240330⑲「右京太夫の人生」

今回は最終回である。

朗読① 源通宗との丁々発止のやりとり

通宗の宰相中将の、常に参りて、女官など尋ねるも、遥かに、えしもふと参らず、常に「女房に見参せまほしき、いかがすべき」と言はれしかば、この御簾の前にて、うちしはぶかせたまはば、聞き付けむずるよし申せば、「まことしからず」と言はるれば、「ただここもとに立ち去らで、夜昼候ふぞ」と言ひてのち、「露もまだ()ぬほどに参りて、立たれにけり」と聞けば、(めし)(つぎ)して、「いづくへも追ひ付け」とて、走らかす。

  荻の葉に あらぬ身なれば 音もせで 見るをも見ぬと 思ふなるべし

久我(こが)へいかれけるを、やがて尋ねて、文はさしおきて帰りけるに、(さぶらい)して追はせければ、「あなかしこ、返し取るな」と教えたれば、「鳥羽殿の南の門まで追ひけれど、むばら、からたちにかかりて、藪に逃げて、力車のありれるにまぎれぬる」と言へば、「よし」とてありしのち、「さる文見ず」とあらがひ、また「参りたりしかど、人もなき御簾の内はしるかりしかば、立ちにき」と言へば、また「はたらかで見しかど、あまり物騒がしくこそ立ちたまひにしか」、など言ひしろひつつ、五節の程にもなりぬ

 解説

通宗は1198年に31歳で死去。父は源通親で、後鳥羽院の時代に権謀術数を駆使する政治家であったと同時に、和歌の創作にも優れていた。その息子が通宗である。通宗は頻繁に宮中に参内していた。その都度取り継ぎを女房に依頼しなければならない。けれども女房達は、遠くにいたり直ぐには彼の前に現われてはくれない。

或いは女房達はいたずらで彼を待たせているのかもしれない。

常に参りて、女官など尋ねるも、遥かに、えしもふと参らず、常に「女房に見参せまほしき、いかがすべき」と言はれしかば、

通宗は口癖のように、時間を無駄にせずに早く女房とあって、しかるべきお方に取り次ぎをお願いしたい時には、どうすれば良いのかと言っていた。右京太夫も彼の愚痴を聞かされた。

この御簾の前にて、うちしはぶかせたまはば、聞き付けむずるよし申せば、

右京太夫は通宗に自分が何時でも取り次ぎ役をかって出ましょうと請け合った。今、自分がいる簾の前で、エヘンと咳ばらいをなさってください。それを聞きつけて私がたちどころに参上しましょう といった。

「まことしからず」と言はるれば、「ただここもとに立ち去らで、夜昼候ふぞ」と言ひてのち、

すると通宗は、あなたの言葉は信用できませんと疑った。右京太夫は嘘ではありません。私はこの簾の前で夜も昼も伺候しているのでと答える。通宗の方でも負けてはいない。ある朝早く、右京太夫のもとに女房仲間から通報があった。

「露もまだ()ぬほどに参りて、立たれにけり」と聞けば、(めし)(つぎ)して、「いづくへも追ひ付け」とて、走らかす。

女房仲間が、右京太夫さん大変です。通宗様が朝露がまだ消えていない朝早く参内されて、この簾の前に立っておられましたと教えてくれた。右京太夫は召次を呼び寄せた。召次は宮中で雑用を務めている男のことである。

彼女はこの簾の前に夜も昼も伺候していますと言った手前、朝早かったので伺候していなかったとは言い訳出来ないのである。そこで召次に命じた。つい先ほどまで通宗様がいらっしゃったから、そう遠い所へは行っていないと思うので、どこまでも追いかけて捕まえて、

この手紙を渡しなさい。召次は慌てて通宗を追いかける。

右京太夫が召次に持たせた手紙には歌が書かれていた。

  荻の葉に あらぬ身なれば 音もせで 見るをも見ぬと 思ふなるべし

荻の葉ならば風が吹くと、そよそよと音を立てることが出来る。けれども私は荻の葉ではないので、そよそよ、はいはい、そうですよ などと言葉に出すことは出来ない。私はそこにいたのに、あなたは私がいないと錯覚してしまっただけなのです。

久我(こが)へいかれけるを、やがて尋ねて、文はさしおきて帰りけるに、(さぶらい)して追はせければ

通宗は伏見に久我殿という別荘を持っていたので、この朝も宮中から久我へと戻ったのである。右京太夫に命じられた男は間もなく久我の屋敷に着いて、手紙を渡した。

すると通宗は右京大夫の歌に気付いて、自分に仕えている侍に命じて右京大夫の使いの男を追いかけさせ、返事の歌を渡そうとした。和歌のやり取りでは、後から歌を詠んだ方が相手を言い負かすことが出来る。右京大夫は召次の男に「あなかしこ、返し取るな」 よいですか、何があっても返事を受け取ってはいけません ときつく言っておいた。受け取らなければ相手は歌を詠まなかったことになる。戻ってきた男は右京大夫に報告した。

「鳥羽殿の南の門まで追ひけれど、むばら、からたちにかかりて、藪に逃げて、力車のありれるにまぎれぬる」

 これを訳しておく。

仰せに従って手紙を受け取りませんでした。案の定、通宗様の侍が追いかけて来て、返事をよこそうとしました。侍は鳥羽殿つまり後鳥羽院が造営した離宮の南の門まで私を追いかけてきたが、私は茨やカラタチの藪があったので、その中に逃げ込んで身を隠した。そこには大きな荷車が置いてあったので、それに入り込んで見つからないようにして、侍をやり過ごしました。

宮廷では男性貴族と女房がこういう楽しい日々を、平安時代から続けてきたのである。「枕草子」と「建礼門院右京太夫集」を併せて読めば、宮廷文化のエッセンスがよく理解できる。

「よし」とてありしのち、

右京大夫は「それでよし、よくやった」と使いの男を褒めた。この勝負は右京大夫の勝である。但しその後も通宗は儚い抵抗を試みた。この部分は現代語訳する。

 現代語 通宗の抵抗

その後日談である。「えっ、何ですか。荻の葉がどうしたこうしたとかいう歌など、私は受け取ってはいませんよ。などと言い、私の歌を受け取っていることをわざとらしく否定した。またあの朝、私は参内してあなたが必ずそこにいると断言した簾の前に立ちましたが、簾の向こうには誰もいないことがはっきりわかったので、要件を諦めて退出したのですとも抗議した。私の方でも実は息を殺してあなたがどういう振舞いをするか観察していたのです。そうするとあなたが如何にも不愉快そうな感じで、その場を立ち去りました。などと言ったりして、通宗様との楽しいやりとりが繰り広げられた。

 

ここから急に暗転して悲しい内容になる。

朗読② 通宗を悼んで

そののちも、このことをのみ言ひ争う人々あるに、豊の明りの節会の後、冴えかへりたる有明に、参らせたりしけしき優なりしを、ほどなくはかなくなられにし、あはれさ、あへなくて、その夜の有明、雲のけしきまで、形見なるよし、人々常に申し出づるに、

  思ひ出づる 心もげにぞ 尽きはつる なごりとどむる 有明の月

など思ふに、また

  限りありて 尽くる命は いかがせむ 昔の夢ぞ なほたぐひなき

  露と消え 煙ともなる 人はなほ はかなきあとを ながめもすらむ

  思ひ出づる ことのみぞ ただためしなき なべてはかなき 人を聞くにも

 解説

あれだけ快活だった通宗が突然亡くなった。31歳であった。
通宗の逝去を惜しむ作者はいつしか平資盛と死別した悲しみを思い出す。それでは彼女の悲しみに向かい合おう。

そののちも、このことをのみ言ひ争う人々あるに、

後鳥羽院の宮中は、右京大夫と通宗の丁々発止のやり取りでもちきりであった。

豊の明りの節会の後、冴えかへりたる有明に、参らせたりしけしき優なりしを、

その内、11月の五節の節会の頃になった。この節会の中心行事は、豊の明かりの節会である。有明の月の下、参内してきた通宗の有様は誠に優美であり、見守っていた人々からおおいに賞賛された。

ほどなくはかなくなられにし

それから間もなく通宗は逝去した。

あはれさ、あへなくて、その夜の有明、雲のけしきまで、形見なるよし、人々常に申し出づるに

彼の突然の死は、あはれともあっけなくも感じられた。あの豊の明り節会の際の、優雅な姿を思い出しては通宗を惜しんだ。その時空に掛っていた有明の月や雲の様子までが、優美立った通宗の形見であると女房達は語り合った。右京大夫は彼への追悼歌を詠んだ。

  思ひ出づる 心もげにぞ 尽きはつる なごりとどむる 有明の月

亡き通宗様の名残を留めていて、その形見と思われる有明の月を眺めていると、通宗様の様々な思い出が脳裏をよぎり、私の心も多くの女房と同じ様に悲しみの極限に達してしまう。右京大夫は源通宗の死去を惜しんだが、それにつけても、平資盛の死去が思われる。資盛の死と通宗の死との間には13年の年月が流れている。13年経っても右京大夫の喪失感は埋められなかった。彼女は資盛への思いが溢れて来て、歌を三首詠んだ。

一首目  限りありて 尽くる命は いかがせむ 昔の夢ぞ なほたぐひなき

今話題にしていた源通宗様は31歳で亡くなった。持って生まれた寿命が尽きたというのではなくて、突然の逝去であった。長く生きて寿命が尽きた上での死ならば、残されたものも諦めがつくが、非業の死ほど切ないものはない。資盛の場合にはまだ25歳だった。栄華を極めながらも、若くして都を追われ、西の海で沈んだ資盛の命は、まさに夢としか言えない程にはかなかった。その凄惨な死は他に比べようがない。

二首目  露と消え 煙ともなる 人はなほ はかなきあとを ながめもすらむ

はかなき には、お墓がない土地言う意味が掛詞になっている。普通の様に儚く命を終え、火葬された煙が空に漂って雲となる人は少なくないだろう。それらの人の亡きがらはあるので、火葬が出来る。火葬に伴う煙も空に立ち上っていく。それを見て残された人は、亡き人を偲ぶ。所が資盛様の様に入水されたので、亡きがらもなく火葬も出来ずお墓すらない。私は何を形見にして資盛様を偲べば良いのだろうか。

三首目  思ひ出づる ことのみぞ ただためしなき なべてはかなき 人を聞くにも

この世に人として生まれてきて、亡くならなかった人はいない。そういう人の話を聞くにつけても、資盛様の場合は、他の人の死と全く異なる死であったことが痛感される。資盛様の生もまた他の人とは異なっている。その資盛様と関わった私は、資盛様を偲ぶことが自分に与えられた天命だと思うようになった。

この「建礼門院右京太夫集」こそ形見もお墓も残せなかった資盛様の墓標である。

 

「建礼門院右京太夫集」という作品は、若くして戦いで命を失った平資盛の墓碑銘であった。そして「建礼門院右京太夫集」の実質的な最終場面になる。

 

藤原俊成の九十の賀(90歳のお祝い)が催された。源通宗が亡くなってさらに5年の歳月が経過している。右京大夫は47歳である。

朗読③ 藤原俊成の九十の賀

建仁三年の年、霜月の二十日あまり幾日の日やらむ、五条の三位入道俊成、苦渋に満つと聞かせおはしまして、院より賀賜はするに、贈り物の法服の装束の袈裟に、歌置かるべしとて、師光(もろみつ)入道の(むすめ)宮内卿の殿に歌は召されて、紫の糸にて、院の仰せごとにて、置きてまゐらせたりし

  ながらへて 袈裟ぞうれしき 老いの波 八千代をかけて 君に仕へむ

とありしが、給はりたらむ人の歌にては、いま少しよかりぬべくと、心の内に覚えしかども、このままに置くべきことなれば、置きてしを、「けさぞ」のぞ文字、「仕へむ」のむ文字を、「や」と、「よ」とになるべかりけるとて、にはかにその夜になりて、二条殿へきと参るべきよし、仰せごととて、範光(のりみつ)の中納言のくるまとてあれば、参りて、文字(ふたつ)置き直して、やがて賀もゆかしくて、夜もすがら(さぶらひ)ひて見しに、昔のこと覚えて、いみじ道の面目なのめならず覚えしかば、つとめて入道のもとへそのよし申しつかわす

  君ぞなほ 今日より後も 数ふべき (ここの)かへりの (とお)の行く末

返事(かへりごと)に、
「かたじけなき召しに候へば、はふはふ参りて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに、かようによろこび言はれたる。なほ昔のことも、物のゆゑも、知ると知らぬとは、まことに同じからずこそ」とて

  亀山の (ここの)かへりの 千歳をも 君が御代にぞ 添へゆづるべき

 解説

俊成90の賀の直前、その儀式の当日、そして翌日というようにかなり時間の経過があるのだが、作者は一気に書き進めている。ポイントを説明する。

建仁三年の年、霜月の二十日あまり幾日の日やらむ、五条の三位入道俊成、苦渋に満つと聞かせおはしまして、院より賀賜はするに、

建仁三年1203年11月20日過ぎ、和歌の老大家である五条三位こと、藤原俊成の九十の賀が執り行われた。

俊成はめでたく90になった。このことを聞いた後鳥羽院が俊成のこれまでの歌道への貢献を認め、お祝いの儀式を催した。

贈り物の法服の装束の袈裟に、歌置かるべしとて、師光(もろみつ)入道の(むすめ)宮内卿の殿に歌は召されて、紫の糸にて、院の仰せごとにて、置きてまゐらせたりし

その儀式の際に後鳥羽院から法服(袈裟)が授けられ、それに和歌を刺繍することになった。源師光入道の(むすめ)で新進気鋭の歌人として脚光を浴びている宮内卿に和歌の製作が命じられた。宮内卿は若くして亡くなるが、才能に溢れ、後鳥羽院のお気に入りであった。宮内卿が詠んだ歌を白い袈裟に紫の糸で刺繍して身に着けるのである。

その仕事を右京大夫が仰せつかったのである。彼女は藤原行成を祖とする世尊時流の書道家だから、彼女の流麗な筆跡を用いて縫い取ったのであろう。右京大夫が刺繍した宮内卿の歌は、袈裟をさずかる俊成の立場になり切り、栄えある儀式を催してくれる後鳥羽院への感謝の気持ちを詠んでいた。

  ながらへて 袈裟ぞうれしき 老いの波 八千代をかけて 君に仕へむ

袈裟 が、今日の朝と、僧侶の着る 袈裟 の掛詞である・

私は命永らえて、今朝九十の賀をたまわる栄誉に浴しました。そして素晴らしい袈裟を賜りました。誠に心の底から嬉しくてなりません。私はこれまで微力ながら歌の道に精進し、歌の力で少しでも国のお役に立ちたいと努めてきました。その甲斐がありました。私の年齢は毎年毎年、波が打ち寄せるように一年ずつ年を加えて今朝に至りました。これからも波がいくつも幾つも押し寄せてくるように、千代も八千代も長生きしても後鳥羽院に歌の道でお仕えしたいと、覚悟を新たにしています。

右京大夫はこの宮内卿の歌に違和感を覚えた。

とありしが、給はりたらむ人の歌にては、いま少しよかりぬべくと

右京大夫は、この袈裟を授かる俊成の立場から詠むよりは、晴れの儀式でこの袈裟を授ける側の、後鳥羽院の立場で詠んだ方がよいのではないかと感じた。

心の内に覚えしかども、このままに置くべきことなれば、置きてしを、

置く は 刺繍することである。右京大夫は心の中では、宮内卿の歌の表現のままで袈裟と文字を刺繍することにためらいがあったが、後鳥羽院から命じられたのは、宮内卿の詠んだ歌を奇麗な文字で書いて、その字を袈裟に刺繍せよというものであった。その為、違和感を押し殺しつつ、そのまま刺繍し終えた。所が儀式の当日になって大きな動きがあった。

「けさぞ」のぞ文字、「仕へむ」のむ文字を、「や」と、「よ」とになるべかりけるとて、にはかにその夜になりて、二条殿へきと参るべきよし、仰せごととて、範光(のりみつ)の中納言のくるまとてあれば、参りて、文字(ふたつ)置き直して

二条殿には和歌所が置かれている。ここに急遽、右京大夫は呼び出された。

「けさぞ」のぞ文字 を や に、「仕へむ」のむ文字 を  に、それぞれ刺繍し直すべきであるから直して欲しいという後鳥羽院のご指示であった。後鳥羽院は宮内卿の歌を自分自身の心を表す歌へと推敲したのである。

二文字を入れ替えることによって、全く別の歌になる。→

  ながらへて 袈裟やうれしき 老いの波 八千代をかけて 君に仕へよ

俊成よ、そなたが今年九十歳になったと聞いた。めでたいことだ。「千載和歌集」の選者を務めたこと、六百番歌合せの判者を務めたこと、それらが今、私が編纂中の「新古今和歌集」の基礎になっていることを大儀に思う。そなたもさぞかし嬉しく思っている事だろう。これからも千代も八千代も長生きして、私に仕えるが良い。この様に推敲すると、右京大夫が抱いていた宮内卿の歌への違和感は見事にまでに解消された。範光中納言の牛車を遣わすから、それに乗って参上するようにとの仰せであった。到着後にすぐさま、刺繍に取り掛かり二つの文字を縫い直し、晴れの儀式に間に合った。

やがて賀もゆかしくて、夜もすがら(さぶらひ)ひて見しに、昔のこと覚えて、いみじ道の面目なのめならず覚えしかば

やがて は、そのままという意味。

右京大夫は二文字縫い直す作業を終えた後も、俊成の九十の賀の儀式をどうしても自分の目で見たくて、夜通し二条院に詰めていた。そして遠くから拝見した。このお祝いは歌の(ほまれ)であり右京大夫は感動した。

つとめて入道のもとへそのよし申しつかわす。

右京大夫は感激を俊成に伝えたくて、翌朝歌を送った。

  君ぞなほ 今日より後も 数ふべき (ここの)かへりの (とお)の行く末

あなたは九十になられたことを後鳥羽院から賞賛され、栄えある儀式を催していただきました。誠に和歌の力だと思います。あなたはこれからも齢を重ねられて、さらにもう一度九十歳を生きられ、180歳になるまで歌の道の真髄を人々に示し続けて欲しいと願っています。

俊成から返事があった。

「かたじけなき召しに候へば、はふはふ参りて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに、かようによろこび言はれたる。なほ昔のことも、物のゆゑも、知ると知らぬとは、まことに同じからずこそ」とて

はふはふ は、這う這うで、這いながら。俊成の手紙を訳す。

誠に名誉なお召であった。90歳という年齢で足腰が弱っているので、足で歩くことが出来ず這うようにして参上しました。見ている人が私のことをみっともない、見苦しい老人と思うのではないかと心配していました。

儀式をご覧になったあなたから感動した、歌の道全体の名誉であると言って頂いて安心しました。やはり昔の出来事も、歌の道が何であるかを知っている人と知らない人、分かっている人と分かっていない人との違いは歴然たるものがあります。

その後に俊成の歌が記されていた。

  亀山の (ここの)かへりの 千歳をも 君が御代にぞ 添へゆづるべき

私は後鳥羽院から九十の賀を賜る栄誉に浴しました。上皇がお住まいの仙洞御所は蓬莱にも例えられる理想郷です。蓬莱の島は、15匹の巨大な亀が支えていると伝えられています。その蓬莱に住む仙人たちは9千歳まで長生きするそうです。私は後鳥羽院から祝って頂いた90歳に加えて、蓬莱の専任の寿命である9千歳を後鳥羽院の御代にお譲りします。

 

俊成九十の賀は、建礼門院右京太夫を話題にする時、必ずと言って良い程取り上げられる

エピソ-ドである。誰の立場で歌を詠んだらいいか、咄嗟に考えることのできた右京大夫は、豊富な宮廷経験でその感覚を培ったのであろう。

また平資盛への愛情は、資盛の死後も長く続いた。亡き資盛の立場から、生きている人々をながめる体験も、右京大夫の人間認識を深めた事であろう。

和歌は一人称の心の叫びであるが、歌人は老若男女誰の立場からも心の中の思いを歌うことが出来る。或る時は死者の立場からも詠む。

 

さて「建礼門院右京太夫集はこの後、跋文、あとがきを残すのみである。

あとがきは、「建礼門院右京太夫集」を読み始めた時に既に読んだ。儀式九十の賀が催されたのは建仁3年1203年であった。それから10年後に右京大夫が敬愛する建礼門院 平徳子が亡くなった。更にその20年後、右京大夫は77歳になっていた。

 

俊成の子供である定家が新勅撰和歌集を撰ぶことになり、右京大夫にも和歌の提出を要請してきた。なおかつ定家は栄えある勅撰和歌集に、あなたの歌が入るのであれば、どういう名前で入りたいですかとまで打診してくれた。この場面はもう一度読もう。最初に右京大夫の歌、次に定家の歌がある。

朗読④ 定家から今度歌集を作ると歌の提出を求められた。「新古今和歌集」

老いののち、民部卿定家の歌を集むることありとて、「書き置きたる物や」と尋ねられたるだにも、人数(ひとかず)に思ひ出でて言はれたるなさけ、ありがたく覚ゆるに、「いづれの名をとか思ふ」と問はれたる思ひやりの、いもじう覚へて

  言の葉の もし世に散らば 偲ばしき 昔の名こそ とめまほしけれ

返し

  おなじくは 心とめける いしにしへの その名さらに 世世に残さむ

とありしなむ、うれしく覚えし。

 解説

自分は建礼門院と後鳥羽院のお二人にお仕えしたが、出来るならば平家全盛時代に名乗った名前、つまり建礼門院右京太夫という名前で、勅撰和歌集に載りたいと希望したのである。

それに対して定家は、あなたが望んでいる様に建礼門院右京太夫という名前を新勅撰和歌集に書き記し、世に残しましょう、あなたの名前を永遠に語り伝えましょうと答えた。所で「建礼門院右京太夫集」という作品を、青年時代に愛読した文学者 三島由紀夫 がいることは既に紹介した。三島由紀夫が少年時代に書いた「たまきはる」という小説に、建礼門院右京太夫集の和歌が引用されている。三島由紀夫は「たまきはる」を書き上げた直後に「世々に残さん」という小説を書いている。これは「建礼門院右京太夫集」の跋文に記されている藤原定家の歌にあった言葉である。小説「世々に残さん」の末尾には、タイトルの

由来となった定家の歌が明記されている。

  おなじくは 心とめける いしにしへの その名さらに 世世に残さむ

この歌が万葉仮名の様な漢字ばかりの表記で、重々しく記されている。

私が思うに「建礼門院右京太夫集」は、恋の思い出を最も美しい言葉で書き綴った古典文学だと思う。思い出す、忘れない、記憶し続けることで、かつての恋人は命を失った後も、右京大夫の心の中で生き続ける。思い出に生きた建礼門院右京太夫が亡くなった後も、「建礼門院右京太夫集」という作品が残った。

この作品を読むことで、右京大夫の心の中の大切な思い出は、世々に残され、読者の心に伝わり蘇る。昭和も太平洋戦争に直面した男女が、この作品を愛読した事実は、思い出という人間の行為のリアリティと崇高さを物語っている。

次回からは、これまた今も読み継がれている古典中の古典である「源氏物語」の世界に分け入っていく。

 

「コメント」

 

講座で聞かなかったら知らないでしまった作品である。源平争乱の最中、下級貴族の娘の宮廷での青春時代そして晩年と、一人の女性の歴史である。姿が浮かんできた感じがする