240323⑱「後鳥羽上皇へ宮仕え」

今回は右京太夫が二度目の宮仕えに出た場面を読む。かつては建礼門院徳子に仕えたのであるが、今度は後鳥羽天皇である。右京太夫が初めて宮仕えに出た頃、高倉天皇が太陽、中宮である建礼門院が月に例えられていた。その高倉天皇の第四皇子が後鳥羽天皇である。「新古今和歌集」の編纂を命じたことや、鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こし敗北し、隠岐に流され逝去したことで有名である。

朗読① 後鳥羽天皇の宮中へ二度目の宮仕え 前半

若かりしほどより、身を要なき物に思ひとりにしかば、ただ心よりほかの命あらるるだにも厭わしきに、まして人に知らるべきこととは、かけても思はざりしを、さるべき人々、さりがたく言ひ計らいことありて、思ひの外に、年経てのち、また九重の(うち)を見し、身の契りかへすがへす定めなく、わが心の(うち)も、すぞろはし。藤壺の方ざまなど見るにも、昔住みなれしことのみ思ひ出でられて悲しきに、御しつらひも、世のけしきも、変りたることもなきに、ただわが心の内ばかり、砕けまさる悲しさ。

月の隈なきをながめて覚えぬこともなくもかき暗さる。

解説

作者が女房として、後鳥羽天皇の宮中に出仕した正確な期日は分からない。資盛が壇ノ浦で入水した後、10年位後だと思われる。右京太夫は40歳位であるか。後鳥羽天皇は15歳位。右京太夫はここから新しい人生をスタートさせた。文脈に即して読んでいく。

若かりしほどより、身を要なき物に思ひとりにしかば、

作者のこれまでの人生は、波乱に満ちていた。全盛を誇った平家の貴公子・資盛との恋愛、芸術家として才能あふれた藤原隆信との恋愛、平家の滅亡も目の当たりにした。その体験から自分自身など取るに足らない存在だという自覚を強く持つようになった。

ただ心よりほかの命あらるるだにも厭わしきに、

心の中では早く自分の命が失われたら良いと願っていた。けれども運命は作者を生き残りさせた。その事が心底嫌で堪らないのである。

まして人に知らるべきこととは、かけても思はざりしを、

生きているだけでも嫌なので、まして人様の前に出て行って、何かをしようなどとは思わなかった。

さるべき人々、さりがたく言ひ計らことありて、思ひの外に、年経てのち、また九重の(うち)を見し、

それなのに作者がこれまでお世話になり、その依頼を無下にできない、しかるべき人々がどうしても断れないような段取りを踏んで、後鳥羽天皇の宮中に女房としてお仕えするように取り計らったのである。

年経てのち とあるが、20年振りに宮中で仕える女房となったのである。思いもよらない成り行きである。

身の契りかへすがへす定めなく

作者の持って生まれた運命のことである。建礼門院への宮仕えを、辞めてから20年振りに再び華やかな宮中を見ることになったわが身の宿命は、考えれば考えるほど変転極まりなかったと述べている。

わが心の(うち)も、すぞろはし。

すぞろはし は、心が落ち着かない状態をいう。

藤壺の方ざまなど見るにも

藤壺 は、建礼門院平徳子がかつて住んでいた建物である。

昔住みなれしことのみ思ひ出でられて悲しきに、

その 藤壺  そのまわりなどを拝見すると、かつてここで自分が宮仕えをして、高倉天皇や殿上人と話をした記憶が蘇ってくる。自分がまだ二十歳の若さで少しずつ、宮仕えに慣れて行った頃の出来事が思い出され悲しくなる。

御しつらひも、世のけしきも、変りたることもなきに、

部屋のインテリアも廻りの雰囲気もあの頃と何一つ変わっていない。

世のけしき 当時の雰囲気。

ただわが心の内ばかり、砕けまさる悲しさ。

それなのに作者の心だけは、昔と大きく変わっている。平家の滅亡、資盛の死去、建礼門院の大原への隠棲などが、作者の人生観を一変させたのである。作者の心は千々に思い乱れ、様々に砕け散った。何という悲しさ。

月の隈なきをながめて覚えぬこともなくもかき暗さる。

宮中の空に掛る月は暗い所も無く、明るく輝き渡っている。それを眺めていると、かつて宮仕えをしていた昔、

ここで起きた出来事が次々と思い出され、その最後に位置する平家滅亡という悲劇に思い至るや、作者の心は真っ暗になる。

 

なお先程出てきた 世のけしきも、変りたることもなきに、について補足する。世のけしき という言葉は、「徒然草」の169段に使用されている。建礼門院右京太夫集」という

作品は、鎌倉時代の後半に広く詠まれている事実があった。それでは「徒然草」ではどのように引用されているのだろうか。

朗読② 世のけしき が、「徒然草」に引用されている例

「何事の式という事は、後嵯峨の御代までは言はざりけるを近きほどより言ふ詞なり」と人の申し侍りしに、建礼門院の右京太夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住みしたる事を言ふに、「世の式も変りたる事はなきにも」と書きたり。

 解説

宮中で行われている慣例を式という。一定の作法を伴う儀式や行事を指す。この式という言葉を用いた~式という言葉は、13世紀の半ばの後嵯峨天皇の時代までは言わなかったと、ある人が兼好に言った。すると兼好はその人に反論した。13世紀の半ばよりもかなり前の建礼門院右京太夫が、後鳥羽天皇の宮廷に宮仕えにでた際に、世の式にも変わりたるにもなきにも と書いた用例がある というのである。後鳥羽天皇は82代、後嵯峨天皇は88代。所が先ほど詠んだ様に「建礼門院右京集」には 世のけしきも変りたることもなきに とある。

世のけしき とあって、「徒然草」にあるような 世の式 ではない。兼好が読んだ「建礼門院右京太夫集」には世の式 とあったのだろうか。それとも兼好の記憶違いなのか。いずれにしても「徒然草」の作者である兼好は「建礼門院右京太夫集」を読んでいた。そして

右京太夫が宮仕えに出た場面を印象深く記憶していたのである。

 

それでは右京太夫が後鳥羽天皇の宮中で、宮仕えに出る場面の後半を読む。

朗読③ 後鳥羽天皇の宮中へ二度目の宮仕え 後半

昔軽らかなる上人(うえびと)などにて見し人々、重々しき上達部(かんだちめ)にてあるも、「とぞあらまし、かくぞあらまし」など思ひ続けられて、ありしよりもけに、心の中は、やらむ方なく悲しきこと、何にかは似む。高倉の院の御けしきに、いとよう似まいらせおはしましたる上の御様にも、数ならぬ心の内ひとつに堪へがたく、来し方恋しくて、月を見て

  今はただ しひて忘るる いにしへを 思ひ出でよと 澄める月かな

 解説

昔軽らかなる上人(うえびと)などにて見し人々、重々しき上達部(かんだちめ)にてあるも、

20年前には殿上を許されてはいても、まだ若輩だったので、気軽にお付き合いしていた人々が20年後の今では立派な公卿になっている。公卿は中納言以上の身分である。それを見るにつけ、作者の心には思い出される人がいる。資盛である。

「とぞあらまし、かくぞあらまし」

今頃は多分こうだったのだろう。いやこうだったかもしれないという意味である。もしも源平の争乱など起きず、資盛様が今も元気であるならば、今頃はどういう高い地位に昇りつめている事だろうか。大臣になってもおかしくない。色々とついつい考えてしまう。

など、思ひ続けられて、ありしよりもけに、心の中は、やらむ方なく悲しきこと、何にかは似む。

既にこの世の人ではない資盛の在りえたかもしれない人生を想像していると、二度目の宮仕えに出る以前よりも、作者の心はふさぎ込み悲しくなる。

高倉の院の御けしきに、いとよう似まいらせおはしましたる上の御様にも

上 は、後鳥羽天皇である。作者は後鳥羽天皇の顔を拝見した。彼女が最初に宮仕えをしていた頃、太陽の様に輝かしかった高倉天皇の第四皇子だから、当然父親の高倉天皇に似ている。それにつけても昔が偲ばれる。

数ならぬ心の内ひとつに堪へがたく、来し方恋しくて、月を見て

昔の事が恋しくて堪らない時に月を見たから歌を詠んだ。

  今はただ しひて忘るる いにしへを 思ひ出でよと 澄める月かな

澄める月 は、月が空に住んでいる、掛かっている ことと、澄み切った光を放っている事の掛詞である。

私は今となっては、昔の思い出をしいて忘れようと努めている。それなのに宮中の(あるじ)の様な月が、かつてこの宮中で繰り広げられていた出来事を沢山思い出しなさいと言わんばかりに、澄み切った光を放っている。

 

平家全盛時代と平家滅亡後、二度にわたって宮仕えした右京太夫は、これから時を隔てても変わらないものと、時の流れと共に変化していくものを見ることになる。

次は宮中で変わらなかったものである。

朗読④犬のエピソ-ド

とにかくに、物のみ思ひ続けられて見出したるに、まだらなる犬の、竹の台のもとなどしありくが、昔、内の御方にありしが、御使ひなどに参りたる折々、呼びて袖うち着せなどせしかば、見知りて、なれむつれ、尾をはたらかしなどせしに、いとよう覚えたるも、見るもすずろにあはれなり。

  犬はなほ すがたも見しに かよひけり 一人景色ぞ ありしにも似む

 解説

まだらなる犬 ぶち犬のことである。私はこの場面を読むと、「徒然草」の翁麻呂 という犬のエピソ-ドを思い出す。一条天皇の宮中で翁麻呂 という犬が可愛がられていたが、

ある日猫を追い回したことから、一条天皇の怒りを買い、島流しにされた。宮中に戻って

きたところを見つかり折檻されたが、清少納言の計らいで天皇から許された。犬と清少納言の心の通い合いが感動的である。ここでも右京太夫と犬の心の交流が語られている。

この場面は解説を含んだ現代語訳にする。

 現代語訳

再び宮仕えに出た私は、昔と変わらないものと変わったものとを宮中でいくつも見ることになった。ある時懐古の念に駆られて、物思いにふけっていたが、ふと外の方に視線を向けた。何かが視界の隅をよぎった様な気がしたからである。すると清涼殿の東庭にある土器(かわらけ)の台と呉竹(くれたけ)台の周りを、まだら犬が歩き回っていた。それを見た瞬間、20年近く前の思い出がまざまざと記憶に蘇ってきた。上様高倉天皇がお飼いになっていたのが、こんなまだら犬だった。私が宮様、建礼門院様のお使いとして上様の御座所を訪れた時など、その犬を見かけて呼び寄せ、私の袖でくるんで抱いて遊んだ。何度もそういう事をしていると、犬の方でも私のことを憶えたようで、私を見かけると一目散に走り寄ってきてじゃれつき、尾っぽを大きく振る。その犬によく似ていた。まさか同じ犬が今まで生きていることはないだろう。でも同じ様な犬が宮中で飼い続けている。見ていて無性に感動した

  犬はなほ すがたも見しに かよひけり 一人景色ぞ ありしにも似む

宮中の人々の様子は昔と大きく変わっているけれど、犬だけは昔私が可愛がっていた犬とそっくりである。犬だけが私の式なのだ。

この犬は右京太夫がかつて見たまだら犬の孫なのであろう。

 

次に宮中で変化したものについて語られる。かつては宮中には親しい友人が沢山いた。今では誰もいない。

朗読⑤ 昔の事を語る人が誰もいない

その世のこと、見しひと、知りたるも、おのづからありもやすらめど、語らふよしもなし、ただ心の(うち)ばかり思ひ続けらるるが、晴るる方なく悲しくて、

  わが思ふ 心に似たる友もがな そよやとだにも 語り(あわ)せむ

 解説

その世のこと 見しひと、知りたるも、おのづからありもやすらめど、語らふよしもなし、

は、20年前の平家一門が全盛を極めていた頃に、宮中で起きていた出来事である。その頃の記憶は、今でも持ち続けている人物も超一級中のどこかにはいることであろう。けれどもそういう人を見付ける(すべ)が作者には無い。だから昔話を交わす人が見当たらぬのである。

ただ心の(うち)ばかり思ひ続けらるるが、晴るる方なく悲しくて、

作者は一人心の中だけで、懐旧の念に浸り続けている。他人と会話すると、心の中に溜まっているもやもやが少しは晴れるのだろうが、それが出来ない。

  わが思ふ 心に似たる友もがな そよやとだにも 語り(あわ)せむ

私と同じ様なことを心の中で考えている友が、宮中のどこかにいないだろうか。もしもそういう友と巡り会ったら、どんなにかよい事だろう。昔、こんなことがありましたね。そうそうそうだったと語り合えるのに。

 

友がいないことが作者の最大の悩みだった。所でかつての恋人である資盛の名前を偶然耳にする機会があった。

朗読⑥ 資盛の名前を聞く

人の愁へ申ししことのあるを、さるべき人の申し沙汰するを聞けば、「後白河院の御時、仰せ下されける」
になどして、()めやらぬゆめと思ふ人の、蔵人頭にて書きたりけるとて、その名を聞くに、いかがあはれのこともなのめならむ

  水の泡と 消えにし人の 名ばかりを さすがにとめて 聞くもかなしき

  面影も その名もさらば 消えもせで 聞き見るごとに 心まどわす

  憂かりける 夢の契りの 身をさらで ()むるよもなき 嘆きのみする

 解説

人の愁へ申ししことのあるを、

これも宮中での見聞である。ある人が訴訟を起こして争う場所に作者は偶然に居合わせた。

さるべき人の申し沙汰するを聞けば、

しかるべき立場の人が、訴えを公正に裁く場面に作者は立ち会ったのである。

「後白河院の御時、仰せ下されける」になどして、()めやらぬゆめと思ふ人の、蔵人頭にて書きたりけるとて、その名を聞くに

すると訴訟を起こした人は、自分の主張を裏付ける証拠の物件を提出したが、後鳥羽院が院政を敷いていた時に、こういう仰せ事を自分は受け取ったのだと言っている。なおも聞いていると、この書付は当時蔵人頭だった平資盛が、後鳥羽院の仰せを受けて書かれたのだと、作者が何時までも忘れられないでいる恋人の名前を口にするではないか。

いかがあはれのこともなのめならむ。

なのめ は、普通という意味である。右京太夫は普通の精神状態ではいられず、驚きと感動に捕らえられていた。そして歌を三首詠んだ。

一首目  水の泡と 消えにし人の 名ばかりを さすがにとめて 聞くもかなしき

副詞の さすがに と、馬に乗る時に用いる金具の さすが の掛詞である。西の海に入水したからこの世から泡のように消えてしまった資盛様の姿はもう見られない。けれどもその名前を今でも宮中で語り継がれているのを聞くのはさすがに悲しい。

二首目  面影も その名もさらば 消えもせで 聞き見るごとに 心まどわす

資盛様の命がこの世から失われているので、その面影も名前もこの世から消えてしまうのが良いのかも知れない。けれども今日の様にその面影が心に浮かんだり、名前を耳にする機会があるので、私の心は戸惑い乱れてしまう。

三首目  憂かりける 夢の契りの 身をさらで ()むるよもなき 嘆きのみする

()むるよもなき  よ は、世と夜の掛詞である。資盛様と私を翻弄した運命は、悪夢の様に辛いものだった。その悪夢はいつまでも私を捕らえ、夜ごと私の命がこの世にある限り私を苦しめるだろう

 

資盛が蔵人頭だったのは寿永2年1183年の1月~7月。この年の7月下旬に平家一門は都落ちした。作者が偶々この訴訟の場に立ち会ったというのは、偶然にしては出来過ぎている。彼女本人、或いは関係者が訴訟を起こしたのかも知れない。

 

さて平家全盛の頃から親しくしていた人が亡くなったので、弔った歌がある。心の籠った良い歌である。

朗読⑦ 知人への弔問

親宗(ちかむね)の中納言失せてのち、昔も近く見し人にてあはれなれば、(ちか)(なが)のもとへ、九月の尽くるころ申しやる。空の景色もうちしぐれて、様々のあはれもことに忍びがたければ、色なる人の袖の上もおしはかられて、

  暗き雨の 窓打つ音に 寝覚めして 人の思ひを 思ひこそやれ

  露けさの 嘆く姿に まよふらむ 花の上まで 思ひこそやれ

  露消えし 庭の草葉は うら枯れて 繁きなげきを 思ひこそやれ

  わびしらに ましらだに鳴く 夜の雨に 人の心を 思ひこそやれ

  君がごと 嘆き嘆きの はてはては うちながめつつ 思ひこそやれ

  またも来む 秋の暮れをば 惜しまじな 帰らぬ道の 別れだにこそ

 解説

親宗(ちかむね)の中納言 とあるのは、平親宗のことである。1199年に56歳で死去。1199年には鎌倉幕府の初代将軍頼朝も急死している。作者が後鳥羽天皇に仕える様になってから4年がたっている。平親宗は右京太夫がかつて仕えた建礼門院平徳子の母親である二位の尼・平時子の弟である。また高倉天皇の母である建春門院平滋子の弟である。なおかつ平親宗の娘は平維盛の妻であった。この様に平家一門に深く関った人物であるが、後鳥羽天皇の信認が厚く、平家滅亡後も政治生命を保っていた。

親宗(ちかむね)の中納言失せてのち、昔も近く見し人にてあはれなれば

右京太夫は若かりし頃から、そして二度目の宮仕えでも平親宗を身近に見てきた。その平親宗が亡くなったので作者は悲しく思った。

(ちか)(なが)のもとへ、九月の尽くるころ申しやる。

作者は親宗の次男である親長の下にお悔やみの歌を届けた。時は9月の終わる頃、即ち秋が終わり冬が始まろうとする頃である。

空の景色もうちしぐれて、様々のあはれもことに忍びがたければ、

空からは早くも冬の時雨の様な雨が降ってくるし、様々なものが、もののあはれを感じさせるので、悲しみを堪えようがない。

色なる人の袖の上もおしはかられて、

色なる袖 は喪服のことである。父親の喪に服する為に、黒や灰色の衣を着ているであろう親長の悲しみを思いやっている。

作者の歌は6首書かれている。最後の一首を除いて第五句が 思ひこそやれ で統一されている。

 

一首目  暗き雨の 窓打つ音に 寝覚めして 人の思ひを 思ひこそやれ

この歌は漢詩を踏まえている。白氏文集の「上陽(じょうよう)白髪人(はくはつじん)」に次のような詩句がある。

  秋夜長      秋夜長し
  夜長無寐天不明  夜長くして寐ぬる無く天明ならず
  耿耿殘燈背壁影  耿耿たる殘燈 壁に背く影
  蕭蕭暗雨打窗聲  蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲

楊貴妃の嫉妬から玄宗皇帝から遠ざけられて、後宮で虚しく老いていく孤独な女性たちの

寂寥を歌っている。

私は上陽白髪人ほどではないが、淋しい人生を生きてきた。だから心の中で淋しさを抱いている人のことはよく分かる。あなたが感じている淋しさに心から同情します。

二首目  露けさの 嘆く姿に まよふらむ 花の上まで 思ひこそやれ

庭の秋の草花の上には沢山の露が、まるで庭の主であるあなたの父君の逝去を悼んでいるように、びっしりとおいている事でしょう。その事を想像するだけでも悲しい。あなたご自身の感じている悲しさに心から同情します。

三首目  露消えし 庭の草葉は うら枯れて 繁きなげきを 思ひこそやれ

冬になると露が宿る草が枯れてしまうので、地上には露はおりなくなる。あなたの父君も露の様に儚く消えてなくなられた。草は枯れても嘆きという 気 だけはあなたの心に生い茂っている事でしょう。その嘆きの大きさに心から同情します。

四首目  わびしらに ましらだに鳴く 夜の雨に 人の心を 思ひこそやれ

この歌も漢詩を踏まえている。白居易の「長恨歌」に 以下がある。

行宮(あんぐう)に月を見れば傷心の色

()()(ましら)を聞けば腸断(ちょうだん)の声

玄宗皇帝が楊貴妃と死別した悲しみを歌ったものである。

あなたと同じ様に眠れぬ夜に、(ましら)の声や雨の音を聞いては深い喪失感に捕らえられている事でしょう。その悲しさに心から同情します。

五首目  君がごと 嘆き嘆きの はてはては うちながめつつ 思ひこそやれ

御父君を失われたあなたの悲しみを、私も毎日嘆いています。その嘆きの極限は、心が虚ろになってぼんやりすることです。あなたも今そういう状態でしょうか。その虚脱感に心から同情します。

六首目  またも来む 秋の暮れをば 惜しまじな 帰らぬ道の 別れだにこそ

最後の歌なので、結びの言葉が他と違っている。間もなく9月末。秋の最後の日だから、秋との別れを惜しむ人は多いだろう。けれども来年になれば、そして再来年になっても秋という季節は必ず訪れる。だから今年の秋との別れをそれほど惜しむ必要はない。但し愛する人との死別は、一度別れたら二度とその人と逢うことは出来ない。その死別の悲しみの大きさにあなたは耐えている事でしょう。

 

漢詩文を踏まえるなど、教養溢れる歌である。この歌を送られた平親長にも右京太夫に匹敵する教養や歌があったのだろう。それでは平親長が右京太夫に返した歌を読む。全部で8首ある。右京太夫の歌は6首だった。「建礼門院右京太夫集」では、作者の歌が2首省略されたのか、脱落したのかしたのだろう。

朗読⑧ 平親長の返し

返し

  板びさし 時雨ばかりは おとづれて 人目まれなる 宿ぞかなしき

  植えおきし 主はかれつつ いろいろの 花さえ散るを 見るぞかなしき

  晴れ間なき (うれ)への雲に いつとなく 涙の雨の 降るぞかなしき

  秋の庭 払はぬ宿に 跡絶えて 苔深くのみ みるぞかなしき

  よもすがら 嘆きあかせば 暁に ましの一声 聞くぞかなしき

  くちなしの 花色衣 脱ぎかへて 藤のたもとに なるぞかなしき

  思ふらむ 夜半(よは)の嘆きも あるものを 問ふ言の葉を 見るぞ悲しき

  暮れぬとも またも逢ふべき 秋にだに 人の別れを なすよしもがな

 解説

最後の一首を除いては第五句の結びは、 ぞかなしき で統一されている。この8首の中から私の好きな3首を鑑賞する。

一首目  植えおきし 主はかれつつ いろいろの 花さえ散るを 見るぞかなしき

二句目の 主はかれつつ は、草花枯れることと離れる いなくなる という意味の かれる の掛詞である。

意味は次の様になる。

庭に草花を植え、美しい花が咲くのを楽しみにしていた主人・私の父は人間世界を離れてしまった。でも花は次第に枯れ乍らも様々な色で懸命に咲いている。その花を鑑賞すべき我が家の主人が不在である事が悲しくて堪らない。

五首目  よもすがら 嘆きあかせば 暁に ましの一声 聞くぞかなしき

まし は、ましらと同じで猿という意味である。白居易の「長恨歌」を踏まえている。夜通し眠ることが出来ず、父のことを偲んでいた。いつの間にかウトウトとしていたようでハッと気付くと、猿が一声鳴いていた。その声が鋭く胸に刺さり、悲しくてなりません。

七首目  思ふらむ 夜半(よは)の嘆きも あるものを 問ふ言の葉を 見るぞ悲しき

あなたからの弔問歌は、嬉しく拝読しました。本当に有難うございました。あなたは資盛殿と死別された後、その事だけでも心が一杯でしょうに、わざわざ私の父にまで追悼歌を寄せて頂きました。その歌の言葉を読むと、嬉しいながら悲しくてなりません。

 

後鳥羽院の宮中には、平家全盛の昔を懐かしく記憶している人達もいたのである。右京太夫の宮仕えは必ずしも孤独ではなかったのである。

 

「コメント」

 

色々な理由で22年振りの再度の宮仕え。当時40歳を越えていただろう。ご苦労様である。