230905⑤「都に残る人々との別れ②」

鎌倉に旅立つ阿仏尼が都に残る息子たちや娘と、別れを惜しんで和歌を詠み交わしている。別れの歌のお手本と考えられる。前回は亡き夫の霊魂に別れを告げ、冷泉家を継ぐ息子に別れを惜しむ場面を読んだ。これらは親族であるが、歌の道に生きる者同志のやり取りである。今回は出家している二人の息子、それと宮仕えしている娘と、別れを交わす場面である。併せて娘に与えたとされる教訓書「庭の訓(おしえ)」を紹介する。まず出家している二人の息子の歌を読む。下の子が定覚律師 阿仏尼と為家の間の子、上の子が阿闍梨、以前に別の男性との間に生んだ子である。「うたたね」で作者が懐妊して出産していたとすれば、これかも知れないと考えている人物である。

朗読① 十六夜日記の一節

山より侍従の兄の、折しも出立ち見むとておはしたり。それも、いと物心細しと思ひたるを、この手習どもを見て又書きそへたり。

 あだにただ 涙はかけじ 旅衣 心の行きて 立ち帰る程

とは事忌しながら、涙のこぼるるを、荒らかに物言ひまぎらはすも、さまざまあはれなるを、阿闍梨の君は山伏にて、この人々よりは兄なる、この度の道のしるべに送らむとて出でたるめるを、「この手習いにまじはらざらむやは」とて書きつく

 立ちそふぞ 嬉しかりける 旅衣 かたみに頼む 親の守りは

 解説

山より侍従の兄の、折しも出立ち見むとておはしたり。

古典文学で山といったら比叡山延暦寺である。は為家との間に産んだ最初の子で、定覚とする説が有力である。この兄は末の子の為守が、母を見送る歌を書き記した手習いの紙を見た。そこには阿仏尼が返しの歌を書き添えていた。

それで自分も歌を詠んで書きつけたのである。それで親子の別れの歌が二首並んだことになる。

 あだにただ 涙はかけじ 旅衣 心の行きて 立ち帰る程 定覚律師

掛詞を駆使している。母親が旅の途中で着る旅衣が歌の中心である。戻ってくるという 立ち帰る は、布を裁って裁縫をする意味の 裁つ が掛けられている。又 心の行きて には、鎌倉で勝利して満足するの 行き と、着物の ゆき との掛詞である。

事忌しながら、涙のこぼるるを、荒らかに物言ひまぎらはす 

事忌 は、縁起の悪いことを避けることである。旅立ちに際して涙は不吉だから、定覚は必死に涙を堪える。それでわざとぶっきらぼうな話し方をして、泣きそうな気持を隠している。そこにもう一人の阿仏尼の子供が現れた。阿闍梨である。父は不明である。

この度の道のしるべに送らむとて

阿闍梨は母親の鎌倉への旅に同行するつもりである。しるべ とあるので、これまで修行の為に東海道を何度も往復しているので道案内が出来るのである。この阿闍梨も為家から始まる惜別の賦の手習いに加わる。

立ちそふぞ 嬉しかりける 旅衣 かたみに頼む 親の守りは  阿闍梨の歌

この歌も 旅衣 という言葉が中心である。

立ちそふ には、出発するという意味の 立つ と布を 裁つ 裁縫する という意味の掛詞である。

 現代語訳

阿仏尼と為家の間の男の子は、歌の道を継ぐべき為相、為守の他に、彼らの兄にあたる子もいたのである。出家して比叡山にいる律師の位である。その定覚律師も母との旅立ちを見送りしたいと、山から下りてきた。すでに成人していたが、幼い為守と同じ様に、母には長く会えないと思っている。彼は為守の手習いと、私の返歌を見つけるやその余白に自分の歌を書きつけた。これは手習いというよりは、明らかに私に宛てた贈歌である。

 あだにただ 涙はかけじ 旅衣 心の行きて 立ち帰る程 定覚律師

→私も為守と同様、母との別れが悲しくて堪らない。泣きたい気持ちはやまやまだが、大きな目的があって鎌倉に向かう母の衣装に私の涙を濯いで苦しめることはしない。母が旅立ちに際して新たに縫われる旅衣は、ゆき →裁縫用語 が大切であるが、母が鎌倉で裁判に勝って心が ゆき →満足する して、都に戻るまで涙を堪えている。定覚律師 はこう歌って、旅立ちに際して、不吉な涙を見せないようにと堪えていたのだが、それでも涙が溢れてきた。それを胡麻化そうとして大きな声で、物を言っているのが、却って私の胸に迫った。為相といい、為守といい、定覚律師といい、良い男の子を三人も授かったと思う。その場にもう一人出家している息子がいた。阿闍梨である。加持祈祷をする修験者である。この阿闍梨は私と為家との間の子ではないので、定覚律師より年上である。阿闍梨は今度の母の旅には、自分が先導者となって、鎌倉まで道案内しようと決心して、一緒に旅立ってくれるようである。その阿闍梨は父親こそ違うが、私の子供であることは同じなので、為守や定覚律師の手習いに自分も又加わろうと言って、すでに三人の歌が書きつけられている手習いの余白に更に書き添えた。

立ちそふぞ 嬉しかりける 旅衣 かたみに頼む 親の守りは

→母が旅の衣装を新調するのと一緒に、私の旅衣も新調できるのは嬉しい。新しい旅衣を着て母のお供をして、東海道の旅に同行できるのがうれしくて堪らない。旅衣は 肩 と身 にかけるものであるし、片身頃 という言葉もある。片身に 母と子供が互いに信頼しあっている私たち親子の契りを嬉しく思う。これまでは母が私を守ってくれたが今度は私が母を守る。

 

阿闍梨の歌の五句に 親の守り とある。普通 親の守り というと、母が子を守るという意味でつかわれる。ここではそれに加えて子が母を守る という意味にもなっている。これまで一方的に親の守りを受けてきた子が、やっと親を守る側になれて親孝行出来るのである。十六夜日記の冒頭部分には、古文孝経が引用されていた。阿仏尼の子供たちは親孝行なのである。定覚律師は涙を胡麻化すために、ぶっきらぼうな口調で話をしたという場面は、「源氏物語」を連想させる。「夢の浮橋」の巻である。薫は行方不明になっていた浮舟が生きていて、小野の山里で尼になっているという事実を聞きつけた。そこで薫は浮舟の弟である小君に手紙を持たせる。小君は浮舟からは父親違いの弟であるが、美しい姉を誇りに思っていた。だから小君も姉が生きていることを知って驚いたのである。
朗読② 「源氏物語」浮舟の巻

幼き心地にも、姉弟(はらから)は多かれど、この君の容貌(かたち)をば、似るものなしと思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、いと悲しと思ひわたるに、かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるを、恥づかしと思ひて、「を、を、」と荒らかに聞こえゐたり。

最後の 「を、を、」は承知しましたという感動詞である。この場面では嬉し涙を胡麻化すために、わざと荒々しい言葉を使っている。十六夜日記の定覚律師は、悲しい涙を胡麻化そうとしているが、涙を堪えるために演技しているという点で、源氏物語と共通している。阿仏尼は夢の浮橋の巻を意識していたのである。

 

十六夜日記に戻る。次は娘と交わした別れの歌である。この娘は十六夜日記に書かれている内容を信じるならば、後深草院との間に娘を出産したとされている。

朗読③

女子(おみなご)はあまたもなし。ただ一人にて、この近き程の女院に侍ひ給ふ。院の姫宮一所(ひとところ)生まれ給へりしかばかりにて、心づかひもまことしきさまに、おとなしくおはすれば、宮の御方の御恋しさもかねて申しおくついでに、侍従・太夫などの事、育(はぐく)み思(おぼ)すべき由も細かに書き続けて、奥に

  君をこそ 朝日と頼め 故郷(ふるさと)に 残る撫子 霜に枯らすな

と聞こへたれば、御帰へりもこまやかに、いとあはれに書きて、歌の返しには

  思ひおく 心とどめば 故郷の 霜にも枯れじ 大和撫子  

とぞある。

五つの子供の歌、残るなく書き続けぬるも、かつはいとをこがましけれど、親の心にはあはれに覚ゆるままに、書きあつめたり。

 解説

阿仏尼が生んだ娘は一人しかいなかった。私は「うたたね」で阿仏尼が懐妊して出産したのは阿闍梨の可能性が高いと思うが、この娘を想定することも可能である。                             父親違いが二人いるのか?一人なのか?

近き程の女院に侍ひ給ふ

阿仏尼は娘に対して敬語を使っている。

院の姫宮一所(ひとところ)生まれ給へり

娘は皇族である姫君を生んでいるからである。院は後深草院と考えられる。後深草院は色好みで有名で、院に仕えた二条という女房は、何人もの高貴な公卿との関係を持つ。その恋愛体験を 「問わず語り」 という作品に書いた。阿仏尼の娘は 「問わず語り」 の作者・二条と同時代人であるだけでなく、同じ院から愛されたのである。彼女は近き程の女院に侍ひ給ふとあった。阿仏尼の住んでいるのは、「うたたね」に書いてあったが、北山の麓の持明院殿の辺りである。娘はその明院に女房として仕えていて、後深草院と関係が出来たのというのである。女院は上皇に準じる扱いを受ける女性である。

この女院は後深草院の皇后である東二条院とする説が有力であるが、後堀川院の皇女である暉子(きし)内親王とする説もある。東二条院は 「問わず語り」 では嫉妬深い女性として描かれている。阿仏尼は旅立ちに際して、都に残る娘に、為相・為守のことを気に懸けて下さいとお願いしたのである。娘は兄弟とは父親違いであるが阿仏尼の子供である。

君をこそ 朝日と頼め 故郷(ふるさと)に 残る撫子 霜に枯らすな 阿仏尼の歌

阿仏尼は娘を朝日 即ち太陽と言っている。後深草院の新宮を生んだ娘の未来が、太陽の様に輝かしいものであって欲しいと願っているのである。又撫子は為相達 阿仏尼の子供たちという意味である。娘からの返歌は内容も筆跡も見事であった。母の教えが行き届いている。

  思ひおく 心とどめば 故郷の 霜にも枯れじ 大和撫子 娘の歌

私の力ではなくて、母の心が子供たちを守ってくれるでしょう というおっとりとした歌である。

阿仏尼は子供たちとの別れの歌を書き記した後で、

五つの子供の歌、残るなく書き続けぬるも、かつはいとをこがましけれど と謙遜している。為相、為守、定覚律師、阿闍梨、娘の五人である。

 現代語訳

これまで為相、為守、定覚律師、阿闍梨、と男の子たちとの惜別の賦を書き綴ったが、女の子は多くない、一人だけだ。

ここ数年、私が住んでいる家の近くの御屋敷の東二条院・後深草院の皇后に女房として仕えている。この娘は為家との間の子ではない。幸運なめぐり合わせでこの娘は、後深草院の寵愛をうけた。そして姫宮が生まれたばかりであった。

この娘は私達一族の期待の星である。為相や為守の将来も彼女の引き立てに頼る所が大きい。この娘は母である私から見ても、思慮分別があり、実直であり、冷静で落ち着いた性格である。彼女にも旅立つ前に別れの手紙を書いた。恐縮なことではあるが、生まれたばかりの姫宮は私から見たら孫である。私が鎌倉への旅に出たら会えなくなるので、一層恋しさが募ることであろう と書いた。そのついでにと言っても、これが手紙を書いた最大の目的なのだが、彼女から見たら弟にあたる為相と為守の事をよく気にかけて、立派な宮廷人に成長させて頂きたいというお願いを細々と書き加えた。

君をこそ 朝日と頼め 故郷(ふるさと)に 残る撫子 霜に枯らすな 阿仏尼の歌

→今は初冬の10月、これから日毎寒さが厳しくなる。我が家の庭では、秋の名残の撫子が植えてあるが、寒くなれば朝の霜で枯れてしまわないかと心配である。私は都に為相・為守という未熟な子供たちを残して遠くへ旅に出る。これまでは慈しんできたのに、これからは長いこと面倒を見てやれない。為氏達の意地悪な仕打ちがあるかもしれない。そこであなたにお願いする。あなたの朝日のような光で、つまり神様のような力で、弟たちを見守り、冷たい霜が降りたら暖かい朝の光で霜を溶かして下さい。くれぐれもよろしくお願いします。この様に言ったら娘からは、何一つ行き届かない所のない返事が届いた。返歌も添えてあった。

  思ひおく 心とどめば 故郷の 霜にも枯れじ 大和撫子 娘の歌

二人の弟たちの事は私も心して見守ります。けれども冷たい霜を溶かすのは私ではない。私は朝日でも女神でもないからである。母こそがその女神である。母が子供たちを撫でるように慈しむ深くて厚い愛情が、旅立った後の屋敷に残っている事でしょう。その母心を弟たちは忘れることはないでしょう。そうすれば自ずと霜は消えてしまう。何も心配しないでください。この様に子供たちとの別れの歌を、臆面もなく三人とも書き記したのは恥ずかしいし親バカの見本のようである。今三人と書いたのは別れの歌を書き記すべき為相と為守の他に、定覚律師、阿闍梨、娘の三人の歌を書き添えたという意味である。為相と為守を合わせたら5人になる。為家との死別も悲しかったが、子供たちとの今回の生き別れも悲しいことであった。生き別れによってかえって親子の絆の強さを痛感するというのが人の世のあやにくさである我が子供たちとの惜別の賦を親子の絆の証として、ここに全て書き記しておく次第である。

 庭の訓

この娘は十六夜日記に度々登場する。阿仏尼がこの娘に書いたのではないかとされる教訓書が、「庭の訓(おしえ)」である。「乳母(めのと)の文」という別名もある。この本は女性の心得を説いた人生教訓書として広く読まれてきた。

「庭の訓(おしえ)」という言葉は漢字熟語の 庭訓 の大和言葉読みしたものである。儒学を唱えた孔子が、庭を歩いていた息子に教え諭したというエピソ-ドから、家庭の中での教育という意味で用いられる。群書類従に収録されている。

阿仏尼が書いたという確証はないが、阿仏尼が書いたと考えられ、重視されてきた作品である。

阿仏尼が求めていたのは和歌の道と政事の道が一致することあった。女性の場合は、和歌の道に生まれた女性が天皇や上皇の妃になって、国家の中枢に入り込む事である。阿仏尼の娘は後深草院の姫宮を生んだのだから、妃の道に近づいたと言える。「庭の訓(おしえ)」には女性が身に付けるべき心得が沢山書かれている。その一つが源氏物語について詳しい智識と教養を持つことである。阿仏尼本人は源氏物語への深い理解を武器として、和歌の道の最高権威である為家の側室となった。それが「うたたね」を書いた目的であった。

 

朗読④ 「庭の訓(おしえ)」の一節

原文探せず省略

 解説

王朝を代表する物語、中でも源氏物語に関しては本格的な理解を持っておく必要があるというのである。阿仏尼の書いた「うたたね」は「源氏物語」を読んだだけではなく、研究者として向かい合った蓄積によって生み出された。それを娘にも要求しているのである。難儀 は、源氏物語で使われている難しい言葉についての説明。目録は源氏物語54帖の巻の名前や成立順序を記したものである。それらを源氏物語54帖の本文毎に、小さな唐櫃に入れて、娘に送るから読んで研究しておくようにというのである。阿仏尼が「源氏物語」によって為家の愛を獲得した様に、娘にも上皇の寵愛を得られるのではないかという期待がある。「庭の訓(おしえ)」には女性として生まれたからには、天皇上皇の妃として生きるのが、最高の幸せだと述べる部分がある。宮中で宮仕えをしていると、天皇上皇の目にとまる幸運がいつか訪れるかも知れない。そのチャンスを逃すなというのである。その部分を読む。

朗読⑤「庭の訓(おしえ)」の一節

原文探せず省略

 解説

短い人間の寿命であるけれども、天皇上皇の寵愛を受けて、その子供を産み日本の親と仰がれてこそ、人間としてこの世に生まれてきた甲斐があるというのである。日本の親は国母で天皇の母の事である。この世にそのような幸運に恵まれたら来世でも救われることは確実であろうと言っている。平安時代に菅原孝標の女が書いた「更級日記」には、作者の見た不思議な夢や物詣の旅が描かれている。菅原孝標の女も又、天皇家と関わることを夢見ていたと思われる。

そして自分の孫娘が天皇の母親となる幸運に恵まれた人物が、源氏物語に登場する。明石の入道である。その明石の入道を踏まえた記述が庭の訓にある。阿仏尼は宮仕えを始めた娘に、かつて自分が見た不思議な夢のお告げを語ったのである。

朗読⑥「庭の訓(おしえ)」の一節

原文探せず省略

 解説

「更級日記」の夢と「源氏物語」の夢を一つに溶け合わせた様な神秘的な夢である。阿仏尼は宮仕えさせることになった娘が生まれた時に、不思議な夢のお告げを受けた。生まれてくる子供は娘で、妃の位まで上がるであろう。但し他の妃たちの嫉妬などで苦しむこともあるだろうという御告げであった。その後も阿仏尼は同じ様に縁起の良い夢を何度も見た。この夢を娘に初めて語ることで、娘に妃となる事に対する自覚を促しているのである。「源氏物語」若菜の下の巻に、明石の姫君が入内して男皇子を出産した時に、姫君の祖父に当たる明石入道は自分がかつて見た夢を初めて明らかにする場面がある。明石入道は自分の子孫が天皇の位に付くであろうという不思議な夢のお告げを、住吉大社の神様から授かったのである。そこで失脚して都から明石にやってきた光源氏に、自分の娘明石の君を嫁がせたのである。

その間に生まれたのが明石の姫君である。将来の天皇になる事が確実な男皇子を出産したのである。「庭の訓」は春日の神とある。藤原氏の氏神である春日大社の神から夢を授かったのである。阿仏尼の父親は桓武平氏であったが、夫の為家は藤原氏である。「庭の訓」は「源氏物語」を学ぶようにと書いてあったが、まさに明石入道の様に鎌倉時代中期の女性の生きる道を「源氏物語」は指し示しているのである。「庭の訓」には天皇上皇の寵愛を受ける立場になってからの心得も書いてある。

朗読⑥「庭の訓(おしえ)」の一節

原文探せず省略

天皇上皇の後宮には沢山の妃や女房達がいる。「源氏物語」では桐壺の帝から寵愛された桐壺の更衣、他の女房達からいじめにあうことが書いてある。阿仏尼はそれを踏まえて、例え宮中で嫌なことがあっても、さらには天皇の愛が自分一人に注がれなくても、きっと運が開けるから我慢強く生きていなさいと諭している。「大鏡」の事も書いてある。

歴史物語である「大鏡」をよく読んで、良い妃の例と、よくない妃の例を知っておきなさい。「大鏡」には古今和歌集を総て暗記していた妃や嫉妬深かった妃、臣下と不義を働いた妃など沢山の前例が書いてある。阿仏尼は娘に、あなたは善き妃の前例として語り伝えられるようになりなさいと言っている。

 

今回は十六夜日記の別れの歌を読んだ。期待の息子たちと、後深草院の姫君を生んだ娘との惜別の賦であった。そして阿仏尼の娘が登場したことから、彼女に託した母である阿仏尼の願いがどんなものであったか、「庭の訓」から読み取った。阿仏尼は王朝の古典である「源氏物語」を読み込み、

そこから中世を生きる自分の指針を導き出したのである。

 

「コメント」
「十六夜日記」は今日、半ペ-ジしか進まなかった。ほとんどはそこからの脱線。そして色々関係資料を読むと、娘の存在の確実性、「庭の訓」の作者かどうかとか、色々と疑義があるようである。講師はそのことには殆ど触れない。

 

基本知識がないので勉強になるので、まあそれでももいいが。