた清少納言論を発表している。これは明治27年の発行である。さて星野天知の評論「阿仏尼」であるが、彼女の著作である「十六夜日記」や「乳母の文」の表現をちりばめ、阿仏尼が訴訟を起こすに至った背景を文化史的に論じている。先程私は「十六夜日記」は財産争いがテーマではない、正しい文化を守る為だと述べた。実はこのことは星野天知が明治26年の「文学界」第一号で述べていたことなのである。明治時代の男性知識人特有の漢文調の文章なので読みにくいが、阿仏尼の心を推し量っている部分を読む。

朗読②「文学界」第一号 古典評論「阿仏尼」より
「この訴訟はただ二児の領地争いの為に大人げなくも一子の肩を持ちて、異腹の子を排斥しているはしたない母の厚顔には非ざるなり。日本文学の為に心血を捧げて断腸の涙を犠牲にしたるなり」

星野天知が「文学界」に発表した阿仏尼論の一節である。難しい言葉続きなので大まかに意味を説明する。

播磨国の細川の庄の所有権を巡って、阿仏尼が鎌倉で起こした訴訟は、ただの領地争いではない。亡き藤原為家の長男である為氏と、晩年の子供である為相の二人の息子が争っているのだが、阿仏尼は自分が生んだ子供だから為相の肩を持ち、自分の子でない為氏を裁判で打ち負かそうという愚かな母心で鎌倉に下ったのではない。

阿仏尼は財産などではなく、日本文化が本来あるべき正しい姿を取り戻す為に戦ったのである。都から鎌倉まで苦しい旅をして沢山の悲しい出来事を体験して、大量の涙を流しながら耐え忍んだのである。

この文章の前後で星野天知は、阿仏尼が亡き夫を思う真心を一つ一つ確認している。彼の論の進め方の特徴は、阿仏尼を論じる際に、徒然草を論の補強材料にしている点である。「文学界」の第一号に平田禿木の評論 吉田兼好 が掲載されていた。それほど明治の文学青年たちは、徒然草を愛読していたのである。星野天知は阿仏尼が眠っている鎌倉の墓を探した。農家の人から昔はここにあったが今はもうないと言われただけであった。ここで彼は徒然草30段 古き墳(つか)は 犂()かれて田となりぬ その形だになくなりぬるぞ悲しき という文章を連想して書き記すのであった。もう一か所彼が徒然草を踏まえて阿仏尼を論じている箇所を読む。

阿仏尼が生きていた頃は、女性の文学的影響力が大きかったということを論じる文脈である。

朗読③ 星野天知の阿仏尼論 徒然草を引用しながら

「当時文学の勢いは実に精緻を究め、文学は一人女流の手に掌握されたる時代にして、子女も皆文学世界に入りたる人は洞院実雄にも、その子女にも忸怩たらざるを得ずと白状したるをもってしても見るべし。ましてや女の問いによく答ふる男(おのこ)なしと呼称してくようをすら恐れしめたる女流は跋扈雄飛されたるをや。」

ここは徒然草107段を踏まえているのである。この107段は亀山院の御時、即ち亀山天皇在位中とあるので1259年~1274年の間の事である。十六夜日記で阿仏尼が鎌倉に下ったのは1279年だから、まさに阿仏尼の生きた時代である。徒然草の107段では、宮廷に仕える女房達が公卿たちの教養を試そうとして様々な問いかけを試みる。それに対して不適切な答えをして大納言は失格、うまく答えられた内大臣は合格等と女房達は品定めをしていた。徒然草107段の中で、山科の左大臣こと洞院実雄は次のように述懐している。

あやしの下女(しもおんな)の見奉るも、いとはづかしく、心づかひせらるる   

→身分の低い下女に見られるのでも、たいそう気恥しく、心遣いをさせられる

星野天知は107段を踏まえて、阿仏尼が生まれた時代の女性たちの審美眼の高さと厳しさを語っているのである。

彼は当時の才媛が集うことで知られていた明治女学校で教壇に立っていた。女子学生たちから厳しい目で見られた経験もあったであろう。彼は女性を読者層とする雑誌を目指し、女性の書き手を求めていた。明治という時代は阿仏尼の時代に追いついたという実感を彼は抱いていたであろう。阿仏尼論のまとめとして次のように述べている。

朗読③阿仏尼は夫の不幸によって大幸を得た 講師は阿仏尼に一葉を連想する             

「思うに阿仏尼の如き女文学者は必ず多く送りたるなるべし。阿仏尼偶然時の不幸にあいて日記をものし、ついに文学世界にせきせきせらるるに至りしのみ。これ 幸いなるか又不幸なりや 吾人これを知らずと言えども、ただその時世の招堤者として彼が夫の一事を咀嚼玩味したるの一先例はまさしく他の女文学者にまさりたるの相をもって現れたるの大幸を喜ぶ」

以上は星野天知の評論「阿仏尼」の最後近くの一節である。大幸を喜ぶは、阿仏尼の大きな幸せを喜ぶという意。

噛み砕いて説明する。

1.   現代語訳

考えてみるに阿仏尼のような才能を持った女性文学者は、彼女の同時代にも彼女一人ではなくて沢山いたであろう。その中で阿仏尼はたまたま藤原為家という和歌の第一人者と結婚し子供を産み、以前の妻が生んでいた長男と遺産相続の争いが生じるという過酷な運命に直面した。他の女性と比べて不幸な体験をしたことが、阿仏尼に十六夜日記を書かせることになった。その十六夜日記が多くの読者に読み続けられたので、現在まで阿仏尼の名前は文学の世界で高い評価を受け続けている。こう考えると阿仏尼が直面した人生の不幸が、文学史の不朽の名声に繋がったのであるから本当に彼女の人生が不幸だったかは分からない。むしろ阿仏尼は幸せであったかもしれない。私たち現代人は阿仏尼の心の真実は分からないが、阿仏尼が鎌倉時代中期を代表する女性文学者として、現在まで名を成していることは確かである。それもこれも阿仏尼が亡き夫である和歌の第一人者為家の生前の志を何とか実現させたい願ったことから始まっている。夫を思う真心の強さは同時代の女性文学者よりも格段に優れていた。それが彼女の文学者として妻として母としても大いなる幸福だったのではないだろうか。

 

星野天知は阿仏尼は過酷な人生に直面しつつ、夫やこれから生きて行く子供たちの為に全力を注ぎこんだ。それが彼女の文学者としての成功につながったと結論している。私はまたしても樋口一葉の人生を連想する。一葉と同じ様に貧しい生活を余技なくされ悲恋に泣いた女性もいた事であろう。でもなぜ一葉は文学史に突出した足跡を残せたのであろう。私は亡き父親、伯父、共に暮らしていた母と妹、和歌を学んだ萩の舎という塾の先生や仲間たちそして小説の指導を仰いだ半井桃水、一葉の家を度々訪問しては文学談議に熱中した文学界の青年達、彼らへの愛情と友情が人一倍優れていたからこそ、一葉文学の達成があったのであろう。一葉は25歳で世を去ったが星野天知の言葉を借りれば文学史的には大幸に包まれた文学者であったと言える。因みに先程紹介した様に、彼は文学界」20号に清少納言の誇り」という評論を掲載している。これもよく読むと一葉のイメ-ジで平安時代の清少納言に投影していることが分かってくる。明治時代に期待された女性文学者の活躍が、阿仏尼や清少納言という古典の作者の再評価に繋がったのである。これまで森鴎外の妹小金井喜美子が夫の母親から聞いた戊辰政争の思い出話に、阿仏尼の十六夜日記の和歌が引用されていたこと、明治の文壇に新風を巻き起こした「文学界」の創刊第一号に編集人である星野天知の阿仏尼論が掲載されたことを紹介してきた。

 

次回からは十六夜日記を原文で読み進めて行く。その際に十六夜日記は紀行文学であるという観点から離れて自由な立場から読み進めたいと思っている。顧みると十六夜日記に紀行文学、旅の記録というイメージが深く存在していることは確かである。その代表が松尾芭蕉の「笈の小文」である。冒頭部分を読む。

朗読④松尾芭蕉「笈の小文」冒頭部分

(そもそも)、道の日記というものは、紀氏・長明・阿仏の尼の、文をふるひ情を尽くしてより、余は皆俤(おもかげ)似かよひて、その糟粕を改る事あたはず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。

 現代語訳

道の日記 というのは紀行文という文学ジャンルを表している。紀行文学は紀貫之の「土佐日記」、鴨長明ともいわれる「海道記」「東関紀行」、阿仏尼の「十六夜日記」、これらが代表作というのである。なお現在では「海道記」「東関紀行」の作者は、鴨長明ではなくて作者未詳であるとされている。芭蕉は自分が書く紀行文を謙遜している。紀貫之、鴨長明、阿仏尼、彼らの紀行文学で優れた文章がすでに書かれ、旅に関する感情が書き尽くされている、だからそれ以後の紀行文学は何を書いても「土佐日記」、「海道記」「東関紀行」、「十六夜日記」と似てしまい、その模倣あるいは二番煎じに終わってしまう、旅の文学の新機軸を打ち出すことは誠に困難である。まして私のような才能乏しく語彙も貧弱な人間には読者を感動させられる紀行文学などを書く能力はない。

 

この様に芭蕉は「笈の小文」冒頭で謙遜している。

旅に生き旅に死んだ芭蕉にして、紀行文学の手本の一つが阿仏尼の十六夜日記だったのである。これまで十六夜日記は都から鎌倉への旅の記録として読まれてきた。

十六夜日記の区切り方

通常の十六夜日記の研究者は全体を幾つかに区切る。

旅に出るまで

都から鎌倉までの旅の記録

鎌倉の滞在記

鎌倉で読んだ長歌

こういう区切り方をする。確かに十六夜日記は旅の文学である。けれども私は別の区切り方をすることで、十六夜日記を旅の文学ではなく、和歌を論じる批評文学として位置づけしたい。正確に言えば和歌を中心として形成されてきた日本文化を論じる評論書という見方を提案したい。私は十六夜日記の組み立てを次のように把握している。

1、旅に出る動機は和歌の伝統と日本文化を守る為であるという日本文化論

2、旅に出る人間と旅立つ人を見送る人間とが詠み交わす別れの歌の見本

3、旅の途中で詠む歌と旅の記録の見本

4、滞在先から都人と交わす和歌の贈答と、往復書簡の見本

5、人間の祈りを神に訴える長歌の詠み方の見本

6、あとがき 

つまり十六夜日記は文化論、文明論であり、別れの歌のカタログであり、紀行文学であり、往復書簡のカタログであり、長歌の読み方の手本であるということになる。

無論、紀行文学の要素はある。けれども紀行文学だけでは説明できない大きな広がりがある。それが文化論、
文明論ひいては政治の在り方を論ずる評論なのである。古今和歌集や源氏物語は理想の政治の姿を論じるものであり、政治家の心の持ち方を論じるものである。そういう見方が中世文化の大きな流れを形作っていく。

その様な日本文化の本流、中心に位置づけられるのが十六夜日記なのである。

 

「コメント」

鎌倉中期の事情を知る紀行文として読もうと思ったら、講師は、それは違う、この本は文化論の本であるという。義理の息子に財産争いで負けそうなので、我が子可愛さに鎌倉で巻き返そうとする後家の頑張り物語かと思っていた。違うと何回言われてもまだ納得できていない。途中で分かるかな。