2311118⑮「十六夜日記と日本文学のジャンル」

今回は「十六夜日記」の最終回である。阿仏尼は現在まで続く冷泉家の成立に深く関った。そのことが阿仏尼の最大の文化的貢献である。そのことを確認する為に、今回は江戸時代に書かれた阿仏尼に関する文章を読み、彼女の果たした役割の大きさを偲ぶ。阿仏尼は定家の息子の為家の妻である。為家の子供たちは二条家、京極家、冷泉家の三つに分裂した。その中で京極家が最も早く途絶え、二条家も断絶した。最後まで残ったのが冷泉家である。江戸時代に冷泉為村という歌人が出て、冷泉家が力を取り戻した。その時偶然にも、それ以前は没年が不明だった阿仏尼の亡くなった年月日が判明した。冷泉為村の門人がこのことを書き記したのが、「阿仏真影記」という文章である。

真影とは、肖像画の事である。「阿仏真影記」は、梁瀬一雄先生が出版された「甲註 阿仏尼全集」という本に収められているが、何ケ所か意味の通じない文章があり、私は江戸時代後期の学者である、屋代(やしろ)(ひろ)(かた)が書き残した「(りん)()叢書(そうしょ)」という書物で、「阿仏尼真影記」を読み、文脈が通るように本文を校訂した。それでは阿仏尼の人生を思い浮かべながら「阿仏真影記」の最初の部分を読む。

朗読① 「阿仏尼真影記」 書き出しの部分

中院(なかのいん)入道大納言為家卿深く思う旨ありて、歌道の奥義、伝来の文書を、冷泉家の祖 為相卿に付属し給う。その時は為相卿幼くおはしける故、膝下阿仏御坊に頼みおかれし。後 長男二条家の祖 侍従大納言為氏卿と遺書諍論の事おこりしに、禅尼公の御志(みこころざし)たくましく継ぎ給ひて、鎌倉に下り給ひて訴訟ありしかば、本意の如くなりぬ。されば今、冷泉家に伝えられる代々(よよ)の文書これなり。十六夜(いざよい)日記(にき)」はその時の道の記なり

 解説 意味を確認しておこう

中院(なかのいん)入道大納言為家卿 

為家の事である。中院(なかのいん) は、嵯峨の小倉院にあった山荘である。

深く思う旨ありて、歌道の奥義、伝来の文書を、冷泉家の祖 為相卿に付属し給う。

為家は深い考えがあって、俊成・定家以来の貴重な古典類を、阿仏尼が生んだ為相に伝えることにした。興味深いのは、播磨国の細川庄については言及されていない。江戸時代まで時代が降ると、二条家と冷泉家の対立は土地の争いで゜はなくて、書籍の争いとして理解される様になった。事実、

定家の自筆日記である「明月記」等は、冷泉家で守り伝え現在は国宝に指定されている。

その時は為相卿幼くおはしける故、膝下阿仏御坊に頼みおかれし。

為家が亡くなった時、為相は幼かったので、その母親である阿仏尼が貴重な書物群の管理を委託された。

後 長男二条家の祖 侍従大納言為氏卿と遺書諍論の事おこりしに、

その後、二条家の祖である為氏は、冷泉家の為相が貴重な書物を受け継ぐことに異を唱え、亡き為家の遺言状の解釈で争う姿勢を見せた。

禅尼公の御志(みこころざし)たくましく継ぎ給ひて、鎌倉に下り給ひて訴訟ありしかば、本意の如くなりぬ。

出家して尼になった阿仏尼は、亡き夫の為家の遺志をしっかりと受け継ぎ、守り通す為鎌倉まで下り訴訟を起こした。

その結果は、亡き為家の考え通り、阿仏尼が生んだ為相の側が為相正しいと決着がついたのである。

されば今、冷泉家に伝えられる代々(よよ)文書これなり。

だから江戸時代の今まで冷泉家が代々に亘って価値ある古文書を所有しているのである。

十六夜(いざよい)日記(にき)」はその時の道の記なり。

有名な「十六夜日記」は、阿仏尼が鎌倉に下って、裁判を戦った時の紀行文である。

 

それでは「阿仏真影記」の次の部分に進む。

朗読②「阿仏真影記」の次の部分

まことに禅尼の御志、代々に残りて、家の風、吹きと吹き、泉の流れなお深し。しかはあれどおわりを取り給いし年月、定かならずして四百六十余年の星霜空しく映り侍り。禅尼公は葛原(かつらはら)親王十四世の孫、佐渡守 平 (のり)(しげ)(むすめ)

安嘉門院に侍り給ひて、()衛門(えもん)(すけ)と申す。又四条と申す。剃髪の後阿仏坊と申す。又ほくりん禅尼と申す。

金玉は代々(よよ)の選集に残れり。ここに不思議な事侍りて、去るにし年 きゅうきの中より弘安6年卯月8日、入寂し給うこと現れぬ。

 解説

阿仏尼が亡くなった日がここで確定できるのである。意味を取っていく。

まことに禅尼の御志、代々に残りて家の風、吹きと吹き、泉の流れなお深し。

冷泉家を守った阿仏尼の志は、その後も代々の冷泉家の当主に守り継がれて、和歌の世界における偉大さは、現在まで続いている。吹きと吹き は風が強く吹くことである。泉の流れ は、冷たい泉と書く冷泉家の伝統の事である。

しかはあれど終わりを取り給いし年月、定かならずして四百六十余年の星霜空しく映り侍り。

けれども、その偉大な阿仏尼がいつ亡くなったのかは、子孫にも不明なままで、460年以上も経過してしまった。

禅尼公は葛原(かつらはら)親王十四世の孫佐渡守 平 (のり)(しげ)(むすめ)安嘉門院に侍ひ給ひて、()衛門(えもん)(すけ)と申す。又四条と申す。剃髪の後阿仏坊と申す。又ほくりん禅尼と申す。金玉は代々(よよ)選集(せんじゅう)に残れり

これは阿仏尼の略歴である。桓武平氏の家に生まれ、安嘉門院に女房として仕え、女房名は何度か変わった。金玉 阿仏尼の詠んだ素晴らしい和歌は、勅撰和歌集にも多数選ばれた。

ここに不思議な事侍りて、()にし年 きゅうぎの中より弘安6年卯月8日、入寂し給うこと現れぬ。

ここで不思議な事が起きた。昨年1731年冷泉家が保管している古い文書の中から阿仏尼の命日が、弘安648日と明記したものが発見されたのである。先程460余年と書いてあったのは正確ではなかった。

 

それでは「阿仏尼真影記」の最後の部分を読む。

朗読③「阿仏尼真影記」の最後の部分

また古墳が西八条大通寺境乾の滝の奥、ひつじさるのついに残れり。時なるかなときなるかな。かかる折を過ごさじとてかの御影を造立し給ひて、家に安置し大通寺にも安置せらる。さんわ、にこう、きんぎょく三首納め給う。されば冷泉家の流れをくむ人々、折にふれ言の葉を手向け、また年に一度は必ず古墳に詣で給はば、道の名誉ともなり、宗匠家の添いにも叶い侍らん。このあらましを志同じき(やから)に申し現さんとて
(つたな)き筆
して書き記し侍ることしかり。寛延3年 初冬。

 解説

「阿仏尼真影記」の最後の部分ある。

古墳 は古塚即ち墓の事である。阿仏尼の命日は判明したが亡くなったのは鎌倉か京都かまでは分からない。

けれども京都の大通寺の境内には阿仏尼の墓があり、冷泉家の門人たちはそこを訪れていた。

西八条は平清盛の別邸があった場所で、平家滅亡後には源頼朝の所有となりその後、三代将軍源実朝の妻がお寺にした。これが大通寺である。現在は西九条に移転している。

さて冷泉家は阿仏尼の命日が判明した事で、彼女の肖像画を二枚描かせ、和歌三首を添え冷泉家と大通寺にそれぞれ納めた。そのことが「阿仏真影記」に書かれていたのである。

この阿仏尼の真影・肖像画は現在も残っている。私は冷泉家の展覧会で見た。髪の毛を肩の所で切った尼姿であるが、紅い袴をはいているので華やかな印象を受ける。

さんわ、にこう、きんぎょく三首納め給うとある。

阿仏尼の和歌が三首、書き添えられた。冷泉家の展覧会カタログを見たら、夫の為家が亡くなった後35日の法要で詠んだ歌。「十六夜日記」の旅立ちの際に、息子の為相と為守に応えた歌の合計三首である。現在まで続く冷泉家の源流に位置付けられるのが阿仏尼なのである。以上「阿仏真影記」を読みながら、阿仏尼が冷泉家の始まりと深く関ったことを確認した。

文学史の中の阿仏尼

次に別の観点から阿仏尼を文学史の中に位置づけよう。

阿仏尼が都から鎌倉に下ったのは、弘安二年1279年。「十六夜日記」の巻末に置かれた長歌が詠まれたのは、その3年後の弘安5年。その翌年の弘安6年、1283年4月8日に阿仏尼は亡くなった。今年2023年は阿仏尼の没後740年に当たっている。我が国で最初のまとまった書物とされる「古事記」が成立したのは712年である。それを日本文化の始まりとしよう。

我が国が近代の扉を開いたのが明治維新の1868年だから、その中間点は単純に計算すれば1290年になる。阿仏尼が亡くなった1283年の僅か7年後である。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代と、古典文学が生まれ続けた古典の時代の中間点、折り返し地点の近くを阿仏尼は生きたのである。

文学とは何か。日本文学いや日本文化の要となっている和歌とは何か。そして古典中の古典と目される「源氏物語」とは何なのか。そのことを突き詰めて考えたのが中世の開幕期を生きた文学者たちであった。特に藤原定家である。その定家の子供、後継者為家の妻が阿仏尼である。新しい文化を作り上げる記念碑的な文学作品には共通する特徴がある。それは一つのジャンルに収まり切れない、複雑な要素が混在いるという特徴である。

阿仏尼の「十六夜日記」の中には様々なジャンルが流れ込んでいる。

「十六夜日記」の最初には和歌を基軸に据えた日本文化論や政道論が書かれていた。

即ち「十六夜日記」は評論書・批評文学なのである。次に別れの歌が配置される。旅に出る人とそれを見送る人との和歌の贈答は、こういう風に詠むのだという離別の歌のカタログなのである。それを受けて二週間の旅の日録が展開する。この部分が日記文学であり、紀行文学に即している。

その後は鎌倉に滞在している阿仏尼と都に残った人々が、和歌の贈答を行う往復書簡集が書かれている。「十六夜日記」は書簡体文学でもある。最後には長歌と反歌が添えられている。「万葉集」で盛んに詠まれて以来、詠まれなくなっていた長歌の詠み方の見本が示されている。

全体として見ると、「十六夜日記」は和歌という大きなテ-マで統一されている。その上で和歌の評論、別れの歌の詠み方、和歌と散文からなる紀行文の書き方、贈答歌を含む書簡文の書き方、詠むのが困難な長歌と反歌の詠み方というバリュエ-ションがある。

「十六夜日記」に欠けているのは、物語の要素である。ここで思い合わされるのは、若き日の阿仏尼が恋と隠遁と旅を、物語の様に書き紡いだ「うたたね」という作品の存在である。

「うたたね」と「十六夜日記」を一纏まりとして把握すれば、物語、批評、和歌、紀行文、日記、書簡、長歌などの様々な文学ジャンルが一つに溶け合っているのが、阿仏尼の文学世界だということになる。

     ライシャワ-駐日大使 「十六夜日記」の英訳

所で駐日アメリカ大使を務めたライシャワ-が、「十六夜日記」を英語に翻訳していた。ドナルド・キーンの英語訳を思わせる、明確にして文学的な訳文である。この英語訳の前に、長い序文を書いている。それによれば日本文学の中では、必ずしも傑作ではない。けれども自分、ライシャワ-が英語に訳すのは、現代日本での有名な古典文学であり、実際に現代まで教育を通して読み継がれて来た作品だからだと述べている。ライシャワ-は「十六夜日記」をアメリカの学生に教えることで、日本文学の特質を教えようとした。

 

ライシャワ-の言う通り、「十六夜日記」は世界文学の水準で評価する以前に、日本文学史の中での屈指の傑作という評価を受けることはなかった。ですが「十六夜日記」は本当に有名で読まれ続けてきた。私の考えでは「十六夜日記」の中に凝縮されている中世文化のエッセンスが、後の時代の人達に学ぶべき教科書として活用されてきたからだと思う。王朝の「源氏物語」を中世の文化人たちが、巧みに活用した事とも関連している。

     阿仏尼と「源氏物語」との関係

そこで今回の最後に、阿仏尼と「源氏物語」との関係について考えておこう。この古典講読で「うたたね」と「十六夜日記」を取り上げたが、放送を聞いている人から度々質問を受けた。

ある人からは「源氏物語」の影響が強すぎて、どこに阿仏尼に個性があるのか分かりませんという感想を頂いた。

又別の人からは、「源氏物語」の言葉を使っているから、「うたたね」は優れた作品なのですかとも聞かれた。

もっともな質問です。そこで阿仏尼がどのように「源氏物語」と関わったのか考えたい。ひたすら憧れていたのだろうか。それとも乗り越えようとして戦ったのであろうか。

11世紀の初めに紫式部が「源氏物語」を書いた。信じられない程の傑作であった。それでも「源氏物語」が一つあれば、それから後の文学者たちが創作意欲を失くすということはなかった。いつの時代にも文学者たちは、自分の心を表現したくて、創作活動を続けたのである。その場合文学者たちの戦略は三つある。

     後の文学者たちの戦略

まず第一の立場は「源氏物語」という存在を忘れ、「源氏物語」とは無関係に創作することである。そうすれば「源氏物語」の影響を受けないのである。「源氏物語」の物真似とか二番煎じという批判は受けずに済む。近代文学ではこの戦略が一般的である。例えば木下杢太郎という詩人、戯曲家、美術史家がいる。森鴎外の弟子で医学者である。近代知識人の典型である。その木下杢太郎が、与謝野晶子の「新新訳源氏物語」、つまり現代で与謝野源氏と呼ばれている現代語訳の出版記念会で興味深いスピ-チをしている

朗読④ 木下杢太郎のスピ-チ

今晩はこのお祝いに参列することが出来て大変幸せに存じます。つきましては与謝野先生のこのお仕事に、何か良いお褒めの言葉を捧げたいので御座いますが、「源氏物語」と申すものは私に縁が薄いものでありまして、何も申し上げられないことは実に残念であります。歌には縁がなく暮らしたことは、今更非常に悔しく思っております。

従って「源氏物語」にも触れなかったのであります。やはり年というものは争われないもので、数年位私も連歌、俳諧というものに興味を持つようになりました。連歌、俳諧を解するには、どうしても「源氏物語」に触れなければならない。「源氏物語」を背景としたものが、必ず一(まき)の中に一度や二度は出てきますので、そうした場合どうしたかと申しますと、夫人の一番初めの翻訳を引き出しまして、丁度ここだなという当たりをつけて、与謝野先生のご出版になった「源氏物語」について推読して、いい加減な解釈をした次第です。少しはそれで当たりが付いてきますと、それが驚くべき文学であることを知ったのであります。

 解説

木下杢太郎が与謝野晶子の出版記念会で述べた、スピ-チの一節である。昭和14年の事である。与謝野晶子たちが関わった雑誌「(とう)(はく)に載っている。「明星」を受け継いだ雑誌である。西洋芸術に深い造詣を持ち、語学の達人であった

木下杢太郎と雖も、「源氏物語」が知識の空白地帯だったのである。「源氏物語」について調べたい時には、与謝野晶子の最初のダイジェストにして現代語訳である「新訳源氏物語」を読んで当たりをつけ、その後で晶子の夫である与謝野鉄幹が出版した、「日本古典全集」というシリーズの「源氏物語」で原文を見て、大体こんな内容だと判断したのである。木下杢太郎は推読という珍しい言葉を使っている。このスピ-チは近代を代表する知識人が、若い頃には「源氏物語」と無関係に、文学史に残る優れた文学活動を行ったことを率直に告白している。

  

ですが阿仏尼はこの第一の戦略は採用しなかった。次に「源氏物語」の以後に生まれた文学者たちが「源氏物語」と立ち向かう、二つ目の戦略に話を写す。それは「源氏物語」という巨大な作品の影響を受けることを恐れず、「源氏物語」作品と似た作品を意図的に製作することである。小説やドラマでもスピンオフとかサイドスト-リ-と呼ばれる手法がある。鎌倉時代から室町時代にかけて擬古物語と呼ばれる物語が沢山書かれた。人間の恋愛心理を繊細に描いているのだが、「源氏物語」の模倣という評価がなされている。だが一流の文学者たちも若い頃には、この第二の戦略を採用している。「松浦宮(まつらのみや)物語」という作品がある。作者は藤原定家と考えられる。この作品が「源氏物語」の影響下に誕生したことは疑いようがない。阿仏尼が若かりし時に書いた「うたたね」という作品も、この第二の戦略に属する作品である。更に具体例を挙げよう。私が愛読している擬古物語に「小夜(さよ)(ごろも)」という作品がある。2020年度の大学入試センタ-試験では、この「小夜衣」が出題された。「小夜衣」は鎌倉時代の成立である。主人公は兵部卿宮。彼は山里で祖母と暮らしている薄幸の姫君の噂を聞き、次第に心惹かれるようになる。按察使(あぜち)大納言の娘で、父親の先妻から不当にいじめられている境遇にあった。兵部卿宮は山里で姫君を実際に見て、愛し合うようになるが、権力者である関白の娘と結婚させられてしまうという風に始まる。この粗筋からも明らかなように、「源氏物語」若紫の巻で光源氏が北山に赴き、紫の上を見初める場面の換骨脱胎である。そして光源氏が左大臣の娘である葵上と政略結婚させられる場面を踏まえている。

それでは「小夜衣」がどういう文章で書かれているのか。山里に突然現れた兵部卿宮を、姫君の祖母や女房達がうっとりと眺める場面を読む。

朗読⑤ 「小夜衣」の一節

人々、のぞきて見奉るに、はなやかにさし出でたる夕(づく)()に、うちふるまひ給へるけはひ、似るものなく、めでたし。山の()より月の光のかがやき出でたるようなる御有様、目もおよばず。(つや)も色もこぼるばかりなる御衣に、直衣(のうし)はかなく重なれるあはひも、いづくに加はれるきよらかにかあらん。この世の人の染め()だしたるとも見えず、常の色とも見えぬさま、文目(あやめ)もげにめづらかなり。わろきだに見ならはぬ心地なるに、「世にはかかる人もおはしましけり」と、めでまどひあへり。げに、姫君に並べまほしく、笑みゐたり。

 解説

鎌倉時代の擬古物語「小夜衣」の一節である。「源氏物語」とそっくりである。阿仏尼が若い頃に書いた「うたたね」ともよく似た文体である。女房たちの目に映った兵部卿宮は、この世の男性とも見えぬ美貌であった。そして自分が仕えている美しい姫君と夫婦にして並べたら、どんなにかお似合いだろうと、思わずにっこり笑ってしまうのであった。私は初めて「小夜衣」を読んだ時には、「源氏物語」を原文で読めなかった。だから白紙の状態で「小夜衣」に接した。心に滲みる文章だと私は感動した。その後「源氏物語」の読み方を教わった。初めて原文で通読した「源氏物語」は感動するというよりは、打ちのめされる作品であった。強力なパンチを食らった。その上でそれまでは大好きであった「小夜衣」を読み直した。太陽の光と蛍の光位の差があると思った。阿仏尼が書いた「うたたね」」も殆ど「小夜衣」のレベルだと思う。日記というよりは、擬古物語として位置づけした方が良いかもしれない。

けれども「源氏物語」を研究するようになってからの私は、擬古物語に強い愛着を持ち続けている。「源氏物語」の巨大な重力に一度取り込まれない事には、そこから脱出したいという心からの願いが生まれてこないからである。「源氏物語」の呪縛を脱したいという強く思うことから、「源氏物語」と戦う三つ目の戦略が生まれてくる。

   三つ目の戦略

そして三つ目の戦略こそ藤原定家以来の中世文学者たちが採用した戦略なのである。「「源氏物語」の内部に思い切って飛び込み、「源氏物語」の命である主題解釈を変えてしまうのである。「源氏物語」を自分の望むように、今の時代に必要なものに変える大胆な戦略である。文化的な次元での遺伝子組み換えである。晩年の阿仏尼が書いた「十六夜日記」はこのレベルに達していた。紫式部が書いた「源氏物語」そのものは、恋愛が主題である。人は何故愛してはならない人を愛してしまうのか。そして愛さなくてはならない人を正しく愛せないか。そのことを紫式部は追及した。けれども源平争乱、南北朝の対立、戦国時代の混乱というように我が国の中世は戦いに明け暮れた。人々が心から欲しいと願うものは、平和であった。そこで恋愛がテ-マである「源氏物語」を、平和と調和がテ-マであると読み改める実験が試みられたのである。この第三の道を開拓したのが、藤原定家であった。その息子の妻が阿仏尼である。

「十六夜日記」での阿仏尼の主張は次の様なものであった。和歌の道と政の道は一致しなくてはならない。和歌の道を守ってこそ、正しい政と言える。正義は自分達、冷泉家の側にある。だから鎌倉幕府は自分の提起した細川庄を巡る訴訟を、自分たちの有利になるように決着させるべきである。曲がりくねった(よもぎ)ではなく、まっすぐに伸びる麻のように政治家、為政者は政を行わねばならない。「十六夜日記」の冒頭部を思い出そう。

朗読⑥  「十六夜日記」冒頭

昔、壁の中より求め出でたりけむ(ふみ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上の事とは知らざりけりな。水茎の岡の葛原(くずはら)かへすがへすも書きおく跡たしかなれども、かひなきものは親の(いさ)めなりけり。又賢王の人を捨て給はぬ(まつりごと)にももれ、忠臣の世を思ふ情にも捨てらるるものは数ならぬ身一つなりけりと、思ひ知りなば又さてしもあらで、なほこの憂へこそやる方なく悲しけれ。

 解説

賢王 は、天皇。忠臣 は、鎌倉幕府の実力者を指している。今の時代では、天皇も幕府も正しい政を行っていない。その為、正しい世の中を作り上げるためにある和歌の道が損なわれている。その思い違いを正したい。それが阿仏尼の執念なのである。その凄まじいというか揺るぎない信念は、どこから出ているのか。私が思うに「源氏物語」の(はは)(きぎ)巻の解釈にある。この巻では 雨夜(あまよ)の品定め が繰り広げられており、男から見た場合の理想の妻について議論が白熱している。我が国の中世の文化人たちは、この 雨夜(あまよ)の品定め を女性論とは認識していなかった。今は若いけれどもやがて、国家の中枢に立つであろう光源氏と頭中将に、先輩たちが理想の政治を実現する為に、必要な人材活用論即ち部下の才能を見分ける目の必要性を説いたものだと考えたのである。つまり「源氏物語」の主題を、恋愛から政治へと組み替えたのである。室町時代に連歌という文学ジャンルを大成したのが、宗祇である。芭蕉が憧れたことで知られる

その宗祇は藤原定家から始まる和歌や古典に関する教えを受けている。古今伝授と言われる教えである。宗祇は「源氏物語」の帚木の巻に関して、「帚木別註」という本を書いている。そこに書いてある彼の「源氏物語」の主題解釈に耳を傾けよう。

 

朗読⑦   宗祇「帚木別註」の一節

これ、ひとえに女の事をいうのみに非ず。源氏の君、頭中将は世を政給ふ公達なれば、女の上にて世間の人の心を教え奉るものなり。夫婦をかりてよって君臣の終えざるを諷するなりといへり

 解説

白氏文集でも夫婦、男女関係にかこつけて、君臣・主君と家来の人間関係の困難さを述べている。「源氏物語」の 雨夜(あまよ)の品定め でも、理想の妻を得ることは難しいと語ることで、上司と部下の理想の人間関係を作り上げることの困難さを、若い光源氏と頭中将にアドバイスしているというのである。

この宗祇の説は、15世紀の応仁の乱の頃に書かれた。但し宗祇は定家から始まる古典学の本筋の教えを受け継いでいる。我が国の中世文化は、「源氏物語」は恋愛を描いた物語としてはいるのに、正しい(まつりごと)在り方、正しい人間関係を作り上げる知恵を描いた教科書として理解した。

これが私の言う、文学的な遺伝子組み換えである。そして「源氏物語」以後に生まれた文学者が、「源氏物語」と戦うための第三の戦略なのである。これを詰まらない読み方だと完全に否定したのが、江戸時代後期の国学者 本居宣長 である。彼はただ否定するだけではなく、もののあわれ を描いたのが「源氏物語」だと主張した。本居宣長は「源氏物語」の主題解釈を一変させることで、またしても「源氏物語」の文化的遺伝子組替を行ったのである。ここに我が国の近代の扉が開かれた。

以上が阿仏尼にとっての「源氏物語」の意味を私なりに考えた結果である。若い頃の「うたたね」と晩年の「十六夜日記」では、「源氏物語」との戦い方に違いがある。けれども「うたたね」に価値がないという事はない。又「十六夜日記」が教訓臭いと言われることには理由があったのである。

 

「コメント」

 

何だと思いながら聞き始めたが、講師の解説のおかげで、回を追うごとに興味と楽しみが増した。鎌倉に阿仏尼関連遺跡まで行った。「源氏物語」は単なる高級貴族の恋愛を描いたと思い込んでいたのが間違いであったのか。そういう読み方もあったのか。読んでもいないのにそう思い込んでいたのか。歳をとると知らないということがよく分かってくる。

かなり手遅れだが。