250518⑦ 花宴の巻
今回は花宴の巻を読む。この様に始まる。
朗読① 桜の宴に、后(藤壺)、春宮(東宮)の御座所を帝は左右にしつらえられる。
弘徽殿の女御は面白くない。
二月の二十日あまり、南殿の桜の宴させさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして参上りたまふ。弘徽殿女御、中宮のかくておはするををりふしごとに安からず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで参りたまふ。
解説
二月は旧暦なので、1月~3月が春で、二月は春の盛りである。南殿 は、正式名は紫宸殿、清涼殿。宮中の正殿。左近の桜、右近の橘。建物の左側の階段付近に桜、右側には橘が植えられ、現代の我々が雛祭りに飾る人形にも踏襲されている。この紫宸殿を別名、南殿という。その南殿で桐壺帝が桜を愛でて宴を催す。
后、春宮の御局、左右にして とあったので、今回は桐壺帝の左と右に、后・中宮となった藤壺と、
東宮・第一皇子。東宮の母は弘徽殿女御。藤壺と東宮が座を占めている。中宮となった藤壺。この事は紅葉賀の巻の最後に、中宮になったことが書かれている。中宮というのは沢山の妃たちの中でも特別な存在である。弘徽殿女御は藤壺より先に入内していたが、中宮にはなれなかった。心中穏やかでないが、自分が生んだ子は東宮に成っている。桐壺帝はバランスを取ったのであろう。
続きを読む。
朗読② 人々は韻字を頂いて歌を作る。光源氏は春の字を頂きました」と。頭の中将は
落ち着いている。
日いとよく晴れて、そらのけしき、鳥の声も心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のはみな探韻賜わりて文作りたまふ。宰相中将、「春といふ文字賜れり」とのたまふ声さへ、例の、人にことなり。次に頭中将、人の目移しもただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなどものものしくすぐれたり。さての人々は、みな臆しがちにはなじろめる多かり。
解説
日はよく晴れて空の佇まいも、鳥の声も心地よい春の一日。皇子、上達部、皇族方と最高級貴族が参加する中、今日の注目を集めているのは光源氏である。そもそも今回の宴の趣向は、単に桜の花を愛でるだけではなく、その場に参加する者たちが漢詩を作って、その出来栄えを競い合うものである。様々なル-ルがあるので、易しいものではない。それを作る者に、探韻賜わりて とあったのは、参加者それぞれが漢字一文字をくじ引きで引き当て、その文字を使って漢詩を作るのである。さて宰相中将、「春といふ文字賜れり」 光源氏は 春 という文字を引き当てる。次に頭中将 左大臣家の嫡男。花の宴の開幕である。今日の楽しみは漢詩の披露だけではない。音楽も不可欠である。
更には舞。春の季節に相応しく、鶯が囀るという舞。春、鶯、囀る。この三つの言葉を漢字で書いて並べると春鶯囀。この様に呼ばれた舞が披露されたので、その様子は次の様に描かれている。
朗読③ 光源氏は紅葉の賀の時の舞を所望され見事に舞う。頭中将の舞も見事だったので
御衣を賜う。
楽どもなどは、さらにもいはず調へさせたまへり。やうやう入日になるほど、春の鶯囀るという舞いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり思し出でられて、春宮、かざし賜せて、切に責めのたまはするにのがれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところを一をれ気色ばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左大臣、恨めしさも忘れて涙落としたまふ。「頭中将、いづら。遅し。」とあれば、柳花苑といふ舞を、これはいますこし過ぐして、かかることもやとて心づかひやしけむ。いとおもしろければ、御衣賜りて、いつめづらしきことに人思へり。上達部皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りてはことにけぢめも見えず。
解説
源氏の御紅葉の賀のをり思し出でられて、とあった。昨年披露された光源氏の、あの青海波の舞が自然と思い出されるということである。東宮が光源氏の舞を催促する。「そなたの舞を今日も見たい」
という。東宮は光源氏の腹違いの兄。母は弘徽殿の女御。光源氏も断りようがなくて、ゆっくりと袖を通すと
のどかに、袖かへすところを一をれ気色ばかり舞ひたまへるに、そのさわりだけという感じであろう。今回も光源氏が宴会の中心で人々の注目の的である。それを受けて羽桐壺帝が 「頭中将、いづら。遅し。」とあれば、「頭中将は何をしている。遅いぞ」と催促する。光源氏が 春鶯囀 一さし舞ったので、「今度は頭中将、そなたも舞いなさい」とのご指名である。名指しされた頭中将はこんなこともあろうかと思い、
柳花苑といふ舞を、これはいますこし過ぐして、かかることもやとて心づかひやしけむ。
柳花苑といふ舞 を巧みに舞う。その様も いとおもしろければ、御衣賜りて、いつめづらしきことに人思へり。
その舞も実に見事だったので、褒美に御衣 を賜った。大変な名誉である。
与えられた字を使った漢詩を披露する時間が近付いてきた。
朗読④ 光源氏の詩の素晴らしさに読み上げる講師の声も途切れ途切れになる。
文など講ずるにも、源氏の君の御文をば、講師もえ読みやらず、句ごとに誦じののしる。博士どもの心にもいみじう思へり。かうやうのをりにも、まづこのきみを光にしたまへば、帝もいかでかおろかに思されむ、
解説
出来上がった漢詩は作者が読み上げるのではなくて、専門の人が読む。それが講師 と呼ばれる人である。
この 講師 が読み上げて行くが、そこまでは次々と漢詩が読み上げられてきた。その声が急に途絶え途絶えになる。どうしたのだろうと皆は思ったが、納得した。講師 が読み上げていたのは光源氏の作品である。
講師もえ読みやらず、光源氏の漢詩が余りにも素晴らしくて、講師は涙を流し読み上げることが出来なかったのである。流石にここまで来ると、何て大袈裟なと思う人もいるであろう。一つ前の紅葉賀の巻と合わせて、花宴の巻も光源氏の青春の絶頂を描いた巻である。青海波、春鶯囀の舞と、漢詩、美しい声と、何をやらせても人々をうならせる花の貴公子光源氏。しかし私達は知っている。富士山でもどの山でも、頂上まで登ってしまったら後は下るしかない。人の世の常である。この花宴の巻辺りから、そのように物語は展開していく。
その事はまずおいて次の展開を見よう。
朗読⑤ 宴が果てて静かになったが、光源氏は藤壺の辺りを歩いている。どこも閉まっている。
夜いたう更けてなむ事ははてける。上達部おのおのあかれ、后、春宮かへらせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君酔ひここちに、見すぐしがたくおぼえたまひければ、上の人々もうちやすみて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやあると、藤壺わたりをわりなう忍びてうかがひ歩けど、語らふ戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、
解説
宴はすっかり人々を満足させて帰路につく。静かさを取り戻した宮中は森閑として、さっきまでのざわめきは嘘のようである。空には月がかかる中、人気のない宮中に一人の影がある。その影はゆらりゆらりと揺れながら歩んでいく。その陰の主は光源氏である。彼は少し酒が過ぎたのであろうか。
もしさりぬべき隙もやあると、
もしか今日うまくしたら藤壺に会えないだろうか。今日なら隙があるかも知れない。そう思って藤壺辺りを窺っている。ここでいう藤壺は建物である。
藤壺わたりをわりなう忍びてうかがひ歩けど、語らふ戸口も鎖してければ、うち嘆きて、
藤壺のいる建物は外からの侵入者を拒むように、どの戸もピッタリ閉めてあって入りようがない。予想はしていたが、
うち嘆きて、とある。しかしそれでも なほあらじに、 やはり帰る気になれずに。この辺りが光源氏らしい。
そしてよりによってこんな行動に出る。
朗読⑥ 弘徽殿の細殿の戸が開いていた。光源氏はそっと入ってみるが人はいない。
弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。女御は、上の御局にやがて参上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。かやうにて世の中の過ちはするぞかしと思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。人はみな寝たるべし。
解説
弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。
いくら藤壺に隣接しているとは言え、光源氏をかねてより面白からず思っている弘徽殿女御が住む建物に近付いていく。無防備にも三の口が開いている。どうやら女御がいないようである。
かやうにて世の中の過ちはするぞかしと思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。人はみな寝たるべし。
世の中というのはこうして間違いが起きるのだとつぶやきながら中に入る。
とその時
朗読⑦ 若く美しい声で「朧月夜の・・・」と口ずさみながらやって来る女がいる。光源氏は
和歌を詠んで、抱き降ろす。
いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」とうち誦じて、こなた
ざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へる気色にて、「あなむく
つけ、こは誰そ」とのたまへど、「何か
うとましき」とて、
深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ
とて、やおら抱き降ろして、戸を押し立てつ。
解説
向こうから誰か近付いてくる。暗くてだれなのかは分からない。しかし女性である。その人は「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさんで近付いてくる。この和歌について解説をする。
照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき 大江千里 大江千里集 風月
照っている訳でも、と言って雲っている訳でもない、そうした靄に包まれた春の柔らかな月の光。それ以上のものはないと言った意味である。男性の歌なので、しくものぞなき を女性らしく、似るものぞなき と歌ったのである。
その声が こなたざまには来るものか。 その声がよりによってこちらに近付いてくるではないか。
いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。光源氏は嬉しくなって袖をとらえてしまう。
女は薄気味悪く怖がっている様子で、「あなむくつけ、こは誰そ」とのたまへど、「まあ嫌な、どなたです」
「何かうとましき」とて、 光源氏は何もそう嫌がらないでと言って光源氏は準備していたように和歌を詠む。
深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ
こんな素晴らしい春の一夜、他の人は寝静まってしまったのに、この日の素晴らしさを愛でて起きていたあなたと私。これは運命です。契りと言っても良いでしょう。と言って、彼女の体を抱きかかえてしまう。
相手はあっけにとられて声も出せない。かと思ったら以外に冷静であった。
朗読⑧ 呆然としている様が可愛らしい。声で光源氏と分かったので少し気が静まった様で
ある。
あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、「ここに、人」とのたまへど、「麻呂は、皆人にゆるされたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらん。ただ忍びてこそ」とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。
解説
自分を抱きかかえた男に最初は驚き、恐怖に震えた。しかしその声を聞いて一寸落ち着いた。この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。この声は聴いたことがある。光源氏であったかと分かって落ち着いた。この女君の性格の良く表れている所である。光源氏ならばと言うので、彼女は胸を撫でおろしている。この人が後に朧月夜と呼ばれることになる。
この花宴の巻は、光源氏の「春といふ文字賜れり」という所から始まって、今ここで見た春の夜の月明かりの中、「朧月夜に似るものぞなき」 と歌いながら近づいてきた女君の登場と言い、声というものが物語の隠れた主役になっている。そうした巻である。こうして二人は一夜を共にすることになる。別れに際してこの男女は、私たちの関係はこれでおしまいではありませんよといわんばかりの、ある物が登場する。これは扇である。これが後にキーアイテムとなる。
さて帰ってきた後の光源氏は眠れない。あの女は誰だろう。誰だか分からないけど弘徽殿にいたので、弘徽殿女御の血縁に違いない。そうだとしたら大変な事である。弘徽殿女御の実家の右大臣家というのは、光源氏の政敵なのである。
しかし気分が高揚しているせいか、大胆不敵な光源氏の性格のせいか、光源氏はこの危険な恋をこれでおしまいにしようとする気はさらさらない。帰ってきた後も、体を横たえながら考える。弘徽殿女御の妹の誰かだとしたら。政敵である一族の女君と関係を持った光源氏。この後どうなるのか。そんなある日、あの南殿の花宴から一月経って、三月の20日過ぎ。今度は別の花宴が右大臣家で開かれる。新しい御殿ができた披露もかねて。こうした時は光源氏なしでは始まらない。光源氏は気が進まなかったが、桐壺帝も是非行ってきなさいと言うので出かけることにした。最後に登場して注目を集めようと思ったわけではなかったが、結果として遅れて参上した。夜も更けて参加者が見事な藤の花に、酒に、雰囲気にすっかり酔った頃、光源氏は席を立った。すっかり酔っぱらって気分が悪くなってしまったと演じて。何か心積もりがあったのであろう。光源氏は春の一夜の契りを結んだ女君は、右大臣家の娘の誰かではないかと思っていたので、今日はそれを確かめるのに絶好な日である。
光源氏はこんな風に声を掛け乍ら、女たちがいる部屋に近付いていく。
朗読⑨「酒を強いられて気分が悪いので、隠れさせて下さい」と言うと「困ります」と感じの良い
女房が言う。
「なやましきに、いといたう強ひられてわびにてはべり。かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」とて、妻戸の御簾をひき着たまへば、「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」
と言ふ気色を見たまふに、重々しうあらねど、押しなべて若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。
解説
なやましきに、いといたう強ひられてわびにてはべり。
気分が良くないのにしきりに勧められるので、すっかり酔ってしまいました。
かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」とて、妻戸の御簾をひき着たまへば、
恐れ入りますが、私を物陰に隠して下さいませんか。あな、わづらはし。 その部屋の人は、困りますという。
光源氏は失礼したと身を引くが、冷静である。ここであの扇が登場する。酔った風を装いながらも、朧月夜と交換した扇を持ち出す。
朗読⑩ 先夜の女君は誰だろうと興味を持って、「扇を取られて辛い目にあっている」とわざと
声をだす。
さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、いづれならむ、と胸うちつぶれて、「扇を取られてからきめを見る」と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。
解説
扇というキ-ワ-ドを殊更に出して、謎かけである。私はあの日、扇を人に取られてしまって困ってしまいましたと言う意味である。
誰もが何の話なのかしらという調子である。けれどもその中に
朗読⑪
答へはせで、ただ時々うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳ごしに手をとらへて、
「あづさ弓 いるさのやまに まどふかな ほのみし月の 影や見ゆると
何ゆえか」とおしあてにのたまふを、え忍ばぬなるべし、
心いる 方ならませば ゆみはりの つきなき空に 迷はましやは
といふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。
解説
今日ここにあの朧月夜の君がいるなら、必ずこの扇になにかの反応するに違いない。まさにその時である。
「扇を取られてからきめを見る」 という光源氏の問いかけに、周囲を気にして答えられないのかもしれない。中からいかにも思わせ振りな溜息が漏れてくる。光源氏は几帳越しにその手をつかまえて歌を詠みかける。
あづさ弓 いるさのやまに まどふかな ほのみし月の 影や見ゆると
あの日あの夜、一度だけ見ることが出来た月。あの月をもう一度見ることは出来ないものかと思いまして。そう相手に投げかけてみる。すると中から歌を返してきた。
あづさ弓 いるさのやまに まどふかな ほのみし月の 影や見ゆると
御心にかけて頂けるのならば、弓張の月もない空でも、お迷いになることはありませんよ。私ですよという声。矢張り右大臣家の姫君であった。
ここで巻は閉じられる。いとうれしきものから。光源氏は無邪気に喜んでいるが、これからは大変なことになるのではなかろうか。この姫君は光源氏と対立する右大臣家の姫君。弘徽殿女御の妹。この後、光源氏の人生に大きく影響を与えることになる。春の夜の夢のような出来事、花宴の巻はこれおしまいである。
「コメント」
お話ではあるが、作者の構想力と展開力には驚くばかり。