250914㉔薄雲の巻(1)

今回から薄雲の巻。この放送ももう少しで折り返しである。物語は前回の続きである。明石の君はなおも山荘にいた。

姫君と一緒に上京したが、時は徒らに流れていく。しかしそれでは何のためにこの大堰川までやって来たのか分からない。この姫君の為にと思って上京の決断を下したのであったのに。この子を光源氏に渡す決断がどうしてもつかない。遂に光源氏が重い口を開いた。

朗読① 若君のこの状態は不都合です。紫の上も会いたがっているので、二条院に連れて

           いって袴着のことなど相談したいものです。

「さらばこの若き若君を。かくてのみは便()なきことなり。思ふ心あればかたじけなし。(たい)に聞きおきて常にゆかしがるを、しばし見ならはせて、(はかま)()のことなども人しれぬさまならずしなさんとなむ思ふ」と、まめやかに語らひたまふ。

 解説

「ではこの若君だけでも私に託しておくれ。都では対の上(紫の上)も会いたがっているので。」これは明石の君にとって残酷な言葉でもあったが、ぎりぎりの提案である。今日でも人間の記憶は三歳位からと言われる。三歳までに引き取らないと、この子が可哀想。そうした意味もあるが、それだけではない。光源氏の口から 袴着 という言葉が出た。三歳と言えば 袴着 の儀式がある。光源氏も三歳の時に行ったことが桐壺の巻に書かれていた。成長しながらその年頃にそうした儀式を経験しながら社会の一員になっていく。一人の人として社会に認知されていく訳で、それが誰の手でどこで行われたかが問題になり、後々まで記憶されていく。姫君の 袴着 を大堰川の山荘で行ったというのと、都の二条院で光源氏と紫の上の下で行われたというのは雲泥の差である。ましてこの姫君は将来后になるかも知れないのだから、人生の門出である 袴着 は後々まで尾を引いて、彼女の人生に大きく関わってくる。

 

光源氏に 袴着 はどうするのですかと聞かれて、明石の君はこう考えた。先程の場面の続きである。ここは講師が音読をする。

朗読② 私の事はともかく、姫君の事はあの方の心次第ということということらしい。それならば

          物心付かない内お任せした方が良いのかも知れない。

わが身はとてもかくても同じこと、生ひさき遠き人の御上もつひにはかの御心にかかるべきにこそあめれ、さりとならば、げにかう何心なきぼとにや譲りきこえまし、

 解説

「その通り、光源氏の言う通りなのだ。紫の上に全てをお任せして、姫をお渡しすれば、今は何も分からないのでその方が良いのかもしれない。」と自ら言い聞かせるようにつぶやく。また既にそれを追いかけるように別の思いが募って来る。この子を手放して、明日からどうやって生きていくのかと思いが定まらない。そして光源氏はそのまま都に帰った。

 

膠着状態を破ったのは明石の君の尼君であった。尼君は「御前が可哀想なのはそうだが」と言葉を続ける。

朗読③ 姫を渡すのは辛いことだけど、結局は姫の為です。渡しなさい。帝のお子でも母方

          次第で身分が違います。光源氏が臣下でいるのは母の父が地位が低かったので、

          更衣こういばらと言われて差別されたからです

尼君、思いやり深き人にて、「あぢきなし。見たてまつらざらむことはいと胸いたかりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからんことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みえて、渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ、帝の御子もきはぎはにおはすめれ。この大臣おとどの君の、世に二つなき御ありさまながら世に仕へたまふは、故大納言の、いま一階ひときざみなり劣りたまひて、更衣こういばらと言はれたまひしけぢめにこそはあはすめれ。

 解説

この若君の幸せを先ず考えなさい。光源氏は考えがあって仰っているのです。渡したてまつりたまひてよ。あちら様にお渡ししなければならない時が来たのですよ。母親が誰かということが、この世では物を言うことを忘れてはいけません。その例えに引き合いに出した人物は光源氏であった。「御前のよく知っている光源氏様のことだよ。あのすばらしくて、天皇の御子であった人が、今は臣下として天皇に仕えてなぜ仕えているのか。母が所詮更衣の身分であったからこそ、光源氏様だって、朝廷に仕える身分である。

尼君、思いやり深き人にて と書かれていたが、本当にそうだと分からせる尼君の語らいである。娘の心の痛みもよく分かっているので、諄々と諭す尼君の語りに読者は感心し、紫式部はこの場面、明石の君の後押しをして、尼君と明石の君と共に上京させたいと思う。明石の君はうなずくしかなかった。

 

後日、光源氏はやってきて、 袴着 の事を聞く。すると明石の君はこう答えた。

朗読⓸ 私の傍に姫を引き留めるのでは将来が可哀想ですし、人前に出したら物笑いになる

          のではと心配です。」

「よろづのことかひなき身にたぐへきこえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、立ちまじりていかに人笑へにや」と聞こえたるを、いとどあはれに思す。

 解説

光源氏が 袴着 の事はどうしますか と聞くと、明石の君は躊躇うことなく 答えた。「私の様な者の下におりましたら、これからのことが可哀想なので」つまりこの姫をあなた様にお渡ししますと答えたのである。光源氏の心の内には、後の文章に あはれにおぼゆれど とある。明石の君は更に長い間支えてくれた乳母との別れがある。文章の続きである。

「乳母をもひき別れなんこと。明け暮れのもの思はしさ、つれづれをうち語らひて慰め馴れらひつるに、・・・・と書かれている。乳母・宮内卿の娘、今までこの人と言葉を交わし慰めあうことが、どれ程心の慰めであったことか。この人も姫君と共に去っていく。

 

私はこの大堰川の山荘で尼と生きて行けるだろうか。明石の君にとってそれは絶望であった。その年の師走、光源氏の牛車がやって来た。

朗読⑤ 雪が少し溶けた頃、光源氏は大堰川の山荘にやって来た。姫君が明石の君の傍に

          座っている。姫君の御髪が尼削ぎで美しく、目元はつややかである。

この雪すこしとけて渡りたまへり。例は待ちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸うちつぶれて人やりならずおぼゆ。わが心にこそあらめ、(いな)びききこえむを強ひてやは、あぢきな、とおぼゆれど、軽々しきやうなりとせめて思ひかへす。いとうつくしげにて前にゐたまへるを見たまふに、おろかには思ひがた刈りける人の宿世かなと思ほす。この春より生ほす御髪(みぐし)、海人のほどにてゆらゆらとめでたく、つらつき、まみのかをれるほどなど言へばさらなり。

 解説

光源氏の車は大堰川の山荘に着いた。明石の君は思いがけない行動に出る。

 

朗読⑥ 明石の君は自ら姫君を抱いて、車寄せまで出てきた。

姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄せたる所に、母君みづから抱きて出でたまへり。

 解説

今の文章はどこに注目すべきか。この時代身分ある女性が外に出てくることはなかった。明石の君は建物の一番外側に向かって、姫君を引き渡す為に出てきた。母君みづから抱きて出でたまへり。 とある。これは当時として稀有な事である。そしてこんな風に考えて居た。これでこの子とは最後、明日からは対の紫の上のものになるのだ。この場面は読者をハッと驚かせる場面である。

 

注目すべきはそれだけではない。いざ光源氏に姫君を渡す時、明石の君はこう呼びかける。

 朗読⑦ 幼い姫君と別れていつの日か会うことが出来るのだろう と詠って泣くのであった。

 末遠き 二葉の松にひきわかれ いつか()高き かけを見るべき

えも言ひやらずいみじう泣けば

 解説

歌も最後まで言いきれずひどく泣いた。いつもの明石の君と違って今日は自ら姫君を抱いたり、歌を詠んでひどく泣いたりした。今日の悲しみが分かる。明石の君の一族は光源氏と出合ったことで、ばらばらに引き裂かれる。明石の入道は一人別れて明石の地に残る。そして車は都に出発していく。

そして明石の君のそんな悲しみを思いやるのは光源氏そして紫の上であった。

 

やがて姫君は紫の上を慕い、後を追いかけるようになる。紫の上も本物の母のように接したからでもあった。

朗読⑧ 無邪気な姫君を紫の上は可愛く思うので、明石の君のことも不快ではなくなった。

          自分の出ない乳房を含ませたりしていて人目を奪う。

何ごとも聞き分かで()れ歩きたまふ人を、上は美しと見たまへば、をちかた人のめざましさもこよなく思しゆるされにたり。

いかに思ひおこすらむ、我にていみじう恋しかりぬべきさまをうちまもりつつ、ふところにいれて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ(たはぶ)れゐたまへる御さま、見どころ多かり。

 解説

紫の上は自分は子を生めなかったが、無邪気な姫君を可愛く思う。あちらの女君への不快感も亡くなり、姫君を懐に入れて出ない乳を含またりする。こんなかわいい子を奪われた明石の君の事を思う。

 

ここまで姫君の引き取りの話題であったが、物語は次の展開である。

朗読⑨ 太政大臣が亡くなった。源氏の君も残念に思う。政務をやって頂いていたので

          これからは心細く、煩わしくなるだろうと溜息をつく。

そのころ、太政(おほき)大臣(おとど)亡せたまひぬ。世の重しとおはしつる人なれば、おほやけにも思し嘆く。しばし籠りたまへりしほどをだに(あめ)の下の騒ぎなりしかば、よろづのことおし譲りきこえてこそ(いとま)もありつるを、心細く事茂くも思されて、嘆きおはす。

 解説

かつての右大臣、葵の上の父親の太政大臣が亡くなった。光源氏のライバル・頭の中将の父でもある。これで光源氏は政界のトップとなる。そして次の文章に 

天つ空にも、例に違える月日星の光見え、雲のたたずまひありとのみ世の人おどろくこと多くて

とある。

 

月日星の光 といずれも普段と違う。原因が分からない人々に動揺が走り、世の中全体が動揺している中、次のようなことが起きる。

朗読⑩ 藤壺も春の初め頃より体調が悪く、三月には重くなった。帝もご心痛である。

入道(きさい)の宮、春のはじめよりなやみわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくてもの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御気色なれば、宮もいと悲しく思しめさる。

 解説

藤壺はこの頃ずっと体調が優れない。宮中に参内して息子の帝を支えることができない。しかし絵合わせの巻では、絵合わせの判定者として威厳と品格で存在感を示していた。しかし今度の病は重篤であった。どこでそれが分かるか。

それは帝の行幸があったという記事。我が子の見舞いを受けて藤壺は次の文章でこう語る。

今度はもうこれまでと思っていた。仏事などすると人々の迷惑になるので遠慮して何もしなかった。気分の良い折は少なかったが、この様な事になってしまったと語る。そして 限りあればほどなく還らせたまふも、悲しきこと多かり。

帝には定めのあることなので、ほどなく辞去されるが悲しい事である。そして次に

宮いと苦しうて、はかばかしくものも聞こえさせたまはず、

と書かれていて、言葉を発する余力もない。

 

そしてつくづくと彼女はわが人生を振り返る。

朗読⑪ この世の栄華は並ぶもののない身であるが、この胸に秘めた嘆きも人に優っていると

          自覚した。

御心の(うち)に思しつづくるに、高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心の(うち)に飽かず思ふことも人にまさりける身、と思し知らる

 解説

后としてこれ以上ない地位に昇り、栄誉に浴して望むことはもうない。しかしこの後が見逃せない。

心の(うち)に飽かず思ふことも人にまさりける身、と思し知らる。

満たされなかった思いが一つある。

 

続く光源氏の見舞いに対して藤壺が発する言葉の中にそれを示唆する部分がある。

朗読⑫ 院の御遺言の通り、光源氏様が帝の後見を務められたことに、いつかは感謝を

          申し上げようと思っていましたがもっと早く申しあげるべきでした。これを聞いて源氏の

     君も泣いてしまう。

「院の御遺言かなひて、内裏(うち)の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかはその心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、いまなむあはれに口惜しく」とほのかにのたまはするもほのぼの聞こゆるに、御(いら)へも聞こえやりたまはず亡きたまふさまいといみじ。

 解説

「桐壺院の御遺言通りに今上帝を支えて下さったことを有難く思っています。このことをもっと早くもうし上げれば良かったと口惜しく思います。」どこが見逃せない所なのか。藤壺が告げた自らは、心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ

それはあくまで后から臣下への言葉として、秘密が現れないようにと細心の注意を払ったうえで漏らされたたった一つの告白ではなかったかということである。それが前の朗読の 心の(うち)に飽かず思ふこと に表れている。

私はあなたに心を寄せてきました。しかしそれを申しあげる機会がなかった。

 

これを光源氏はどう受け止めたか。

朗読⑬ 心の及ぶ限り御後見に励みましたが、太政大臣が亡くなられた事だけでも無常なの

      に、その上あなた様もこうした病状なので、私も心が乱れますと申し上げている間

      に、宮は亡くなってしまった。

「はかばかしからぬ身ながらも、昔より御後見仕うまつるべきことを、心のいたる限りおろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬるをだに世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、またかくおはしませば、よろづに心乱れはべらむことも残りなき心地なむしはべる」と聞こえたまふほどに、灯火(ともしび)などの消え入るやうにてはてたまひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。

 解説

光源氏は言う。勿体ないお言葉。心の限りお仕えしようと昔から思い続けてきました。しかし太政大臣が亡くなって私はどうしてよいのか分かりません。周囲の目もあるので光源氏の言葉は臣下としてのものである。それを越えることはなかった。全てを呑み込んだ光源氏の言葉であった。その言葉が終わらない内に、

灯火(ともしび)などの消え入るやうにてはてたまひぬれば、

灯が静かに消えるように宮は光源氏に見守られて息を引き取った。37歳であった。

 

「コメント」

これで一つの時代が終わった。昔の私には物語は光源氏と藤壺がメインだったので全ての終わり。しかしここからが本番で展開が待たれる。