231230⑥「別れの歌と、資盛追憶」

今日は「右京太夫集」から、親しい人との別れや、恋人である資盛を懐かしく思う場面を話す。まず大切な人と死別した知人を弔う歌から読む。

朗読① 作者から資盛へのお悔やみの歌

 (ぶく)になりたる人、とぶらふとて

あはれとも 思ひしらなむ 君ゆゑに よその嘆きの 露も深きを

 解説

(ぶく) とは喪に服しているとの意味である。誰が亡くなったのか、誰に弔いの歌を送ったのかは具体的には書いてない。ただしこの次に続く場面は、平の重盛の死去が話題になる。ここは平重盛が亡くなったので、その息子で作者の恋人でもある資盛に送った歌だろうと考えておく。そういう解釈に立って、訳しておく

亡くなった人の喪に服している人に、少しでもその悲しみを慰めようと思って、歌を送ったことがある。実は亡くなったのは、平重盛である。治承31179年の(うるう)7月であった。まだ42歳だった。私の恋人である資盛様は重盛様の次男である。どんなに力を落としているのだろうと思いやられたので、歌を送って慰めた。以前に私が風邪に罹った時、資盛様に励まされたことがあり、本当に嬉しかった。今度は私が資盛様を励ます番だと思った。

  あはれとも 思ひしらなむ 君ゆゑに よその嘆きの 露も深きを

あなたは今、あはれ という言葉の意味を深く噛みしめていらっしゃることでしょう。御父上を失くされたあはれ はどれ程大きなものでありましょう。けれど私もあなたと深い仲になり、あなたと心を一つにしています。ですから私の感じている あはれ も又、大きなものであると分かって下さい。重盛様の死を悲しんで、私も泣いています。あなたの悲しみを私も共有しています。作者は恋人の資盛と一体化しているのである。重盛の死去に関わる歌は次にも書かれている。

作者は重盛の北の方に、弔いの歌を二首送った。
それに対して北の方から二首返事があった。

朗読② 作者から重盛の北の方へのお悔やみの歌

 小松の大臣(おとど)失せたまひてのち、その北の方の(かど)へ、十月(かんなづき)ばかり聞こゆ。

  かき(くら)す 夜の雨にも 色変る 袖のしぐれの 思ひこそやれ

  とまるらむ 古き枕に塵はゐて 払はぬ床を 思ひこそやれ

 返し

  おとづるる しぐれは袖に あらそひて 泣く泣く明かす 夜半ぞかなしき

  磨きこし 玉の寝床に 塵積みて 古き枕を 見るぞかなしき

 解説

小松の大臣(おとど)  平重盛のことである。

その北の方の(かど) は、大納言であった藤原成親の妹である。成親は平家一門を倒そうとした、鹿ケ谷の陰謀の首謀者として備前国に流された。

十月(かんなづき)ばかり聞こゆ。 平重盛が亡くなったのは閏7月であった。3か月ほど経っている。和歌に込められた悲しみを読み取って現代語訳をする

 現代語訳

私の恋人である平資盛様の御父上である内大臣平重盛様がお亡くなりなったのは閏7月だった。初冬の十月に私は、重盛様の奥方様にお悔やみの歌を二首送った。なお奥方様は大納言藤原成親様の妹君であるが、資盛様の母親ではない。

一首目  かき(くら)す 夜の雨にも 色変る 袖のしぐれの 思ひこそやれ

白楽天の長恨歌に、楊貴妃を失った玄宗皇帝の悲しみが、 

  行宮(あんぐう)に月を見れば 心を痛ましむの色 ()()に鈴を聴けば (はらわた)を断つの聲 とある。

奥方様はさぞかし楊貴妃と死に分かれた玄宗皇帝の悲しみをご自分のこととして、感じておられることと思います。奥方様は夜の雨にひたすら亡き内大臣のことが思いだされ、涙を流し続けておられることでしょう。

白い涙が尽き果てると、赤い涙が流れ始めると言われています。奥方様の涙を受ける袖の色を、私は遠くから思いやっています。どうか気を強くお持ちください。

二首目  とまるらむ 古き枕に塵はゐて 払はぬ床を 思ひこそやれ

これも長恨歌であるが、楊貴妃を偲ぶ玄宗皇帝の悲しみが、

  鴛鴦(えんおう)の瓦 冷やかにして 霜の華重く (ふる)き枕 (ふる)(しとね) 誰と共にせん とある。

今は亡き重盛様の使っておられた枕は、そのままの状態で置かれている事でしょうが、使われないので塵が積もりつつあるかと存じます。それを払い除ける枕の主人・重盛様は既にこの世の人ではありません。私はそのことを深く悲しんでいます。奥方様からのご返事があった。

一首目  おとづるる しぐれは袖に あらそひて 泣く泣く明かす 夜半ぞかなしき

冬に入ったので冷たい時雨が、空から音を立てて降っている。私の袖にも涙の雨がずっと降り注ぎ、空から降る雨の量と、どちらの水量が多いか競い合っています。あなたからのお手紙で更に私の涙の量が増え、泣きながら夜を明かす夜半が悲しくてなりません。長恨歌の (ましら)の声 もさぞかし私の泣き声と似ている事でしょう。

二首目  磨きこし 玉の寝床に 塵積みて 古き枕を 見るぞかなしき

私はこれまで夫と共に過ごす寝床を、少しでも奇麗にしようと塵一つ枕に置いていない状態で保ってきた。今では一人で寝るしかない。夫の枕の上に頭を乗せる人はなく、塵が積もっている。そんな枕を見るのが悲しくてならない。男と女の立場が違いますが、一人生き残った玄宗皇帝の悲しみが、私には強く理解できます。

 

右京太夫は長恨歌を踏まえた歌を二首詠んで、愛する配偶者を失くした北の方を慰めていた。

長恨歌は「源氏物語」でも何度も引用されている。

桐壺帝が桐壺更衣と死別したり、光源氏が葵上と死別したりした場面である。どちらも愛する女性を失った男の悲しみがテーマである。それに対して右京太夫は、愛する夫を失った妻の孤独を長恨歌に託している。男女が逆転している。その点が面白い。

 

次には藤原成親の妻を弔う歌が書かれている。藤原成親は後白河院の近臣である。そして平重盛と深く姻戚関係を結んでいた。その成親が鹿ケ谷の山荘で、俊寛や平康頼たちと平家を倒す密談をしていたのが、密告によって露見したのである。俊寛、平康頼そして藤原成親の子の成経は、西の果ての鬼界が島に流される。首謀者の藤原成親は備前国に流された。作者は成親の妻に二首歌を送り、先方からも二首返事が返された。

朗読③ 鹿ケ谷の陰謀の首謀者 藤原成親の妻への弔いの歌

成親の大納言の、遠き所へ下られにしのち、院の京極殿の御もとへ

  いかばかり 枕の下も氷るらむ なべての袖も さゆるこのごろ

  旅衣 たち別れにし あとの袖 もろき涙の 露やひまなき

 返し    京極殿

  床の上も 袖も涙の つららにて 明かす思ひの やるかたもなし

  日に添へて 荒れゆく宿を 思ひやれ 人をしのぶの 露にやつれて

 現代語訳

大納言の藤原成親様と私とは、いささか所縁(ゆかり)のあるお方である。成親様の御妹は、私の恋人である平資盛の父である重盛様の奥方である。彼女との和歌の贈答はつい先ほど書き記した。そして成親様のご息女は重盛様の長男維盛様の奥方である。これほどまでに重盛様との深い絆を保っていた成親様が、こともあろうに清盛様をはじめとする平家一門の打倒を密談した鹿ケ谷の陰謀の首謀者として、治承元年 1177年6月に備前国に流された。

そして7月には配所で謀殺されるという悲劇になった。このことが重盛様にとっては大きな衝撃で、その死期を早めたのではないかと私は推察した。成親様の立場から考えると、後白河院と平家一門とのバランスを何とか保とうと、努力している内に後白河院の魔力に引かれて、本来考えていたのとは違う方向に突き進んでしまったのかと思う。成親様が配流先で非業の死を遂げたのは7月。その年の冬に入った頃、私は成親様の妻であった後白河院京極様にお悔やみの歌を届けた。

一首目  いかばかり 枕の下も氷るらむ なべての袖も さゆるこのごろ

私共の様な平凡な生活をしている者にとっても、袖の寒さが身に応える厳しい冬になりました。あなた様はご主人の悲運に直面されたのですから、どんなにか涙を絞られた事でしょう。今は冬ですから、涙は氷となってあなた様の枕の下で凍結している事でしょう。

二首目  旅衣 たち別れにし あとの袖 もろき涙の 露やひまなき

旅衣 たち別れにし

この部分に旅に立つことと、衣服を裁つということが掛詞である。遠く西の国に赴く為に大納言様が新しい旅衣をお作りになって旅立たれてから、お亡くなりになった今まで後に残されたあなたの着ておられる衣の袖は、涙の露が乾く暇もない程に落ち続けている事でしょう。

成親様の妻である京極様からご返事の歌が届いた。

一首目  床の上も 袖も涙の つららにて 明かす思ひの やるかたもなし

ご想像の通りです。私の着ている袖だけでなく、床の上までが私の涙で濡れてしまい、冬の寒さの為に凍ってつらら状になっています。そのつららに囲まれて眠られぬ夜を明かし、朝を迎える私の心は悶々鬱々として晴れることはありません。

二首目  日に添へて 荒れゆく宿を 思ひやれ 人をしのぶの 露にやつれて

人をしのぶの 露 の部分に偲ぶ草という意味の、偲ぶが掛詞になっている。夫が西の国に流され亡くなってから、主を失ったこの屋敷は荒れる一方です。夫を偲んで私が涙を流しているように、庭のしのぶ草には露が沢山降りています。大量の水による湿気で、屋敷はどんどん朽ち果てています。廃屋で暮らす私はやつれ果てています。その悲惨な状況にご同情下さい。

 

成親は配所で食物も与えられず、崖から突き落とされて殺されたと伝えられている。

 

ここからは右京太夫が帰らぬ資盛を懐かしく偲ぶ場面を幾つか読む。「建礼門院右京太夫集」は、古い出来事から新しい出来事へと時間軸に沿って書かれているけれども、時として時間軸が失われて執筆している時点で、すでに逝去していた恋人資盛の思い出が蘇ってくることがある。平重盛や藤原成親の死を弔う歌を書いている内に、自分にとって最も大切な亡き人である資盛の思い出が蘇ってきたのである。その場面を読む。

朗読④

雪の深く積もりたりしあした、里にて、荒れたる庭を見出して、「今日来む人を」とながめつつ、薄柳の(きぬ)紅梅の薄(きぬ)など着てゐたりしに、枯野の織物の(かり)(ぎぬ)蘇芳(すおう)(きぬ)、紫の織物の指貫着て、ただひき開けて入り来りし人の面影、わが有様には似ず、いとなまめかしく見えしなど、常は忘れがたく覚えて、年月多く積もりぬれど、心には近きも、かへすがへすむつかし。

  年月の 積もりはてても その折の 雪のあしたは なほぞ恋しき

 解説

今回は省略したがこの文章の直前で、「右京太夫集」は人間が死んだ後の世界、即ち極楽往生して仏の国に迎えられるか、成仏できずに六道を輪廻転生し続けるかということを話題にしている。書きながらふと作者の心に、平資盛の面影が蘇ってきたのである。彼は武士で戦いを運命づけられている。自分の命を守る為に、敵の命を奪う宿命である。その為、今仏の国に往生出来ているかどうかは定かではない。それでは作者の心に蘇った資盛の姿を読む。

雪の深く積もりたりしあした

それは雪が高く降り積もった冬の日の朝であった。平家一門が都落ちする以前の全盛期である。

里にて、荒れたる庭を見出して、

作者は御所から下って実家に滞在していた。手入れが行き届かないこともあり、冬枯れの庭は荒涼たる光景であった。作者は淋しい気持ちで、ぼんやり部屋の中から庭の景色を眺めていた。

「今日来む人を」とながめつつ、

作者は雪景色を見ている内に、「拾遺和歌集」の和歌を思い出した。

  山里は 雪降りつみて 道もなし 今日来む人を あはれとは見む  平兼盛

雪に閉ざされて道の見えない中、自分に逢うためにやってきてくれる人を私は愛しいと思うという歌である。

清少納言の「枕草子」にも、中宮定子が兄の藤原伊周(これちか)とこの歌を話題として、雪の日に会話を交わしている場面がある。

薄柳の(きぬ)紅梅の薄(きぬ)など着てゐたりしに

その雪の日に作者が着ていた衣装である。雪一色の中では全く映えない色合いである。けれどもその時、道を踏み分けて道なき道をやってきた人がいた。資盛である。

枯野の織物の(かり)(ぎぬ)蘇芳(すおう)(きぬ)、紫の織物の指貫着て

その時の資盛の衣装である。颯爽と現れた。

ただひき開けて入り来りし人の面影、わが有様には似ず、いとなまめかしく見えしなど、常は忘れがたく覚えて

作者の部屋に突然資盛が現れた。自ら引き戸を開けて、部屋に入ってきた。資盛の姿を一目見た瞬間に、作者は自分の冴えない色合いの着こなしとは似ても似つかぬとても若々しく華やかだと感嘆したのである。

年月多く積もりぬれど、心には近きも、かへすがへすむつかし

その時の憧れにも似た資盛への感情が、それから何度も作者の記憶の中で蘇り続けた。

雪の日の訪れから長い年月が過ぎ、資盛の運命も激動し、壇ノ浦で悲しい最期を遂げた。

けれども作者の心の中で、資盛は今もなお作者のそばで手を伸ばせば届く所で、生き続けているように思えるのである。そういう錯覚が、悲しい現実を受け止められない作者の良くない性格を示しているようで、我ながら嫌になるというのである。

最後に作者の歌が置かれている。

  年月の 積もりはてても その折の 雪のあしたは なほぞ恋しき

歳月が幾ら積み重なっても、雪が高く降り積もった中を、私を訪ねてくれたあの人の朝の爽やかな姿が、
今もなお恋しくてならない。平資盛はこの場面で言葉を口にしない。和歌も詠んでいない。けれども右京太夫の心の中では、その後何十年も資盛の姿が永遠の若さを保ったままで、輝き続けている。若くして命を終えた資盛は、永遠の若さと美貌を右京太夫の心の中に留めた。

 

資盛を偲ぶ思い出はもう一つ書かれている。私が「建礼門院右京太夫集」の中で好きな場面である。

朗読⑤山里での朝顔の話

山里なる所にありし折、艶なる有明に起き出でて、前近き(すい)(がい)に咲きたりし朝顔を、「ただ時の間の盛りこそあはれなれ」とて見しことも、ただ今の心地するを、「人をも花はげにさこそ思ひけめ、なべてはかなき(ためし)にあらざりける」など、思ひ続けらるることのみさまざまなり。

  身の上を げに知らでこそ 朝顔の 花をほどなき ものといひけめ

  有明の 月に朝顔 見し折も 忘れがたきを いかで忘れむ

 解説

朝顔の思い出である。

山里なる所にありし折

もう一つ作者がどうしても忘れることのできない資盛の姿があった。それは作者が山里に滞在していた時のことである。

なる有明に起き出でて、

何気ない文章であるが、艶 は男女の官能的な愛を表す言葉である。山里に作者を資盛が訪ねて来てくれた。心行くまで二人で語り合った。そんななまめかしい状況を引きずったまま、有明の時を過ごした。二人は庭の景色を寝床で一緒に眺めた。

前近き(すい)(がい)咲きたりし朝顔を、「ただ時の間の盛りこそあはれなれ」とて見しことも、ただ今の心地するを、

二人で庭を見ると、部屋のすぐ前の(すい)(がい) に朝顔がツルを絡ませて咲いているのが目に入った。その時二人で、
この朝顔はお日様が高く昇ったら、すぐにしぼんでしまうのだね。朝顔は儚い花です。それに対して私たちの愛は永遠ですよね などと話し合いながら、朝顔の花を哀れんだことが、つい昨日のような気がするというのである。二人は自分たちの愛情も命も永遠だと思い込んでいた。だから太陽の光を浴びたら、しぼんでしまう朝顔の花を可哀想だと思ったのである。現実は人間の方が、先に命を終えてしまった。それから間もなく資盛は都落ちし壇ノ浦で戦死する。

「人をも花はげにさこそ思ひけめ、なべてはかなき(ためし)にあらざりける」など、思ひ続けらるることのみさまざまなり。この部分は作者の心に寄り添い、一人称で訳す。

今、私がその有明のことを思い出すと、私たち二人からあわれに思われた朝顔の方では、私達を見ながら私達を哀れんでいた事でしょう。あなたたちも私達と同じですよね。いや私達よりももっと儚いのが、あなたたち人間の命ですよと、朝顔は思っていたのではないか。資盛様をはじめとする平家の一門を襲った運命の過酷さや、資盛を愛した私の体験した人生の儚さは、人間の長い歴史にも滅多にあるものではなかった。そのように私は悲しく思わずにはいられない。そして私は更に深い嘆きのそこへと引き摺りこまれていく。

 

「拾遺和歌集」に

  朝顔を 何はかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそ見るらむ  藤原道信

という歌がある。23歳で死去。小倉百人一首には、藤原道信の

  明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな

という歌が選ばれている。

 

右京太夫は朝顔の花と資盛の姿を重ねただけでなく、23歳で死去した藤原道信とを重ねてイメージしていたのであろう。資盛には道信の様な和歌の才能はなかったが、代わりに資盛を愛する右京太夫が資盛になり変わって、
心に滲みる歌を詠み続けている。作者の歌は二首ある。

  身の上を げに知らでこそ 朝顔の 花をほどなき ものといひけめ

私達は自分たちにこれから起きる悲惨な出来事を、全く予想できなかったのだから、朝顔の花を短い命の儚い花などと言えたのだろう。

  有明の 月に朝顔 見し折も 忘れがたきを いかで忘れむ

有明の月の下で、資盛様と二人で朝顔の花を眺めた山里の朝を、私は今でも忘れることは出来ない。どうして忘れられようか。

 

さて「右京太夫集」は再び資盛がまだ生きていた時代の思い出に戻る。作者が生きている資盛との関係に苦悩する場面を読む。

朗読⑥ 資盛思い出す夕べ

人の心の思ふやうにもなかりしかば、「すべて、知られず知らぬ昔になしはててあらむ」など思ひしころ、

  常よりも 面影に立つ 夕べかな 今や限りと 思ひなるにも

  よしさらば さてやまばやと 思ふより 心弱さのまたまさるかな

 現代語訳

ここには西行の歌が踏まえられている。それを織り込んだ現代語訳をする。

資盛様との恋の思い出は、兎に角苦しかったという記憶ばかりである。結ばれてから少し経つと、あの人は足繁く通ってきてくれなくなった。私は今宵は来てくれるだろうという期待が裏切られ続けたので、到頭あの人が私を知らず、私もあの人を知らないでいた昔に帰りたいと思ったことがあった。西行法師の

  疎くなる 人を何とて 恨むらむ 知られず知らぬ 折もありしに 新古今和歌集

という歌の通りである。だがあの人のことを忘れてしまうのは困難であった。そのことを詠んだその頃の私の歌がある。

  常よりも 面影に立つ 夕べかな 今や限りと 思ひなるにも

資盛様との関係を解消し、もう二度と逢うことはないと心に深く決心した日に限って、あの人が稀に訪れることが何度かあった、だから淋しい夕方になるとあの人の面影が、何度も私の心に浮かび上がってくるのだった。

  よしさらば さてやまばやと 思ふより 心弱さのまたまさるかな

えいままよ、こんな宙ぶらりんな関係がこれからも続くのならば、今の段階であの人との関係を断ち切ってしまおうなどと強く思い切った次の瞬間には、早くも私に断ち切れるかしら、来てくれたら逢ってしまうだろうなどと気弱なことを考えてしまう私なのだった。

西行の歌が印象的であった。自分があの人を知らず、あの人の方でも私という人間の存在を知らなかった昔に帰りたい。そうすれば今のように恋人の心変わりを恨むことはないのだから。

 

次に寝床の枕に寄せて、資盛との恋の苦しみを詠う場面を読む。

朗読⑦

いと久しくおとづれざりしころ、夜深く寝覚めて、とかく物を思ふ、覚えず涙やこぼれにけむ、つとめて見れば、

(はなだ)薄様の枕のことのほかにかへりたれば、

  移り香も 落つる涙に すすがれて 形見にすべき 色だにもなし

 解説

枕の上に和紙をしくことがある。枕紙である。木枕の上に布で作った小さな枕を乗せて寝る。小枕である。その小枕の汚れを防ぐために、紙で覆うのが枕紙である。資盛の訪れが途絶えていた時期があった。そんな朝、作者ははっと気付いた。作者が枕の上に被せていた(はなだ)色、薄い藍色の紙が作者の涙で滲み、色があせていた

この場面を作者の心に寄り添って訳す。

 現代語訳

資盛様の訪れが暫く絶えていた頃があった。私には眠れない夜が続いていた。ある晩、夜が更けてから目が覚めた。寝付けないまま、様々な事を思い悩むのだった。自分では自覚はないのだけど、無意識のうちに涙がこぼれていたのだろう。翌朝起きてから、自分の枕元を見て驚いた。枕紙として縹色の薄い紙を使っていたが、色があせ易い縹が私の涙で滲み、色あせていた。こんなことは想像もしていなかった。枕紙が変色することも、
私がここまで涙を流せる女であったことも。

  移り香も 落つる涙に すすがれて 形見にすべき 色だにもなし

あの人の最後の訪れからだいぶ時が経ったので、この枕にはあの人の髪から移った残り香が僅かしか残っていない。それすら私の涙で消えうせた。それに枕を包んでいた縹色の紙も涙で滲んで色あせてしまった。もうあの人を偲ぶよすがは何も残っていない。

縹の色は、つゆ草で染める。すぐに色あせることから、男の愛の移り気の象徴とされた。中でも「源氏物語」の宇治十帖に登場する匂宮は、つゆ草の仇なる心の持ち主だと批判されている。所がここでは、女の涙で縹の色が変色する。色が薄れることが歌に詠まれている。珍しい趣向である。

 

「コメント」

 

資盛が若くして戦死するのでこういう思い出となっているが、そうでなければどういう「建礼門院右京集」となっていただろうか。