250928㉖朝顔の巻
今回は朝顔の巻を取り上げる。この巻では重要な役割を果たすのは朝顔の君である。
彼女はこれまでの巻でも時々姿を表していたが、その人となり、どのような人であるかについては、正面から描かれることはなかった。この放送でも放送していないが、改めてそのプロフィルを紹介する。彼女は長く賀茂の斎院に務めたひとである。賀茂社は平安時代の人々にとって、とても大切な神社であった。特に四月に行われる賀茂祭、それは都の人々が毎年心待ちにしている行事である。その賀茂社には天皇家から未婚の女性が、帝に替わって日々奉仕する習わしである。それを賀茂の斎院という。賀茂と並んでもう一つの重要である神社の伊勢神宮に、これには天皇家の未婚の女性が派遣され、伊勢の斎宮といわれるのと対をなす。賀茂の斎院と伊勢の斎宮である。その賀茂の斎院を長く務めたのが今日の物語に登場する朝顔の君である。随分前から読者には知られていたが、正面から取り上げられることが無かったのは、彼女が神に仕える神域の人であったから。それだけ神秘的な存在と言ってよいのであるが、彼女が斎院を出る時が来た。その切っ掛けは父の死であった。父は桐壺帝の兄弟で式部卿の宮。邸宅が平安京の北の方、桃園の地にあったので桃園式部卿と呼ばれる。父君が亡くなったことは薄雲の巻に書かれているが、前回時間が無かったので言及していないのでここで触れる。薄雲の巻の前半から後半にかけて、夜に星や月の怪しげな光がある。要人の死が相次いだ。太政大臣、藤壺の宮、冷泉帝は藤壺の宮が亡くなった後に、例の 夜居僧都 から自分の出生の秘密を聞き、これは
大変な事だと、今の世の乱れは全てそこに原因があったのだと不安を深める。ここまでは前回話した通りであるが、更にその頃追い打ちをかけるように、皇族の長老格に当たる式部卿の宮までもなくなった知らせがある。
前回読まなかった部分なので、今回薄雲の巻のその部分、式部卿の宮が亡くなり、いよいよ動揺した冷泉帝が光源氏に退位と譲位の意向を漏らす場面を読む。
朗読① 帝はいよいよ世の中が穏やかでないことを嘆かれ、退位を仄めかし、源氏の君に
相談される。
その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、大臣はさとにもえまかでたまはでつとさぶらひたまふ。しめやかなる御物語のついでに、「世は尽きぬるにやあらむ。もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかならぬによろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによりてこそ世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにても過ぐさまほしくなむ」と語らひきこえたまふ。
解説
皇族の長老・式部卿の宮の死、それから朝顔の巻に移っていく。長く神に仕えてきた朝顔の姫君は、賀茂の斎院を退き交代した。神の領域を離れ、父宮の喪に服せねばならなかった。
そこに光源氏が顔をだす。
朝顔の巻の開幕である。
朗読② 斎院は服喪の為に斎院を退かれた。光源氏の癖で頻繁にお便りを出されるがご返事
はなさらない。光源氏は姫君の叔母の見舞いと称して朝顔の君を訪ねる。宮が亡く
なって日が浅いのに早くも荒れ果てた気配である。
斎院は御服にておりゐたまひにきかし。、大臣、例の思しそめつること絶えぬ御癖にて、御とぶらひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしこと思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。
長月になりて、桃園の宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御とぶらひにことづけて参でたまふ。故院のこの御子たちをば心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえかはしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。
解説
朝顔の姫君の新しい生活が、父の残した桃園で始まる。一人住まいではない。今の文章では女五の宮という人が出てくる。桐壺帝の妹で、朝顔の君の叔母。その屋敷に光源氏は、
例の思しそめつること絶えぬ御癖にて、御とぶらひなどいとしげう聞こえたまふ。 とあった。
一度思いを掛けたり関りを持った人には、向こうから断らなければ、自分から関係を切ってしまうことが無いのが、光源氏の真骨頂である。相手が男は勿論、女の場合になるとそれが一層発揮される。今の文章では 御癖 と書かれ、少し皮肉っぽく書かれている。光源氏は父を亡くし悲嘆にくれている朝顔の女君に声掛けを怠らなかったであるが、女の方は わづらはしかりしこと思せば 弔問への
答礼はともかく、打ち解けた返事は一切しない。長月 九月になって遂に秋が終わろうとする頃、光源氏は朝顔の姫君が静かに生活を始めたと聞き、桃園の家を訪ねる。表向きは高齢の叔母の病気見舞いということにして。早々に見舞いを終えると、光源氏は朝顔の姫君の住む所に行く。次の事は後の文章に書かれている。
鈍色の御簾に黒き御几帳の透影あはれに 喪中なので黒に統一されている。光源氏はその場で昔のことを思い出してくださいと歌を詠む。
朗読③ 密かにあなたのお仕えする賀茂神社のお許しを、あなたの冷たい仕打ちに耐えながら
待っていました。光源氏は年はとっていてこうした事はは不釣り合いである。こんなこと
は賀茂の神は御諌めになるでしょうと朝顔の姫君は応える。
「人知れず 神の許しを 待ちし間に ここらつけなき 世を過ぐすからな
今は、何のいさめにかかこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりし後、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片はしをだに」とあながちに聞こえたまふ。御用意なども、昔よりもいますこしなまめかしき気さへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう凄ぐしたまへど、御位のほどにあはざめり。
なべて世の あはればかりを とふからに 誓ひしことと 神やいさめむ
解説
昔は私がどんな風にお声掛けをしても、神に仕える身、その事を言い訳に取り合って下さらなかった。
今は何をその言い訳になさるのか。
人知れず 神の許しを 待ちし間に ここらつけなき 世を過ぐすからな
神の許しを待っている間に、こんなに時間ばかりが過ぎてしまった。ずっと待っていた私の真心をご理解ください。事実光源氏は青年を過ぎ壮年という年ごろである。朝顔の姫君にしても光源氏と同時代の女性と言っても良い。さあ二人の関係はどうなるのか。何せ朝顔は冷静である。
なべて世の あはればかりを とふからに 誓ひしことと 神やいさめむ 朝顔の君の歌
その昔、神に仕える身を誓った私、文を交わすようなことをしただけでも神からお叱りを受けることになりましょう。
しかし光源氏は引きさがらない。彼は二条院に帰ってから、この様な歌を送る。巻の名の関係に関わるやり取りである。
朗読④光源氏は朝、庭を眺めていると霜枯れの中に朝顔があるかなきか咲いている。折って姫君に
送る。昔お目に掛かった折に、忘れられない朝顔の花の盛り。あなたの盛りの美しさは過ぎ
てしまったのでしょうか。穏やかな便りなので朝顔の君も返事をする。
心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして寝ざめがちに思しつづけらる。とく御格子まゐらせたまひて、朝霧をながめたまふ。枯れたる花どものなかに、朝顔のこれかれに這ひまつはれてあるかなきかに咲きて、にほひもことに変れるを折らせたまひ奉れたまふ。「けざやかなりし御もてなしに、人わろき心地しはべりて、後手もいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、
見しをりの つゆわすられぬ 朝顔の 花のさかりは 過ぎやしぬらん
年ごろの積りも、あはれとばかりは、さりとも思し知るらむやとなむ、かつは」など聞こえたまへり。
解説
季節は秋に移ろうとている。光源氏の目に留まったのは朝顔の花。垣根のあちこちに絡みつくように辛うじて花々を咲かせている。色艶が褪せたその朝顔を見て光源氏は一応それを使って、次の歌を作る。
見しをりの つゆわすられぬ 朝顔の 花のさかりは 過ぎやしぬらん どんな歌であろうか。
何時の朝だったか、一度拝見して以来忘れられなくなったあなたのお顔も 花のさかりは 過ぎやしぬらん
特に説明も要らないであろう。すごい歌である。光源氏が詠んだ失礼な歌ベストワンである。かつて
相手の朝の顔を見た。その時は美しかったあなただったが、今のあなた、花のさかりは 過ぎやしぬらん 花の盛りは過ぎてしまったのでしょうか 。
こんな歌を送られた人はどう思うか。そして憤慨する所に光源氏の狙いがあったのだろう。捨て身の攻撃なのである。
結論から言うと、相手の方が一枚上であった。朝顔の君はこう返事をしてきた。
朗読⑤秋も暮れて垣根に纏わり付いている朝顔、それが私です。似つかわしい貴方の例えの
ように、涙で濡れています。
秋はてて 霧のまがきに むすぼほれ あるかなきかに うつる朝顔
似つかはしき御よそへにつけても、露けく」とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙のなよびかなる墨つきはしもをかしく見ゆめり。
解説
まあなんて上手く例えて下さったことでしょう。本当に仰る通り。秋が移ろうとする頃、あるかなきかに萎み、絡みついている朝顔の花。それこそ私の例えでしょう。朝顔が朝露に濡れている様に、涙に濡れています。光源氏からすればぎゃふんとなった。こう出られた光源氏には取りつく島もない。光源氏の問いかけはこれで終わったのであった。むしろ大切なのはその続きである。
作者の紫式部は光源氏と朝顔の君との関係、それだけを描きたくてこの巻を書いたのではない。何ごとも無かった光源氏と朝顔の君との関係が、光源氏とにとって或いは、物語の中で今や最も大切な女性・紫の上の存在に大きな動揺を齎す。話はその様に展開していく。紫式部はそれを描かんが為に、朝顔の君と光源氏の関係を手間を惜しまず、描き込んできたのである。要するに、ここまでが序曲なのである。内大臣が斎院を降りた朝顔の君に御執心らしい、そんな噂を紫の上は気にもしていなかった。
が 次第に 少しずつ 疑心暗鬼が募っていく。その心の変化が実に上手く描かれている。そして
紫の上をこんな風に描く。
朗読⑥ 紫の上は人伝に聞いて光源氏は大丈夫と安心していたが、彼は落ち着きがない。
また姫君はとても高い身分の人だから、私はさぞ体裁が悪いだろう心を痛めていた。
対の上は伝へ聞きたまひて、しばしば、さりとも、さようならむこともあらば隔てては思したらじ、と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御気色なども例ならずあくがれたるも心憂く、まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけんよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなばはしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは立ち並ぶ方なくさすがにならひて、人に押し消たれむことなど、人知れず思し嘆かる。
解説
世の噂に最初は さりとも、 とあった。まさか、人というものは全くそのような事を取り沙汰して・・・。だったことが徐々にそのような噂で、色眼鏡を掛けて光源氏を見るようになる。あれっ、普段と違ってどこかおかしい気がする。本当に音も葉もない事だったら、光源氏は 隔てては思したらじ、 自分に話してくれるはず。そう言えば今回は何も言葉がない。明石の君の場合と違う。そうした疑念が募って紫の上の気持ちがおかしくなる。
朝顔の君は天皇家の血を引く姫君でやん事なき人である。光源氏が心変わりしたらどうしようと動揺する。普段はおおらかで自信に満ちていた紫の上が悪い想像を重ねて、最後には 人に押し消たれむことなど、人知れず思し嘆かる。
私は朝顔の君に圧倒されて今の立場を失ってしまうのではないかとまで、自分を追い込んでしまう。冷静になれば自分だって皇族の式部卿の宮の娘で立場上そんなに差異はない。
これはどう見ても紫の上の一人相撲。よく考えれば長く光源氏を助け、流浪の時に二条院を守り、一家の妻として頼もしく有能な女性としての風格が漂うのである。それだけではない。今話している朝顔の巻の一つ前の薄雲の巻で、紫の上は光源氏との間に大切な娘まで設けた。血こそ繋がらないものの、明石の君の子供を引き取り、光源氏からこの子の事は全て任せると言われて、姫君の母となったのである。
将来后迄の可能性を秘めている女性である。それを育てているのが今の紫の上なのである。長年、光源氏の妻として確かな立場を築き、母にもなった紫の上である。
そんな万全な立場の紫の上でも、疑念を生じるという世界を巧みに描いたのが紫式部の朝顔の巻である。結局の所、紫の上の疑心暗鬼、妄想が紫の上自身を苦しめという構図は、光源氏の口から全てが明らかになり、この騒動は終結する。
ある日、光源氏は朝顔の君の事をこんな風に話す。
朗読⑦ 斎院に他愛もないことを申しあげたのを勘違いされているのではないでしょうか。
あの方は昔から近寄りがたい御気性なので、何となく恋文めかした文を差し上げると
返事が来たりした。実に何もない事なのです。
こうして弁解をせねばならない事なのだろうかとも思います。
「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それはいともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなう遠き御心ばへなるを、さうざうしきをりをり、ただならで聞こえなやますに、かしこもつれづれにものしたまふところなれば、たまさかの答へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも愁へきこゆべきことにやは、うしろめたうはあらじとを思ひなほしたまへ」など、日一日慰めきこえたまふ。
解説
斎院に文を出したのをあなたは誤解してはいませんか。彼女とは何もないのです。光源氏が自らそう語ることですべては解決したが、もし朝顔の君が光源氏を受け入れたとしても、紫の上の立場が揺るぐようなことではなかった。朝顔の君が光源氏を相手にするようなことはなかった。それは最後の歌に良く表れており、いわばざれ歌の種類である。
実は物語には次のような事がかなり早くからハッキリと書かれていることを見逃してはならない。
朗読⑧ 朝顔の君の態度がつれないのが忌々しいし、この私が物笑いになったらというという
自負が気持ちを落ち着かせない。この状況を紫の上は全く理解できないで、
気になって仕方がない。
大臣は、あながちに思し焦らるるにしもあらねど、つれなき御気色のうれたきに、負けてやむなむも口惜しく、げにはた、人の御ありそま、世のおぼえことにあらまほしく、ものを深く思し知り、よのひとのとあるかかるけぢめも聞きつめたまひて、むかしよりもあまた経まさりておぼさるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、空しからむはいよいよ人笑へなるべし、いかにせむ、と御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は戯れにくくのみ思す。
解説
光源氏は朝顔の君をどうしても我が物にという気はない。が余りにも彼女がけんもほろろなので、負けてやむなむも口惜しく、
負けてなる物かとずるずると関係が続いてしまった。それが実態だったのである
初めから本気でなかったのである。読者には途中で種明かしされているので、光源氏と朝顔の君、二人の間には何にも起きないであろうことは予感されているのだが、その事を紫の上は知らないのである。紫の上はやはり自分自身を追い込み、疑心暗鬼は募り、私達は事実を知っているので、痛ましくもあり、可哀想でもある。一寸滑稽でさえある。結果的には紫の上という人物は、今回の事は別にして、読者にとって親しみやすい身近な人物、愛すべき女君である。
「コメント」
光源氏はこうした詰まらない遊び事は止めるべき。無駄である。でもそんなことを言うと「源氏物語」がなくなる。