251221㊳若菜下の巻(1)
今回から若菜下の巻に入るがまだ少し若菜上が残っているので、まずは若菜上の巻。前週の続きである。そうしたことで、六条院春の町を舞台に蹴鞠が始まる。夕霧、柏木をはじめとする青年たちの蹴鞠は、高く高く梢を揺らしている。
その中で一人輝いているのは前回最後に読んだ
衛門督かりそめに立ちまじりたまへる足もとに並ぶ人なかりけり
とあったが、力一杯の貴公子たちと違って軽い気持ちで参加した柏木であったが、見事な足捌きに肩を並べられるものはいなかったという。様々な才能に恵まれた青年なのであるが、この抜きんでた
足技は人々を魅了する。寝殿の東側の高欄の所で観戦している光源氏等も感心頻りであったという。
そんな人々の中から夕霧が一人外れる。そして階に腰を下ろす。やがて柏木もやってくる。庭の方を向いて二人は腰を下ろしている。
朗読①
軽々しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中の階のほどにゐたまひぬ。督の君つづきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば、例の、ことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつまづま透影など、春の手向の幣袋にやとおぼゆ。
解説 夕霧と柏木は並んで座っている。柏木は女三宮の部屋の方を見ると、女房達の気配
が感じられる。
貴公子たちの ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば 絢爛たる王朝絵巻の
一こまといった風情があって、朗読にうっとりしている人もいるであろう。今の場面の後半でも、六条院春の町の寝殿の南の庭で、人々が蹴鞠に興じるその様子に建物の中の人々も興味津々である。
春の町の寝殿は、東西に分かれて、東が春宮の女御。その実の母は明石の君であるが、幼い時に紫の上に引き取られ、やがて春宮に入内した彼女。春宮との間に男の子を設けて、今や押しも押しれもせぬ存在になろうとしている人、東宮の女御。彼女が里下がりしてきた時に、寝殿の東側を使っていた。そして出産が終わったので皇子と共に宮中に帰っていて、寝殿の東側はひっそりとしている。そういう訳で光源氏や弟の蛍宮は、神殿の東側に腰を下ろして蹴鞠を見物しているのである。一方、
寝殿の西側は、ここ数年間女三宮が日々を過ごしている。その様子は 例の、ことにをさまらぬけはひどもして 例によってこちら女三宮方は、特に慎み深くすることもない女房達の気配があれこれ感じられるが、こうしたことになると落ち着いていられない。浮足立ってしまう。
そわそわしたそうした若い女房達が沢山いるということである。女房の影が御簾に透けて見える。息をのんで見物している様子が、外からもよくわかる。蹴鞠をしている青年たちも、御簾の向こうから注がれる熱い視線を意識していたことであろう。少なくともあの衛門督はそれを意識していた。自分の背後の寝殿側。
花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば
「花がひどく散るようですね。風も桜を避けて吹けばいいのに」などと言いながら、柏木は女三宮の
御前の方を流し目に見る。貴公子は後ろをはっきりと見るなどという不躾なことはしないが、
もしかして女三宮は私の方を見ているかも知れないと気になって仕方ない。宮の御前の方を後目に見れば、 とあったように横目でちらちらと視線を送っている。
この時に思ってもいないことが起きる。建物の内外を隔てている御簾が、捲れ上がってしまう。猫の仕業である。
朗読② 蹴鞠が見えるように部屋の几帳は隅に片づけてあった。そこへ大きな猫に追われた小さな唐猫が走り出たので女房達は驚いて騒いでいる。猫には綱がついていたので、御簾を引っ張って部屋の中が丸見えになってしまう。
御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひつづきて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎてそよそよと身じろぎさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしがましき心地す。猫は、まだよく人になつかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物にひきかけまつはれけるを、逃げむとひこじろふほどに、御簾のそばいとあらはに引きあげたるをとみに引きなほす人もなし。この柱のもとにありつる人々も心あわただしげにて、もの怖じしたるけはひどもなり。
解説
突如、御簾が上がった。平安貴族の女性にはあるまじきことではあるが、もっと蹴鞠を見たいがために几帳なども予めどかしてあった。遮蔽の道具である。人と人とが直接顔を合わさないようにするための移動式のカーテンである。几帳がない御簾の所に、部屋の中にいた唐猫が飛び出す。後ろから大きな猫がその子猫を追いかけてきたのである。猫が飛び出しただけならまだしも、子猫には綱が
つけられていた。その綱がピンと張ったので部屋が丸見えになったが、皆驚いていて直そうとする人もいない。
全ては一瞬のことであったが、そこに目が釘付けになった人がいた。柏木である。彼は寝殿の階に腰を掛けて後ろを振り返った。そこに彼が目にしたのはものとは。
朗読③ 袿姿 で立っている人が見える。素晴らしい様子をして、ほっそりと小柄で
可愛らしい。
几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。御髪の裾までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそばめ、いひ知らずあてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず
口惜し。
解説
几帳の少し奥に 袿姿 で立っている人がいる。平安時代の高貴な女性は無暗に立ったり歩き回ったりしない。女房達は座って蹴鞠を見物していたであろう。平安時代の女性はほとんど座っているので、几帳は身を隠すのに十分である。その中で立っている人がいる。目立たない訳がない。
紛れどころもなくあらはに見入れらる。 という様子で、
夕影なれば、さやかならず奥暗き心地する つまり夕刻とはいえ庭先の方が明るくて、家の中は
ほの暗いからはっきり見えるということではないが目立っている。そこに人が立っている。しかも黒髪。
いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりたまへる。 背丈より長い黒髪で、体つきも
いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそばめ、いひ知らずあてにらうたげなり。
というから可憐で守ってやりたいという雰囲気である。
袿姿 普段着で寛いだ様子である。
柏木はすぐ分かった。この人は私が慕ってきた女三宮様だと。この文章の後にこう書いてある。
見返りたまへる面もちもてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと見えたり。
何とゆったりと若々しくて可愛らしい人か。これは普通だったら女三宮のような成人した女性には用いない表現である。
小さくて可愛らしいと言っているのである。普通は少女や子供に対して用いる言葉である。いずれにしても、飛び出した猫が暴れて御簾が上がってしまったのであるし、女房達も咄嗟のことでどうして良いのか混乱している。
その中で一番冷静沈着だったのは大将、夕霧であった。女房達に指図するわけにもいかないので、
うちしはぶきたまへる 階の所で咳ばらいをして、相手に知らせる。しはぶき で正気付いたか、女三宮と思しき人は静かに部屋の奥にと入っていく。女房達によって御簾はもとに戻った。夕霧はやれやれと息をつくが、困ったことだ、何と軽率なことだと苦々しい思いを禁じ得ないが、逆に柏木はそのことを神が与えてくれた奇跡と思っていたのか、今日はとても尊いお方を見てしまった。有難いことだ と魂を抜かれたようになってしまった。六条院を後にする牛車の中でも、夕霧はこう思う。柏木は宮様を見てしまったに相違ない。おかしなことにならなければよいが と。
思いをいよいよ断ちがたくなった柏木は、ある行動をとる。どんなことであろうか。
朗読⓸ 柏木はこんな思いは持ってはならないと思うが、せめてあの猫を手に入れて気休めに
したいと願う。
みづからも、大殿を見たてまつるに気恐ろしくまばゆく、かかる心はあるべきものか、なのめならんにてだに、けしからず人に点つかるべきふるまひはせじと思ふものを、ましておほけなきこと、と思ひわびては、かのありし猫をだに得てしがな、思ふこと語らふべくはあらねと゜、はたはらさびしき慰めにもなつけむ、と思ふに、もの狂ほしく、いかでかは盗み出でむと、それさへぞ難きことなりける。
解説
女三宮には二度と会えない。敬愛する光源氏に疎まれるようなことはしたくない。こんな柏木は、ならばせめてあの猫を得たいという思いから逃れられなくなる。太政大臣家のホープはどうしてしまったのであろう。熱に浮かされるように、
かのありし猫をだに得てしがな、 何としてもあの猫をわがものに、場合によっては いかでかは盗み出でむ 盗み出しても構わない という思いに取りつかれる。一人寐の はたはらさびしき慰めにもなつけむ、 欲しいのはあの日の唐猫、それを傍らに抱き寄せれば、寂しさがいくらかでも慰められるだろうと本気で考え始めたのである。
もの狂ほしく、 とあったのは、どこかおかしくなったのではないか という意味。
彼は本気で手づるを求めてあの唐猫を手に入れた。
朗読⑤ 心の中ではさすがに愚かしいと思う。貰った猫を夜も自分の近くに寝かせる。そして
歌を作る。あの方の形見とお前を飼っていると、私の気持ちが分かるのだろうか、
そういう鳴き方をすることよ。
つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。明けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人げ遠かりし心もいとよく馴れて、ともすれば衣の裾にまつわれ、寄り臥し、睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたくながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねうといとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる。
「恋わぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて なく音なるらん
これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげになくを、懐に入れてながめゐ
たまへり。
解説
流石に自分でも、をこかずましく 馬鹿ではないか。どうしたのだろうと思わないでもないが、現実にはそんなことは吹き飛んでしまった。この猫をあの方が可愛がったと思うからであろう。
つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。
遂には共寝をするようになる。そして猫に話しかけるように、歌いかける。本邦初の猫に捧げた歌。
恋わぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて なく音なるらん
この歌は ねうねう と鳴く猫の声から発して、な行の音で統一してある。こうして猫をそばに置く柏木を、紫式部はからかっているのである。このように猫の騒動が柏木の歌で落ちがつく所まで話して
来た。
若菜上の巻と若菜下の巻とに分かれているが、物語の内容は連続している。蹴鞠の場面は若菜上の巻の最後であるが、猫を手に入れて可愛がっている場面は若菜下の巻に入っている。
若菜下の巻の冒頭で、こうした柏木と唐猫のおかしな毎日を描き出した紫式部は、一寸調子を変えてごくまじめに、世の中にこんな変化があったと話題を報じる。
朗読⑥ 冷泉帝が即位してから十八年が経った。この頃病勝ちなのでにわかに譲位されること
になった。
はかなくて、年月も重なりて、内裏の帝御位に即かせたまひて十八年にならせたまひぬ。「次の君とならせたまふべき皇子おはしまさず、もののはえなきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぐさまほしくなむ」と、年ごろ思しのたまはせつるを、日ごろいと重くなやませたまふことありて、にはかにおりゐさせたまひぬ。
解説
大きな変化である。内裏の帝御位に即かせたまひて十八年にならせたまひぬ。
長く位にあった冷泉帝。光源氏と藤壺との秘密の子である。彼は澪標の巻で即位して十八年。ここの所、病に苦しめられることが多く、これが直接の引き金になって、冷泉帝が にはかにおりゐさせたまひぬ。譲位されたという。
中宮は秋好む中宮、物語の中では斎宮女御と呼ばれていた。六条御息所の娘である。伊勢斎宮を務めた後、入内した彼女であったが、彼女とも他の女御との間にも、次の君とならせたまふべき皇子おはしまさず、跡継ぎになる男子がいなかった。それも退位を決意した理由の一つであったという。次に書いてあるが現代だったらドミノ式とでもいうのであろうか、続けて 太政大臣、致仕の表奉りて、、籠りゐたまひぬ。太政大臣も辞職の意向表明をした。もとの頭中将である。
光源氏のライバル、友人、従兄弟。冷泉帝のような かしこき帝の君も位を去りたまひぬる が譲位されるので、私のような老骨がいつまでも留まるべきではないと言って、あっさりと潔く身を引いた。
となると 左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中の政仕う祭りたまひける この講義ではあまり
登場の機会がないが、髭黒と呼ばれる人物である。彼が政界の第一人者となった。右大臣である。
それより大きなことは、冷泉帝の跡継ぎは誰かということ。順当なら春宮が新しい帝として即位する。この春宮というのは朱雀院の皇子、長く春宮を務めてきたが、冷泉帝には男子がいないので、朱雀院の皇子が新帝になる。
「源氏物語」の中で、四代目の天皇である。桐壺帝、朱雀帝、冷泉帝、そして新しい天皇。光源氏は新しい御代の始まりに、こんな風に言っている。
朗読⑦ 光源氏は跡継ぎがいないのが密かに不満である。自分の出生に関わる秘密は世間
にもれずに済んだが、冷泉帝の血筋が絶えるのは無念と思う、しかし誰に言えるわけ
でもないので胸は晴れない。
六条院はおりたまゐぬる冷泉院の御嗣おはしまさぬを飽かず御心の中に思す。同じ筋なれど、思ひ悩ましき御事なうて過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあわせぬことなればいぶせくなむ。
解説
朱雀帝の息子の東宮が新しい天皇になった後、もし冷泉帝に皇子がいたら空いた春宮の位に就くことが出来た。残念なことだが、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける 冷泉帝は光源氏と
藤壺の間に生まれた子である。その冷泉帝の血を受け次ぐものが春宮になり天皇になったら、罪の子の末裔が世間を欺いたまま天皇の血を受け継ぐことになる。それはよろしからぬことで、末の世
までは伝わらぬことになった。
冷泉帝の血筋は一代で終わり、光源氏は複雑な思いでこれで良かったと思う。
さて空いた春宮になるのは誰か。
朗読⑧
六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思ひしかど、差し当たりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。右大将の君、大納言になりたまひぬ。いよいよあらまほしき御仲らひなり。
解説
禍福は糾える縄の如し とでもいうのであろうか。新しい東宮になったのは結局、光源氏の血に繋がる者。実の母は明石の君であるが、三歳の時に紫の上に引き取られて大切に育てられ無事に春宮に入内した光源氏の娘、春宮女御が生んだ第一皇子が新しい春宮になった。六条の女御の御腹の
一の宮、坊にゐたまひぬ とあった。六条の女御 とは、光源氏の六条院から入内した女御、先ほど話した光源氏と紫の上が大切に育てた彼女は六条の女御とも呼ばれている。
その相手の春宮が新しい天皇になったので、その春宮と六条の女御との間に生まれた第一皇子が新しい春宮になったのである。光源氏の唯一の女の子は大出世である。天皇の妻であり、春宮の母である。光源氏は須磨明石を流離して、明日をも知れぬ境遇だった時、明石の浦で明石の君との間にできた女の子が新しい天皇の妻、春宮の母となったのである。そうなるとなるべくしてなったという
ことで、二つのことが語られることになる。
まず一つは、そうした春宮女御を立派な女性に育てたのは誰かということであるが、言うまでもなく
紫の上である。乳の出ない乳房を銜えさせたシーンが薄雲の巻にあったが、本来そんなことは乳母に任せるものであるが、実の子でもこうはいかないというくらい大切に育て上げた紫の上。紫の上の存在はこれまでにも増して重くなる。そして前回話した明石の入道の遺言状にはどんなことが書かれていたのであろうか。「わたしが若い時に見た不思議な夢。我が血につながる者から天皇と后が生まれるという夢。それが叶った暁には必ず、あの神へのお礼参りを果すようにと遺言した。あの神、
住吉大社に光源氏たちは久しぶりに行く。その道中の豪華な事。
今回は若菜下の巻の第一回。ここから二回にわたって読みどころである。
「コメント」
この辺から話は、光源氏ではなく、紫の上と次の世代の話となっていくのか。