240203⑪「平家一門の都落ち」

今回から下巻に入る。下巻の冒頭は平家一門の都落ちである。いよいよ平家滅亡という大いなる悲劇の開幕である。都落ちは資盛と右京太夫の永遠の別れを意味していた。二人は生きて再会できなかった。この別れを語る文章はとても長い。そこで三つに区切って読む。

朗読①  都落ちの騒動の始まり

寿(じゅ)(えい)元暦(げんりゃく)などのころの世の騒ぎは、夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、すべてすべて言ふべき(きは)にもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひ分かれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ今までも覚ゆる。見し人々の都別ると聞きし秋ざまのこと、とかく言ひても思ひても、心も言葉も及ばれず。まことの(きは)は、我も人も、かねていつとも知る人なかりしかば、ただ言はむ方なき夢とのみぞ、近くも遠くも、見聞く人みな迷はれし。

 解説

寿(じゅ)(えい)元暦(げんりゃく)などのころの世の騒ぎは、夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、すべてすべて言ふべき(きは)にもなかりしかば、

寿永1182年~1184年。元暦は1184年~1185年。平家の都落ちが寿永2年。壇ノ浦滅亡が元暦2年。

夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、

この部分の描写が巧みである。仏教では儚いもの意味する言葉に夢幻(むげん)(ほう)(よう)がある。夢・幻・泡・影 の事である。

この泡が掛詞の様に あはれ という言葉を呼び出してきた。

よろづいかなりしとだに思ひ分かれず、

激動の最中にあった右京太夫は、今 世の中に何が起きているのか全体像が見えなかった。

なかなか思ひも出でじとのみぞ今までも覚ゆる。

なかなか は却って。 源平争乱の激動の時代に何が起きていたのか、その真実を知ると却って辛くなってしまうので、当時の事は思い出したくないのである。

見し人々の都別ると聞きし秋ざまのこと、とかく言ひても思ひても、心も言葉も及ばれず。

寿永2年の秋になる頃、作者が宮仕えの時に顔を見たり、言葉を交わしたりした平家の一門の人々が、都を落ちるようだという噂が広がった。資盛の恋人である作者の動揺は筆舌に尽くし難かった。

まことの(きは)は、我も人も、かねていつとも知る人なかりしかば

正確にいつ、平家一門が都を離れるのかは、誰にも分からないので。

ただ言はむ方なき夢とのみぞ、近くも遠くも、見聞く人みな迷はれし。

この夢 は、書き出しの 夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、すべてすべて言ふべき(きは)にもなかりしかば

という表現に対応している。

 現代語訳

今思い出しても、寿永と元暦の頃の世間の混沌とした大騒ぎは、どのような言葉で表現しようとしても不可能だった。寿永2年7月25日平家一門は、安徳天皇と三種+の神器を奉じて都落ちした。元暦2年3月24日、壇ノ浦の戦いで平家一門は全滅した。この一連の出来事は、夢という言葉でも、幻という言葉でも、さらには泡や影という言葉でも言い表せるものではない。泡のようにあわれな平家一門を襲った悲劇は、全くもって何にも例えることのできない、空前絶後の感情の渦を人々の心に残した。あの頃、本当は一体何が起きていたのだろうか。真実は知る由もなかった。いくら考えても真相は分からないのだから、あの頃のことを思い出すことは、却ってしたくないと私は思っていたし、今でもそう思っている。平家一門の都落ちの話が都の人々の間でも広がっていた。私の知っている平家一門の方々も、私がお仕えした建礼門院様、安徳天皇様、あまつさえ私の恋人である資盛様までが都落ちして西国に向かうというのが、都人の専らの噂である。その噂が広がったのは、7月になり、秋に入った頃であった。こういう緊急事態に直面したら、何を言おうとしても言葉では表現しきれないし、何を考えても想像を絶しているので、冷静に思索する為に必要な判断材料が何もないのである。

本当に都落ちするのか。都落ちするのだったら何時なのか は、最高機密に属することなので、私は勿論、資盛様も知る立場ではなかった。この都落ちについて平家の公達と情交を結んでいた女房達は、言いようのない悪夢だと思って心乱れていた。又平家一門と関係のない一般人までもが、平常心を失っている。

 

将に滅亡へのカウントダウンが始まった。それでは都落ちを語る二つ目の部分を読む。

資盛の事実上の遺言が語られる、最も重要な部分である。

朗読② 都落ちのカウントダウン 資盛の遺言

大方(おおかた)の世騒がしく、心細きやうに聞こえしころなどは、蔵人頭にて、ことに心のひまなげなりしうへ、あたりなりし人も、「あいなきことなり」など言ふこともありて、さらにまた、ありしよりけに忍びなどして、おのづから、とかくためらひて物言ひなどせし折々も、大方のことぐさも、「かかる世の騒ぎになりぬれば、はかなき数にただいまにてもならむことは、疑ひなきことなり。さらば、さすがに露ばかりのあはれは懸けてむや。たとひ何とも思はずとも、かように聞こえなれても、年月といふばかりになりぬるなさけに、道の光もかならず思ひやれ。

また、もし命たとひ今しばしなどありとも、すべて今は心を昔の身とは思はじと、思ひしたためてなむある。

そのゆゑは、もののあはれとも、何のなごり、その人のことなど思ひ立ちなば、思ふ限りも及ぶまじ。心弱さも、
いかなるべしとも身ながら覚えねば、何事も思ひ捨てて、人のもとへ、『さても』など言ひて文やることなども、
いづくの浦よりもせじと思ひとりたる身と思ひとりたるを、『なほざりにて聞こえぬ』などな(おぼ)しそ。

よろづただ今より、身を変へる身と思ひなりぬるを、なほともすれば元の心になりぬべきなむ、いとくちをしき」と言ひしことの、げにさることと聞きしも、何とか言はれむ。ただ涙のほかは言の葉もなかりしを、つひに秋の初めつ方の、夢の内の夢を聞きし心地、何にかはたとへむ。

 解説

長い遺言であった。一度にこれだけ長く資盛は言い置いたのではないであろう。何回か話した内容を、資盛没後作者が思い出して、一つの遺言の様にまとめて書き記したのであろう。

大方(おおかた)の世騒がしく、心細きやうに聞こえしころなどは

都に迫りくる源氏軍への対応で、都中が混乱していた頃である。

蔵人頭にて、ことに心のひまなげなりしうへ、

資盛は蔵人頭という要職に在り多忙であった。

あたりなりし人も、「あいなきことなり」など言ふこともありて

作者の周囲にも資盛の周囲にも、二人の恋愛関係を あいなき 不都合なことだと思って忠告する人がいた。

この二つの理由で資盛が作者の所を訪れる機会は多くなかった。

さらにまた、ありしよりけに忍びなどして、おのづから、とかくためらひて物言ひなどせし折々も、

そんな中でも、とかくためらひて 何かと遠慮がちにこっそりと、資盛は作者に会いに来た。そんな時に

大方のことぐさ 普段から口癖のように言ってきたことがあった。ここからが資盛の遺言となる。

かかる世の騒ぎになりぬれば、はかなき数にただいまにてもならむことは、疑ひなきことなり。

今の状況から考えると、早晩私が戦死者の一人に数えられるのは避けられないだろう。資盛は既に戦死を覚悟している。

さらば、さすがに露ばかりのあはれは懸けてむや。たとひ何とも思はずとも、かように聞こえなれても、年月といふばかりになりぬるなさけに、道の光もかならず思ひやれ。

自分が死んだならば、可哀想な人だったと思って、私の菩提を弔ってください。例えあなたが私を愛していないとしても、これまで長い間交際してきたのだからお願いします。

また、もし命たとひ今しばしなどありとも、すべて今は心を昔の身とは思はじと、思ひしたためてなむある。

また、都落ちしても、暫く私の命はあるかも知れないが、都を離れる自分の心は、都で華やかに暮らして居た自分の心とは、全く別のものになるだろうと覚悟している。文化人ではなく武人として修羅の戦いに染まる覚悟である。

そのゆゑは、もののあはれとも、何のなごり、その人のことなど思ひ立ちなば、思ふ限りも及ぶまじ。

人間的な優しさを捨てないと次から次へと執着が湧いて来て、心が乱れてしまう。

心弱さも、いかなるべしとも身ながら覚えねば、何事も思ひ捨てて、人のもとへ、『さても』など言ひて文やることなども、いづくの浦よりもせじと思ひとりたる

自分の心の弱さをこれからの自分が制御できるかどうか、資盛には自信が無い。だからこれから西国の海岸を流離うことになるだろうが、戦地から都に残っている人たちに手紙は書かない積りである。

『なほざりにて聞こえぬ』などな(おぼ)しそ。

私から手紙が来ないからと言って、私があなたを愛していないなどと思ってはいけない。

よろづただ今より、身を変へる身と思ひなりぬるを、

あなたを忘れたから手紙を書かないのではなく、戦う武士に変貌しているから、書かないのです。

なほともすれば元の心になりぬべきなむ、いとくちをしき

とはいうものの、本当に武人になりきることが出来ずに、あはれとか悲しさとかの人間的感情が復活してしまうだろうことは残念である。ここ迄が遺言である。

と言ひしことの、げにさることと聞きしも、何とか言はれむ。

資盛の言葉を頷きながら聞いていた作者は、どう返事したら良いか分からなかった。本心では生きて帰ってきて欲しいと思っていた事であろう。

ただ涙のほかは言の葉もなかりしを、

作者は資盛を送る言葉を口に出来ず泣くばかりであった。

つひに秋の初めつ方の、夢の内の夢を聞きし心地、何にかはたとへむ。

平家一門が都を後にしたのは、秋の初めの7月25日。二人の別れを作者は夢の内の夢に例えている。

 現代語訳

平家一門の権力維持は困難ではないかと、都人が噂し始めた頃、資盛様は蔵人頭であった。公務多端で心の余裕はなくなった。それに加えて私達二人の交際については、余計な関係はおやめなさいとなどと忠告する人が、私の側にも資盛様の側にもいた。そういう人目を偲ぶ内に、当初よりは格段にひっそりと私達は手紙を交わし、意思の疎通を図っていた。そういう状況の中でたまに会った時、資盛様が口癖のように言っておられたことが記憶に残っている。今にして思えばこれが資盛様の遺言であり、遺書であった。世間の者たちが大騒ぎしている様に、これほどまでに平家一門が源氏に押されているからには、この私も船上で討ち死にする者たちの一人になる事は免れない運命でしょう。この様にして私が死者の中に含まれたならば、あなたは戦死者になった私にほんの少しでもよいので、涙を注いでください。

私たち二人の付き合いの過程では、色々と心のすれ違いはあった。

だから今のあなたには私への愛情は残っていないかもしれない。それでも私たちの関係はもう何年になるか。

決して一日一月程度のものではなく、もう何年も続いている。だから前世からあなたとの深い御縁があったことは事実である。この私が来世では成仏できますように、あの世の闇を照らす光となるように、弔ってもらいたい。

都落ちした後、暫くは私の命も永らえることと思うが、都落ちする以前の私とは全く異なる心の持ち主に変貌しようと私は覚悟している。というのはこれまで通りの優しい、優柔不断な心を持ち続けたならば、様々な事が不憫で見るに堪えないと嘆かれたり、あのことをもっとしておきたかった、あの人ともっと会っておきたかったなどと次から次へと思い出されたりして、収拾がつかなくなってしまうのである。

これまでの私のままでは、私という人格が崩壊してしまうであろう。ですから私は今日を限りに全てを断ち切ります。都に残っている人のもとに、これから流離(さすら)うであろう西国から その後お元気ですか、私は などという手紙を出すことはしない。そのように固く決心している。あなたにも手紙を書かない積りです。その理由は今言った通りである。あなたは私からの手紙が届かないのは、自分を愛していないからだとなどと思ってはいけない。

今、この瞬間から、これまでの資盛とは違う、心と人格に生まれ変わるのである。ですが

そうはいっても、ややもすれば優柔不断なこれまでの資盛が、頭をもたげてしまうのである。何とも未練がましく残念である。

 

都落ちに際して、資盛様は私にこの様に言い置かれた。私は聞きながら本当に言われる通り、資盛様が武人として死ぬ覚悟を潔く固められたのだと心の中で思ったものの、言葉に出してどういう返事が出来ようか。私は資盛様の言葉を黙って聞きながら涙を流し続けるだけであった。そして秋になってすぐ7月25日に資盛様は、一門の人々と共に都から西国へと旅立たれた。私はこのことが現実とはとても思えなかった。夢ではあるまいか。

いや夢の中でさらに別の夢を、見ているのかも知れないなどと思うばかりだった。

 

資盛は右京太夫に形見の和歌を残さなかった。武士として死ぬ覚悟なのであろう。それでは都落ちを三つの区切った、最後の部分を読む。

朗読③資盛たちが都落ちした直後の、作者の心境

さすが心ある限り、このあはれを言ひ思はぬ人はなけれど、かつ見る人々も、わが心の友は誰かあらむと覚えしかば、人にも物を言はれず、つくづくと思ひ続けて胸にも余れば、仏に向ひたてまつりて、泣きくらすほかのことなし。されど、げに命は限りあるのみにあらず、様変ふることだにも身を思ふように心に任せで、ひとり走り出でなど、はたえせぬままに、さてあらるる、かへすがへす心憂くて、

  またためし たぐひも知らぬ 憂きことを 見てもさてある 身ぞうとましき 

 解説

資盛たちが都落ちした直後の、作者の心境が書かれている。

さすが心ある限り、このあはれを言ひ思はぬ人はなけれど、

作者が資盛と生き別れになったことを、優しい心を持った人々は皆、同情してくれた。

かつ見る人々も、わが心の友は誰かあらむと覚えしかば、人にも物を言はれず、

この かつ は、同情してくれるのは有難いが、その一方ではというニュアンスである。

作者に同情してくれる人はいるけれども、作者の本心を理解できる心の友は誰もいないと感じるので、それらの人と語り合うこともしなかった。

つくづくと思ひ続けて胸にも余れば、仏に向ひたてまつりて、泣きくらすよりほかのことなし

一人で一心に資盛様の無事を祈り続け、時には仏に向かって資盛の無事を祈り泣き暮らすのが日常となった。

されど、げに命は限りあるのみにあらず、

作者は悲しみの余り、今にも自分の命が失われそうに思うが生きながらえた。命は無常であるが、生きられる限りは生きねばならないのである。

様変ふることだにも身を思ふように心に任せで、ひとり走り出でなど、はたえせぬままに、さてあらるる、かへすがへす心憂くて、

出家して尼になろうかと思うものの、それすら自分の心のままにはならない。いっそ全てを捨てて出奔しようと思っても出来ない。作者は資盛のいない都で、これまで通りの日々を過ごさなくてはならない定めである。それが辛くてならない。そういう気持ち和歌に込められている。

  またためし たぐひも知らぬ 憂きことを 見てもさてある 身ぞうとましき 

またためし たぐひも知らぬ 憂きこと   史上空前の大いなる悲劇が作者を襲った。

さてある 身   にも拘らず、作者は今まで通りに生きている。

うとましき そういう自分が、作者は我ながら情けないのである。

 現代語訳

もののあわれを理解する人たちは、資盛様とこのような形で別れ、引き裂かれた私の運命を可哀想だと同情し、慰めの言葉を口にしてくれる。けれども冷静に考えてみると、皆は私を同情の目で見てくれるが、これらの人々の中に私の心の真実を理解してくれる人は、一人もいないだろうと思われるので、誰とも悲しみを語り合うことも出来ない。仏様に向かって、資盛様の未来と、私自身のこれからを祈るばかりである。困ったことに人間には

持って生まれた運命がある。命は無常であるが、自分で命を絶つことも出来ない。私は資盛様がいない都で、

ひとりで生きる定めだった。出家して尼になる事も出来ない。それでも悲しいことに私は何とか生きていられた。

自分がこんな心境で生き続けなければならないことが、毎日毎日辛くて堪らなかった。

歌の意味 

これほどの悲劇はこれまでにもなく、これからもないであろう。その悲劇の当事者として、私の恋人である資盛様は都を去って私は一人残された。これほどの悲劇に直面してから、私は尼にもならず、のうのうと生き続けている。我ながら何と情けない人間なのかと自己嫌悪に陥るばかりである。

 

「建礼門院右京太夫集」下巻の冒頭は作品全体の中でも、屈指の名文である。資盛が亡くなってから何年も資盛の事を思い続け、彼の言葉を思い出し続けたからこそ、この様な理路整然とした文章になったのであろう。

さて都落ちした平家一門には、源氏の追手が差し向けられる。そのような不穏な情勢の中で作者は夢を見た。

朗読④

恐ろしき武士(もののふ)ども、いくらも下る。何かと聞けにも、いかなることをいつ聞かむと、悲しく心憂き、泣く泣く寝

たる夢に、常に見しままの直衣(のうし)姿にて、風のおびたたしく吹く所に、いと物思はしげにうちながめてあると見て、騒ぐ心にやがて覚めたる心地、言ふべき方なし。ただ今も、げにさてもやあるらむと思ひやられて、

  波風の 荒き騒ぎに ただよひて さこそはやすき 空なかるらめ

 解説

恐ろしき武士(もののふ)ども、いくらも下る。  いくら は沢山、大勢。

何かと聞けにも、

都にいる作者の耳には、平家の人々の動きが伝わってくる。九州の大宰府に向かったり、四国の屋島に根拠地としたり、各地を転々としている。

いかなることをいつ聞かむと、悲しく心憂き

資盛の討ち死を何時耳にするかもしれない。そう思うだけで、悲しく辛い気持ちになる。

泣く泣く寝たる夢に、常に見しままの直衣(のうし)姿にて、風のおびたたしく吹く所に、いと物思はしげにうちながめてあると見て

夢に現われた資盛は作者が見馴れた直衣姿であった。つまり甲冑に身を固めた武士の姿ではなかった。資盛は都落ちする直前に、自分はこれからの生き方を改め、死ぬのは免れないだろうと語っていた。けれども彼も本当は平和な時代に、右京太夫と幸せに暮らして居たかったのであろう。それが直衣姿に現れている。夢の中の資盛には、逆境のシンボルである強い風が吹きつけていた。そして何か考え事をしているような感じで、ぼんやり周りを眺めているようであった。

騒ぐ心にやがて覚めたる心地、言ふべき方なし。

夢を見ていて、あっ資盛様だと思った途端に、目が覚めてしまったのである。

ただ今も、げにさてもやあるらむと思ひやられて、

作者は夢から覚めて、現実の資盛もさぞかしこんな風情で物思いに沈んでいるのだろうと

直感した。

 波風の 荒き騒ぎに ただよひて さこそはやすき 空なかるらめ

やすき 空なかるらめ という言葉が印象的である。この  は、場所という意味である。今頃資盛様はいづこの空の下にいるのだろうか。けれども平家一門には安住の地はなかった。この悲しい夢の場面を現代語訳する。

 現代語訳

私が知っている平家の方々は、武士というよりは公家の様に風流で文化を愛しておられた。所が都落ちした平家を追討するために、都から出陣していく源氏の武士たちは荒々しく恐ろしい程だった。その恐ろしい源氏軍が大挙して西へ向かっていく。平家と源氏の戦いについての色々な情報が伝わってくる。平家一門は筑紫の大宰府に落ち着いたものの、舟に乗って讃岐の屋島に移ったという。どんな悲しい知らせがいつ届くか分からないのだと思うと、悲しいし辛い。その夜も悲しい気持ちで資盛様の事を思いながら泣き疲れて、いつの間にか眠っていた。恋しい人のことを考えながら眠ると、夢にその人が現れると言われる。まさしくそれで、夢の中に資盛様が現れた。資盛様は戦場に臨む甲冑姿ではなくて、私がいつも見馴れていた直衣姿であった。そして風がひどく吹き付けている中に立ち、ひどく物思わしげな雰囲気で、ぼんやりと周囲を眺め渡しておられた。夢を見ている私の胸は、動悸が激しくなりすぐに目が覚めた。嬉しい夢だが、悲しい夢でもあった。私は言いようのない気持ちになった。私が夢に見た丁度その時の資盛様の、まさにこんな感じで物思っているのだろうか。

  波風の 荒き騒ぎに ただよひて さこそはやすき 空なかるらめ

舟に乗って、荒い波風に苦しみながら、あちらこちらを転々と流離(さすら)っている資盛様は、心安らかに落ち着ける場所はどこにもないことを悲しんでいる事だろう。

 

壇ノ浦で敗れた平家一門は、波の下を(つい)棲家(すみか)と定めた。さて資盛が都落ちした翌年の春、

作者は資盛が愛していた梅の花を見る機会があった。漢詩には

  年年歳歳 花相似たり 歳歳年年人同じからず とある。

また山本周五郎にも、もみの木は残った という小説がある。「建礼門院右京太夫集」のこの場面は、さしずめ

 梅の花は残った とでもなるであろう。

それではその場面を読む。

朗読⑤ 梅の木は残った

返へる年の春、ゆかりある人の物参りすとてさそひしかば、何事ももの憂けれど、尊き方のことなれば、思ひを起こして参りぬ。帰さに、「梅の花なべてならずおもしろき所あり。」
とて、人の立ち入りしかば、具せられて行きたるに、まことに世の常ならぬ花のけしきなり。その所の主なる聖の、人に物言ふを聞けば、「年々(としどし)この花を標結ひて恋ひたまひし人なくて、今年はいたづらに咲き散りはべる。あはれに」と言ふを「誰ぞ」と問ふめれば、その人としも確かなる名を言ふに、かき乱り悲しき心の内に

  思ふこと 心のままに 語らはむ なれける人を 花も偲ばば

 現代語訳

平家一門の都落ちがあった激動の年も暮れ、新年になった。寿永3年1184年。その年の春、親類に当たるものが、神社仏閣に参拝するのでご一緒にと誘ってくれた。私が悲しみの余り、家に閉じ籠ってばかりなので、気分転換の為に外に連れ出してくれたのである。私は総ての面で億劫になっているので、全く気は進まなかったが、信仰心は後の世の為にも大切なので、気を奮いおこして外出した。お詣りが終わって帰る道の途中、親類の者は「そうそう、この近くに梅の花がそれは見事に咲くお寺がある。ついでに見て行こうと誘う。私は気が進まなかったが、親類の者はさっさとそのお寺の中に入っていく。私も引き摺られるようにしてついていった。

誠に見事な梅の花であった。花が漂わせている雰囲気には、気品すら感じられた。そのお寺の御上人様が、私を連れてきた親類の者と、世間話をしているのを横で聞きながらはっとした。毎年この梅の花を特に気に入ってくれる方が今は都におられないので、梅の木は咲いた甲斐もなく散っていくのを淋しそうにしています。哀れなものですと話している。親類の者は興味を持ったと見えて、そのお方というのはどなたですかと尋ねたようである。すると

御上人様は、平資盛様ですという。私が心の中で思い続けている人の名を口にしたではないか。その途端に私の心は真っ暗になり、悲しさがこみあげてきた。私は心の中で歌を詠み、見事な梅の花に呼びかけた。
  
思ふこと 心のままに 語らはむ なれける人を 花も偲ばば

私は偶然このお寺に入ってきて見事な梅の花を見た。この梅の花は資盛様が毎年、春になると格別に寵愛されていると聞いた。梅の方でも今年、資盛様が都にいないことを淋しく思っているという。私もそうなんだよ、梅の花よ。お前と私は資盛様を愛し、その不在を淋しく思っている心の友なのだ。ならば思う存分資盛様の事を語り尽くそうではないか。

 

花を愛した人はいなくなっても、愛された花は残る。花が美しく咲く限り、その花を愛した人の心は残る。但しその場にいない人のことを思い出す人間が必要である。今は右京太夫がいる。そして「建礼門院右京太夫集」の読者も、平資盛という男がこの世に生きていたことを記憶に留めることであろう。

 

「コメント」

 

梅の花のエピソ-ドが秀逸。優れたストーリ-メ-カ-である。