240113⑧「藤原隆信との恋始まる」

今日は資盛以外の男性と恋愛関係になり、深刻な場面である。作者は二人の男性との間で、物語的な三角関係に陥ったのである。資盛の訪れは途絶え勝ちであった。そうする間に別の男性が入り込んできた。

 藤原隆信

新しい恋人の名前は藤原隆信である。母は、鳥羽天皇の皇后である美福門院に加賀という女房名で仕えたので、美福門院加賀という。最初の夫である藤原為常との間に、隆信を産んだが夫は出家した。その後、歌人として著名な藤原俊成に隆信を連れて再婚。そして中世文学を代表する定家を産んだ。隆信は藤原定家から見て、異腹兄にあたる。隆信は文学と芸術の才能に恵まれていた。文学面では(いや)世継(よつぎ)」という歴史物語を書いたという伝承がある。現存しない。歴史物語には()(きょう)と呼ばれる作品群がある。「水鏡」「大鏡」「今鏡」「増鏡」。この四鏡の空白期間がある。それを埋めたのが「(いや)世継(よつぎ)」で、藤原隆信が書いたとされるのである。また隆信は肖像画の名手であった。神護寺に所蔵されている源頼朝像は歴史の教科書に載り有名であるが、長く藤原隆信の作と伝えられてきた。現在はこの絵の作者は別の人で、肖像画に描かれているのも源頼朝ではないという説が出ている。この様に藤原隆信は一流の文化人であった。

 

「建礼門院右京太夫集」は、平家の公達である平資盛との恋愛が、最大のテーマである。けれども資盛本人が詠んだ和歌は、それほど優れていない。一方隆信は右京太夫と、丁々発止と歌のやり取りをしている。右京太夫は資盛への愛が心の拠り所である。けれども資盛には芸術的な素養が不足していた。資盛に不足しているものが、隆信にはあった。そこに隆信の男としての魅力がある。作者が始めて隆信に出合った場面である。

朗読1 初めての歌の贈答

そのかみ、思ひかけぬ所にて、世人(よひと)よりも色好むと聞く人、よしある尼と物語しつつ、世も更けぬるに、近く人のけはひのしるかりけるに、ころは卯月の十日なりけるに、「月の光もほのぼのにて、景色見えじ」など言ひて、人に伝へて、その男はなにがしの宰相中将とぞ。

  思ひ分く かたもなぎさに 寄る波の いとかく袖を 濡らすべしやは

 と申したりし返し

  思ひ分かで 何となぎさの 波ならば 濡るらむ袖の ゆゑもあらじを

  藻塩汲む 海人の袖にぞ 沖つ波 心を寄せて くだくとは見し

 又返し

君にのみ 分きて心の よる波は 海人の磯屋に 立ちも止まらず

 解説

そのかみ 今は昔という時間設定である。作者は思いがけない所で、世人(よひと)よりも色好むと聞く人 と云う人と会った

彼は恋愛経験豊富で色好みだという評判であった。

よしある尼と物語しつつ、世も更けぬるに

その男は尼と、夜通し心に滲みる世間話をしていた。右京太夫もその場に居合わせた。すだれの内側には、尼君と作者。外側には隆信という位置関係である。

近く人のけはひのしるかりけるに

作者は自分の存在を、好色な男に気付かれないようにと努めていたが、直ぐ外にいる隆信には作者の存在は分かっていた。

ころは卯月の十日なりけるに、

4月10日であった。賀茂の祭の直前である。そこから隆信と作者の歌のやり取りが交わされた。

歌の解釈は現代語訳する

私はこれまで資盛様との関係の始まりを、思い出していたのには訳がある。その後私は資盛様意外の男性との深い関りを持つになったからである。これも又私の辛い部分であった。その男との関係の始まりを思い出してみよう。私が二人の男性を意識したのは、ほぼ同じ時期であった。時は昔ということにしておく。こんな場所で男女の出会いがあろうとは、全く予想もないある所が舞台である。世間一般の男より、は色を好んでいると噂される男がいた。名前を藤原隆信という。

彼の母親は鳥羽上皇の皇后である美福門院に、加賀という名で宮仕えしていた女房である。彼の父親は藤原為経である。出家して寂超(じゃくちょう)と名乗り、大原に隠棲。二人の弟と共に大原の三寂と称された。後に母親は歌人として名高い藤原俊成様と結ばれ、これまた歌人として名高い定家様を生んだ。だから隆信と定家は異父兄弟である。私は親の代から何かと俊成様とは親しくお付き合いしてきた。その時の俊成様とゆかりのある尼君と会うために出掛けた。そこに俊成様にゆかりの隆信様も来ていたのである。隆信様は色好みであるという世間の噂とは裏腹に、しみじみとした風流なる話を尼君と話していた。その内、夜が更けてきた。私はすだれの内側で息を殺し、すだれの外側にいる隆信に、ここにいることを察知されないようにしたのだが、やはり私のいる気配をはっきりと感じ取ったのだろう。確か4月10日で、月はまだ明るくなかった。隆信は、今宵の月は満月には遠くぼんやりとしているので、すだれ越しにどなたかいらっしゃるのは分かるのですが、はっきりとは見えません。残念ですと言った

後日、彼は人を介して私に歌を送ってきた。あの時には私が誰であるかはっきり分からなかったものの、私が会っていた尼君を通して私の素性を知ったのだろう。なんでも彼は宰相中将であるらしかった。世間では肖像画の名手として知られているという。彼の歌は内容から考えて、求愛の歌だった。

  思ひ分く かたもなぎさに 寄る波の いとかく袖を 濡らすべしやは

かたもなぎさ は、するべき方法が無い、海の干潟がない との掛詞である。私はどこのどなたかであるか、全く見当もつかない。けれどもあの夜の、あなたのなまめかしい雰囲気に心が引かれ、私の袖は恋故の涙でびっしょり濡れています。それはまるで沖から寄せてくる波が、自分が何処の潟や渚によるのかという目的地を知らぬままに寄せ掛り、海人の袖を濡らすようなものである。

私はとりあえず、次のように返事しておいた。この返事をしてしまったことを、その後何度悔やんだことか。

  思ひ分かで 何となぎさの 波ならば 濡るらむ袖の ゆゑもあらじを

どこの誰か分からない女の人に、これという理由もなしに恋心を燃やして泣くなんて、とても不思議な事である。どこの渚に寄せて良いかもわからない波に、海人が袖を濡らすことはないでしょう。もう一首の私の歌は、海で仕事をする海人に、私が会っていた尼を重ねて詠んだものである。

  藻塩汲む 海人の袖にぞ 沖つ波 心を寄せて くだくとは見し

あなたは私ではなくて、私があの日お会いしていた尼君が本命で、彼女に対して好意を寄せていらっしゃるのでしょう。沖から打ち寄せる波が、海水をくみ取っている海人に打ち当たってその袖を濡らしています。

隆信様からの返事があった。

  君にのみ 分きて心の よる波は 海人の磯屋に 立ちも止まらず

いえいえ、私の本命はあなたです。尼君ではありません。沖から寄せる波が、尼が住んでいる家に立ち寄らないように、私は尼君に心を寄せてはいません。

 

ここでは「右京太夫集」に新しい人物が登場した。作者と資盛との二人だけの純愛に浸りたい作者にとっては、余計な邪魔者である。作者は隆信から送られた和歌に返事をした。同じ土俵に乗ったのである。そうなると、男からは矢継ぎ早に歌が送られてくる。もはやそれを断ることは出来ない。

隆信は右京太夫が平資盛と交際していることは知っている。自分の恋に熱心な男は、他の男の恋の事情にも精通しているのである。そして資盛を羨むのである。

朗読② 隆信は作者の資盛との事を聞きつけて、羨ましいと言ってきた。

そぞろきぐさなりしをついでにて、まことしく申しわたりしかど、「世の常の有様は、すべてあらじ」とのみ思ひしかば、心強くて過ぎしを、この思ひの外なることを、はやいとよう聞きけり。さて、そのよしほのめかして、

  うらやまし いかなる風の なさけにて 焚く藻のけぶり うちなびきけむ

 返し

  消えぬべき けぶりの末は 浦風に なびきもせずて たたよふものを 

 解説

作者は隆信との手紙のやり取りを、遊びだと思っていた。しかし相手は本気のようであった。

作者は 「世の常の有様は、すべてあらじ」  世間にあるようには一切なるまい と強く思い続けていた。簡単に男と関係すれば、簡単に捨てられてしまう。その実例を何人も見てきた。

心強くて過ぎしを

だから作者は隆信だけでなく、全ての男性からの求愛を拒み続けた。

この思ひの外なることを、はやいとよう聞きけり

所が、作者が思ってもみない成り行きで、資盛と結ばれた。そのことを隆信は知っていた。作者が資盛との仲を、誰にも秘密にしたにも関わらず。そして隆信は作者に資盛と付き合っているようだから、自分とも付き合ってくれても良いでしょうと言い寄ってきた。

この後の歌のやり取りは現代語訳をする。

  うらやまし いかなる風の なさけにて 焚く藻のけぶり うちなびきけむ

今書き記したような何ということの無い歌のやりとりが始まりとなって、隆信から手紙が増えた。しかも相手は本気になっていくようである。けれども私は世の中の全ての男性に対して、自分は普通の女のようには、男から言い寄られても、靡くことはしたくないと思い詰めていた。無論、隆信からどんなに強く会いたいと迫られても、応じないでいた。但しその頃、私が全く予想のしなかった成り行きで資盛と深い仲になったという情報を、隆信はすぐに入手していた。隆信は、あなたはどんな男にも靡かないと口癖のように言っているが、資盛との仲を聞いていますと、仄めかしてあてこすった歌をよこした。

海人が焚いている煙はまっすぐ空に登っていると思っていると、風に靡いて思いもしなかった方向へ流れて行く。あなたも自分はどんな男の人にも靡かない積りだと強がっていたが、私はあなたがある男性に靡いたという情報を得たのですよ。どんな男の強い愛情があなたの固い心を溶かしたのでしょう。私は精一杯強がって返事をした。

  消えぬべき けぶりの末は 浦風に なびきもせずて たたよふものを 

いえいえ、煙は風に靡いたのではない。空高く立ち上った煙は漂いながら、少しずつ消えて行く。私も煙と同じ様に殿方には靡くことはなく、このままこの世から消えていきたいのです。

 

自分が先に交際していた女性が、後から他の男と交際をしていることを知って恨むのはよくある事である。けれども隆信は自分が交際してもいない女性が心を交わした男がいるという事実を批判しているのである。この図々しいというか、憎めない大らかさは、宇治十帖の匂宮のキャラクタ-である。さて作者は隆信からの求愛を拒み続けたが、とうとう二人の関係は成立してしまった。

朗読③ 

かようにて、何事もさてあらで、かへすがへすくやしきことを思ひしころ

  越えぬれば くやしかりける 逢坂を 何ゆゑにかは 踏みはじめけむ

 解説

この場面には難しい言葉はない。

逢坂

男の人と逢う、結ばれることが掛詞になっている。

踏みはじめけむ

道を歩き始めるという意味の 踏み に、手紙 文 を交わし始めたことが掛詞になっている。

 現代語訳

さてこのように一月ほど、隆信からの求愛をはね返し続けたが、いつまでもそういう訳はいかなくなった。隆信と結ばれた後、何度もそのことを後悔したがどうしようもなかった。その気持ちを詠んだ歌が残っている。

越えぬれば くやしかりける 逢坂を 何ゆゑにかは 踏みはじめけむ

あれ程あの人とは深い仲にはなるまいと固く心に誓っていたのに、逢坂の関を越えられてしまった。都から東に向かう旅人は、旅の第一歩を踏み出さないと逢坂の関を越えられない。男女の仲は文 手紙を交わさない事には、関係は成立しない。4月10日あの人からの歌をつけた手紙に、どうして私は返事など返したのだろうか。

 

この場面には、初めて関係が成立した直後の女性側の思いが歌われている。この様にして隆信との恋が始まった。右京太夫は、隆信が手配した牛車に載って、隆信の屋敷に行き夜を共にする。

朗読④

車おこせつつ、人のもとへ行きなどせしに、「主強く定まるへし」など聞きしころ、なれぬる枕に、硯の見えしを引き寄せて、書き付くる。

  誰が香に 思ひ移ると 忘れなよ 夜な夜ななれし 枕ばかりは

「帰りてのち、見付けたりける」
とて、やがてあれより、

  心にも 袖にもとまる 移り香を 枕にのみや 契りおくべき

 解説

女が車に乗って男の家に行くのは、「和泉式部日記」でも書かれている。右京太夫が隆信に引かれているのは、確かなようである。

「主強く定まるへし」

右京太夫が交際を始めた隆信に、正妻が決まりそうだという噂が立った。右京太夫ではない。右京太夫は隆信と夜を過ごす時に使っていた枕に歌を書き付けて、男の本音をそれとなく尋ねたのであった。それでは右京太夫の隆信に対する思いを読み取る。一度結ばれた後は、私はもう強気な態度には出られなくなった。隆信が私のもとに牛車を寄越すことが何度もあったが、私はその都度、車に乗ってあの人の屋敷に向かった。その内隆信には正妻が決まるだろうという噂が立った。あの人は既に37歳くらいのはずだから、これまで正妻が決まっていなかったというのも、いかに彼が色好みであったかを物語っている。手元に丁度、硯が見えたので引き寄せて筆をとり、枕を包んでいる枕紙に歌を書き付けた。

  誰が香に 思ひ移ると 忘れなよ 夜な夜ななれし 枕ばかりは

この家の主人が華やかな香りのする別の女性に心を移すようなことがあれば、私はもう屋敷に来てこの枕を使うこともないでしょう。そうなったとしても、私の頭を何度も乗せてくれた枕よ、華やかではない控え目な香りの私という女の事を忘れないで下さい。

隆信から、あなたが帰られてから、あなたが使っていた枕の紙に書かれていた歌に気付いたと言って返事が来た。

  心にも 袖にもとまる 移り香を 枕にのみや 契りおくべき

あなたの魅力的な香りは、私の心を陶酔感で満たし、私の心から溢れて袖にも移っている。いつまでもあなたの香りを忘れることは出来ない。あなたは枕に向かって、忘れないでと言われたが、この私に直接言って欲しかった。そうすれば

いつまでも変わらない、愛の約束を交わせたはずである。

 

隆信の歌は勅撰和歌集である「玉葉和歌集」では、作者名が資盛となっている。だが、「建礼門院右京太夫集」の中では明らかに隆信の歌である。右京太夫と大人同士の言葉の応酬が出来たのは、隆信しかいない。作者は隆信の事が嫌いではない。それどころか隆信の魅力に引き込まれている。次もそのような場面である。

朗読⑤

同じ夜床にて、ほととぎすを聞きたりしに、ひとり寝覚めに、又変わらぬ声にて過ぎしを、そのつとめて、文のありしついでに

  もろともに こと語らひし あけぼのに 変らざりつる ほととぎすかな

 返しに「我しも思ひ出づるを」など、さしもあらじと覚ゆることどもを言ひて、

  思ひ出でて 寝覚めし床の あはれをも 行きて告げける ほととぎすかな

 解説

右京太夫は積極的に隆信と交際している。右京太夫は隆信という男に対して、肉感的にひきつけられているようである。資盛に対してはプラトニックというか、憧れの様な感情であろう。

資盛が薫で、隆信が匂宮に対応すると考える所以である。この場面を右京太夫の心に寄り添って訳す。

 現代語訳

夏になった。隆信と二人で夜を過ごしている床の中で、ほととぎすの声を聞いたことがあった。その後どうやら隆信に正妻が本決まりになったようだ。私は一人で寝る夜が多くなった。ある夜、ほととぎすの鳴くのが聞こえた。ふたりで寝ていた時に聞いた鳴き声と、全く同じだった。鳥の声は変わらないのに、あの人の心も私たち二人を取り巻く環境も大きく変わってしまった。

翌朝あの人から一緒に夜を過ごせなかったお詫びの手紙が届いた。その返事を書いた序に、ほととぎすに託して男心の変化をなじる歌を詠み送った。

  もろともに こと語らひし あけぼのに 変らざりつる ほととぎすかな

二人で耳にしたほととぎすの鳴き声が、私一人で過ごす夜にも聞こえた。同じ声だった。でもあなたは変わってしまった。隆信からの返事は、いやいや私の方があなたの事をひどく恋しく、思い出していたのだなどと、とても本当ではあるまいと思える様な明らかな嘘を言ってきた。弁解の歌も書き付けてあった。

  思ひ出でて 寝覚めし床の あはれをも 行きて告げける ほととぎすかな

あなたが聞いた時鳥の声は、私の心の叫びなのです。私はあなたの事を思い、一人で夜を過ごしていました。

あなた以外の女性と一緒にはいなかったから、安心してください。私の心の悲しみがほととぎすにも伝わって、あなたの家の近くで私の泣き声を真似て鳴いたのでしょう。

 

隆信が右京太夫の怒りを宥める言葉の応用である。右京太夫と隆信はユーモラスな和歌の贈答をしているのである。

しかも「古今和歌集」の和歌や、中国の古典を踏まえて知的なやり取りである。

朗読⑥

またしばし音せで、文のこまごまとありし返しに、などやらむ、いたく心の乱れて、ただ見へしたちばなを、一枝包みてやりたるに、「えこそ心えね」とて、

  昔思ふ にほひか何ぞ 小車に 入れしたぐひの 我が身ならぬに

 返し

  わびつつは 重ねし袖の 移り香に 思ひよそへて 折りしたちばな

 解説

橘に寄せて大人の男と女が知的な会話を楽しんでいる。こういう会話は平資盛には出来ない。隆信の面目躍如たるものがある。橘の枝から隆信と右京太夫は、それぞれどのような古典を連想したのであろうか。現代語訳をする。

 現代語訳

それから暫く隆信との逢瀬は絶えていた。久し振りに彼から私への情愛溢れる手紙が届いた。私は心の奥底では嬉しかったのだが、返事を書く時にはどうした訳か、反発心が湧き上がってきた。ふと庭を見ると夏の事だったので、橘の花が咲いているのが目についた。それで私はその一枝を折り取って、紙に包んで彼に送り届けた。「古今和歌集」の

  さつき待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする  詠み人知らず

という名歌を踏まえ隆信に、昔付き合っていて今は離れている女性の存在を思い出しなさいと揶揄したのである。隆信は私の歌の寓意をすぐに気付いたはずだが、これは一体どういうつもりですか、私にはさっぱり分からないのですがと、とぼけた返事をしてきた。あまつさえ、自分を絶世の美男子に例えた歌を送ってきた。この男はとんでもない自信家のようである。

  昔思ふ にほひか何ぞ 小車に 入れしたぐひの 我が身ならぬに

この橘にはどういう意味が込められているのだろうか。私が思いつくのは二つしかありません。一つは「古今和歌集」
の 
さつき待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする という歌である。あなたが私の事を懐かしく偲んでいるのはいいのだが、それだと私はあなたにとって過去の恋人になってしまうので、あなたの寓意はこの歌には無いと思う。もう一つ思いつくのは、中国の伝説的美男子である藩安(はんあん)(じん)のエピソ-ドであるが、「私は彼ほど美形ではありません。あなたの寄越した橘の謎が、私にはどうにも読み解けません。」

昔、中国に藩安(はんあん)(じん)という絶世の美男子がいた。彼は美貌の持ち主だから、女たちが彼の乗った車に向かって、橘や果物を投げ入れたので、それで車は果物で溢れたと言われている。そんな美男子に私が隆信を例えるはずはない。

それで私が送った歌

  わびつつは 重ねし袖の 移り香に 思ひよそへて 折りしたちばな

仰る通り、私が橘の花に託した寓意は、藩安(はんあん)(じん)ではないのでご安心ください。「古今和歌集」の方です。あなたと袖を交わして夜を過ごした翌朝は、私の袖にあなたの移り香が染みついたものであった。今はあなたとの逢瀬は殆ど無くなったので、移り香はありません。けれども橘を見ると、昔の人の袖の香を連想するので、それになぞらえて橘の一枝を送った次第です。

 

中国の藩安(はんあん)(じん)のエピソ-ドは、「唐物語」にも載っている。中国の伝説ばかりを集めた説話集である。因みに隆信の家集である「隆信集」には、女が返した歌が違っている。「建礼門院右京太夫集」は、藤原隆信との男女関係は最小限度に留め、平資盛との関係を最大に歌い上げる方針である。その為に右京太夫は「建礼門院右京太夫集」を完成させるために、敢えて自分の詠んだ歌を推敲して詠み返したのであろう。資盛と隆信、二人の男性の間で心迷う右京太夫は苦しんだ。そういう自分を客観的に眺める場面がある。

朗読⑦

絶え間久しく思ひ出でたるに、「ただやあらまし」とかへすがへす思ひしかど、心弱く行きたりしに、車より降りるを見て、

「世にありけるは」と申ししを聞きて心地にふと覚えし、

  ありけりと いふにつらさの まさるかな なきになしつつ 過ぐしつるほど

 解説

この場面に見出しをつけるならば、 私はしぶとく生きる女なのか とでもなるだろうか。隆信から久し振りに牛車が差し遣わされた。これに乗ってきなさいと言う誘いである。作者はためらいつつも、乗って隆信に会いに行く。そして牛車から降りる時に、隆信が口にした 「世にはありけるは」 お元気だったのですね。良かったですね。という言葉を聞いてカチンと来た。隆信の言葉は聞きようによっては、まだ生きていたのですか という意味にもとれるからである。右京太夫の感じた怒りと悲しみ現代語訳する。

 現代語訳

長いこと隆信と会わないで時間だけが過ぎていった。随分と久し振りに、隆信は私という女の存在を思い出したようで、私に迎えの車をさし遣わした。私は隆信の勝手さにほとほと嫌気がさしていたのでこの誘いをほったらかして、牛車にも乗らず隆信に待ちぼうけをさせて、ここのまま済ませようかと

一度ならず考えたが、結局は恋に弱い女心の悲しさで、牛車に乗って彼の屋敷に出掛けて行った。待ち受けた彼が牛車から降りる私を見て、ここの所私の手紙に対して返事がないので、もしかしたらと心配していました。あなたがまだ生きていることが分かった。これまであなたが私の手紙を無視していた事は辛かったのですが、あなたがお元気だったことが分かり安心しました。などというのを聞くのは流石に不愉快であった。

  ありけりと いふにつらさの まさるかな なきになしつつ 過ぐしつるほど

あなたは私にまだ生きていたのかと尋ねましたね。私はここの所ずっと、自分自身がこの世に生きる資格がない、詰まらない女だと思い滲みています。それでも面と向かって直接あなたから、まだ死んでいなかったのかと尋ねられると、流石に悲しくなる。右京太夫は資盛と隆信という二人の男の間で揺れながら、したたかに生きて行く。

「コメント」

 

ここの所、予想外の展開。でも事実はこんなものであったのだろう。所で貴族の男は仕事をしているのだろうか