250601⑨ 葵の巻 (2)

長編小説としての「源氏物語」ということを意識した場合、葵の巻は非常に重要な巻の一つなので、全部を三回に分けて話をする。今日はその二回目である。前回の最後に六条御息所の娘が伊勢斎宮になるという話をした。

 葵祭

平安時代、伊勢神宮は重要な神社であったことは話したが、この時代の人々にとってもう一つ大きな意味を持っていた神社に賀茂神社がある。伊勢神宮に斎宮が派遣される一方で、この賀茂神社には賀茂斎院と呼ばれる女性がいた。

これも同じく天皇家の未婚の女性が任命されるが、その賀茂神社の年に一度の祭りが賀茂祭。いわゆる葵祭である。

平安時代の人々はそれが行われる四月は、年に一度の祭として心待ちにしている。さてその賀茂祭に先駆けて斎院が賀茂川で身を清める。それを斎王()(けい)と呼んだ。それの見物を平安京の人々楽しみにしている。しかも今年は斎王が交代したばかりで新斎院の御禊なので、今年の御禊には特別な配慮があって、光源氏が附き従うことになった。こうなると平安京の人々だけではなく近在の人々も押し寄せた。

 朗読① 御禊の日には特別に源氏の君も参加する。それで一条大路は見物の車で大変な

            雑踏である。

()(けい)の日、上達部など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに容貌(かたち)あるかぎり、下襲(したかさね)の色、(うえ)の袴の紋、馬、鞍までみなととのへたり、とりわきたる宣旨(せんじ)にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより物見車心つかひしけり。一条の大路所なくむくつけきまで騒ぎたり。所所の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへいみじき見物(みもの)なり。

 解説

とりわきたる宣旨(せんじ)にて、大将の君も仕うまつりたまふ。

帝の特別なご命令によって光源氏までが付き従う。

物見車 それを見ようと出てきた見物の車、牛車の数々である。

所々の桟敷から見物する人もいて、一条の大路所なくむくつけきまで騒ぎたり。

ここで大きな事件が幕を開ける。その()(けい)見物に遅れてやって来た一行があった。光源氏の妻・葵上の一行である。

彼女たちの出発が遅れたのには訳があった。実はここで初めてその事が知らされたのであるが、葵上が懐妊していることが分かったのである。葵上は体調が悪く気が進まなかったが、女房達がやいのやいの言う。葵上の母は大宮と呼ばれる人で桐壺帝の妹である。一族は大変な上層階級であることが分かる。父は左大臣、母は桐壺帝の妹の大宮。そこに生まれた頭の中将が鼻っ柱が強い訳である。

 

葵上の母の大宮も口添えして、葵上の重い腰が上がる。彼女たちの車が一条大路に着いた時には、車を止める場所は無かった。そこで左大臣家であるから、周囲の車をどかしてしまう。その中で頑と

して動かない車が二つあった。

 朗読② 葵上一行は日が高くなって出掛けた。その辺の車をどかせるが、どうしても立ち

            退かない車がある。

日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。(ひま)もなうわたりたるに、よそほしうひきつづきて立ちわづらふ。

よき女房車多くて、雑々(ぞうぞう)の人なき隙を思ひ定めてみにさし退()けさする中に、網代(あじろ)のすこし馴れたるが、下簾(したすだれ)のさまなどよしばめるに、いたうひき入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫(かざみ)など、物の色いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」と、(くち)(こわ)くて手触れさせず。

いづ方にも、若きものども酔ひすぎたち騒ぎたるほどのことはえしたためあへず。おとなおとなしき御前の人々は、「かくな」など言へど、えとどめあへず

 解説

その車は網代車であったのでその主はさほどの身分の高い人とは思われない。しかしあれっと思われるのは、その車から外にこぼれ落ちている袖口裳の裾、汗衫(かざみ)など、物の色いときよらにて、何と美しくその風情と品があって、やつした車にどこか相応しくない。 その車の 従者たちも口々に、

「これは、さらにさやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」

「何たる無礼をはたらくか。こちらのお車は他の車と同じ様にどかせていい車ではない。」と言って手を触れさせさせようとしない。しかしどう頑張っても相手は左大臣家である。遂には葵上の従者が暴力で相手の車を破壊するまでになった。

 

そしてそこまでの大事になって初めて、その網代車の主が誰であったかが判明した。

朗読③ 御息所は気晴らしに出掛けたが、結局その騒動で身元が分かってしまった。

          体裁が悪いし悔しくて、何のために出掛けてきたのかとまことに無念である。

斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。

「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪家(ごうけ)には思ひきこゆらむ」など言ふを、その御方の人もまじれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ知らず顔をつくる。つひに御車ども立てつづければ、副車(ひとだまい)の奥に押しやられてものも見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと限りなし。(しじ)などもみな押し折られて、すずろなる車の(どう)にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう何に来つらんと思ふにかひなし

 解説

葵上側がどかそうとしたが、いう事を聞かなかったその車の主が、亡き東宮の后の六条御息所であった。娘が斎宮に決まって共に伊勢に行くかどうかと悩みの渦中にあって迷い苦しんでいた六条御息所であった。

光源氏の訪れはたまさかで、葵祭の一条大路に繰り出し車の中から一目光源氏の姿を見ようと、

身をやつして網代車で誰にもそれと知られぬようにこっそりやって来たのである。忍びて とあった。

しかしそうはいかなかった。

彼女はこんな風に思う。かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと限りなし。

元の東宮妃・斎宮の母の私が、かくも無残な姿でそれと知られ、人前に晒す羽目になろうとはなんと悔しい事か。

 

ここまで読んできたところが、葵の巻に留まらず、「源氏物語」全体を視野に入れても、非常に有名な車争いの場面であるが、さてその後の事である。

朗読④ 御息所は娘と一緒に伊勢に下るかどうか悩み続けている。世間の物笑いになるのも

          情けない。

御息所は、ものを思し乱るること年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に思ひはてたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむはいと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならんことと思す。さりとて立ちとまるべく思しなるには、かくこよなきさまにみな思ひくたすべかめるも安からず、釣りする海人(あま)のうけなれや、と起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、なやましうしたまふ。

 解説

御息所は、ものを思し乱るること年ごろよりも多く添ひにけり。

これまでにも増して悩みを深めることになった。ここに留まるべきか否か。それだけでも彼女は悩みに悩み判断に苦しんできた。そこに今回多くの人々が多く集まった一条大路で衆人環視の下で、屈辱を味わったのである。今の文章で、

世の人聞きも人笑へにならんことと思す。

人に後ろ指を指され、笑われているのではないか。結果、彼女は

御心地も浮きたるやうに思されて、なやましうしたまふ。

悩みを抱えた六条御息所は体の不調に悩まされることになった。

 

そして時を同じくしてと言うべきか、葵上にも変化があった。

朗読⑤ 御息所は葵上が物の怪で苦しんでいると聞いて、自分は他人の身の上を悪しかれと

          は思っていないけれど、魂が体から抜け出して憑りついているのかもしれないとも

          思う。またそういう夢を見たりする。

大殿には、御(もの)()めきていたうわづらひたまへれば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便(びん)なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方はことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて御調法(みずほう)や何やなど、わが御方にて多く行はせたまふ。

 解説

お産を間近に控えた葵上も、苦しむ毎日であった。単に初産の人の誰もが経験するものでは無さそうである。即ち彼女の苦しみは、(もの)()めきて 物の怪で苦しめられているというのである。さて注意しておきたいのは次の事である。

現代の私達は (もの)() というと、ついついオカルトチックな事や妖怪を想像しがちである。しかしこの時代の (もの)() は、そういう幽霊や妖怪ではない。[枕草子]に 病は胸、もののけ、脚の気 という段がある。そこには病気の名前が列挙されている。そこの段を開く。

病は胸。もののけ。脚の気。はては、ただそこはかとなくて、物食はれぬ心地。

病と言ったら、胸の病や脚気、それと何という事は無くても物が食べられない気持ち。この後虫歯なども出てくるが、この中の二番目にもののけ が出ていた。つまり平安時代の人々にとって (もの)() というのは体力が弱っている時に狐とか死者の霊とかが入ってきて体調を不安定にさせる。それが (もの)() で、現在で言えばインフルエンザであろうか。

そういう訳で(もの)() には病としての側面があるので治療法も確立していた。

効き目があるのは加持祈祷である。加持祈祷をして体内に入った正体不明の物を外に出す。そうするとその正体不明のものは、自分は狐だとか、死んだだれだれの霊だとか名乗るのである。正体を名乗らせることが出来たら治療は成功である。物の怪は正体を明かされて、病人の体から出て行くのでそれで回復する。左大臣家は物の怪に取り付かれた葵上から、複数いるらしい物の怪を追い出すために霊験あらたかな修験者を集めて加持祈禱をさせる。

先程の文章に 御調法(みずほう)や何やなど、わが御方にて多く行はせたまふ。これがその事を意味している。正体不明の物の怪を病人の体から追い出し、正体を明らかにして懲らしめることである。

 

しかし彼らが必死にやっても、葵上の体から一向に離れることもなく正体を明らかにしないものが

ある。一体何が葵上に取り付いているのか。修験者たちは手を焼いている。

朗読⑦ 物の怪や生霊(いきりょう)などが現れて名乗りをするが、ぴったりと取り付いて離れないものが

          ある。尋常ではない。

物の怪、生霊(いきすだま)などいふもの多く出で来てさまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなければど、また片時離るるをりもなきもの一つあり。いみじき験者(げんざ)どもにも従はず、執念きけしきおぼろけのものにあらずと見えたり。

 解説

物の怪だけではなく生霊というので、生きている人の霊も葵上に取り付いていたのである。それが次々と正体を名乗って調伏されていく。そんな中で葵上の体から、片時離るるをりもなきもの一つあり。絶対離れようとしない全く執念深いものがいる。それに人々が手を焼いている様子が、今の文章に描かれている。場面は葵上のいる左大臣家から別の所に切り替わる。それは六条御息所の所である。葵上は日々得体の知れないものに苦しめられている。同じ頃の事である。

 

六条御息所は変な夢を見るようになる。体の不調に悩まされ屋敷を離れ療養していたが、その夢とはこんな夢である。

朗読⑧ 六条御息所は葵上を苦しめている物の怪が自分の生霊だとか噂され、そんな積りはないのだが、自分から抜け出した魂が葵上に取り付いているのかもしれないと思う。

        そして自分が葵上をいたぶっている夢を見る。

大殿に、御物の怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ。この御生霊(いきだま)故父(こちち)大臣(おとど)の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなど思ふ心もなければ、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむと思し知らるることもあり。年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれどかうしも砕けぬを、はかなきことのをりに、人の思ひ()ち、無きものにもてなすさまなりし御禊(みそぎ)の後、一ふしに思し浮かれにし(こころ)(しず)まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君と思しき人のいときよらにてある所に行きて、とかくひきまさぐり、
現にも似ず、(たけ)
くいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと度重なりにけり

 解説

六条御息所はおかしな夢を見るようになった。うつらうつらと彼女は微睡(まどろ)むとそこに見えてくるのは、自分が行ったこともない場所である。そこにはかの姫君とおぼしき人、即ち葵上と思われる女性が横になっている。

その かの姫君と思しき人のいときよらにてある所に行きて、

辺りはすっかり清められて白い布などで、部屋がしつらえられているのを見ると、確かにこの人こそ葵の上なのであろう。

この時代、出産を控えた女性の部屋は清らかに保つべく白い布を張り巡らせていた。それでこの部屋にいるのは葵上ということになる。そして次の瞬間、その清められた部屋で身を横たえている女君に対して

とかくひきまさぐり、現にも似ず、(たけ)くいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと

度重なりにけり。

六条御息所は生れてこの方、人に対してしたことの無い様な振舞いで猛々しく相手を揺り動かす。そうした乱暴に及ぶ自分の様が見える。全ては夢の中の話である。乱暴をはたらくそんな荒々しい夢である。そこでハッと目が覚める。六条御息所はそういう不思議な気持ちの悪い夢を時々見るようになった。こればどういう事であろうか。これは古い時代に信じられていた遊離(ゆうり)(こん)信仰ということである。人は身と魂とから出来ている。何らかのきっかけで、魂は身を離れて彷徨い出すことがある。それが 遊離(ゆうり)(こん)。これは平安時代には広く信仰されていた。「源氏物語」以前に書かれた「更級日記」には、やがて死を迎えることになる夫が、妻である作者を都に残して地方に下っていく場面があるが、まさか作者自身も夫もその時点では、そんなことになろうとは夢にも思わなかったのだが、途中まで夫を送って行った人が帰ってきて、作者に報告する。人魂(ひとだま)がキラキラと都の方に飛んでいくのを見たと。その時作者はそれが何を意味するか分からなかったが、その後間もなく夫は亡くなる。それ以前から身と魂のバランスが崩れていて、体は地方に下っていたが魂は体を離れてふらふらと彷徨い始めていたのか。後になって作者は気付いた

似た話は平安時代の作品にはあちこちに記録されている。そんな風に何かをきっかけに魂は身から彷徨い出すと信じられていたのだが、それは夢にも深く関っていた。人が寝ている時に魂が 身から抜け出して、あちこち彷徨い歩く。その時に魂が見たイメ-ジや風景が寝ている人には夢として記憶されるのである。都に留まるべき、伊勢に下るべきかだけではなく、葵祭見物の際の車争いでの大変な屈辱、人々の目に自分の正体が晒された事、そうした様々な事に悩み苦しむ毎日であった。そんな時に見たおかしな、おぞましい夢。もしかしたらそうした私の魂が知らない内に彷徨い出ているのではないか。信じたくないが光源氏の妻・葵上が苦しんでいるらしいことはその事と関わっているのであろうか。つまり自分がしていることなのだろうか。自らが葵上に憑りついているのではないかと考えてみるが、まさかとも思う。彼女はそう思っていた。

身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなど思ふ心もなければ、もの思ひにあくがるなる魂は、

さもやあらむ

六条御息所の心は葵上をどうかしてやりたい、滅茶滅茶にしてしまいたいなどと言う気持ちはまるでない。しかし魂、心は不思議なもの。魂は身を捨てて彷徨い出るもの。それなのに魂は自分であるが自分のものではない。コントロ-ルが出来ず、勝手に身から彷徨い出るものであるということである。

 

六条御息所がそんなおかしな夢に悩まされていることを、光源氏は全く知らない。苦しんでいる葵上を心配して、傍で暮らして居る。心の通い合いが生まれてきた。今日も葵上の傍で彼女の身を案じていたが、葵上は苦しそうにうわ言をつぶやく。「光源氏申し上げたいことがある。」原文では 「大将に聞こゆべきことあり」

そうなると周りの人々はその場を遠慮する。僧たちも声を(ひそ)める。

朗読⑨ ここで物の怪が正体を現し始める。六条御息所である。

「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」となつかしげに言ひて、

  なげきわび 空に乱るる わが(たま)を 結びとどめよ したかひのつま

とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず変りたまへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただかの御息所なりけり。

 解説

いで、あらずや。 いえ、
そんなことではありません。何を勘違いなさっているのですか。

身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへ

苦しくて堪らないので加持祈祷を少しゆるめて下さい。

かく参り来むともさらに思はぬを、

こんな風にこちらで姿を表そうとはまるで思っていなかった。

もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける

物思いを極めると人の魂は、こうして外に彷徨い出てしまう。葵上はそう言って光源氏を見つめる。更に次の歌を詠む。

  なげきわび 空に乱るる わが(たま)を 結びとどめよ したかひのつま

嘆きのあまりに身を抜けだして空に彷徨っている私の魂を、下前の(つま)を結んでつなぎとめて下さい。そう語る葵上の声も雰囲気も、その人にもあらず変りたまへり。 いつもとまるで違う。今目の前にいるのは葵上である。そこで光源氏は気付いた

ただかの御息所なりけり。六条御息所であると。

葵上を苦しめてきた物の怪の正体がここで明らかになった。六条御息所自身が、自分の心を疑い始めていたように、その魂が身を離れて葵上を苦しめてきたのである。六条御息所自身は、葵上を苦しめるという心は無かったというのに。

しかし魂は人に棲みついたもう一つの自分である。危害を加えようとは全く思っていないのにと、彼女自身は思っていたが、魂はそうでなかった。

 

光源氏は、これは六条御息所だと思ったがこういう。「あなたは誰ですか。名乗りなさい。」

物の怪は自らを正体を名乗ることで調伏されるのである。そこに周りの人が寄ってきて、葵上を抱き上げようとする。

朗読⑩ 御子が生まれた。憑座(よりまし)に移された御物の怪どもがまだ騒いでいる。後産も無事終了。

すこし御声もしずまりたまへれば、(ひま)おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく()まれたまひぬ。嬉しと思すこと限りなきに、人に()り移したまへる御物の怪どもねたがりまどふけはひはひいともの騒がしうて、後のことまたいと心もとなし。

 解説

葵上は正気を取り戻したのだろうか。

かき起こされたまひて、ほどなく()まれたまひぬ。

表情も元の葵上に戻って、お産は無事に済んだ。生まれた子は男の子である。光源氏の初めての子である。人々は喜ぶが、本当の悲劇はこの後にやってくる。

 

「コメント」

作者は紫式部ではなくて講師ではなかろうかと錯覚する位。まあ大きな山場ではある。背景から周辺説明まで丁寧なので、臨場感充分。