260118㊷若菜下の巻(5) 

若菜上の巻、若菜下の巻でも共通する特徴がある。どちらも巻の途中まではゆっくりと時間が流れ、それほど大きな事件もなく展開し、その最後の辺りで驚くような話題が出てくる。若菜上の巻で言えば、六条院の蹴鞠の場面。柏木が女三宮を垣間見て、恋の病に取りつかれてしまう。あの蹴鞠の

場面があって、物語が大きく動く。若菜下の巻も、初めの方は冷泉帝の退位とか、少し大きな変化はあったものの、そこまではゆっくりと物語が展開していく。女楽の場面があって、人々の心が円満に優しく溶け合って、穏やかな優雅な風景が続く。しかしこの最後にあっと驚く事件が矢継ぎ早に起こって、手に汗を握ることになる。どんなことであろうか。前回の続き、女三宮は(きん)(こと)を上手に弾くことが出来た。女楽も見事に幕を下ろす。その中で改めて際立ったのは、紫の上の存在感であった。

紫の上のもとで、新年の準備が整えられた。そのことで、彼女によって六条院世界が切り盛りされていることを私たちに知らせる。そして色々と忙しい正月を避けて二月に行われた女楽。女三宮も(きん)(こと)の上達ぶりを見せたが、主役は紫の上であった。耳の肥えた夕霧も思わず唸るほどであった。

女楽は終わり、光源氏は東の対に一人帰っていく。女三宮と紫の上が春の町の寝殿に二人残ったことになる。これは光源氏の紫の上への絶大な安心感からきている。紫の上がいれば万事、安泰だと。光源氏の期待通りに女三宮と紫の上は色々と話をして、円満な時を過ごす。

 

何年も前に女三宮を迎えることになった時、光源氏は紫の上にこう話していた。

若菜上の巻では解説していないが、こんなことがあった。

朗読① 女三宮が来ても私の心は変わらない。このことを理解して円満にやって欲しい。

いみじきことありとも、御ため、あるより変ることはさらにあるまじきことを、心なおおきたまひそよ。かの御ためこそ心苦しからめ。

 解説

若菜上の巻の始めの頃、光源氏はこう話していた。女三宮がおいでになっても、あなたに対して気持ちが変わることは決してない。どうかそのことを理解して女三宮と円満に過ごしてくれれば何よりのことと。今やその言葉通りのことが実現している。紫の上だからこそ出来たのである。紫の上はどこまでも心優しく思い遣りに満ち女性として六条院を万事切り盛りし、捌くことにも長けている。勿論容姿、

器量の素晴らしさは言うまでもない。

 

女楽が終わった後の場面にもこんな文章がある。

朗読② 紫の上は葡萄(えび)(ぞめ)の 小袿(こうちぎ) 、薄蘇芳(うすすおう)細長(ほそなが) を着て、髪はあふれるほど。花で言えば

          桜のようである。

紫の上は、葡萄(えび)(ぞめ)にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)薄蘇芳(うすすおう)細長(ほそなが)に、御髪(みぐし)のたまれるほど、こちたくゆるやかに、大きさなどよきほどに様体(やうだい)あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、花といほへば桜にたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひことにものしたまふ

 解説

紫の上は周囲にその魅力が溢れかえるような、辺りをほれぼれさせる美しさで、見事な円熟期である。光源氏はこの物語の中で、誰より心深く、思い遣りがあって物事の良く分かる人。さらには芸術全般に卓越した目を持っていることは言うまでもない。

 

そうした光源氏の目に、今の紫の上はどう映ったか。東の対に帰ってきた紫の上に言葉をかける。

朗読③ あなたが幼い時は余裕もなくて、近頃は忙しさにかまけて特別に教えることのなかった

          のに、琴の出来栄えは素晴らしく、大将(柏木)も感心していた。

「昔、世づかぬほどをあつかひ思ひしさま、その世には(いとま)もありがたくて、心のどかにとりわき教えきこゆることなどもなく、近き世にも、何となく次々紛れつつ過ぐすて、聞きあつかはぬ御琴の音の出でばえしたりしも面目ありて、大将のいたくかたぶき驚きたりし気色も、思ふやうにうれしくこそありしか」

など聞こえたまふ。

 解説

紫の上に光源氏は言う。「これまでは忙しく、気ぜわしく過ごしてきて、あなたには充分に音楽の手解きを出来なかった。

聞きあつかはぬ御琴の音の出でばえしたりし 私でさえ、聞いたこともない音色を奏でなさったことは実に素晴らしかった。

あなたの琴を聞いて夕霧も唸っていたことを、私は 思ふやうにうれしくこそありしか 「紫の上よ、

あなたを誇らしい思いがした。」

次に朗読する部分を少し先回りして解説するが、紫の上という人は聡明で心優しく、孫の宮たちの

お世話をさせても至らなかったことはない。彼らの教育やお世話を紫の上に任せておけば安心だと書かれている。六条院に女三宮という内親王を迎えるに当たり、紫の上の心深きやさしさがいよいよ

輝きを増してくる。

 

光源氏の紫の上への信頼は増すばかりである。

しかしここに至って、光源氏の表情は曇った。こんなことを思ったからである。

朗読⓸こんな音楽の面でも、孫たちのお世話など取り仕切っているが、すべて至れり尽くせり。

        こうも不足の無い人は長生きできない例もあると聞き、光源氏は気になる。

かやうの筋も、今は、また、おとなおとなしく、宮たちの御あつかひなどとりもちてしたまふさまも、至らぬことなく、すべて何事につけても、もどかしくたどたどしきことまじらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は世に久しからぬ(ためし)もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。

 解説

ここまで完璧な人はいない。そうであるからこそ、

いとかく具しぬる人は世に久しからぬ(ためし)もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。

具す というのは備えているということ。ここまで何もかも備えている人は、世に久しからぬ 長生きできない例もあるようだから と聞く。

 

そして読者はハッとさせられる。次のような文章が続く。

朗読⑤ 光源氏は色々な人を見ているだけに、紫の上のように何もかも備わっている人は

          いないと思う。彼女は37歳。

さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、とりあつめ足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。

 解説

紫の上は 今年は三十七にぞなりたまふ。それは女の厄年。「源氏物語」では三十七で大切な人を失っている。薄雲の巻。桐壺の巻以来、物語を支えてきた女君が、世を去ったのも 三十七 である。

 

そしてここで光源氏はこれまでの女性関係を紫の上に語る。それは一見すると非常識の極みとも思えるが、そうではない。すでにこの放送で何度も話して来たように、光源氏はこれまでにも同じようなことを何度もしてきた。それは紫の上を不安に陥れるためではない。色々な女君はいたけれども、「紫の上よ。あなたが最もかけがえのない大切な人。」そうした事を伝え分かってもらう為なのである。

「源氏物語」では、紫の上に対して、自分の名を語られた女君は負け。思い出してほしい。あの藤壺が光源氏の夢枕に立って、光源氏を恨んだ冬の夜のこと。冬の一夜、雪化粧した庭を眺めて光源氏が紫の上に藤壺の事を初めて言葉を尽くして語ったその夜のことであった。朝顔の巻。冬の

一夜、雪化粧した庭を眺めて、光源氏が紫の上に藤壺のことを初めて言葉を尽くして語ったその夜のことであった。光源氏の枕辺に立った藤壺は言い募る。

「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、

つらくなむ」

何故、私のことを他の女性に語ったのですか。生身の女として光源氏を恨んだ瞬間であった。印象的な場面であるので記憶しておいてほしい。

今の若菜下の巻に戻る。光源氏は人生で関わった女性達について語る。これまでの人生であなたと肩を並べる女性はいなかったと紫の上に伝えるようであり、また紫の上が女の厄年という現実に目を止めようとする様子でもある。

 

先ほどの女楽に参加していた夕霧の母親である、葵の上のことを紫の上に話す。

朗読⑥ 若かったころに妻にして、貴い身分であるとは思っていたが、しっくりとはいかず、

           打ち解けないままであった。今になると御いたわしく悔やまれる。

幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ()らぬ筋ににも思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地してやみにしこそ、今思へばいとほしく悔しくもあれ。

 解説

葵の上とは 常に仲よからず、隔てある心地してやみにしこそ、今思へばいとほしく悔しくもあれ。

葵の上には可哀想なことをした。申し訳なかった。

 

そこから自然と回想が湧いてきて、葵の上のライバルである六条御息所について語る。

朗読⑦ 中宮(秋好中宮、六条御息所の娘、冷泉帝の妻)の母(六条御息所)は優雅な人で

           あったが、付き合いにくく会うのが苦痛だった。私を恨まれるのは当然であるが、

           気づまりな方であった。

中宮の御母御息所(みやすんどころ)なむ、さまことに心深くなまめかしき(ためし)にはまづ思い出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむありし、恨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長く思ひつめて深く(えん)ぜられしこそ、いと苦しかりしか。心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕の(むつ)びをかはさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見おとさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。

 解説

光源氏は他の女性とのことを聞かされる紫の上に十分に気を遣い、あなたほど愛した人はいないと懸命に伝えようとしていることが良く分かる。葵の上にしても、六条御息所にしても素晴らしい方ではあった。そして二人の女君に同じ言葉を使っていた。隔て どちらとも打ち解けていなかったと言っている。それどころか、六条御息所には深く恨まれることにまでなってしまう。私も若くて足りないところはあったけれども、六条御息所も

朝夕の(むつ)びをかはさむには、いとつつましきところのありしかば

こちらも身構えてしまうようなところがあった方であった。ここからわかるのは、本当に心の休まる、打ち解けたられる人はあなた・紫の上だけであるということ。このことを光源氏は今まで関わりのあった女性達とのことを話す中で伝えようとしている。紫の上もそれに対して皮肉交じりに応じたりして、夫婦ならではの空気が二人の間に流れる。

 

光源氏は話を切り上げて紫の上にこう言う。

朗読⑦ 

「宮に、いとよく弾きとりたまへりしことのよろこび聞こえむ」とて、夕つ方渡りたまひぬ。

 解説

光源氏は「ともかく、女三宮は(こと)をよくお引きになった。褒めて上げたいので一寸」と言って、寝殿に

向かう。

 

そしてその夜のことであった。光源氏の人生の中で最も衝撃的な出来事が起きた。光源氏不在の中、紫の上が突然苦しみだした。

朗読⑧ 紫の上は明け方から突然苦しむ。周囲が光源氏に知らせようとすると、それには

          及ばないという。

夜更けて大殿籠りぬる暁方(あかつきがた)より、御胸をなやみたまふ。人々見たてまつりあつかひて、「御消息(しょうそこ)聞こえさせむ」と聞こゆるを、「いと便(びん)ないこと」と制したまひて、たへがたきをおさへて明かしたまひつ。御身もぬるみて、御心地もいとあしけれど、院もとみに渡たまはぬほど、かくなむとも聞こえず。

 解説

周囲の女房達は慌てている。光源氏は女三宮の寝殿に行って不在。女房の一人が、すぐ光源氏様にこのことを伝えようと言うと、これを紫の上は制する。それは必要ないと。

 

たまたま、女御の使いの者が来たので、紫の上の事を伝える。それを聞いた女御は、女三宮の所にいる光源氏に伝える。驚いた彼はすぐ帰ってくる。その時、紫の上の容態は深刻になっていた。

朗読⑨

女御の御方より御消息あるに、「かくなやましくてなむ」と聞こえたまへるに、驚きてそなたより聞こえたまへるに、胸つぶれて急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。「いかなる御心地ぞ」とて探りたてまつりたまへば、いと熱くおはすれば、昨日聞こえたまひし御つつしみの筋など思しあはせたまひて、いと恐ろしく思さる。御粥(おかゆ)などこなたにまゐらせたれど、御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆きたまふ。はかなき御くだものをだに、いとものうくしたまひて、起き上がりたまふこと絶えて、日ごろ経ぬ

 解説

最初、紫の上の不調が語られた時には、御心地もいとあしけれど、 とあった。発熱して体が熱かった。それが今の文章では、急ぎ帰ってきた光源氏が、「いかなる御心地ぞ」とて探りたてまつりたまへば、と紫の上の体に触れてみると、いと熱くおはすれば、体中が熱に侵されている感じである。

光源氏は昨夜、紫の上が女の厄年 三十七歳であることに思いを致して、今年は無事にと声を掛けたことが思い出されて、この日より光源氏は紫の上の側から離れることはなかった。

この日より、紫の上は昔の体調をとり戻すことはなかった。

 

若菜上の巻も若菜下の巻も、冒頭にはあれという事件が描かれることはあるが、そこから暫くはゆったりとした時間が流れるが、その最後の所であっと言わせることが起きることは既に話した。作者紫式部の心憎いほどの演出力である。

これまでにない円満な時間の後、次の瞬間の驚くべき描写である。

紫の上の優しさと配慮で六条院の女君たちの世界が幸福に包まれた次の瞬間、紫の上が倒れた。ドラマチックな展開である。

その後紫の上の体調は回復しない。ついに光源氏は決断する。紫の上を二条院に移すことにする。若紫の巻によれば十歳ばかりの紫の上が迎えられ、そしてその後長い時間を光源氏と共に過ごしてきた思い出深い屋敷である。

紫の上にとって嬉しいことも悲しいこともすべてこの屋敷で起きた。光源氏が須磨に退去することを

決めた光源氏を見送った時には、紫の上には絶望しかなかった。しかし紫の上はこの二条院を守らねばと決意した。そして光源氏が帰ってきた時、明石の地でもうけた三歳の娘を迎えた日もあった。この屋敷は紫の上の人生そのもの。

このことは六条院における様々な気配り、義務、仕事から解放されて、少女の時から過ごしたところに戻る瞬間であった。六条院が少女(おとめ)の巻で完成して、そこで様々な出来事があった。女三宮を迎えたこと・・・・・。

 

そして紫の上のいない屋敷は、もう六条院ではない。光源氏の人生はここで大きく変わろうとしている。次のように描かれている。

朗読⑩

げにいと頼みがたげに弱りつつ、限りのさまに見えたまふをりをり多かるを、いかさまにせむと思しまどひつつ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どももすさまじくて、みな引き()められ、院の内の人々は、みなある限り二条院に(つど)い参りて、この院には,火を()ちたるやうにて、ただ、女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけりと見ゆ。

 解説

そもそも女楽を催したのは、朱雀院の五十の賀に合わせてのこと。お祝いの為にすべては始まったのであった。しかし今はそれ所ではない。屋敷の琴や名器の数々も引き籠められた。全ての人は二条院に行ったので、六条院は火を()ちたるやうにて、火が消えたようになってしまった。

人ひとりの御けはひなりけりと見ゆ。六条院の華やかさは、紫の上一人によって齎されたものと思われる。栄光も華やぎも紫の上によって、齎らされたことは明らかである。

沈鬱な光源氏であったが、もう一人憂鬱な表情をしているのは柏木。若菜上の巻の最後、蹴鞠の庭で女三宮に恋をした。

彼の姿がある晩、人気のない六条院にあった。女三宮の住まい。どんな展開になっていくか。

 

「コメント」

 

ついつい、講釈に乗せられて。光源氏の心中を思ってしまうと、柏木は余計なことをするなよ。