250629⑬ 花散る里

前回話したように、賢木の巻の最後の所で、光源氏は密会の現場をよりによって右大臣に見つかってしまう。それはこんな一夜の事でことであった。雨が降って雷も随分騒がしい夏の夕方。「怖くなかったかい」と右大臣は娘の朧月夜の部屋に入って来る。すると男の着物が目に入った。更には手習いの紙。まさかと右大臣が覗き込むと・・・この後は朗読とする。

朗読① 雷はどうだったかい と右大臣は娘の部屋に入る。そこで男が一緒にいるのを見て、

     慌てて自分の部屋に戻る。

されどいと急に、のどめたるところおはせぬ大臣(おとど)の、思しもまはさずなりて、畳紙を取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、つつましからず添ひ臥したる男もあり、今ぞやをら顔ひき隠してとかう紛らはす。あさましうめざましう心やましけれど、直面(ひたおもて)にはいかでかはあらはしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。()()の君は、我かの心地して死ぬべく思さる。大将殿も、いとほしう、つひに用なきふるまひの積もりて、人のもどきを負はむとすることと思せど、女君の心苦しき御気色(けしき)をとかく慰めきこえたまふ

 解説

密会していた女君の父親に見つかって、普通の人ならオロオロする所である。流石に光源氏、こういう時の彼は、歌舞伎の色役と言うか、全く動ぜず堂々として憎らしい程である。そして女君の心苦しき御気色(けしき)をとかく慰めきこえたまふ

そんなに嘆かなくとも大丈夫ですよと慰めている。そうした光源氏に対して、右大臣は

あさましうめざましう心やましけれど、直面(ひたおもて)にはいかでかはあらはしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。

右大臣はあきれ果てもし、しかし面と向かって暴き立てる訳にもいかず、手習いを書いた畳紙を手に寝殿に帰ってしまう。その先はわが娘・弘徽殿の女御の所である。

 

弘徽殿の女御は妹・朧月夜を朱雀帝に嫁がせようとしていたので怒り心頭である。弘徽殿の女御の光源氏に対する敵愾心は昨日今日に始まったことではない。光源氏は「源氏物語」最初の巻・桐壺の巻で桐壺帝の寵愛を独り占めした桐壺更衣の息子であるから。桐壷更衣、光源氏、母と子共々、右大臣家に仇なす気かという気分である。この事で光源氏を追い詰めることが出来ないかと、弘徽殿の女御は考え始める。そこまで語って賢木の巻は終わる。

 

ここで「源氏物語」の世界をより深く理解するために、今話した物語の背景について解説する。まず取り上げたいのは、朧月夜が ()()の君 と呼ばれていること。この時代 (かむの)侍司(つかさ) という役所があって、この役所は宮中の後宮に関することを司る役所なので、職員は女性である。その長官が()()の君である。その長官が 朧月夜なのである。この役目は帝近くに位置して、後宮の一員となることもある。その長官が他の男と接するというのは、大スキャンダルなのである。

光源氏がライバルの右大臣家の姫君と関係を持ったということを越えて、後宮を司る、そして天皇の愛人で、将来の后候補である、そうした女君と接したということ。よって弘徽殿の女御は、この事件で光源氏を失脚させることが出来るのではないかと考えたのである。いずれにせよ、今回の事件は大事になりそうである。その為、光源氏は自ら判断を下すことが必要になった。それは自分の為というより春宮(とうぐう)の為である。

賢木の巻で藤壺は出家してしまった。それを受けて光源氏は、世の中が嫌になってしまったが、春宮(とうぐう)のことが気にかかるのである。そして私までこの世を捨ててしまったら、春宮(とうぐう)がどうなってしまうのかと思うのである。藤壺が出家して現世を引いてしまった今、守るのは自分しかいないと意識したのである。そうしたことが賢木の巻に書いてあった。

右大臣家、弘徽殿の女御にとって一番邪魔なのは春宮(とうぐう)である。春宮(とうぐう)を引きずり下ろすのが、右大臣家にとっては望ましい。しかしそこには後見役として光源氏がいる。これまでも右大臣家は光源氏に対して様々な圧力をかけてきたが、今回その光源氏を取り除く大きな材料を得たのである。

以上の事が理解されていないと、この花散里の巻という非常に短い巻の主題を理解できないので、今日は賢木の巻以降の政治状況、光源氏を取り巻く環境について丁寧に説明をした。

 

それでは花散里の巻に入る。そこで光源氏が次のような思いを抱いていることが語られる。先ずは

冒頭の部分である。

朗読② 色々な事が厄介で気になることばかりなので、世の中が厭わしくなる。しかし振り捨て

     られる事ばかりではない。

人知れぬ御心づからのもの思はしさは何時(いつ)となきことなめれど、かくおほかたの世につけてさへわづらはしう思し乱るることのみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しならるるに、さすがなること多かり。

 解説

今文章に出てきた語彙を並べてみると、もの思はしさ、わづらはしう思し乱るること、心細く、世の中なべて厭はしう となる。光源氏は世の中の事が全て嫌になっているようである。

そうした思いを抱きながら光源氏は、桐壺院が亡くなって以来淋しく暮らす人々、右大臣家の勢力が強くなって自分と同じように日影に置かれ淋しい思いをしている人々を、一人一人訪れる。その最初の人物がこの花散里の巻で初めて登場する麗景殿の姉妹である。

 

姉妹のプロフィルを確認しよう。

朗読③ 麗景殿 は院の後宮の一人であったが皇子は生れず、院崩御後は痛わしい状況で

     あった。光源氏は妹とは関りがあった。これらの事を思って光源氏は姉妹を訪ねた。

麗景殿と聞こえしは、宮たちはおはせず、院(かく)れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて過ぐしたまふなるべし。(おとうと)の三の君、内裏(うち)わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れもはてたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くしはてたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。

 解説

桐壺院が亡くなって、辛い毎日を送っているのは光源氏だけではなかった。麗景殿 という建物が宮中にあるが、そこを与えられていた女御。女御という位なのでそれなりの家柄で教養も高く、そうした女性であることが想像される。

この麗景殿 の女御は亡き桐壺帝の后の一人であった。院の崩御以来、光源氏に庇護されながら過ごしてきた。光源氏がこの麗景殿 の女御を訪ねようと思ったのは、無沙汰のお詫びとご機嫌伺いだけが目的ではなかった。女御には妹がいて、光源氏はその妹と関係があった。文章では (おとうと) とあった。古い日本語では妹の事も、(おとうと) といった。その(おとうと) の事で気になる事があって訪れたのである。光源氏も麗景殿 姉妹も世間から忘れられようとしている存在なので、今の光源氏はシンパシ-を感じたのであろう。唯でさえ憂鬱な五月雨の頃、久し振りに晴れた日を逃さず、光源氏は姉妹の屋敷に向かう。

 

その途中の事である。

朗読④ 目立たないようにして出発したが、中川の辺りで良い琴の音を聞く。たった一度

     会った事のある女の家である。

何ばかりの御よそひなくうちやつして、御前などもなく、忍びて中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴をあづまに調べて搔き合わせ賑はしく弾きなすなり。御耳とまりて、(かど)(ちか)なる所なれば、すこしさし出でて見入れたまへば、大きなる桂の樹の追風に祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、ただ一目見たまひし宿(やどり)なりと見たまふ。

 解説

麗景殿 の女御を訪ねようと屋敷に向かう途中の事。ただ一目見たまひし宿(やどり)なりと見たまふ。これは何時か訪れた事のある屋敷である と光源氏はつぶやく。若い光源氏が何か関りを持った女性の屋敷なのであろう。中川の辺りでささやかな屋敷が目に留まる。光源氏は惟光を屋敷の中に入れて、歌を託す。

 

朗読⑤ 昔訪ねた事のある光源氏ですと言う歌に対して、どうもはっきりしませんという返事の

      歌。わざと知らない振りをしているのである。

  をち返り えぞ忍ばれぬ ほととぎす ほの語らひし 宿の垣根に

寝殿と思しき屋の西のつまに人々ゐたり、さきざきも聞きし声なれば、声づくり気色とりて御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもしておぼめくなるべし。

  ほととぎす 言問ふ声は それなれど あなおぼつかかな 五月雨の空

ことさらたどると見れば、「よしよし、植えし垣根も」とて出づるを、人知れぬ心にはねたうもあはれにも思ひけり。

 解説

をち返り えぞ忍ばれぬ ほととぎす ほの語らひし 宿の垣根に 光源氏の歌である。

自分をほととぎすに例える。夏を告げるホトトギスが、昔関りを持ったあなたのお屋敷に久し振りにやってきました。私の事を覚えていますか という歌である。今日の光源氏はこの屋敷の女性を訪れるのが目的ではなく、麗景殿 の女御を訪ねようとしているのである。そう意味でこの歌は、あなたの事を忘れかねて強行してやってきました というのは嘘なのである。こういう嘘は、王朝人が好ましいものと大切にした心振りなのである。本当の事を言ってはいけない場合である。

そうすると相手はお会いしたいとなるが、光源氏の予想は外れる。けんもほろろな対応であった。

  ほととぎす 言問ふ声は それなれど あなおぼつかかな 五月雨の空

確かに聞いたことはある声ですが、どなた様ですか と返事してきた。

ことさらたどると見れば、

わざと知らない振りをしていると分かったので、光源氏は惟光に「もういいよ、先を急ごう」と言って、車は動き出す。

今の光源氏は逆境にある。今の光源氏と付き合っても得にならない、もし関りを持ったら厄介なことになりかねないという気分が、昔関りを持った女性の所まで蔓延している。この中川の女性は、今の光源氏の立場を理解し時代の変化を察知しているのである。ああこんなところまでと、光源氏は身をもって知ったである。既に予兆は幾らもあった。

 

元に戻って、賢木の巻から例証をあげる。

朗読⑥ 新年になったが院の喪中なので、ひっそりと鎮まっている。光源氏の所は除目の時と

     いうのに閑散としている。

年かへりぬれど、世の中いまめかしきことなく静かなり。まして大将殿は、ものうくて籠りゐたまへり。除目のころなど、院の御時をばさらにも言はず、年ごろ劣るけぢめなくて、御門(みかど)のわたり、所なく立ちこみたりし馬、車うすらぎて、宿直物の袋をさをさ見えず。

 解説

除目 というのは、春と秋にあった役人の任命式の事である。時の移ろいの中で、時代を支配する人や権力層が変わる。すると敏感に察知する変わり身の早い人達がいる。昨日まで光源氏の屋敷の前は人が出入りして、取り入ろうとしていた人が うすらぎて とあった。桐壷院が崩御して、右大臣家が権力を持ったら、あっという間に光源氏の傍から去っていく人々がいる。そんな様が、賢木の巻から少しずつ描かれていた。今の文章でそれがいよいよはっきりと光源氏に突き付けられる。こうしたせちがらさ、変わり身の早さ、悲しいことだけどこれが世の中である。人の心とはそうしたものだと、紫式部は、冷静にこの作品で繰り返し書いている。光源氏と様々な女性との華やかな関りを描く一方、そうした世の中の移り変わりの速さ、時流を気にして何とか力のある方に縋ろうとする人々が大多数なのである。その事も書いている。こうした世の中の在り方、悲しい現実をここまで確かな眼差しで巧みに描いた作品が、源氏物語以前にあっただろうか。そうして光源氏の前から去っていく人々がいる

一方、暖かく接してくれる人々もいる。そうした場面も描かれている。

 

その一つの例が麗景殿 の女御の姉妹である。光源氏と惟光は回り道の後、彼女たちの屋敷に辿り着く。

朗読⑦ 女御と昔話を夜更けまでする。橘の香りがする。年を取っておられるが気品高く

     いらっしゃる。

まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。二十日の月さし出づるほどに、いとど()(たか)き影ども()(くら)く見えわたりて、近き橘のかをりなつかしく匂ひて。、女御の御けはひ、ねびにたれど、飽くまで用意あり、あてにらうたげなり。

 解説

光源氏は麗景殿 の女御と対面し言葉を交わす。相手は父親・桐壺院の女御であった。季節は夏、五月二十日過ぎ、橘の香りが立ち込めている。五月はホトトギスと並んで、橘が付き物である。麗景殿 の女御 は深い心の持ち主。桐壺院の寵愛が格別深い訳ではなかったが、心優しい、親しみやすい人柄と桐壺院は思っておられた。

 

そんなことを思っている内に、さっきの中川の屋敷で囀っていたホトトギスであろうか、同じ声で鳴くのが聞こえたので、それをきっかけに光源氏はこう呼びかける。

朗読⑧ 中川のあの垣根で鳴いていたホトトギスだろうか。慕ってきたのか。

     昔の人が懐かしいのでやって来たのだろう。

ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。慕ひ来にけるよ、と思さるるほども艶なりかし。「いかに知りてか」など忍びやかにうち(ずん)じたまふ。

  橘の 香をなつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ

 解説

ホトトギスと橘の花が、古今和歌集の懐旧の象徴である。

  五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の袖の香ぞする よみびと知らず

有名な歌で、その事によって橘の花というと、懐旧の情の象徴となった。

光源氏の歌は、橘の花の香を懐かしんで、あのホトトギスがこの花散る里を訪ねて参りました という意味である。橘に花が散ってしまった里、それは桐壺院亡き後も益々零落して世の中の人々からすっかり忘れられようとしている

麗景殿それに対してそんな花盛りを過ぎてしまった花散る里だけど、その里を懐かしんで、今年も鳴き渡ってきたホトトギス、それが光源氏の比喩である。そして光源氏は麗景殿 の女御の妹の所を訪ねる。そして積もる話をした。

 

花散里は源氏物語全体でも非常に短い巻で、以上のように麗景殿 の女御の姉妹との交流を含めて、語り手はこの巻をこんな風に語り納めている。

朗読⑨

仮にも見たまふかぎりは、押し並べての際にはあらず、さまざまにつけて、言ふかひなしと思さるはなければにや、憎げなく、我も人も情をかはしつつ過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変るもことわりの世の(さが)と思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにてありさま変りにたるあたりなりけり。

 解説

意訳をしてみる。

仮にも光源氏と関係を持つような女君たちは、身分も品格も人柄もどこにでもいるような方々ではなく、実際に会って見て期待と違って残念と思う事はまずない。だから光源氏も一度、関係を持った女君たちとは長く交流を続けてそうした交際が何時までも続くように考えている。しかしそんな関係を面白からず思って、自分から関係を切ってしまう人もいる。

しかしそれも世の中、そんな人を責めても仕方ないことと、光源氏は考えて居るようである。語り手はそんな風にこの巻を閉じる。光源氏との縁を自ら断ち切ってしまった人の例として、この花散る里の巻では中川の屋敷の女が描かれている。その屋敷の主人が光源氏に対して冷淡な態度を示して、会おうとしなかった。その後だけに光源氏の心は、それと正反対な態度を示した麗景殿の女御姉妹の

存在にホッとする訳で、二人は光源氏という名のホトトギスが垣根に止まって羽根を休めようとする。それに対してさあどうぞと、光源氏を懐かしんでくれた。しかし今日の最初に話したような今の

政治状況と光源氏を取り巻く環境を考える時、花散る里に住む麗景殿の女御姉妹のように、光源氏を温かく迎え入れる人々の数は多くない。紅葉の賀、花の宴、そうした光源氏の絶頂期を描いた巻。その頃には光源氏に魅了され,追従していた人々も、今や光源氏なんて知らないと言い出しかねない。

さて光源氏はこの都で光源氏はどうやって生きていくのか。右大臣家に睨まれたままま、身を小さくして保身に努めて目立たぬよう生きていくしかないのであろうか。人生の大きな岐路である。

「コメント」

 

調子に乗ってやりたい放題だったから、全く同情なんかしないけれど、さあどう対策するかには大きな興味がある。