250831㉒ 松風の巻(1)

冷泉帝の御前での絵合せが幕を開けた。権中納言の力の入れようは先日に輪を掛けたもので、

勝負は遂に夜に及ぶ。今日もきらびやかな名品の数々よって、斎宮の女御をねじ伏せようとする

右方、弘徽殿の女御方は勢いがある。

 

さて最後に左方、斎宮の女御、光源氏方が出してきた絵は意外なものであった。それには読者をあっといわせることになるがそれは何であるか。

朗読① 左方は光源氏が描いた須磨での絵である。この絵を見ると人々は当時、都で光源氏

     がいたわしい、悲しいと思っていたことが思い起こされる。

左はなほ数ひとつある果てに、須磨の巻出で来たるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選り置きたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひ静かに描きたまへるは、たとふべき方なし。親王(みこ)よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。

その世に、心苦し恋しと思ほししほどよりも、おはしけむありさま御心に思ししことども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはしたまへり。

 解説

両者共に譲らぬ戦いの末に、最後に今こそと光源氏が出してきた一品。それは光源氏が須磨に避難していた時に描き留めていたもの、今の文章で 須磨の巻 と呼ばれていた、絵巻の文字だけの絵日記であった。須磨の浦々、磯の様を描き、所々に暴れる波を配した光源氏自身による絵日記である。須磨の巻の解説をしている時に、こんな風に説明しておいた。語り合う人のいない須磨の浦だ、光源氏は見たこともない自然に圧倒され、刺激され、興にまかせて筆を取る毎日。都では思うに任せなかった仏道修行と絵を描くことが、孤独な彼の心を慰めてくれたのである。須磨の巻を読んだ際には、光源氏の日常を知らせる一寸した一場面と思われたが、紫式部にしてみればそうでなかった。あのくだりは、この絵合の場面に繋がっていく、その伏線だったのである。須磨への流離という光源氏最大の危機。明日も分からぬ苦難の日々を涙を交えて描き綴ったその絵に、心をゆすぶられたのは今日の判者光源氏の弟宮・帥宮だけではなかった。今日参加している、今時めいている人々は、光源氏の流離の時代には辛酸をなめた人々ばかりである。若き冷泉帝は東宮時代、いつ位を外れてもおかしくない危機があった。今の権中納言も、敵対する右大臣家の天下では悲運をかこつしかなかった。しかしそれ以上に色々と耐え忍んだのは光源氏である。光源氏の逆境時代の絵と、その日々を綴る

言葉をまざまざと見せつけられた人々が、心を動かされない訳はない。光源氏の絵は(ひな)びた須磨の地で描かれたのであり、豪華でない紙で仕立てられていた。しかし光源氏の絵には、心の限り思ひ静かに描きたまへるは、たとふべき方なし。 とかその世に、心苦し恋しと思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のやうに見え、 とか、心 という言葉が繰返し使われていたように、豪華さや技術に優る深い心があった。このエピソ-ドは、「源氏物語」全体の中でも大切な事だと思うので、この回の初めに少し時間をかけて話しておきたい。私達の目や心はとかく華やかで

目新しい贅沢なもの強いものに引き付けられ勝ちであるが、光源氏の絵は素朴で心がこもっている

もので、その心が人々の心を打ったのである。紫式部はこのように一見、古めかしい物、素朴なものの中に、心がある者を大切にしているのである。絵合わせの巻からは、そうした紫式部の考えが浮き彫りになっている。

そして次の文章に 左勝つになりぬ。 と書かれている。斎宮女御が勝ちを納め、中宮の位を勝ち得た瞬間と言っても良い。しかし前回も話したが、絵合わせで勝った方が后として頭角を現すとか中宮の地位を射止めたとは現実にはあり得ない事であった と話した。それは紫式部が作り出した物語なのである。

さらにもう一つだけ話しておきたいことがある。斎宮の女御の存在、彼女のような人が中宮になる事自体、「源氏物語」が描かれた紀元1000年頃、一条天皇の頃にはあり得ない事であった。それは

知って置いて頂きたい。一条天皇の時代、それは藤原氏全盛期。天皇の後宮に入内する女性は決まって、藤原氏の娘たちで、それが女御になり中宮になり皇后になるのが当たり前の時代であった。

源氏の娘たちが登場し、藤原氏の娘たちと拮抗し、それが中宮になるなどと言うことはあり得ない話であった。中宮定子だって、道長の娘彰子だって、中宮だ皇后だというのは藤原氏の娘だから。藤原氏の人々は自分が天皇になることは出来ないが、キングメ-カ-になる為に娘を東宮に入内させて、次の天皇を生ませて行ったということを何代もかけてやって来たプロの政治家なのである。紫式部は道長に仕えながらも、そうした時代の在り方に思う所があったのであろう。自分が書いた「源氏物語」の中で、現実にあり得なかった皇族出身の后を誕生させた。「源氏物語」という作品は、単に現実を

そのまま描いた物語ではない事に関しては、また別に機会に話す。

 

さて斎宮の女御が絵合わせに勝利した。しかし光源氏はこの後、地位が上がるにつれて、所詮この世はかりそめのものに過ぎないとの思いを深くしていく。絵合わせの巻の最後に次のような場面が

ある。

朗読② 光源氏は世は無常と考え、自分は官位も人望も過ぎるものになってしまった。そして

     仏道修行のための御堂を山里に造らせた。

大臣(おとど)ぞ、なほ常なきものに世を思して、いますこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなんと深く思ほすすべかめる。昔の(ためし)を見聞くにも、(よわい)足らで官位(つかさくらい)高くのぼ世に抜けねる人の、長くえ保たぬわざなりけり。この御世には、身のほどおぼえ過ぎにたり。中ごろなきになりて沈みたりし(うれ)へにかはりて、今までもながらふるなり。今より後の栄えはなほ命うしろめたし。静かに籠りゐて、後の世のことをつとめ、かつは齢をも延べん、と思ほして、山里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまひ、仏教(ほとけきょう)のいとなみ添えてせさせたまふめるに

 解説

光源氏は 

常なきものに世を思して、いますこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなんと深く思ほすすべかめる。

即ち、年若く抜群の出世をしたものは、長くえ保たぬわざなりけり。世を長く保つことが出来ない。場合によっては早世することもある。そう考えてかねてから思っていた出家の願いを叶えるべく、

山里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまひ、 とあった。都の郊外に御堂の建設を始めた。

 

この御堂は結果として、却って光源氏を現世に引き戻すとになるのだが。というのも絵合わせの巻では、全く登場の無かったあの一族の大きな動きがあった。明石の一族で彼女は今どうしているか。

朗読③ 光源氏からは上京するようにと絶えず便りがある。世間の数にも入らぬ身の程なの

     で、却って光源氏とのこの娘の顔よごしになってしまうだろうと思う。

明石には御消息絶えず、今はなほ(のぼ)りぬべきことてをばのたまへど、女はなほわが身のほどを思ひ知るに、こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなか、さてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ、この若者の御面(おんおもて)伏せに、数ならぬ身のほどこそあらはらめ。

 解説

明石の君は住吉社に詣でた時に、遥か彼方に光源氏を見た時以来である。

明石には御消息絶えず、今はなほ(のぼ)りぬべきことてをばのたまへど、光源氏は便りをしきりに出す。そして明石の君の為に自分の住む二条院の隣に二条東院を作ったことも話した。しかし明石の君は身の程を、また娘のことを考えて決断が付かない。

 

二条東院はこんな様子である。

朗読④ 光源氏は東の院を新築して、花散る里を住まわせる。東の対は明石の君に。北の対

     は広くして、自分と関わりのあった女性たちを住まわせる。

東の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿(わたどの)などかけて、政所(まんどころ)家司(けいし)など、あるべきさまにしおかせたまふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は筝に広く造らせたまひて、かりにてもあはれと思して行く末かけて契り頼めたまひし人々集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見どころありてこまかなり。

 解説

寝殿作りの西側の建物が、花散る里。明石の君は東側と光源氏は考えていた。その次に北側は、光源氏が人生で関りを持った女性達が安心して生活出来るようにという建物である。空蝉、末摘花・・・。

 

光源氏は明石の君の上京の為に準備していたが、明石の君の決断はつかない。身分の事を気にしているのである。しかし一方ではこんな思いがあるのも事実である。

朗読⑤ しかしそうかといって姫君がこんな草深い片田舎で育ち、人並みに扱って貰えないの

     も切ない。親たちも娘の言い分も無理からぬことと思い、嘆息している。

また、さりとて、かかる所に生ひ出で数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思ひ嘆くに、なかなか心も尽きはてぬ。

 解説

自分はこのような片田舎で朽ち果てたとしても、姫君を同じ身にするのは忍びない。自分は決心がつかない。しかし遂に明石の君は決断をした。

 

明石の君は二条院で小さくなって暮らすのかというとそうではなかった。

朗読⑥ 昔、母の祖父の中務宮(なかつかさみや) という方の所領が、京都郊外の 大堰(おおい)川 にあって、荒れ果

     ているのを入道は思い出して、管理人を呼び出して相談する。

昔、母君の祖父(おおじ)大堰(おおい)中務宮(なかつかさみや)と聞こえけるが領じたまひける所、大堰(おおい)のわたりにありけるを、その御(のち)はかばかしう相継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて宿守(やどもり)のやうにてある人を呼びとりて語らふ。

 解説

入道と妻は昔、京都に暮らしていた。入道の父親は大臣であったとされる。一方母・尼君の家はこれもれっきとした家柄である。中務宮(なかつかさみや) の末裔。つまり宮家で天皇家の血を受けているのである。二条院の家に突然足を踏み入れ、数多くの女君たちとの関係に踏み込むのは余りにも危ういし、その

自信もない。先ずは 大堰(おおい)川 の山荘に居を構えることが少しでも光源氏の世界に近付くことになる。一家はそう考えたのであった。光源氏との娘が三歳になる頃であった。入道から光源氏にその事が知らされる。

 

入道は明石の屋敷の管理もあり居残ることになり、一家は別れの時を迎える。明石の君と娘には母の尼君が付いていくことになる。しかしそれぞれに別れは辛い。その様子は次の様に描かれる。

朗読⑦ 出発の朝の情景である。入道は早く起きてお勤めをする。玉のようにかわいがって

     いた孫娘との別れでもう別れの悲しみにどうにも堪えきれないでいる。

秋の頃ほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を見出しゐたるに、入道、例の後夜(ごや)よりも深う起きて、鼻すすりうちして行ひいましたり。いみじう言忌(こといみ)すれど、誰も誰もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外には放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人に(たが)へる身いまいましく思ひながら、片時見たてまつらではいかでか過ぐさむとすらむと、堤あへず。

 解説

入道は朝の仏道修行も身が入らず、鼻をすすり涙を流す有様である。彼は孫娘の事を 

若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、

中国の書籍に出てくる幻の宝物である。そんな宝物のような孫娘と別れるのは辛い。

 

しかし入道は言う。

朗読⑧ 入道は「今日は永の別れとしましょう。私が死んでも法要など気に懸けないで。荼毘の

     煙になるまで若君の将来を幸せを祈っています。」ここまで言うと流石に泣き顔に

     なった。

今日長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、後のこと思しいとなむな。()らぬ別れに御心うごかしたまふな」と言ひ放つものから、「煙ともならむ(ゆうべ)まで、若君の御事をなむ、六時の勤めにもなほ心きたなくうちまぜはべりぬべき」とて、これにぞうちひそみぬる。

 解説

今日を限りにお前たちとは永の別れとなろう。私はその覚悟だ。私はやがて命尽きて煙となる。その時まで若君の事を仏に祈り続けるが、たとえ私が死んだと聞いても気に懸けてはならぬ。と流石に泣き顔になる。一行は朝早く静かに明石の浦を離れ都へ向かった。

 

人目につかぬうちに到着した山荘はこんな様子であった。

朗読⑨ 順風だったので予定通り亰に入った。屋敷も風情があり、明石の家に似ているので

     変わった気がしない。建て増したところなど風流で鑓水も工夫を凝らしてある。

思う方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見咎められじの心もあれば、道のほども軽らかにしなしたり。家の様もおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所かへたる心地せず、昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。造りそへたる廊などなゑあるさまに、水の流れもをかしうしなしたり。

 解説

大堰(おおい) の山荘は長年暮らした明石の屋敷を思わせて、一行はホッとした。入道から一行の上京の知らせを聞いた光源氏は、大堰(おおい)川 のほとりの山荘はどんなものか、惟光に命じて調べていた。

入道は命じてあちこち手入れさせたが、光源氏の配慮もあって、この平安京の西郊外の山荘はそれなりに住みやすいものになっていた。それで明石の君たちもホッとした。勿論それもあるが、それだけではない。

年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、 とあったように、この都を離れた 大堰(おおい)  の風景と、明石の浦とが良く似ているというのである。山と海辺であるが、その理由がこの巻の名前、松風と深く関っているのである。

この山荘近くを流れる 大堰(おおい) 、そこには松が生い茂っている。それが明石の君の心を落ち着かせた。大堰(おおい) と明石の共通点だというのである。明石の浜辺、そこに広がる白い砂浜と青い松の日本の原風景を表す、白砂青松という言葉がある。

 

その松風に促されるように、明石の君はある品物を取り出す。

朗読⑩ 明石の方は所在なさに、光源氏が形見として残した琴をかき鳴らす。松風が調子

     を合わせている。

なかなかもの思ひつづけられて、棄てし家居も恋しうつれづれなれば、かの御形見の(きん)を搔き鳴らす。をりのしみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり。

 解説

光源氏が明石の地を去る時、これは私を偲ぶ(よすが)としておくれと残した楽器。「源氏物語」が書かれた時期には演奏法が途絶えていたらしい楽器、(きん)である。光源氏はその琴を、都で再び会う時までの

形見としておくれと明石の君に渡した。明石の君はその琴をかき鳴らす。

  琴の音に 峰の松風 通ふなり いづれのおより  調べそめけむ という歌がある。琴の音は峰を渡る松風に似ているという歌である。そして、遂に二人は再会する時が来る。それには色々な仕掛けがある。その一つは、光源氏が今、郊外に建築中の御堂。その具体的な場所は山里とばかりで、

明らかではなかったがここで明らかになる。光源氏が御堂の建築を進めてきた場所とは、嵯峨野、

大覚寺の南である。

 

つまり御堂は明石の君の山荘のごく近くである。入道が改築を命じた管理人もこんな風に言っていた。

朗読⑪ この春頃から内大臣が数々の御堂を立てて騒がしくなっています。閑静な場所では

     ありませんよ。

この春のころより、内の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむいとけ騒がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ造り営みはべるめる。静かなる御本意(ほい)ならば、それや(たが)ひはべらむ

 解説

管理人は入道が引っ越してくると思ったのであろう。管理人は細かい事情は知らないので、会話が

チグハグと食い違って、面白い所である。この辺りは閑静な所と思って、仏の道に仕えるあなた(入道)が来れば、ご期待に沿えないでしょう。というのもこの春頃から内大臣様が、このごく近所に御堂の

建設をされて騒がしくなっていますという。管理人は明石の一族が引っ越してくるのが面倒なのである。でも入道はそう言う管理人に色々と修理をさせて、明石の君一族が住むことになった。この山荘がこういう因縁の場所になるのである。

次回は光源氏と明石の君の再会の場面を読む。

 

「コメント」

 

明石一族の 大堰(おおい)川  の山荘と、光源氏の御堂がごく近いという偶然。紫式部はよく頭が

回る人だ。