250525⑧ 葵の巻 (1)
今回は葵の巻である。そこで光源氏の身にどんな出来事があり、そしてどんな人に出合うことになるのであろうか。葵の巻は光源氏の生涯において、無視できない大きな出来事が複数語られる重要な巻である。今日の放送も含めて全部で三回で分かり易く話す。今回はいきなり葵の巻についての解説を始めるのではなくて、今日で放送開始から2ヵ月経った。
この講座のコンセプト
そこで今日は古典講読「光源氏でたどる源氏物語」の基本的なコンセプトについて改めて話す。
ここまで放送を聞いた方々に今だからこそ話す。本年度の古典講読のコンセプトについてよく分って頂きたいからである。
前回まではこの放送を聞いた方々の中には、次のような事を思った人がいるのではないか。この「光源氏でたどる源氏物語」の放送は桐壺の巻の、光源氏の誕生から始まって、その次には紫の上が登場する若紫の巻に進んだ。けれどもあれおかしいな、手元の「源氏物語」のテキストで参照すると、「源氏物語」という物語は、まず桐壺の巻からはじまり、その次には帚木、空蝉、夕顔という巻が並んでいて、その次に若紫の巻が続いている。若紫の巻は5番目ということであるが、一体どういう風に考えたらよいのであろうか。その通りなのである。
今年度の放送では、光源氏の栄光と挫折の人生を辿りながら、「源氏物語」全体の内容が分かるように、その事を第一に考えて話しているのだが、「源氏物語」全体を把握するには一つのコツがある。
そのコツについて説明する。
光源氏を語る人生の、特に最初の巻は、大きく二つの系統に分かれそのような特徴をもっている。その二つの系統というのは、大まかに言えば、長編的な物語と短編的な物語である。
今回の放送まで聞いて頂いて、この講座で取り上げた桐壺、若紫、紅葉賀、花宴というのは、その長編的な物語に属している。一つ一つの巻で物語られた内容は、人間関係がそれぞれの巻で完結するのではなくて、とりあえず桐壺の巻なら桐壺の巻で、そこで一旦終わるけれども、もし本当にそこで終わってしまったら、読者は困ってしまう。桐壺の巻で話された内容の続きは、また次の巻にリレーのように次々とバトンタッチされていく。
既にふれた内容を例にとって話をすると、例えば桐壺の巻の終わりの方で、光源氏と藤壺の関係。二人の関係はこの後、どうなるのだろうと思って、第二巻目の帚木の巻を開いてみても、そこではそのような内容は出てこない。桐壺の巻の続編は大きく飛んで、5番目の巻の若紫の巻に受け継がれている。その若紫の巻における光源氏と藤壺の密通事件の
結果として藤壺は懐妊して、その子の運命はどうなのだろうと思って、次6番目の巻・末摘花を開いてみても、そこではそのような内容が全く出てこない。
藤壺が懐妊した子供の運命、この子の誕生は末摘花を飛び越し7番目の紅葉賀の巻に引き継がれて、そこで語られる。
この様に展開していく。桐壺の巻、若紫の巻、紅葉賀の巻、そして花の宴。樹木に例えれば、これらが大きな幹の部分を形作っている。これに対して二番目 帚木の巻、三番目 空蝉、四番目夕顔の巻といった、桐壷の巻と若紫の巻の間に挟まれた物語、つまりこの講座で取り上げなかった巻では、光源氏と藤壺の密通というような、光源氏の人生に大きく関わる出来事は出てこない。これらの巻はどれも短編的な物語でそこだけ取り出しても楽しめる。それらの短編では、巻の初めに一人の女君が登場して、光源氏と関わりを持ちそしてその巻の終わりでは、物語の中から退場していく。そうした特徴を持っている。
光源氏と藤壺の関係、不義の子の誕生、紫の上の登場と成長と言った、この物語全体に深く関るような話題は、その巻では棚上げされて、ストーリが少し脇道にそれる特徴を持っている。
そこでこの古典講読のコンセプトということになるが、この放送は一年間という限られた時間でもあるし、「源氏物語」の全てを取りあげることは出来ない。光源氏の人生を時間の流れに沿って眺めるにしても、何かを諦めざるを得ない。この様な訳で、この放送ではストーリ-が少し脇道に入るような短編的な巻は脇に置いて、まずは「源氏物語」のメインストリ-トを歩いてみようとしたのである。帚木、空蝉、或いは末摘花、玉鬘の物語、いずれも切り捨てるには惜しい魅力的な世界なのであるが、それを大胆にCUT、長編的な巻を中心にしていく。その事で光源氏の人生で一番大切な大木の幹に当たる部分を抑えとしまおうという方針に基づいて、この古典講読を進めていく。比較的小さい巻、短編小説的な世界は是非機会があれば楽しんで下さい。この放送のHPにもこの様に書いてある。
「源氏物語」には長編的な巻と短編的な巻とがあるが、今年度は太い幹の部分の長編的な物語の世界を取り上げる。光源氏の誕生から晩年に至るまで、50年に及ぶ人生の軌跡を辿りながら、日本文学の最高傑作と云って良い
「源氏物語」の魅力に迫る。
私がこの様に書いた意味も、ここまでの話で理解されたと思う。ここまでの解説を踏まえて、今回は
特別に「源氏物語」の巻の中で、長編的な巻を改めて読み上げていく。
朗読①
桐壷、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔、
少女、若菜、梅枝、藤裏葉 全てで17帖。本年度の放送の前半は読み上げた巻を中心に
「源氏物語」を丁寧な解説と朗読で楽しんでいく。
反対に「源氏物語」の短編的なストーリ-で脇道にそれるような巻も読み上げて見ることにする。
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、常夏、篝火、蛍、野分、行幸、藤袴、
真木柱、以上16巻。比較的短めの短編小説的な、或いは光源氏の一代記の中ではサイドストーリ-
的な巻ということになる。
改めて「源氏物語」を長編小説として眺めて見た時に、実に重要な位置を占める葵の巻に入る。早速
冒頭部分を読む。
朗読① 桐壺帝は譲位して世の中は変り、気兼ねなく藤壺と仲良くされる。源氏の君は何となく
気が進まない様子。
世の中変りて後、よろづものうく思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつましうて、ここもかし
こもおぼつかなさの嘆きを重ねたまふ報いにや、なほ我につれなき人の御心を尽きせずのみ思し嘆
く。今は、まして隙なう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう思すにや、内裏にのみ
さぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。をりふしに従ひては、御遊びなどを好ましう世の響
くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさまもめでたし。
ただ春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見のなきをうしろめたう思ひきこえて、大将の君に
よろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものからうれしと思す。
解説
この様に葵の巻は幕を開けるがその冒頭でいきなり大きな事件が語られる。
世の中変りて後
つまり桐壺帝が譲位し新しい帝が即位したという事である。光源氏、藤壺を守ってきた桐壺帝が遂に
譲位したのである。
新しい天皇が即位する。その人は光源氏の腹違いの兄、桐壺帝の第一皇子、母は弘徽殿女御。
この新天皇は後に朱雀帝と呼ばれる。その新しい天皇の御代は、光源氏にとっては前途多難な冬の
時期の始まりであった。光源氏もよろづものうく思され、 何もかも嫌になってしまってと書かれてい
る。しかし兄 朱雀帝は光源氏の才能を愛している好人物である。花宴の巻でも光源氏に対して、
そなたの舞をみせておくれ とせがんで、光源氏が春鶯囀を舞って見せるという件があった。しかし
ながら朱雀帝の母親は常に光源氏を警戒している弘徽殿女御である。
更に弘徽殿女御の実家は右大臣で、光源氏は左大臣家と縁組をしているので、右大臣家は政治的には敵対する人々である。そこで新しい天皇の即位は、光源氏にとってめでたいものではなかった。冬の時代の到来なのである。
一方藤壺はどうしているのであろうか。今読んだ最初に
今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば
とあった。后 とは弘徽殿女御の事である。彼女が新しい天皇の母として宮中に大きな存在感を示し始めた。当然中宮である藤壺も弘徽殿女御に、日の当たらぬ場所に押しやられざるを得ない。最近の彼女は専ら上皇御所で、桐壺帝と過ごしている。桐壺帝をこれからは桐壺院と呼ぶ。藤壺は仙洞御所で過ごす日々である。仙洞御所は今でも京都にある。天皇の位を下り、宮中を出た上皇が住む場所の事である。藤壺の気懸りは、自分の子・東宮の事である。
桐壺帝が上皇になり、今まで東宮であった方が天皇となり、新たに東宮には藤壺の生んだ皇子、本当の父親は光源氏。
その東宮が右大臣に牛耳られている宮中に唯一人取り残されている。それが藤壺の心配の種である。先程読んだ文の中に、藤壺は ただ春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見のなきをうしろめたう思ひきこえて、 とあったのはこの事を言っている訳で、簡単に訳してみれば、東宮はこれといった後見 のないまま、内裏の中で孤立しているかの様子を大丈夫だろうかと心配している。
以上が葵の巻の冒頭で語られる新しい世の中の始まり。光源氏を取り巻く状況を語った物語は、そこから新たな登場人物について語り始める。「源氏物語」の中で有名な人である。ここに登場する女君・六条御息所である。この六条御息所について、語り手はこんな風に紹介を始める。
朗読② 六条御息所の娘が斎宮になったので、光源氏の愛も頼りないし、斎宮と一緒に伊勢に
下ろうかと思案する。
まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫宮、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし、とかねてより思しけり。
解説
六条御息所はかねては亡き東宮后であった。物語に登場しないが、桐壺帝には弟がいてそれが東宮であった。今の文章に 前坊 とあったが、前の東宮という意味である。しかし彼は早くに亡くなって、その彼と婚姻関係にあったのが六条御息所であった。説明すると、御息所 というのは、元々は休憩所、天皇がお休みになる所という意味であった。
そこからそこに仕える女性を御息所と呼ぶようになった。天皇や東宮の后を意味する言葉である。六条御息所と東宮の間には姫君が生まれたとあった。そこまでは順風満帆であったが、夫は亡くなってしまった。東宮に輿入れすることで将来は天皇の后にと思い浮かべ、実家の人々にも期待されて結婚した彼女、六条御息所の人生も大きく躓く。夫東宮は亡くなり忘れ形見の娘がいるだけ。これからどうやって生きていくべきか。平安京の六条にある実家で物思いに耽る毎日であった。そこに現れたのが光源氏である。ここまではこれまでの物語に語られてこなかった新しい情報である。
イメ-ジで言えば物語が始まる前にこうした物語があったのですよ、桐壺帝には弟がいてその人が東宮だったが、その方が亡くなってということをご承知くださいということである。
そうした状況で光源氏は夫を亡くした貴婦人・六条御息所をくどく。きっかけはほんの一寸した機会に、光源氏は六条御息所の書いたものを手にしたことによると、ずっと後の巻に書いてある。書は人なりという。そこには彼女の教養やら思慮深さなど様々な事が現れていたのであろう。光源氏は夢中になった。当初は見向きもしなかった御息所だったが、遂には受け入れてしまう。しかし熱心だった光源氏の心が徐々に冷めて行くのを御息所は察知する。光源氏は飽きて彼女の所に通わなくなった。しかし折々には行くし、手紙もまめに出してはいる。御息所の身の回りに女房達の必要な物を届けたりしている。ポジティブシンキングの女性だったら受け流すことが出来たかもしれない。
しかし物語作者は、そうした性格の女性としては描かなかった。物語の後の展開にも深く関る所であるが。彼女は繊細で傷つきやすく小さなこともうまく受け流すことが出来ない人として、私達の前に姿を現す。そうしたものを表すエピソ-ドとして次の一節がある。
朗読③ 光源氏は六条御息所との事で院から注意を受ける。噂も広まって六条御息所も嘆く。
また、かく院に聞こしめしのたまはするに、人の御名もわがためも、すきがましういとほしきに、いとどやむごとなく心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだあらはれてはわざともてなしきこえたまはず。女も、似げなき御年のほどを恥ずかしう思して心とけたまはぬ気色なれば、それにつつみたるさまにもてなして、院に聞こしめし入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、いみじう思し嘆きけり。
解説
似げなき は、釣り合わない、似つかわしくないの意味。つまり六条御息所の方が7歳年上であった。その事を彼女は気に病んでいる。そうである故に、御息所の方が心とけたまはぬ気色なれば、光源氏に心の隔てを作ってしまい、なかなか心から打ち解ける所まで行かない。「源氏物語」において女性の方が年上というのは他にもある。そもそも光源氏と葵上は、光源氏12歳の時に結婚したが、葵上が4歳年上であった。光源氏の息子夕霧とその妻、雲居雁も年上の妻である。
藤原道長の妻も年上であった。だから御息所はそんなことにくよくよすることはなかったはずである。しかし彼女はそうはいかなかった。物語はどうしてもそういう事へのこだわりを捨てきれない女性の
代表として、六条御息所を登場させる。
似げなき御年 光源氏には言えないけれど、自分が年上ということをとても気にしているこのエピソ-ドはさりげなく書かれている。
けれども御息所という女性を沢山の言葉を費やして説明するよりも、ずっと雄弁に物語っている。こんな風に御息所という女性は繊細で細やかな事に目が行き届いて、周りの人がどういう風にみているか、どういう風に感じているかということにも敏感に反応する人として登場する。色々な事を受け流すことが出来ない彼女は、一つ一つの出来事を深く考える思索的な女君であった。そうなると光源氏からするといよいよどう接していいか、どう言葉を掛けていいか分からなくなる。光源氏はまだ若いので二人の間の溝は徐々に大きくなっていくのを止めようがない。
そもそも相手は前の東宮后である。普通では接しにくいのである。次の様に描かれている。
朗読④ 光源氏は御息所を思って訪ねるが、理由をつけて会ってくれない。もっと気楽にと
つぶやく光源氏。
御息所は、心ばせのいと恥ずかしく、よしありておはするものを、いかに思しうむじにけん、といとほしくて参でたまへりけれど、斎宮のまだ本のおはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。ことわりとは思しながら、「なぞや。かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。
解説
この文章は葵の巻の少し後の方の文章である。御息所という女性は、心ばせのいと恥ずかしく、という女性である。男の方が思わず身構えてしまう。そんな雰囲気を漂わせてしまう女性である。よしありておはするものを というのは、そうした意味である。光源氏が御息所の所にわざわざ、 参でたまへりけれど、 お見舞いに参上したのに、彼女の方が心やすくも対面したまはず。 気やすく打ち解けてあってくれなかった ということである。
そうなると悪循環である。そして何よりも時期も悪かった。大事な所なので、葵の巻の冒頭の部分に戻る。
朗読⑤ 御代が変わって光源氏は気軽く動けない。そして自分につれない人を恨めしく
思っている。
世の中変りて後、よろづものうく思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつ
ましうて、ここもかしこもおぼつかなさの嘆きを重ねたまふ報いにや、なほ我につれなき人の御心を
尽きせずのみ思し嘆く。
解説
今日最初に話したことを思い出して欲しい。桐壺帝が退位し世の中が変わって右大臣家が幅を利かせる世の中。光源氏はその中で よろづものうく思され、あちこち出かける気持ちも萎えてしまった。というようなことである。御息所の所だけ、足が遠のいたわけではない。今までと違い、自分の一挙手一投足まで周囲の目が注がれている。
これまでの様に好意的ではなくて悪意に満ちたものである。葵の巻は光源氏を取り巻く状況の変化を最初に描き出していた。そんな中で御息所との恋も今までの在り方と変わって行かざるを得ない。光源氏は浮気でひどい男。御息所は可哀想な人。これからの展開を見ると益々気の毒としか言いようがないが、それはそれとして、単純な見方では見逃してしまう部分が沢山ある。
さて話は変わる。そんな二人の間の関係が暗礁に乗り上げた、丁度その時。六条御息所の娘が伊勢の斎宮に就くことが決まった。それはこんな風に書かれている。
朗読⑥ 院は光源氏と六条御息所の事をお聞きになり、世間の非難を受けるぞ、軽々しいと
注意をされる。
まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫宮、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし、とかねてより思しけり。
院にも、かかることなむと聞こしめして、「故宮のいとやむごとなく思し時めかしたまひしものを、軽々ししうおしなべたるにてもてなるがいとほしきこと斎宮をもこの皇女たちの列になむ思へば、いづ方につけてもおろかならざらむこそやからめ、心のすさびにまかせてかくすきわざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり。」など、御気色あしければ、わが御心地にもげに思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。
解説
ここで伊勢の斎宮について説明する。そこには天皇家の姫君が派遣される。斎宮は天皇の代替わりに交代するので、桐壷帝から朱雀帝へ譲位がなされたのに伴って、斎宮も交代である。新しい斎宮に六条御息所の娘・亡き東宮の遺児の姫君がつくことになったのである。平安京から鈴鹿を越えて新しい斎宮は下っていく。伊勢での暮らしは天皇の交代まで、いつまで続くか分からない。今まで以上に思い悩むのは六条御息所である。彼女はこう考えた。いつ来てくれるか分からない若い光源氏。待ち続ける日々にも見切りをつけるべきではなかろうか。そうなるには良い機会ではないか。
斎宮はまだ若いので、ついていくべきではなかろうか。これが今の文章にあった
幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし、とかねてより思しけり。である。
しかしいざとなると、決心がつかない。彼女は実に思索的で、本当にそれでよいのだろうかと、物事一つ一つを深く考え、思慮深い人である。
なかなかだからこそ決めきれない。斎宮と一緒に母が伊勢に下るということが、そもそも例がないのも勿論であるが、何よりも彼女の光源氏への未練が残っている。その事は彼女自身がよく分かっている。事件が起きたのはそんな折の事である。
「コメント」
物語は順を追って読むべきであろうが、講師の方法は分かり易い。そして読者の興味を引く。前年度の方法と合わせると理解は更に深まる。