231014⑩「鎌倉と都の往復書簡集①娘・姉妹・知人との贈答」

阿仏尼は終に鎌倉に到着した。弘安二年1279年10月29日。鎌倉での裁判は長期化して、鎌倉滞在も長期化した。

阿仏尼はそれから4年後の弘安六年に亡くなった。鎌倉で没したとする説と、都に戻ってからとする説がある。鎌倉に滞在している阿仏尼は、都の人々と頻繁に和歌を贈答する。ここから十六夜日記は、往復書簡集の趣を見せて来る。和歌を中心として、日本文化論を第一部に据え、第二部では別れの歌を学ぶ。第三部では東下りの記録を書いた。十六夜日記は新たな構想の下で、子孫や親族の人々に伝えるべく書かれる。
或いは旅先からの歌の贈答の教科書を書き継ぐのである。これから始まる
第四部では、須磨に着いた光源氏が手紙を出した都の人々の事が、思い浮かべられていたことであろう。光源氏は妻や亡き妻の親族、息子の乳人たちと手紙で和歌を贈答した。さてここからの話は「十六夜日記」の配列通りではなく、阿仏尼が手紙を書き交わした相手との関りによって、いくつかのグル-プに分けて読んでいく。

今回は阿仏尼の娘、姉と妹、そして亡き夫為家の姉との往復書簡に着目する。最初に後深草院の姫宮を産んだ娘との往復書簡が記される。

 

朗読① 娘・後深草院の后 との往復書簡

東にて住む所は、月影の(やつ)とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて波の音、松の風絶へず、都のおとづれはいつしかおぼつかなき程にしも、宇津の山にて行きあひたり山伏のたよりに、ことづて申したりし人の御もとより、たしかなる便につけて、ありし御返事とおぼしくて、

  旅衣 涙をそへて 宇津の山 時雨れぬひまも さぞ時雨れけむ

  ゆくりなく あくがれ出でし 十六夜の 月やおくれぬ 形見なるべき

都を出でし事は神無月の十六夜なりしかば、いさよふ月を(おぼ)し忘れざりれるにやと、いと優しくあはれにて、ただこのご返事ばかりをぞ、又聞ゆる。

  めぐりあふ 末をぞ頼む ゆくりなく 空にうかれし 十六夜の月

 解説

東にて住む所は、月影の(やつ)とぞいふなる。

阿仏尼が住むことになったのは、月影の(やつ) という土地であった。(やつ) は、鎌倉ではよくある地名で、谷間とか窪地という意味である。
浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて波の音、松の風絶へず

月影の(やつ) は、海岸が近く、山も迫っている。山寺の近くでもあり、静かで物寂しい雰囲気だった。波の音と松の風が、深窓庭園の様に聞こえてきた。この寺は極楽寺である。海岸は稲村ケ崎。鎌倉の西に位置している。長谷寺の近くである。

都のおとづれはいつしかおぼつかなき程にしも、宇津の山にて行きあひたり山伏のたよりに、ことづて申したりし人の御もとより、たしかなる便につけて、ありし御返事とおぼしくて、

阿仏尼が受け取った最初の手紙は、娘からであった。阿仏尼がそろそろ都を恋しく思う頃を見計らって届いた。思い起こせば、都から下る旅の10日目の事である。宇津の山で、阿仏尼の供をしている息子の阿闍梨が、知人の山伏と出会う奇跡が起きた。その山伏に託した手紙が無事に娘に届き、娘からの返事が鎌倉に届いたのである。この娘は後深草院の姫宮を産んだとされる。娘からの手紙には二首の歌が書かれていた。

  旅衣 涙をそへて 宇津の山 時雨れぬひまも さぞ時雨れけむ

この歌は阿仏尼が宇津の山で詠んだ

  (つた)(かえで) 時雨れぬひまも 宇津の山 涙に袖の 色ぞこがるる

という歌に対する返しである。娘の歌の意味。砧で打った艶のある絹で、旅衣を調え、私たち子どもの行く末の為に、鎌倉へ向かった母上様、都にいる残った子供たちの事が心配で、涙を流しながらの道中であったでしょう。受け取った手紙によれば、今は宇津の山を越えたとか。時は時雨の季節です。時雨が降る時は勿論の事、時雨が止んでいる時も、母上の袖はきっと私達を思う涙で濡れている事でしょう。母親を思う優しい心根が、そのまま詠まれている。娘は更に母親への返しの歌だけでなく、自分の気持ちを歌にして送ってきた。

  ゆくりなく あくがれ出でし 十六夜の 月やおくれぬ 形見なるべき

母上は鎌倉での裁判を思い立って、慌ただしく都を旅立たれた。その時は生憎の空模様で、十六夜の月は見えなかったが、きっと雲の上から母上を見ていた事でしょう。その月は母上に付き添い、鎌倉まで同行してくれたはずである。

都の空にも掛かっているから、私は月を見る度に母上の事を偲んでいます。

この歌は阿仏尼の心に響いた。

都を出でし事は神無月の十六夜なりしかば、いさよふ月を(おぼ)し忘れざりれるにやと、いと優しくあはれにて、

阿仏尼が都を旅立ったのは、10月16日の事だったので、あの十六夜の月をあの娘は記憶していたのであろう。十六夜という言葉には、躊躇する や 猶予する という意味がある。旅立ちに際して私が感じた悩みや迷いもお見通しであろう。

そうすると娘の思いやりが、胸に迫ったのである。

いと優しくあはれにて、ただこのご返事ばかりをぞ、又聞ゆる。

この歌のご返事だけでも申し上げようと、返事の歌を都に向かう人に託した。

  めぐりあふ 末をぞ頼む ゆくりなく 空にうかれし 十六夜の月

仰る通り、私は十六夜の月が空に出るのをためらう様に、躊躇しつつも旅に出た。それがどういう結果になるかは今後の裁判次第である。ただし鎌倉でいい結果が出て都で再会できることを願っている。

阿仏尼は娘に対して敬語を使っている。後深草院の姫宮を産んだ娘は、阿仏尼の期待を背負っているのである。

なお阿仏尼と娘は、翌年も往復書簡を交わしている。

 

次に阿仏尼が姉と妹と交わした書簡を読む。

朗読② 姉・妹との往復書簡 阿仏尼→都

暁、たよりありと聞きて、夜もすがら起きゐて都の文ども書くなかに、ことに隔てなくあはれに頼みかはしたる姉君に、幼き人人の事など、さまざま書きやる程、例の波風はげしく聞ゆれば、只今あるままの事を書きつけつる。

  夜もすがら 涙も文も 書きあへず 磯越すかぜに 一人起きゐて

又同じさまにて、故郷に恋ひしのぶ妹の尼うえにも、文奉るとて、磯菜どもの端々(はしばし)をいささか包みて

  いたづらに 藻刈(めか)り塩焼く すさみにも 恋しやなれし 里のあま人

 解説

暁、たよりありと聞きて、夜もすがら起きゐて都の文ども書くなかに、

明け方に鎌倉から都へ出発する便があると聞きつけた阿仏尼は、夜通し一睡もせずに都の人々への手紙を、書き綴ってこと付けた。その中に姉と妹への手紙も混じっていた。

ことに隔てなくあはれに頼みかはしたる姉君に、幼き人人の事など、さまざま書きやる程、

先ずは姉上への手紙である。阿仏尼はとりわけ姉妹の仲が良くて、助け合って生きてきた。その姉に都に残っている息子たちの事をくれぐれも宜しくとお願いしたのである。

例の波風はげしく聞ゆれば、只今あるままの事を書きつけつる。

その手紙を書いている阿仏尼の耳には、鎌倉の波風が大きな音で聞こえ続けていたので、その事実を手紙に書いた。

  夜もすがら 涙も文も 書きあへず 磯越すかぜに 一人起きゐて

夜通し、姉上に手紙を書き綴っても、全て書き尽くすことは出来ない。又夜通し波の音が聞こえてきて、私の心を淋しくさせるので、私の袖の涙を総てかき払うことも出来ない。磯を越えてここまで波が押し寄せるかと錯覚するほどに、風がごうごうと吹いてくるので、私は眠ることも出来ずに起きている。

又同じさまにて、故郷に恋ひしのぶ妹の尼うえにも、文奉るとて、磯菜どもの端々(はしばし)をいささか包みて

姉と同じ様に都に残って阿仏尼の事を恋慕ってくれている妹にも一筆啓上した。又鎌倉の海で取れた海草のちょっとした切れ端を紙に包んで送るついでに、歌を贈った。

   いたづらに 藻刈(めか)り塩焼く すさみにも 恋しやなれし 里のあま人

妹は出家しているので、海人と尼の掛詞を用いている。私は鎌倉の海近くに住んでいるので、時折馴れない仕草で、海草を拾ったり、海水を煮詰めて塩を作ったりしていますがうまくいきません。そんな時には仕事に慣れた海人の助けがあったらと思う。心からあなたの助けが欲しい。次に都の姉、妹から鎌倉に届いた返事を読む。

 

朗読③ 往復書簡 都→阿仏尼

程経て、この姉妹二人の返事あり。いとあはれにて急ぎ見たれば、姉君、

  (たま)(づさ)を 見るも涙の かかるかな 磯越す風は 聞く心地して

この姉君は、中の院の中将と言ひし人の上なり。今は三位入道とか、同じ世ながら遠ざかり果てて行ひゐたる人なり。その妹の君も、「藻刈(めか)り塩焼く」とありし返事、さまざま書きつけて、「人恋ふる涙の海は、都にも枕の下にたたでこそ」など書きて、

  もろともに 磯刈り塩焼く 浦ならば なかなか袖の 波もかけじな

この人も安嘉門院に候ひし人なり。つつましくする事どもを、思ひかねて引き連ねたるも、いとあはれにをかし。

 解説

程経て、この姉妹二人の返事あり。いとあはれにて急ぎ見たれば、姉君、

暫くしてから、都の姉君からの返事が届いた。どういう返歌が書かれていたかと思うと、

阿仏尼の胸は締め付けられる。早速お手紙を読んだ。

  (たま)(づさ)を 見るも涙の かかるかな 磯越す風は 聞く心地して

あなたのお手紙を見ただけで、涙が溢れてきてそれが袖の上に落ち、更には手紙の上に降りかかります。あなたは鎌倉の海辺に住んでいて、風の音に心を痛めているようですが、私も都にいて、あなたが鎌倉で聞いている浪の音や風の音を聞いているかのような気持ちになり、心が痛くなります。素直な歌である。

この姉君は、中の院の中将と言ひし人の上なり。今は三位入道とか、同じ世ながら遠ざかり果てて行ひゐたる人なり。

姉の人生を説明している。姉の夫は村上天皇の子孫で、源氏となった家柄である。中の院の中将 と呼ばれたが、三位で引退し出家している。入道となった。仏道三昧であるという。

その妹の君も、「藻刈(めか)り塩焼く」とありし返事、さまざま書きつけて、

阿仏尼の妹から届いた返事は、阿仏尼が 

  いたづらに 藻刈(めか)り塩焼く すさみにも 恋しやなれし 里のあま人

と、詠み送った歌の返事を細々と書いてある。

「人恋ふる涙の海は、都にも枕の下にたたでこそ」など書きて、

妹の手紙の文面である。お姉さんは鎌倉にいて、都に残った私を恋慕って涙をこぼしているようですが、私もお姉さんを偲んで、枕の下には涙の海が出来ています と、心優しく書いてあった。

  もろともに 磯刈り塩焼く 浦ならば なかなか袖の 波もかけじな

お姉さんと一緒に鎌倉の海辺で暮らして居るのであれば、例え海辺の海草を拾ったり、塩を作ったりして袖が濡れることがあっても、離れ離れに暮らして孤独に苦しみ、涙が袖を濡らすよりはひどくはないでしょう。これも妹の人柄が偲ばれる歌である。

この人も安嘉門院に候ひし人なり。つつましくする事どもを、思ひかねて引き連ねたるも、いとあはれにをかし。

この妹も私が仕えていた安嘉門院に女房として、仕えていた。仕事中にやんごとない方々の秘密に触れる機会も多いが、姉である私には心を許して何かと情報を提供してくれる。妹にも歌心があった。

「人恋ふる涙の海は、都にも枕の下にたたでこそ」 という文面は、紀友則の

  しきたえの 枕の下に 海はあれど 人を見る目は おひずとありける 古今集595

これを踏まえている。

 

為家の息子で、阿仏尼に対して批判的であった 源招 という人物がいた。彼の書いた「源承和歌口伝」という書物には、阿仏尼とその姉妹が続いて死去したという事を書き記している。同じ年に三人共に亡くなったというのである。次に為家の姉君との往復書簡を読む。

朗読④ 往復書簡  義理の姉 定家の(むすめ)

又、和徳門院の新中納言の君と聞ゆるは、京極の中納言定家の(むすめ)深草の(さき)の斎宮と聞えしに、父の中納言の参らせおき給へりけるままにて(とし)()給ひにける。この女房は斎宮の御子にし奉り給へりしかば、伝はりて候ひ給ふなりけり。「憂き身こがるる藻刈舟」など詠み給へりし民部(みんぶ)(きょうの)典司(すけ)の妹にぞおはする。「さる人の子とて、あやしき歌詠みて人には聞かれじ」と、あながちにつつみ給ひしかど遥かなる旅の空のおぼつかなさに、あはれなる事ども書き続けて

  いかばかり 子を思ふ鶴の 飛びわかれ ならぬは旅の 空に鳴くらむ

と、文言葉に続けて、歌のようにもあらず書きなし給へるも、人よりなほざりならぬようにおぼゆ。御返事(おんかへりごと)は、

  それゆゑに 飛びわかれても (あし)(たづ)の 子を思ふかたは なほぞ恋しき

と聞ゆ。

 解説

又、和徳門院の新中納言の君と聞ゆるは、京極の中納言定家の(むすめ)

和徳門院 に、新中納言の君 という女房名でお仕えしている女性がいた。京極の中納言定家の(むすめ) である。

つまり為家の姉で、阿仏尼の義理の姉である。80歳を越している。「十六夜日記」は、この新中納言の君 の経歴を説明している。

深草の(さき)の斎宮と聞えしに、父の中納言の参らせおき給へりけるままにて(とし)()給ひにける

新中納言の君 は、父親の定家の考えで、後鳥羽天皇の皇女で伊勢の斎宮になり斎宮を下りた後は深草に住んだ、凞子(きし)内親王にお仕えしてきたのである。

この女房は斎宮の御子にし奉り給へりしかば、伝はりて候ひ給ふなりけり。

凞子(きし)内親王は、後鳥羽天皇の孫にあたる仲恭天皇の皇女・義子内親王を引き取って育てた。この義子内親王が和徳門院である。そういう関係で新中納言の君は、和徳門院にお仕えして現在に至る。

「憂き身こがるる藻刈舟」など詠み給へりし民部(みんぶ)(きょうの)典司(すけ)の妹にぞおはする。

定家の娘と言えば、ご堀川院にお仕えして民部(みんぶ)(きょうの)典司(すけ) と呼ばれて歌人として有名である。彼女の兄の為家が選者を務めた「続後撰和歌集」にも、歌が選ばれている。

民部(みんぶ)(きょうの)典司(すけ) の姉君に当たるのが、新中納言の君 なのである。

「さる人の子とて、あやしき歌詠みて人には聞かれじ」と、あながちにつつみ給ひしかど

新中納言の君 は、民部(みんぶ)(きょうの)典司(すけ) と違って、和歌の才能に自信が無かった。自分は歌聖と呼ばれる定家の娘である。だから下手な歌を人前で披露して、偉大な父親の名を辱めたくないというのが本音である。因みに清少納言も、有名な父の清原元輔の名前を辱めたくないという気持ちから、歌を詠まないようにしていると「枕草子」に書いている。

遥かなる旅の空のおぼつかなさに、あはれなる事ども書き続けて

所が阿仏尼は都を遠く離れて、鎌倉の空の下にいるのだが、心配で堪らずにしみじみとした文面の手紙を送ってきた中に、珍しくも新中納言の君 の詠んだ歌が記されていた。

いかばかり 子を思ふ鶴の 飛びわかれ ならぬは旅の 空に鳴くらむ 新中納言の君

あなたは我が子の未来を心配するあまりに、遠く鎌倉まで旅立ったのである。可愛い子供たちと離れて別々に暮らして居るので、どんなにか子供たち思って夜毎に悲しい気持ちで泣いておられることでしょう。漢詩では鶴の母が、巣の中でも子供の鶴を思って鳴く声が心に滲みると詠まれている。あなたはまさに、夜の鶴の思いをしているのですね。

と、文言葉に続けて、歌のようにもあらず書きなし給へるも、人よりなほざりならずようにおぼゆ。

但し散文で書かれた部分と、和歌の部分とが何処で変わっていくのかが分からないように記されていた。これが和歌であることが一寸見て分からない工夫がされていて、流石だと阿仏尼は感じ入ったのである。阿仏尼に対する思いやりも、他の人達よりは格段に慈愛に溢れていた。何よりは、親が子を思う夜の鶴の悲しみ[M1] 新中納言の君 、阿仏尼の生き方の中に感じ取ってくれていたのである。阿仏尼は返事を書いた。

  それゆゑに 飛びわかれても (あし)(たづ) 子を思ふかたは なほぞ恋しき 阿仏尼の返歌

私は都を離れ、鎌倉まで来たが、(あし)(たづ) の様な私はかつて子供の鶴と一緒に暮らしていた干潟()の事が偲ばれてなりません。私が子供たちを恋い慕って、鎌倉で泣いている声を想像してください。(あし)(たづ) は鶴の事である。

新中納言の君 との往復書簡は夜の鶴がテーマである。即ち親が子供を思う深い愛情である。夜の鶴という言葉は、白楽天 白居易の漢詩「五弦弾」に典拠している。糸の数が五本ある楽器・琵琶である。 

この詩の一部が「和漢朗詠集」に選ばれている。

第一第二弦索索 第一第二の弦は索々として

第三第四弦泠泠 第三第四の弦は冷冷として 

夜鶴憶子籠中鳴 夜の鶴は籠の中で子を思って鳴く まるで夜の鶴が 子を思いて 籠の中に鳴くようである

阿仏尼の夫である為家にも夜の鶴をテーマにした歌がある。

  子を思ふ 道をも思ふ 夜の鶴 玉津島まで 声も聞くなり

玉津島と和歌の浦は紀州における和歌の神様を祀っている。為家は和歌の道を伝えるべき我が子供たちの行く末を心配していた。夜の鶴の思いであったのだ。少し遡るが為家の父の定家は、後鳥羽天皇の勘気を受けて謹慎していた時期があった。悲しんだ定家の父・俊成は歌を詠んで後鳥羽天皇に献上した。

  あしたづの 雲路まよひし 年暮れて 霞をさへや へだてはつべき

我が子を思う年老いた父俊成の夜の鶴の悲しみは、後鳥羽天皇の心を打ち、定家は許されたのである。

阿仏尼にも「夜の鶴」というタイトルの書がある。子を思う母の切ないこころが滲んでいる。俊成も為家も阿仏尼も、子供を思う心は歌の道を思う心なのである。

さて新中納言の君 から送られた和歌に返事を書いた。これを書き添えた。

 

朗読⑤

そのついでに、故入道大納言の、草の枕にも常に立ちそひて夢に見え給ふ由など、この人ばかりやあはれとも思さむとて、書きつけて奉るとて、

  都まで 語るも遠し 思ひ寝に しのぶ昔の 夢の名残を

  はかなしや 旅寝の夢に 通ひ来て 覚むるば見へぬ 人の面影

なぞ書きて奉りたりしを、又あながちにたよりたづねて返事し給へり。さしも忍び給ふ事も、折からなりけり。

  東路の 草の枕は 遠けれど 語れば近き いにしへの夢

  いづこより 旅寝の床に 通ふらむ 思ひおきける 露をたづねて

などのたまへり。

 現代語訳

この返歌を書いたついでに、新中納言の君 は、為家と母を同じくする姉であるから、この人ならばわかって下さると思って、亡き為家の霊が鎌倉に滞在中の私に付き添ってくれていて、私が見る夢の中にもしばしば現れることを手紙で書き綴った。その手紙に記した二首の和歌の一首。

  都まで 語るも遠し 思ひ寝に しのぶ昔の 夢の名残を

都のあなたまで書き送る手紙は、遠い距離を越えていく。私の夢の中に現れる為家は、もっと遠い冥界から遠い距離を越えて会いに来てくれている。私は夢から覚めるのが惜しくて、いつまでも為家の顔を見ていたくて目が覚めても名残が残っていた。

  はかなしや 旅寝の夢に 通ひ来て 覚むるば見へぬ 人の面影

何と儚いことであろう。為家は私や子供たちの事が心配で、旅先の鎌倉で見る夢の中にまで現れて、私の裁判を励ましてくれるということは、まだ成仏していないのではないか。夢の中の為家と話し合えて嬉しいが、目が覚めると夢の中であれほどありありと見えていた為家の姿がかき消えてしまう。そんな文面と歌を書いた手紙を、都の新中納言の君に送った所、彼女は都から鎌倉に向かう人を見付けて返信が届いた。

前にも書いたが、新中納言の君 は、歌聖の父・定家の名誉を守る為に、自分は歌を詠まないという強い方針を持っているが時と場合による。彼女は弟の為家を思う気持ちから、私の歌に返歌をして下さった。

まず私の

  都まで 語るも遠し 思ひ寝に しのぶ昔の 夢の名残を  

阿仏尼作への返歌。 

  東路の 草の枕は 遠けれど 語れば近き いにしへの夢

あなたがいらっしゃる鎌倉と私がいる都は遠く距離を隔てている。けれどもこのように和歌を通して語り合っていると、あなたが今も私の目の前にいるように感じられる。そして空間的な隔たりだけでなく、時間の隔たりも消えてしまう。今は亡き為家も昔通りの姿で、今も私の近くにいるように感じる。

次に阿仏尼の

   はかなしや 旅寝の夢に 通ひ来て 覚むるば見へぬ 人の面影

への返歌。

   いづこより 旅寝の床に 通ふらむ 思ひおきける 露をたづねて

亡き為家は激しい日光を受けるとたちまち消えてしまう霜の様に、かよわい貴方や子供たちを守る為に、冥界から夜ごとあなたの夢を通じて通ってくるのでしょう。けれども私が心配なのは為家の霊魂が、あなたや子供たちへの願いが不安なあまり、それが未練、執着となって成仏出来かねているではないかということです。一日も早く、裁判に勝利して、為家が安心して成仏できるように祈っています。新中納言の君 はこのように書いている。

 

生きている人間の中に死者が現れるのは、成仏出来ていない証拠である。

「源氏物語」では桐壺院の霊がそうであったし、藤壺でさえ夢枕に立っている。為家は自分の死後に残された、幼い為相・為盛の行く末が心配で、彼らへの愛情・執着心が煩悩になって成仏を妨げているのである。

阿仏尼にとって、為家の霊魂について語り合う相手としては、為家の姉の新中納言の君 が最適であった。そこでこの往復書簡が書かれたのである。

 

「コメント」

阿仏尼はバリバリの野心家で、義理の人とうまく出来そうにない感があったが意外。結構周囲とうまくやっている。見かけと違う。これも処世術。