2311125①「序文と跋文」

今回から新しく「建礼門院右京太夫集」を読む。阿仏尼よりも時代は遡る。「平家物語」で語られる

時代が背景である。

即ち源平争乱の時代である。作者は平家一門の全盛時代に、中宮である建礼門院に仕える女房として、華やかな宮廷生活を体験した。なお平氏の中で清盛一族を平家とも呼ぶので、ここでは平家という言い方で統一する。
「建礼門院右京太夫集」の作者は、平家一門の滅亡という史実に身近に立ち会った。

彼女の恋人は平(すけ)(もり)という。清盛の嫡男重盛の二男であったが、壇ノ浦で敗れ入水した。その為もあって、太平洋戦争で愛する人が戦死した人々の共感を得て、広く読まれた。小説家の大原富枝は「「建礼門院右京太夫」という小説を書いた。戦後30年の節目の年である。その後書きで「建礼門院右京太夫集」の作者の恋人の姿は、第二次世界大戦に出征した学徒兵や、愛する人を戦死させた女性たちの悲しみと、重なると述べている。「建礼門院右京太夫集」には恋人の平資盛が都落ちする際に、もう二度と会えない、手紙も書けないと告げて去る場面がある。大原富枝の戦死した恋人も、

彼女に一枚の離縁状を残し去ったそうである。大原富枝は「建礼門院右京太夫集」という古典の中に、自分自身の悲しい青春を投影したのである。大原富枝の小説の文庫本の解説を書いたのは、詩人の大岡信であった。大岡も自分の旧制中学の先生が、軍隊から復員したばかりで、「建礼門院右京太夫集」」を愛読していたと書いている。

「建礼門院右京太夫集」の作者は、建礼門院に右京太夫という名前で仕えた女性なので、正確には建礼門院の右京太夫である。但し の を省略して建礼門院右京太夫という名前が多い。これから単に右京太夫と呼ぶこともある。又作品名も右京太夫集と呼ぶこともある。

さて「建礼門院右京太夫集」であるが、江戸時代の後期に塙保己一が編集した「群書類聚」の本文で読み進める。いわゆる流布本と呼ばれるもので、江戸時代後期から近代にかけて広く読まれた。現代では建礼門院の 礼 は漢字の新字体で書かれるが、私が大学生の頃では、禮 と書く旧字体の漢字が使われていた。建禮門院 には威厳が感じられた。

ヒロインが仕えた建礼門院は 平徳子 である。平清盛と二位尼時子の間に生まれた娘である。

1171年高倉天皇の女房として入内し、翌年中宮となった。治承2年1178年安徳天皇を産み、平家一門の全盛期を中宮として体験した。寿永2年1183年平家一門は、木曽義仲に追われて都落ちする。建礼門院も安徳天皇と共に三種の神器を携え、一門に同行した。

元暦2年1185年平家一門は、壇ノ浦で敗北して全滅し、安徳天皇も入水した。建礼門院も入水したが助けられ、大原の寂光院で平家一門と我が子の菩提を弔いながら、余生を過ごしている。逝去は壇ノ浦の28年後であった。

「建礼門院右京太夫集」は、建礼門院が体験した平家一門の明と暗、光と影のコントラストを見事に描き切っている。

 

与謝野晶子の歌が歌集「恋衣」にある。後に推敲されたので両方を読む。

朗読①

 ほととぎす 治承寿永のおん国母(こくぼ) 三十にして うべませり寺

 ほととぎす 治承寿永のおん国母(こくぼ) 三十にして 経読ます寺

 解説

第五句が 経読ます寺 とある方が有名である。建礼門院が大原の寂光院に移ったのは正確には31歳であった。

この建礼門院に女房として仕えたのが右京太夫である。
そして彼女が晩年に、自分の人生を自分が詠んだ歌と、恋人から送られた歌などをちりばめて回想したのが
「建礼門院右京太夫集」という作品である。「群書類聚」などでは、「建礼門院右京太夫集」は上と下に分かれている。

下巻の冒頭は、平家一門が都落ちする、緊迫する場面から始まる。ここで上と下と区切ったのは卓見だと思う。それでは作者である右京太夫の家系、系図を確認しておく。

「群書類聚」の末尾には、右京太夫の先祖がずらりと書かれている。筆頭は一条摂政と呼ばれた藤原伊尹(これただ、これまさ とも読む)その子供が夭折の天才歌人とされる藤原(よし)(たか)その子供が書道の名人として名高く、藤原道長の栄華を支えた文人官僚である藤原(ゆき)(なり)である。

伊尹と義孝は小倉百人一首にも選ばれている。

朗読② 伊尹と義孝の歌

あはれとも 言うべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな  伊尹(これただ) 父

君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな    義孝 子

 解説

伊尹(これただ)謙徳公という諡号で入っている。行成の歌は小倉百人一首には入っていないが、清少納言の

 夜をこめて 鳥の空音は (はか)るとも よに逢坂の 関は許さじ

という歌を引き出したのは行成であった。この行成が世尊寺家という書道の名門の初代である。その後(いき)(つね)伊房(これふさ)定実(さだざね)と続き、右京太夫の祖父に当たる定信(さだのぶ)になる。定信は五千を超えるすべての仏典、御経を自分一人で書き写す偉業を達成した。これを一筆一切経という。その定信の子供の(これ)(ゆき)が右京太夫の父である。わが国最初の書道に関する書物「夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)」を著した。この本は娘の右京太夫に与えられたとされるので、右京太夫も達筆だったことが分かる。又(これ)(ゆき)は「源氏物語」に関する最初期の注釈書である「源氏物語釈」を著した。右京太夫の母親は夕霧という。音楽を職業とする家に生まれ、(そう)つまり13弦の琴の名手であった。夕霧は若い頃に歌人である藤原俊成との間に男の子を生んだとされる。右京太夫は藤原俊成とも深い関係がある。この様に右京太夫は書道、文学、音楽という芸術的な環境に恵まれて育った。そして平家一門が全盛を極めている宮中で、宮仕えをすることになった。

 

佐藤春夫に「法然上人別伝」という副題サブタイトルのある小説「掬水譚(きくすいたん)昭和11年の刊行である。(きく)(すい)とは水を手で掬うことである。譚は話、物語という意味である。その小説の中に右京太夫が登場する。その書き出し近くを読む。

朗読③ 佐藤春夫「掬水譚(きくすいたん)」の書き出し近く

一人の若い女房があった。美しさの他には何も定かには分からなんだ。年の頃はまだ二十歳(はたち)なるやならででもあろうか。夕月の下でただ秋草の精かと見えるばかりであった。彼女は建礼門院の侍女で、その官名によって建礼門院右京太夫と呼ばれた女房であった。彼女は三位中将維卿のすぐ下の弟の小松の新三位中将(すけ)(もり)の愛人であった。一門の間では誰知らぬものの無い間柄で、公然の許嫁(いいなずけ)の様な仲であった。彼女の才貌 さいぼう

は一門の公達全てから敬愛されていて、すでに(すけ)(もり)との語らいのあるのを知りながら、言い寄る向きも少なくなかったことであった。それゆえ世が世で(すけ)(もり)の身が身ならば、平家一門の女王とも仰がれる身の彼女である。彼女の類まれな才貌は、一条摂政の血を受け世尊寺家の教養を継いでいるのもので、いわば藤原氏の文明の成果だから、平家の公達は争うて血道をあげるのは無理はなかった。

 解説

掬水譚(きくすいたん)の第6巻「建礼門院右京太夫」の書き出しの一節である。ここに右京太夫の魅力が、文化的芸術的な才能に裏打ちされていたことが見事に描かれている。所で右京太夫の価値を近代の読者に知らしめた最大の功労者は、国文学者の佐々木信綱である。その信綱の歌の弟子に柳原白蓮がいる。その柳原白蓮が本名 柳原燁子名義で「歴代女流歌人の鑑賞」という本を書いている。彼女はどんな女性歌人を取り上げているのだろうか。古代の「万葉集」と近世の幕末は省略して、人名を見てみる。小野小町、伊勢、斎宮女御、中務(なかつかさ) 、和泉式部、紫式部、清少納言、式子内親王、俊成卿女、建礼門院右京太夫、永福門院。そうそうたる顔ぶれである。この中に右京太夫が入っていることが注目される。又森鴎外の妹で与謝野晶子に歌を師事した小金井喜美子も「(とう)(はく)という雑誌で、右京太夫の歌を二回にわたって鑑賞している。小金井喜美子は「群書類聚」と佐々木信綱によって、

「建礼門院右京太夫集」を読んだと書いている。

 

それでは「群書類従」の本文で、「建礼門院右京太夫集」を読んでいく。先ずは序文に該当する部分である。

朗読④ 「建礼門院右京太夫集」序文

 家の集などいひて、歌よむ人こそ書きとどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず、ただ、あはれにも、悲しくも、何となく忘れがたく覚ゆることどもの、その折々、ふと心に覚えしを、思ひ出でらるるままに、わが目ひとつに見むとて書き置くなり。

  我ならで 誰かあはれと 水茎の 跡もし末の 世に残るとも

  解説

家の集

勅撰和歌集の様な大人数のアンソロジ-ではなく、一人の歌人の歌を集めたものである。無論、歌の贈答、やり取りをした場合には、他人の歌も含める。音で結ぶと家集(かしゅう) である。但し歌の集と書く 歌集 と同じ発音なので、区別して家の集と書くことがある。                 

これは、ゆめゆめさにはあらず、

これから私が書き始めるのは、決してそんな御大層な家の集ではない。謙遜ではあるが、「建礼門院右京太夫集」が単なる家の集ではないことを宣言している箇所でもある。

ただ、あはれにも、悲しくも、何となく忘れがたく覚ゆることどもの、その折々、ふと心に覚えしを、思ひ出でらるるままに、わが目ひとつに見むとて書き置くなり。

どことなく徒然草の序段の書き出しを連想する。自分の心の中には、沢山の記憶が埋もれている。その中から折にふれて、あわれとか悲しいとか身に染みて感じた思い出が、何かの拍子に浮かび上がってくる。それを一つずつ掬いとって、言葉に置き換えるもの、それがこれから自分の書くものだというのである。「建礼門院右京太夫集」では歌の前に、長い詞書(ことばがき)がついているようにも見えるが、実際には長い散文が先にあって、最後にその思い出が和歌で閉じられるのである。「伊勢物語」の歌物語のスタイルでもある。

わが目ひとつに見む 

とあるので、作者は誰か読者を想定しているのではなく、自分一人の為に書いたと宣言している。
けれどもこれから「建礼門院右京太夫集」を読み進めていく内に分かってくるが、亡き恋人への思いを切々と述べている。だから壇ノ浦で海に沈んだ恋人への言問い、呼びかけなのだと思う。自分の心の中に眠っている恋人との語らいなのである。

  我ならで 誰かあはれと 水茎の 跡もし末の 世に残るとも

  誰かあはれと 水茎の 跡

筆という意味の 水茎 と 見る の掛詞である。「右京太夫集」は後の時代に残ったとしても、自分が抱えている悲しみは読者には理解してもらえないかもしれない。自分が体験した途方もない悲劇は、そういう体験をしたことの無い読者には分かって貰えないだろうから と言うのである。

でも昭和の時代に大原富枝は、右京太夫と同じ様な体験をして、心から共感した。又三島由紀夫の昭和1717歳の時に、右京太夫集の和歌二首を小説の冒頭と末尾に据えて、「玉刻(たまき)(はる)という小説を書いている。作者の心配は杞憂だったと言えるだろう。

 

それではこの序文を現代語訳する

 現代語訳

私はこれまでの人生で様々な機会に、和歌を詠んできた。但し凡庸なたわごと歌ばかりである。そんな私と違って、世の中には歌人として高く評価されている人々がいる。彼らが詠んだ目が覚めるような歌は、一冊に纏まっているのが多い。家集は歌の道に志す人たちのお手本となるように、自分自身で纏めることがある。また本人ではなく、誰か別の人が変わって編纂してくれることもある。そういう自薦と他薦の違いはあるものの、優れた歌人の歌集はこれまで沢山存在していた。それらは一人の歌人の歌を集めたものなので、家集と呼ばれている。これから私が纏めようとしているのは、人様の参考になるような家集ではさらさらない。読者を全く想定していないと言っては、言い過ぎかもしれないが、私が詠んだ歌は、私の心から突然に生まれ出てくる。ふとした折に、胸に迫る強い思いが溢れてきたり、強い悲しみがこみ上げてきたり、いくら忘れようとしてもどうしても忘れられない事が、何かの折に心に浮かんできたりする。そういう時に、私にとっての歌が生まれてくるのである。

そんな歌だから私という人間が、これまで生きてきたことの証として、これからも自分一人で読み返しては、それらの歌が生まれた時の、悲しみや淋しさを思い出すよすがとしようと思って、これから書き記したい。そういう今の思いを歌にしてみた。

  我ならで 誰かあはれと 水茎の 跡もし末の 世に残るとも

私はこれから、紙の上に筆を走らせて、これまで折にふれて詠んできた歌の数々を、書き綴っていくことにする。

この歌が仮に後世に残ったとしても、私以外の誰が私以上に、この歌に共鳴共感するというのだろう。

そういう人は恐らくいないだろう。私が体験してきたことの意味は、私一人にしか分からないのだから。そういう訳で他人を驚かす巧みな表現の無い歌ではあるが、この私にとっては一首一首にかけがえのない思い入れが籠っている。私が生きてきた時間、私が大切な人と共有してきた時間、それらの時間が儚く失われた今となっては、何よりも愛しい。

作者は自分という人間が、この不条理な世界で生きた証を、発信しようとしているのである。自分探しの日記、物語としての「建礼門院右京大夫集」を読むことが出来る。

 

次に一気に進めて、「建礼門院右京大夫集」の跋文 即ち あとがきを読む。

朗読⑤跋文

 かへすがへす憂きよりほかの思ひ出でなき身ながら、年は積もりて、いたづらに明かし暮すほとに、思ひ出でらるることどもを、少しづつ書き付けたるなり。おのづから人の「さることや」など言ふには、いたく思ふままのことかはゆくも覚えて、少々をぞ書きて見せし。これはただ、わが目ひとつに見むとて、書き付けたるを、のちに見て

  砕きける 思ひのほかの かなしさも かき集めてぞ さらに知らるる

 解説

かへすがへす憂きよりほかの思ひ出でなき身ながら、年は積もりて、いたづらに明かし暮すほとに、思ひ出でらるることどもを、少しづつ書き付けたるなり

序文と同じ気持ちを繰り返している。

憂きよりほかの思ひ出でなき

自分の人生には辛いことばかりで、辛くない思い出など一つもない。

年は積もりて、いたづらに明かし暮すほとに、

そんな辛い人生に、何度も押しつぶされそうになりながら、不思議な事に私は生きてこられた。建設的なことは何もしてこなかった人生だが、ふと心の奥底から浮上してきた思い出を少しずつ拾い集め、言葉に置き換えて

これまで「建礼門院右京太夫集」を書き綴ってきた。

おのづから人の「さることや」など言ふには、いたく思ふままのことかはゆくも覚えて、少々をぞ書きて見せし。

時折他人からあなたの人生を書き記した文章、あなたがこれまで詠んできた歌を、書き集めた家集はありませんかと尋ねられることもあった。

そんな時には かはゆく 面映ゆく、恥ずかしくて、ほんの一部分だけを見せるだけで済ませていた。特に恋人が壇ノ浦で入水して果てた直後の思い出は大切過ぎて、そう簡単に他人に見せることは出来なかった。

これはただ、わが目ひとつに見むとて、書き付けたるを

この「右京太夫集」は誰に読ませることを目的として書いたのではない。自分の心の中に眠っている、いや、自分の魂の中に生き続けている恋人の魂への呼びかけなのである。だから他人に理解してもらおうとは思っていないというのである。

のちに見て

書き終わった作品を読み通してみて、その思いを歌に詠んだ。

   砕きける 思ひのほかの かなしさも かき集めてぞ さらに知らるる

「群書類従」では おもいのほか だが 思ひのほど とする写本もある。ほか  ほど は、しばしば書き間違えられる。「新古今和歌集」に藤原俊成が詠んだ歌がある。

  かぎりなき 思ひのほかの 夢のうちは おどろかさじと 嘆きこしかな

この歌は「秋篠月清集」という歌集では 思ひのほどの となっている。「右京太夫集」と同じ混同が起きたのである。ここでは「群書類従」に従って、おもいのほか で解釈する。

作者の心は悲しい出来事、衝撃的な出来事によって、何度も砕け散り壊れかけた。

かき集めてぞ さらに知らるる

「右京太夫集」 を読み返してみると、もう一度その時の悲しみが押し寄せてきて、心が砕け散ってしまいそうになるのであった。

この跋文の現代語訳をする。

 現代語訳

いくら考えても辛い思い出ばかりで、楽しかった思い出がないのが、私の人生だった。それでも時間だけは確実に過ぎて行った。年齢だけは私の身の上に降り積もった。何をするでもなく、無意味に生きていたのだが、ある時思い立って、忘れてしまっているようでも忘れ切っていない事、自ずと思い出される事を、言葉として書きつけようとした。一つ思い出すとそこから別の思い出が引き出され、この様な大部の文章になってしまったのである。時折私に向かって、あなたは歌人ですから、これまで詠んだ歌の数は膨大でしょう。これらを一冊に集めたものはありますか、などと尋ねられることがある。そういう時には、自分が思ったことを正直に書いたものは他人に見せるのは気恥ずかしくて、全部ではなく一部だけを書き写して見せるのが常であった。この「建礼門院右京太夫集」は他人に見せるために書いたのではない。自分の人生を振り返る為に、私だけが読者であるという自覚と覚悟を持って書いたのである。この「建礼門院右京太夫集」を書き上げてから、暫く経って再読してみた。

その読後感を歌に詠んだ。

   砕きける 思ひのほかの かなしさも かき集めてぞ さらに知らるる

私は自分の心が音を立てて砕け散ってしまう体験を何度もしてきた。心が砕ける音を聞いた後では、想像もつかぬ悲しみが残った。そういう悲しさを書き集めて、それを言葉として私は歌に詠んできた。改めて自分の歌を修正した「建礼門院右京太夫集」を読み返していると、我の心がまたしても砕け散っていく巨大な音を聞いてしまった。

 

右京太夫が自分の心が何度も砕けそうになった悲しい出来事の連鎖。それをひとつひとつ追体験していこう。

なお右京太夫は今読んだ跋文に続けて、この「建礼門院右京太夫集」という作品を、自ら編集した経緯を書いている。

朗読⑥ 跋文の後 定家よりの問い合わせ

老いののち、民部卿定家の歌を集むることありとて、「書き置きたる物や」と尋ねられたるだにも、人数(ひとかず)に思ひ出て言はれたるなさけ、ありがたく覚ゆるに、「いづれの名をとか思ふ」と問はれたる思ひやりの、いみじう覚えて、なほただ、隔てはてにし昔の事の忘られがたければ、「その世のままに」など申すとて、

  言の葉の もし世に散らば 偲ばしき 昔の名こそ とめまほしけれ

 返し      民部卿定家

  おなじくは 心とめける いにしえの その名をさらば 世世(よよ)に残さむ

とありしなむ、うれしく覚えし。

 解説

老いののち、

作者の人生は晩年にさし掛かっていた。

民部卿定家の歌を集むることありとて、「書き置きたる物や」と尋ねられたる

作者は俊成とは深く関ってきたが、その息子である定家から問い合わせを受けたのである。定家は歌を集むることあり というように、歌人たちが詠んだ歌を広く集める必要に迫られていた。定家は八番目の勅撰和歌集である「新古今和歌集」の選者の一人であったが、この度九番目の勅撰和歌集の「新勅撰和歌集」の選者になったのである。今度は定家一人で選ぶのである。

「書き置きたる物や」

「新勅撰和歌集」の参考資料にしたいので、あなたがこれまで詠んできた和歌を集めたものがありますか。あればぜひ見せて欲しいと言うのである。或いはこの定家の言葉がきっかけとなって、作者は「建礼門院右京太夫集」を完成させたのかもしれない。

人数(ひとかず)に思ひ出て言はれたるなさけ、ありがたく覚ゆる

序文には自分は歌人ではない。家の集などは持たないと言った作者であったが、歌を交えて人生を振り返った

「建礼門院右京太夫集」がある。自分にまで声をかけてくれた、定家の温情に作者は感謝した。ここで作者は定家に「建礼門院右京太夫集」を見せたのである。定家は必ず何首かは「新勅撰和歌集」に撰んでくれるでしょう。

いづれの名をとか思ふ

定家からの再度の問い合わせである。あなたの歌を「新勅撰和歌集」に撰ぶ場合には、いつの時代の呼び名をあなたの名前にしますか。作者は最初建礼門院に仕えた。その後暫くしてから、後鳥羽天皇の女房として宮仕えする。右京太夫という呼び名は変わらないが、その前に付く主人の名前が二つある。建礼門院と後鳥羽天皇の、どちらにお仕えしていた時の名前にしますか。

と問はれたる思ひやりの、いみじう覚えて、

作者は定家からの問い合わせに感激した。

なほただ、隔てはてにし昔の事の忘られがたければ、「その世のままに」など申す

自分にとっては平家の全盛時代に建礼門院に仕えていた頃の思い出が最も大切である。だから栄えある「新勅撰和歌集」には、建礼門院右京太夫と入れて欲しいと定家に伝えたのである。

  言の葉の もし世に散らば 偲ばしき 昔の名こそ とめまほしけれ

作者の歌である。昔の名 建礼門院右京太夫という名前を、後世に残したいという願いである。定家からも了解したという返事があった。

  おなじくは 心とめける いにしえの その名をさらば 世世(よよ)に残さむ

あなたが忘れがたく思っていらっしゃるという昔の呼び名 建礼門院右京太夫 を「新勅撰和歌集」に残し、

あなたの名前を永遠に記憶しましょう。

とありしなむ、うれしく覚えし。

作者は定家の思いやりに感謝したのである。

 現代語訳

あれは貞永元年1232年の頃だったろうか。年老いた私に藤原定家から連絡があった。この度後堀川天皇から「新勅撰和歌集」の編集を下命された。ついては歌人たちの詠んだ和歌を集める必要がある。あなたの手元にこれまで詠んだ歌を纏めたものはありますか。定家からこういうお尋ねを受けるのは、素人歌人である私をひとかどの歌人のように扱って貰っているようで、その温情を誠に有難く思った。この「建礼門院右京太夫集」を定家に見せた所、「新勅撰和歌集」にあなたの歌を載せる場合、作者名はどのようにすれば良いかと更なるお尋ねがあった。定家の思い遣りは信じられない程に、温情に満ちていた。私は二度宮仕えをした。最初は建礼門院、二度目は後鳥羽天皇に。私は考えるまでもなくすぐさま答えた。最初、建礼門院に仕えていた頃の女房名を名乗りたいと思うと。私が初めて雲の上の世界を仰ぎ見た日々、初めて恋の喜びと悲しみを知った日々。愛する人と引き裂かれて涙にくれた日々。その他の事が今でも詳細に記憶に残っていて、忘れることが出来ない。だから「建礼門院右京太夫」と作者名を表記されて、「新勅撰和歌集」に選ばれるかもしれないことに

感動し心が震えた。

  言の葉の もし世に散らば 偲ばしき 昔の名こそ とめまほしけれ

もしも「新勅撰和歌集」に一首でも選ばれるならば、私の名は永遠に残る。いついつまでも私の名前は語り伝えられるだろう。もしそのような栄誉に浴することが可能ならば、昔宮仕えしていた頃の女房名 建礼門院右京太夫 を名乗らせて頂きたいのです。定家から返事あった。

  おなじくは 心とめける いにしえの その名をさらば 世世(よよ)に残さむ

そういう事でしたら、あなたが大切にしている名前、建礼門院右京太夫 であなたの歌を勅撰和歌集に選び、その名前を後世まで残しましょう。定家からこの歌を貰った時は、心の底から嬉しかった。その思いを胸に、この文章を閉じることにする。

 

定家はこの 建礼門院右京太夫 から二首を「新勅撰和歌集」に選んだ。作者名は無論 

建礼門院右京太夫 であった。定家が選んだ二首は少ないと言えば少ないが、勅撰和歌集 に和歌が選ばれるのは、自分の歌が永遠に残るという保証が得られたことを意味している。その後「建礼門院右京太夫集」の歌は、少しずつだが勅撰和歌集に選ばれ続ける。

「玉葉和歌集」に十首、「風雅和歌集」六首、「新千載和歌集」に一首、「新新和歌集」に一首、「新後拾遺和歌集」に一首、「新続古今和歌集」に二首 という具合である。

 

「コメント」

 

安徳天皇生母 平徳子に仕えた女房という事しか知らなかった。源平の戦いの最中で歴史的にも興味あり。激動の時代を生きた人生である。藤原氏の主流の人なのであった。