240127⑩「西山での日々」

今日で「建礼門院右京太夫集」の上巻を読み終わる。建礼門院への宮仕えを辞めた右京太夫は、

資盛と藤原隆信という二人の男性との狭間で揺れ動いた。その中にあって、歴史も激動し平家の

滅亡が迫っていた。

 

作者は暫く西山で過ごすことにした。隆信との関係を終わりにしようとするためであろうか。西山に(よし)(みね)寺という寺がある。「愚管抄」を著した慈円もこの寺の住職を務めていた。この寺で、右京太夫の兄の尊円が修行している。作者は西山でどのような日々を過ごしていたのだろうか。

朗読① 西山での隠遁生活

西山なる所に住みしころ、遥かなるほど、ことしげき身のいとまなさにことづけてや、久しく音もせず。枯れたる花のありしに、ふと、

  とはれぬは 幾日(いくか)ぞとだに 数へぬに 花の姿ぞ 知らせがほな

この花は、十日余りがほどに見えしに、折りて持たりし枝を、簾に挿して出でにしなりけり。

  あはれにも つらくも物ぞ 思はるる のがれざりける よよの契りに

 解説

枯れた花に寄せて資盛への思いが語られている。資盛は都から西山まで時折、訪ねている。

西山なる所に住みしころ、

作者が兄の尊円を頼って善峯寺に隠棲している頃である。季節は秋の終わり。

遥かなるほど、ことしげき身のいとまなさにことづけてや、久しく音もせず。

資盛との仲は続いていたが、都から遠いので多忙な資盛の訪れは途絶え勝ちであった。

枯れたる花のありしに、ふと、

孤独な作者の目は、ふと挿されて、枯れている花に止まった。それを見て歌を詠んだ。

  とはれぬは 幾日(いくか)ぞとだに 数へぬに 花の姿ぞ 知らせがほな

この前、資盛が来て今日まで何日経っているのだろう。自分は正確に数えていないが、枯れた花を見ると資盛の訪れがなかった日数が分るという意味である。

この花は、十日余りがほどに見えしに、折りて持たりし枝を、簾に挿して出でにしなりけり。

今では枯れている花は、前回資盛が訪ねて来てくれた十日くらい前に、手に持っていた枝を簾に挿して都へ戻ったのである。作者はもう一首歌を詠んだ。

   あはれにも つらくも物ぞ 思はるる のがれざりける よよの契りに

作者は資盛との関係を、よよの契り と認識している。前世から現世まで続いている運命は、哀れにも辛いものであった。

 現代語訳

西山にある(よし)峯寺(みねでら)というお寺では、私の兄である尊円が修行している。私は隆信殿との関係を見つめ直し、出来るならば収束させるべく、西山に暫く隠棲することにした。その一方で資盛様との関係は緊密にしておきたかった。けれども

西山は都から遠いし、資盛様は公務多忙なので時間がないという理由で、長いこと訪れが絶えていた。そのような時、僧房の簾を見ると、枯れた花が目に入った。それを見た瞬間、そこに自分自身の姿を見た様に思った。すると和歌が口をついて出てきた。

   とはれぬは 幾日(いくか)ぞとだに 数へぬに 花の姿ぞ 知らせがほな

資盛様の訪れが無いのは、もう何日だろうか。私自身はその日数を数えてはいない。けれどもあの枯れた花は、あの人が私から離れている日数の多さをまさに教えてくれる。この枯れた花は、もう十日以上も前に資盛様が最後に来た時に折り取って、手に持っていたものを帰りがけに簾に挿したものである。奇麗だった花が枯れるほどに、資盛様の訪れも遠ざかっている。花の命が失われたように、

私の命も枯渇しつつある。

   あはれにも つらくも物ぞ 思はるる のがれざりける よよの契りに

資盛様と私の関係は、前世から決まっていた宿命である。私が愛されるのも、訪れが絶えて苦しむのも、凡てが逃れることのできない宿命だったのである。のがれざりける よよの契りに とある。

 

この後資盛は壇ノ浦で死んでしまう。逃れられない運命が襲い掛かる。そうすると資盛との よよの契り が決して悲しいものではなく、愛おしくて堪らない思い出に変化していく。西山での日々をもう一つ読む。

朗読② 西山での暮らし

冬になりて、枯野の萩に、時雨はしたなく過ぎて、濡れ色のすさまじきに、春より下芽ぐみたる若葉の、緑青(ろくしょう)色なるが、時々見えたるに、霧は秋思ひ出でられて、置きわたりたり。

  霜さゆる 枯野の萩の 露の色 秋のなごりを ともに偲ぶや

 現代語訳

季節は秋から冬に変わった。秋の野の繚乱(りょうらん)たる景色は、(しょう)(じょう)、荒涼たる枯野へと変貌した。枯野を覆い尽くしている白い荻の枯れ葉の上に、ここまで降らなくてもよいではないかと可哀想になる位に、冷たい時雨が降りかかる。

時雨に濡れた枯れ荻の色は、ぞっとするほど清冽である。所がよくよく観察してみると、早くも春の

季節を先取りをしたかのように、枯れ荻の下の方に緑青色をした新芽が芽生えているのがあちこちに見える。又露が枯れ荻の上にびっしり降りている様子は、まるで秋の野原の様にもある。ここには秋、冬、春の三つの季節が共存している。私はその中で秋の名残に最も心をひかれる。

  霜さゆる 枯野の萩の 露の色 秋のなごりを ともに偲ぶや

真っ白な霜が降りている荻の枯れ葉の上に、びっしりと秋を思わせる露が降りている。秋は男が女への恋に飽きる季節である。でも完全には終わりきっていない。冬の野原が秋の名残を惜しんでいる様に、私も資盛様との途絶えた恋の名残を懐かしんでいる。

 

緑青色という色彩名がやや珍しい。作者は春の到来を予感している。作者と資盛とはもう一度春の様な恋の喜びを満喫できるのでしょうか。

さて作者は西山から都へ戻ってくる。藤原隆信との関係は心の整理が出来たのだろう。これからは隆信が登場することはなくて、資盛との関係のみとなる。

 

その資盛の兄が維盛である。維盛に忘れられた女性が、右京太夫の知人であった。右京太夫は

知人の事が心配なので、維盛に本心を尋ねる。先に右京太夫から維盛に三首の和歌が送られ、

維盛から三首の和歌が返ってくる。

朗読③

上臈(じょうろう)だちて近く候ひし人の、とりわき仲よきようななりし、わが物申す人のこのかみなりしは、御ゆかりのうへに、やがて宮人にて、ことに常にみしし人、忍びて心交して、かたみに思ひあはぬにしもあらじと見えしかど、世のならひにて、女方は物思はしげなりしを、まほならねど心えたりしかど、ちと、けしき知らまほしくて、男のもとへつかわす。

  よそにても 契あはれに 見る人を つらき目見せば いかにうからむ

  立ち帰るなごりこそとは いはずとも 枕もいかに 君を待つらむ

  起きてゆく 人のなごりや をし明けの 月影白し 道芝の露

返し 「あいなのさかしらや。さるはかやうなことも、つきなき身には、言葉もなきを」とて

  わが思ひ 人の心を おしはかり 何とさまざま 君嘆くらむ

  枕にも ひとにも心 思ひつけて なごりよ何と 君ぞいひなす

  明け方の 月をたもとに 宿しつつ (かへ)さの袖は 我ぞ露けき

 解説

上臈(じょうろう)だちて近く候ひし人の、とりわき仲よきようななりし、

作者がかつて建礼門院に宮仕えしていた時に同僚だった上級女房の中に、作者と親しい女性がいた。その女性が

わが物申す人のこのかみなりしは

作者の恋人である資盛の兄と深い仲であった。

御ゆかりのうへに、やがて宮人にて、ことに常にみし人、

平維盛は平清盛の孫である。建礼門院は清盛の娘なので、同じ平家一門である。そのことを 御ゆかり と言っている。

加えて維盛は中宮のお世話をする中宮職という役所に属していた。そこで建礼門院の部屋に足繁く通っていた。

忍びて心交して、

頻繁に顔を合わせている維盛と女房は男女の仲になる。作者の目には二人の恋の行方が、

かたみに思ひあはぬにしもあらじ 

相思相愛の様だと見えた。所が事態は一変する。

世のならひにて、女方は物思はしげなりし

男心が変わり易いのは世の習いである。維盛の愛情が冷めた様に作者には見えた。

まほならねど心えたりしかど、ちと、けしき知らまほしくて、男のもとへつかわす。

まほ 完全に、充分にという意味である。他人の恋愛の内実は当事者以外には分からないけれど、友人が心配な作者は、維盛に女の苦しみを知らせ、彼がどういうつもりなのかを直接に尋ねたのである。右京太夫は三首歌を送る。彼女を本気で愛しているのか、自分は友人である彼女が悲しむのが辛いと訴えた。

右京太夫の三首

一首目   よそにても 契あはれに 見る人を つらき目見せば いかにうからむ

私はあなたの恋愛の部外者ではあるが、あなたと深い宿命で結ばれている様に見える女性とは、私は親しくしている。だから彼女にあなたが悲しい思いをさせるのであれば、私まで辛くなる。

 二首目   立ち帰るなごりこそとは いはずとも 枕もいかに 君を待つらむ

朝になってあなたが彼女の部屋から帰るのを、あの人だけでなく夜を共にした枕も又名残惜しいと思っている事でしょう。あなたがもう一度、しかもなるべく早く彼女の部屋を訪れることを枕も待っています。その枕の思いは、彼女の友である私の心でもある。

 三首目   起きてゆく 人のなごりや をし明けの 月影白し 道芝の露

朝起きて帰って行く男の名残は、見送る女にとっては誠に惜しいことである。朝の道には、芝草に露がびっしょり降りているが、そこらに月の光が当たって白々と見え心が慄然とする。あなたはそんな

女心を考えたことがありますか。

 

さて作者の歌に対する返しに、維盛から返事があった。歌の前にお節介は止めて欲しいと書いてあった。

あいなのさかしらや。 あいなし 無関係というのが本来の意味である。

維盛は他人の恋に口出しする右京太夫に、あなたとは関係のないことでしょう と嫌がったのである。

さるはかやうなことも、つきなき身には、言葉もなきを」とて

しかも和歌を三首も送られたので、返事も三首返さなくてはならない。和歌を一度に沢山詠み馴れていない自分には、

面倒だと維盛は言っている。

 維盛の三首

 一首目    わが思ひ 人の心を おしはかり 何とさまざま 君嘆くらむ

私の心の中をあれこれと推し量り、彼女の心の中をあれこれと推し量り、事実ではない想像を根拠に、一体何を心配しているのですか。全てあなたの一人相撲ではありませんか。

 二首目    枕にも ひとにも心 思ひつけて なごりよ何と 君ぞいひなす

彼女の心だけではなく、心を持たないはずの枕の心まで推し量り、ああだこうだと何を悲憤慷慨しているのですか。

 三首目    明け方の 月をたもとに 宿しつつ (かへ)さの袖は 我ぞ露けき

明け方の帰り道は、別れを惜しむ私の涙で私の袖はびっしょり濡れています。その涙に月が映っています。淋しいのは私の方です。何も心配しなくても良いですよ。

 

この後右京太夫は平重衡の思い出を語る。重衡は清盛の五男である。「平家物語」でも数々のエピソ-ドを残している。

朗読④

宮のまうのぼらせたまふ御供して帰りたる人々、物語せしほどに火も消えぬれど、()(ひつ)(うづ)み火ばかり掻き起こして、同じ心なる筋五人ばかり、「さまざま心の内も、かたへは残さず」など言ひしかど、思ひ思ひに下むせぶことは、まほにも言ひやらぬしも、わが心にも知られつつ、あはれにぞ覚えし。

  思ふどち 夜半の埋み火 かきおこし 闇のうつつに まとゐをぞする

誰もその 心の底は 数々に いひはてねども しるくぞありける

 などおもひ続くるほどに、宮の亮の、「内の御方の番に候ひける」とて入り来て、例のあだごとも、まことしきことも、さまざまをかしきように言ひて、我も人もなのめならず笑ひつつ、はては、恐ろしき物語どもをしておどされしかば、まめやかにもな、汗になりつつ、「今は聞かじ。のちに」と言ひしかど、なほなほ言はれしかば、はては衣を引きかづきて、「聞かじ」とて、寝てのちに心に思しこと、

  あだごとに ただいふ人の 物語 それだに心 まどひぬるかな

  鬼をげに 見ぬだにいたく おそろしき 後の世をこそ 思ひ知りぬれ

 解説

大きく二つの場面に分かれる。前半は建礼門院に仕える女房達が、夜を徹してお互いの心を語り尽くしたことが語られる。

後半ではそこに現れた平重衡が、得意の話術で聞き手である女房達を引き込み、しまいには怪談を繰り出して、女房達を恐怖におとしいれた。この場面は現代語訳で平重衡の人物像に迫る。

 現代語訳

今、資盛様の兄である維盛様の思い出話を書いたが、資盛様の叔父である重衡様には忘れえぬ思い出がある。

中宮様が上様の御座所にお上りになった。そのお供をして戻ってから、女房達が世間話に花を咲かせていた。話に夢中になっている内に、いつの間にか灯も消えてしまった。それでもわずかな光でもあればということで、()(ひつ)(うずみ)()を掻き起こして、その光の下で会話を続けた。気心を許した四人の女房は、私達一人一人の中には沢山の思いが積もっているはずである。しかも今夜は四人もいるのだから、一つ残らず語り明かそうとなどと言って話し続けた。それでも心の奥底にわだかまっていた、言葉に出来ない悩み事は、はっきりと口に出来ないもどかしさがあった。そのことは私自身、資盛様、隆信殿との関係で身に染みて痛感している所で、胸が締め付けられている様に感じた。そんな気持を歌に詠んだ。

  思ふどち 夜半の埋み火 かきおこし 闇のうつつに まとゐをぞする

仲の良い仲間同士で夜遅く埋火をかき起こしながら、楽しい語らいを持った。「古今和歌集」に

  むばたまの 闇のうつつは 定かなる 夢のいくらも まさらざりけり よみ人知らず

という歌がある。

闇のうつつ は暗闇の中で、男と女が逢瀬を持つことを意味している。私達四人も、埋火だけの殆ど暗闇の中で、生々しい恋の事を語りあったことだ。

  誰もその 心の底は 数々に いひはてねども しるくぞありける

私達四人はそれぞれ心の底では、恋愛といういわく言い難い感情の渦を抱え込んで苦しんでいる。

その実態については言葉にして口にださなくても、各自が恋愛で苦しんでいることははっきりと見て取れる。この様なことを考えながら、しめやかに語り続けていた。そこへ中宮職の(すけ)ある、平重衡殿が突然姿を見せられた。今夜は内裏で宿直なので、参上したという事であった。重衡殿はいつもの事であるが、軽い冗談や真面目な話題を面白可笑しく話すので、私も他の女房達もそれまでのしんみりとした雰囲気はどこえやら、笑いこけた。重衡様はしまいには耳にするだけでも恐ろしい話題を繰り出して私達を恐がらせるので、心の底から恐怖心にとらわれて冷や汗まで出てきた。もうこれ以上とても聞いてはいられない、それから先は後日にしてください、今はここまでにして下さいなどと言って、重衡さまの話を止めようとしたが、それでもまだあるのだよと話を続けられるので、私はとうとう、もう聞くのは止めようと、衣を頭から被って寝た振りをした。

その後に心の中で思ったことがあった。

  あだごとに ただいふ人の 物語 それだに心 まどひぬるかな

重衡様が口にした、他愛のない冗談話にすら私の心は動揺した。まして真面目な死生観についての話だったら、私はどんなにか大きな衝撃を受けることだろう。

  鬼をげに 見ぬだにいたく おそろしき 後の世をこそ 思ひ知りぬれ

私はまだ鬼というものを実際に見たことはない。けれども鬼が登場するあの世の話は何度も耳にする。それだけでも恐怖を感じているのだから、本当に死んであの世に行って鬼を目にするならば、どのような恐怖にかられることだろうか。

次から次と怪談を繰り出して、女房達を恐怖におとしいれた、重平様の卓越した話術が印象的であった。後に重衡様は一の谷で捕らえられ鎌倉に連行された。かつて1181年に南都奈良を焼き討ちして、灰燼にきさせた事の責任をとらされ、木津川のほとりで切られた。

さて「建礼門院右京太夫集」は重衡の思い出に続いて、恋人である資盛のささやかな思い出を書き記す。資盛が亡くなった時点からの回想である。

朗読⑤ 忘れられない思い出

いつも同じことをのみかへすがへす思ひて、「あはれあはれわが心に物を忘ればや」と、常は思ふがかひなければ、

  さることの ありしかどだに 思ひ()てども ()たれざりけり

 現代語訳

資盛様との恋が行き詰っていた時期があった。その頃は苦しい、悲しいことと、同じこと、しかも悲劇的なことばかりを考えていた。私はその頃はああもう全く、私の心には忘却という二文字が存在しないか、何もかも忘れてしまいたいと考えていたが、その甲斐もなく資盛様とのことは忘れられなかった。

 さることの ありしかどだに 思ひ()てども ()たれざりけり

私と資盛様との間に、そういう事、逢瀬があったのか、それともすべて私の幻想だったのかなどと、

考えることだけはするまいと思うのだけど、困ったことに私の心の中から、資盛様の存在が消えることはないと分かっただけであった。忘却がテーマであった。けれども大切な思い出を忘れることは困難だと、そういう結論になった。

 

もうひとつ資盛様の思い出は口喧嘩の思い出である。

朗読⑥ 何となき言の葉 資盛の思い出

何となきことを、我も人も言ひし折、思はぬものの言ひ(はず)しをして、それをとかく言はれしも、のちに思へあはれに恋しくて,

  何となき 言の葉ごとに 耳とめて 恨みしことも 忘られぬかな

 現代語訳

資盛様と私はほんのちょっとした、どうでもよい事で、仲が気まずくなったことがある。私は資盛様に関して、不正確な言い方をしては、それで機嫌を損ねてしまった。資盛様が私の失言に、執拗に拘って反発したことも、資盛様が亡くなった今となっては懐かしい思い出である。何故ならば、私に対して反発してくれる程、私の事を意識していてくれたのだから。

  何となき 言の葉ごとに 耳とめて 恨みしことも 忘られぬかな

えっ、今何と言ったの、違うよ、ひどいな などと、私が口にする言葉の一つ一つを聞き逃さず、私の言い間違いを恨んだ資盛様の事が、今も忘れられない思い出として心の中にある。

 

亡き人を偲ぶ悲しみ程、読者の心に訴える物はない。口喧嘩の思い出ですら、作者は懐かしいのである。この後には、作者が亡き母を偲ぶ歌が記される。

そして「建礼門院右京太夫集」の上巻の最後となる。作者が宮仕えした頃に、太陽の様に仰ぎ見ていた高倉天皇が崩御したのである。

朗読⑦ 高倉院崩御

「高倉院」隠れさせおはしましぬ」と聞きしころ、見なれまゐらせし世のこと数々に覚えて、及ばぬ御事ながらも、限りなく悲しく、「何事もげに末の世に余りたる御事にや」と、人の申すにも、

  雲の上に 行く末遠く 見し月の 光消えぬと 聞くぞかなしき

中宮の御心の内、おしはかりまゐらせて、いかばかりかと悲し。

  影並べ 照る日の光 かくれつつ ひとりや月の かき曇るらむ

 解説

高倉院の崩御は、治承5年1181年1月14日 21歳であった。前の年に天皇を退位し、院政を始めたばかりであった。作者はその訃報に接し、かつて建礼門院に仕えていた頃、身近に接した天皇の優しさを思い出した。

見なれまゐらせし世のこと数々に覚えて

右京太夫が初めて宮中に出仕し、雲の上の世界に紛れ込んだ様な目まいに襲われた。高倉天皇が太陽で、中宮が月であった。このお二人や、高倉天皇のご生母である建春門院など、きらびやかな宮中で生きた日々の記憶は、作者の一生の宝物である。

及ばぬ御事ながらも、限りなく悲しく、

単なる一女房だった作者が、上皇の崩御の悲しみを表明するなど、僭越極まりないことである。けれども作者が本当に言葉を失うほどの衝撃を受けたのは事実である。

「何事もげに末の世に余りたる御事にや」と、など人の申すにも、

庶民の噂である。現在は末法の世で、美しい世界、正しい世界が崩壊する時期が近付いているらしい。そんな濁った世界にあって、亡き高倉上皇はあらゆる側面に於いて、傑出した勿体ないほどに

素晴らしい御方であった。などと庶民たちは語り合っている。右京太夫は二首、高倉上皇への追悼歌を詠んだ。

一首目 雲の上に 行く末遠く 見し月の 光消えぬと 聞くぞかなしき 

宮様と並んだ時の高倉上皇は太陽、けれどもお一人の時には満月でもある。かつて雲の上の世界の様な宮中で、上様は輝かしい満月の様な存在であった。私は僥倖にもその月を間近に拝見出来た。けれども月は満ちては欠ける定めである。あの輝かしかった高倉上皇は、月が雲隠れするかのように消えてしまった。その知らせの何と悲しい事か。

  中宮の御心の内、おしはかりまゐらせて、いかばかりかと悲し。

作者は太陽と月の関係の様に、好一対であった天皇と中宮の姿を思い浮かべ、残された中宮の悲しみの深さに涙する。

二首目 影並べ 照る日の光 かくれつつ ひとりや月の かき曇るらむ

上様は太陽で、中宮様は月。これまで影、光を並べ、好一対であった太陽と月の内、太陽が沈んだ今、一人残された月はさぞ悲しい思いをしておられるのだろう。今夜の月が雲に隠れて見えないのは、中宮様が泣いておられるからであろう。

 

ここまでで、上巻が終わる。作者が宮仕えで仰ぎ見た天皇や中宮の内、天皇がこの上巻で亡くなった。残された中宮にも下巻で大いなる悲劇が訪れる。右京太夫の詠んだ一首目の歌は、「平家物語」巻6 「新院崩御」に引用されている。

但し作者名は右京太夫とは明記されておらず、ある女房の歌とされている。

又この  雲の上に 行く末遠く 見し月の 光消えぬと 聞くぞかなしき 

の歌は、最後の21番目の勅選和歌集である「新続古今和歌集」に選ばれている。

次回は平家一門の都落ちから始まる下巻に入る。

 

「コメント」

 

将に激動の世界の中で翻弄されていく右京太夫。しかししぶとく生き抜いていくのであろう。