231216④「平資盛との恋始まる」

「建礼門院右京太夫集」は冒頭部分では、高倉天皇と中宮である建礼門院の、輝かしい姿を描いていた。その後歌合せなどで詠んだ題詠、タイトルのある歌を列挙していた。

ここからは天皇、中宮の周囲にいた貴族たちの思い出が記される。それでは最初の歌の朗読をする。

朗読①

中宮の御方に候ふ人を、公衡(きんひら)中将のせちに言ひしころ、物をのみ思ふよしかへすがへす愁へられしに、秋の初めつかはしし

秋来ては いとどいかにか しぐるらむ 色深げなる 人の言の葉

返し

   時わかぬ 袖のしぐれに 秋そひて いかばかりなる 色とかは知る

 解説

公衡(きんひら)の中将

藤原公衡(きんひら)である。公衡(きんひら)は徳大寺(さね)(さだ)の弟である。兄の徳大寺(さね)(さだ)は、小倉百人一首の以下の歌で有名である。

  ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

文脈を読みながら、宮中で宮仕えをしている女房達の恋愛心理に分け入る。

中宮の御方に候ふ人を、公衡(きんひら)中将のせちに言ひしころ

公衡(きんひら)が中将であった頃、中宮に宮仕えしている女房の一人に、しきりに言い寄ったことがあった。

物をのみ思ふよしかへすがへす愁へられしに、秋の初めつかはしし、

公衡(きんひら)が言い寄った女房は、このことを女房仲間である作者に何度も相談しては、公衡(きんひら)との関係に悩んで、苦しいと率直に訴えていた。彼女が何時、公衡(きんひら)と結ばれたのか、そして何時別れが近づいたのか、作者は知る由もなかった。

秋になったばかりのころ、彼女の悩みは更に強くなった様だったので、歌を送って慰めることにした。

秋来ては いとどいかにか しぐるらむ 色深げなる 人の言の葉

季節の秋と、男が女に飽きる、女が男に飽きられることが掛詞になっている。歌の行間を読んでみよう。

 

秋になりましたね。物悲しい季節ですし、男の人も飽きっぽくなるかもしれない。時雨に染められて、紅葉の葉は緑から深い赤に変わる。涙が尽きると赤い血の涙がこぼれると聞いている。あなたが深く嘆いている言葉を聞くと、元々涙で濡れていたあなたの袖が、男心の変化を嘆く紅涙によって、深い朱色に染まっているのではないかと心配である。

女は右京太夫に歌を返した。

   時わかぬ 袖のしぐれに 秋そひて いかばかりなる 色とかは知る

ご心配痛み入ります。 あの人とのお付き合いが始まってからというもの、春も夏も私の袖は時雨にあったかのように濡れていて、乾く間もない。そして本物の時雨の降る秋になった。私に飽きた事を隠さないあの人のつれなさに、私の袖がどんな色になっているかは、あなたのご想像に任せます。

 

右京太夫の様な女房達は、宮仕えをしているうちに、身分の高い貴族に言い寄られ、恋愛関係になる事がある。そうなると、自分が何時見捨てられるかもしれないという不安と直面する。作者は女房達の悲しい恋愛を、身近に見るに付け、自分はそうならないようにしたいと思うのであった。「右京太夫集」は次に、平重盛との思い出を書き記している。重盛は内大臣にまで昇進し、東山の小松谷に屋敷があったので、小松の大臣(おとど)と呼ばれる。

朗読② 小松殿の菊合

小松の大臣(おとど)菊合(きくあわせ)をしたまひしに、人に代りて

  移し植うる 宿のあるじも この花も ともに老いせぬ 秋ぞ重ねむ

 

 現代語訳・解説

この場面は解説を加えた現代語訳とする。

小松殿或いは小松の大臣(おとど)と呼ばれた平重盛様についても、忘れられない思い出がある。あの時、重盛様は菊合を催された。人々が左と右の二つのグル-プに分れ、それぞれ州浜(すはま)という台に菊を植えて出品し、その美しさの優劣を競う遊びである。菊の花にはおめでたい歌を結びつける。その歌を作って欲しいと依頼されたので、私がある参加者の代わりに詠んで差し上げた歌がある

  移し植うる 宿のあるじも この花も ともに老いせぬ 秋ぞ重ねむ

この素晴らしい菊は、菊合が終わった後も、この屋敷の庭に移し換えて下さい。菊の花は不老不死のシンボルなので、お屋敷の主人である重盛様も菊の力で永遠にお栄えになりますように。

 

菊の花のように長い寿命を祝われた重盛であったが、彼の一族を襲った歴史は過酷であった。重盛本人は42歳で亡くなる。重盛の長男、維盛は源頼朝や木曾義仲との戦いで総大将として挑んだが何度も破れ、30歳にならずに那智の沖で入水して命を終えた。重盛の二男、資盛は右京太夫の恋人であったが、25歳で、壇ノ浦で入水して亡くなる。

三男の清経は九州の柳浦で、これまた入水して果てる、21歳。維盛の長男 六代高清(平正盛から数えて直系の六代目)は幼くして切られた。「建礼門院右京太夫集」は歴史の荒波が打ち寄せる以前の、平家一門の華やかな日々も描いている。

 

重盛の思い出がもう一つ書かれている。内裏皇居の近くで火事が発生し、万一に備えて人々が警固している場面である。

迫りくる火事に立ち向かう重盛を描く、緊迫感に溢れた文章である。

朗読③ 内裏の火事

いづれの年やらむ。五節(ごせち)のほど内裏近き火の事ありて、すでにあぶなかりしかば、()殿(でん)(えう)輿()設けて、大将をはじめて衛府(えふ)の司のけしきども、心々におもしろく見えしに、大方(おほかた)の世の騒ぎも他にはかかることあらじと覚えしも、忘れがたし。宮は御手車(おてぐるま)にて、行啓あるべしと聞こえし。小松の大臣、大将にて、直衣に矢負ひて、中宮の御方へ参りたまへりしことがらなど、いみじう覚えき。

  雲の上は 燃ゆるけぶりに 立ち騒ぐ 人のけしきも 目にとまるかな

 解説

小松の大臣、大将にて、

重盛が大将、宮中の警固に当たる近衛府の長官だった時代である。

いづれの年やらむ。

正確な年は思い出せないと、ぼかして書いている。

五節(ごせち)のほど

但し、宮中で五節が行われる時期だったと明言している。これは11月新嘗祭の頃に、行われる行事である。

舞姫と呼ばれる少女が、舞を披露する華やかな行事である。

内裏近き火の事ありて、すでにあぶなかりしかば、

そんな時に、内裏のすぐ近くで火事があった。内裏にも延焼しそうな危険があった。

()殿(でん)(えう)輿()設けて

()殿(でん) は、紫宸殿である。高倉天皇が避難されるのに備えて、(えう)輿() 手で引く輿が用意された。

大将をはじめて衛府(えふ)の司のけしきども、心々におもしろく見えしに、

内裏の警備に当たる三つの衛府即ち左右の近衛府、左右の衛門府、左右の兵衛府に属する役人たちが総出で、突然の火事に対応した。その最高責任者である大将を筆頭として、三つの役所の人々の表情は、緊迫感に引き締まっていた。

職務を全うしようとしている様子が、右京太夫の目にとても立派に見えた。

大方(おほかた)の世の騒ぎも他にはかかることあらじと覚えしも、忘れがたし。

この時、右京太夫は世の中で今後、何が起ころうともこの火事程の、命に係わる緊急事態はないだろうと思った事が、忘れられなかった。実際には、それからこの火事騒ぎどころではない、大きな政治的混乱が立て続けに起き、平家一門は滅亡への道を突き進んだのである。

宮は御手車(おてぐるま)にて、行啓あるべしと聞こえし。

中宮様は手車にお乗りになって、内裏から外にお出ましになられるようだという、情報がもたらされた。避難する段取りが沈着冷静に整えられている。これを統括しているのが平重盛だった。

小松の大臣、大将にて、直衣に矢負ひて、中宮の御方へ参りたまへりしことがらなど、いみじう覚えき。

いみじ は程度が甚だしいというニュアンスがある。ここでは中宮の兄である重盛が、宮中を警固する武官に相応しく、直衣の上に弓矢を背負って、中宮の御座所にまで顔を見せた凛々しい姿に、右京太夫はとても素晴らしいと感動した。この後で右京太夫の歌が記されている。

  雲の上は 燃ゆるけぶりに 立ち騒ぐ 人のけしきも 目にとまるかな

内裏近くで発生した火事の焔が、雲の上まで立ち上っている。雲の上と言われる内裏の周りは、近づいてくる火事の焔に対処する為に、六衛府の武官たちが総動員されて、きりきりと動き回っている。統率の取れた彼らの行動も、てきぱきと指示している重盛殿の素晴らしさも、目に焼き付けられたことであった。

 

リアリティに富む文体で書かれている。ここには鴨長明が書いた「方丈記」とは異なる写実性が見られる。「方丈記」には、1177年に起きた安元の大火の描写がある。鴨長明はルポルタ-ジュを思わせる筆致で、災害のすさまじさを具体的な数字を挙げながら描写している。けれども右京太夫は、火事そのものではなく、迫りくる火事に備え、避難の準備をする宮廷人たちの様子を、具体的に描いている。

 

これから平家一門は、火事だけでなく各地で蜂起した源氏軍との戦いなど、数々の大動乱が起きる。平家一門の人々は、それらに適切に対処できたのだろうか。不運だったのは、平重盛の逝去が1179年だったことである。翌年1180年に源頼政が蜂起した。重盛がまだ生きていれば、歴史は変わったのだろうか。それとも王朝から中世へ、貴族の時代から武士の時代へという流れは誰にも押し留められない、歴史の必然だったのであろうか。

右京太夫はこの「右京太夫集」を書きながら、そのことを考えて続けているのだろう。

 

さて原文は読まないが「右京太夫集」には、平重盛の弟で重盛が亡くなった後で、平家一門をリーダ-として率いた平宗盛の思い出も書かれている。兄の重盛が左大将に任命され、右大将である弟の宗盛と並んで、天皇にお礼を申しあげたというエピソ-ドである。

「右京太夫集」には、平家の人々の輝かしい記憶が語られているからこそ、都落ち、一の谷、壇ノ浦と続く悲劇が、くっきりと浮かび上がる。光があるからこそ、影が深くなる。逆に言えば、悲劇が大きければ大きいほど、かつて幸福だった時代の楽しさが、いよいよ鮮やかに思い出されるのである。

 

右京太夫は又、平宗盛から素晴らしい細工で作られた櫛を貰った思い出も書いている。この時宗盛は櫛に付けて、なまめいた和歌を作っているので、右京太夫の相手として意識していたことが窺われる。多くの貴族たちは才色兼備の右京太夫との関係を願っていたのであろう。その中から右京太夫と深い仲となったのが、平資盛だった。少し前に公衡(きんひら)と交際していた女房仲間の話が書かれていた。高倉天皇と建礼門院の周りには、身分的にも教養的にも最高の、男性貴族たちがひしめいている。宮仕えをしている女房達は宮仕えをしている間に、顔を合わせて話ししなければならない。そこで彼らと関係を持つ女房達が出現するのは止むを得ないなりゆきである。けれども宮廷女房と関係を持つ男性貴族たちの側では、すでに正妻がいる場合が多い。だから貴族と愛人関係になった女房達は、愛人という扱いである。男の側の女への興味が失われると、女房達はいともやすやすと捨てられる。そういう女房達を身近に何人も見てきたのである。右京太夫は、宮廷貴族たちから持ち掛けられる色恋沙汰に対して、努めて無関心を装うことにしていた。

 

それでいよいよ作者と平資盛が結ばれた場面を読もう。意外なことだが、喜びは少なかったのである。

朗読④平資盛との交際

何となく、見聞くことに心うちやりて過ぐしつつ、なべてその人のやうにはあらじと思ひしを、朝夕、女どちのやうに交じりゐて見かはす人あまたありし中に、とりわきてとかく言ひしを、あるまじのことやと、人のことを見聞きても思ひしかも、契りとかやは逃れがたくて、思ひのほかに物思はしきこと添ひて、さまざま思ひ乱れしころ、里にて遥かに西の方をながめやる。

梢は、夕日の色沈みて、あはれなるに、またかき暗ししぐるるを見るにも

  夕日うつる 梢の色の しぐるるに 心もやがて かき暗すかな

  解説

資盛と結ばれる以前の作者の心と、結ばれた後の作者の心とが、どちらも印象深く語られている。心の変化を読んでみよう。

何となく、見聞くことに心うちやりて過ぐしつつ

作者は心を固く冷たく持って、男性貴族たちからの誘いを無視してやり過ごしてきた。

なべてその人のやうにはあらじと思ひしを

右京太夫はこれまで自分は普通の女たちの様には生きたくないと考えていた。自分は普通の女とは違う。普通に恋をして、普通に捨てられるのは真っ平だと思っていたのである。例えば「源氏物語」の朝顔の斎院は、六条御息所が光源氏から見捨てられたみじめな人生を見るにつけ、自分だけは光源氏と関係しないと決心して、それを実行している。

そういう風に右京太夫も身を処したかったのである。

朝夕、女どちのやうに交じりゐて見かはす人あまたありし中に、とりわきてとかく言ひしを

所が中宮にお仕えしていると、中宮の兄弟や一門の殿方たちが頻繁に顔を見せる。朝に昼に夕にと、かなりの頻度である。しかも中宮の身近な男たちばかりであるから、女房達の立場からすると注意しなければならない男性という、警戒心を持つこともなく対面し会話することになる。そういう貴公子達が何人もいた。その中に一人、とりわけ熱心に右京太夫を気に入って、事あるごとに親しくなりたいという意向を漏らす人が現れた。平資盛である。

あるまじのことやと、人のことを見聞きても思ひしかも、

右京太夫はその男性 平資盛と関係することはあってはならない事だ、きっぱりと断らねばならないと強く思っていた。男から簡単に捨てられる女房達を何人も見聞きしてきたからである。

契りとかやは逃れがたくて、思ひのほかに物思はしきこと添ひて、さまざま思ひ乱れしころ、

所が人間の運命は特に男と女の関係については、どうにも逃れられないものがあった。思ってもいない成り行きで、右京太夫は資盛という平家の公達と関係を持ってしまった。平清盛の長男である重盛の次男である。結ばれた後になって、彼女の心を苦しめることや、他人の思惑を心配しなくてはならないことが押し寄せてきた。

里にて遥かに西の方をながめやる。

心が混乱した右京太夫は、暫く宮仕えを休ませて貰い、里の家に戻って静かに暮らすことにした。

梢は、夕日の色沈みて、あはれなるに、またかき暗ししぐるるを見るにも

自宅に戻ってきた右京太夫の目に映った情景である。右京太夫はある日のこと、ふと西の方角をぼんやりと眺めていた。目に映ったのは木々の梢が夕日を受けて、落ち着いた雰囲気に染まっている光景であった。それを見ていると切ない気持ちなった。今は時雨の季節なので、晴れていた空が急に暗くなり、冷たい雨が降ってくるのを右京太夫は見るともなく見ていた。そして歌を詠んだ。初めて男の人との恋愛を体験したことで、右京太夫はこれまで何度も目にしてきた光景が、全く別のものに見えてきたのである。

  夕日うつる 梢の色の しぐるるに 心もやがて かき暗すかな

夕日を浴びて淋しい色ながらも、光っていた木々の梢があっという間に時雨に濡れている。その変化を見ていた私は、資盛に愛される自分が、すぐに捨てられて泣いている未来の見たかのように思い、心が真っ暗になるのであった。

 

作者は資盛と運命的な結ばれ方をしたのである。生まれる前から決まっていた、逃れようもない宿命としか考えようがなかった。因みに資盛は藤原基家(もといえ)、別名()明院(みょうい)基家という名門貴族の娘を妻としていた。なお三島由紀夫は17歳で書いた小説「「玉刻春(たまきはる)」の巻頭に、この

  夕日うつる 梢の色の しぐるるに 心もやがて かき暗すかな

という歌を掲げている。  

三島由紀夫は「建礼門院右京太夫集」を読んで、女性が初めて男性と交際して自分の心に起った微妙な変化に気付いたこの歌に、心がときめいたのである。人間は恋をすると心が変わっていく。人間を変えてしまう恋愛とは何なのか。その不思議を三島由紀夫は小説を書くことで、突き詰めて考えようとしたのである。さてこの様にして、作者は平資盛と結ばれた途端に、自分が捨てられる女、忘れられる女になるのではないかという、悪い予感に心が苦しめられ始めた。一つは秋である。別れは、季節の秋は男が女に飽きることと、掛詞で用いられるのが普通である。

 

右京太夫の秋の物思いは、先ず野原ではなく、むしろキリギリスに投影された。

朗読⑤

秋の暮れ、おましのあたりに鳴きしきりぎりすの、声なくなりて、他に聞こゆるに、

  床なるる 枕の下を ふり捨てて 秋をば慕ふ きりぎりすかな

 解説

おましのあたり

中宮である建礼門院の御座所の辺りという意味である。

きりぎりす

秋が深まるにつれて、鳴く場所を変えるとされる。きりぎりすを漢字で書くと、蟋蟀(しっしゅつ) である。私は高校生の頃、古文の時間に しっしゅつ のきりぎりす と何度も声を出して読むように先生から指導され記憶した。

この しっしゅつ のきりぎりすは、「平家物語」にも見える表現である。その古文の時間には、きりぎりす は、現在のコオロギのことであるとも教わった。きりぎりす は夏の頃は庭で鳴いているが、秋が深まり寒くなるにつれて、家に近づいて来て、しまいには部屋の中に入ってくるとされる。今は秋の終わりだから、きりぎりす は部屋の中まで入ってきているのである。所がふと気付いたら、建礼門院の御座所からいなくなって、別の部屋で鳴いていたというのである。これは平家一門として中宮の部屋に足繁く通ってきていた資盛が、右京太夫と顔を合わせたくない何らかの事情があって、寄り付かなくなり別の部屋の女性に通い始めた事の比喩表現なのかも知れない。やはり秋という季節に、男が女に飽きる事を重ねているのである。それでは きりぎりす が比喩あるという解釈にして、この場面を現代語訳する。

 現代語訳

資盛様と結ばれた私は、忘れられ捨てられる恐怖と、向かいあわなければならなくなった。晩秋に近付いた頃、私は宮仕えに戻った。ここ暫く宮様の御座所の辺りで、きりぎりす が鳴いていた。古代中国の詩経に 十月ひしひしと我が床の下にいる とあることや、蟋蟀(しっしゅつ)壁におる ということを、「源氏物語」の読書体験を通じて私は知っていた。

 

その きりぎりす がふと気付くと、中宮様の御座所からはいなくなっている。どこか別の部屋で鳴いているようだ。私はふとこの きりぎりす は資盛様に似ていると直感した。資盛様は最も心が落ちつくはずの宮様の部屋ではなく、別の所に出入りしては新しい恋の相手を探しているのだろうか。

   床なるる 枕の下を ふり捨てて 秋をば慕ふ きりぎりすかな

きりぎりすよ、住み慣れた御座所の枕の下にずっと留まって良いものに、何故お前はそこを離れて別の枕の下に移動し、秋の終わりを惜しんで鳴いているのか。資盛様には私の部屋にずっと居続けて欲しいのに。あちらこちら、別の女性の部屋に入り浸っている。私に飽きたのだろうか。

 

「源氏物語」の夕顔の巻や総角(あげまき)巻にも 壁の中のきりぎりす という表現が見られる。さて右京太夫は尾花を見ても物思いに沈む。尾花はすすきである。

朗読⑥

常よりも思ふことあるころ、尾花が袖の露けきをながめ出だして

  露のおく 尾花が袖を ながむれば たぐふ涙ぞ やがてこぼれる

  物思へ 嘆けとなれる ながめかな 頼めぬ秋の 夕暮れの空

 解説

常よりも思ふことある

資盛との関係が始まって以来、作者は心の休まる暇がない。無論それ以前から秋は物思いの季節だったが、資盛との恋が作者の物思いを一層深くしたのである。

尾花が袖の露けきをながめ出だして

ながめ出す は、部屋の中から外の庭を眺めることである。

尾花が袖の露けき 

尾花、すすきを擬人化して女性に例えている表現である。すすきの葉がに濡れているように、女の袖は恋故の涙で濡れている。作者は 尾花 を見ながら二首詠んだ。

一首目

  露のおく 尾花が袖を ながむれば たぐふ涙ぞ やがてこぼれる

たぐふ涙 この部分が歌の中心である。

たぐふ は、一緒にいる、似ているという意味である。 露 で濡れている 尾花 と、資盛との恋で悩んで泣いている自分が一つに重なって見えるのである。

二首目

  物思へ 嘆けとなれる ながめかな 頼めぬ秋の 夕暮れの空

物思へ 嘆けとなれる

この歌い出しは文法的には強引な言い回しである。それだけ作者の心が、やけっぱちになっているのだろう。

頼めぬ秋の 夕暮れの空

頼む は男が必ず訪れてくれると、女に期待させる理由があるというニュアンスである。ここでは頼めぬ だから、資盛が自分の部屋に来てくれるだろうとは全く期待できないという絶望感を詠っている。男の愛情も男の言葉もあてにはならないのである。この絶望感が歌の初句と第二句を、読者に思い出させる。

物思へ 嘆けとなれる ながめかな

秋の夕暮れに空を眺めていると、物思え・さあ悲しい思いに沈みなさい、嘆け と自然が作者に命令しているかのように感じられたのであろう。

 現代語訳

資盛様と深い中になってからはというもの、私の心の中から安らぎが消えうせた。その中でも特に私の心が乱れている時期があった。そんなある日の夕暮れ時に、部屋の中から庭を眺めると、そこには尾花、すすきが立っていた。尾花には秋の露がびっしり降りている。まるで女の人が袖を濡らして泣いているようだ。それが自分自身の姿であるように思われて歌を詠んだ。

  露のおく 尾花が袖を ながむれば たぐふ涙ぞ やがてこぼれる 

尾花、すすきの穂先には露が結んでいる。袖を振って男を招いても来てくれなかったのが悲しいのだろう。それは今の私とそっくりである。私も又 尾花 の仲間入りをして、露 ならぬ 涙 を袖にこぼしている。

私は庭のあちこちを見回したり、空を見上げたりした。全てが人を不安にさせるような雰囲気を漂わせていた。

  物思へ 嘆けとなれる ながめかな 頼めぬ秋の 夕暮れの空

今宵もあの人は訪ねて来てはくれないだろう。結ばれてすぐに、私に飽きかけているあの人は、全く当てにならない。そんな淋しい秋の夕暮れに一人で物思い続けていると、私が生きている世界のあらゆるものが私に向かって、さあ苦しめ、もっと嘆け、大声で泣けと強要している敵であるように思われた。

恋の始まりは、「建礼門院右京太夫集」の作者にとって、生きることの苦しみの始まりであった。

 

「コメント」

 

本文だけではとてもここまでの理解は出来ない。本当にそんなことが書いてあるのかとさえおもう。しかし講師の創造を入れての解説でよく理解できる。