260215㊻柏木の巻(2)

新しい命が誕生した。世間ではまさか父親が柏木とは思っていないので、六条院の光源氏の子となっている。光源氏は男の子と聞いて、こんな風に思った。

朗読① 男の子であった。光源氏は男の子と聞いて、はっきり誰の子とわかる顔立ちだったら

           困ると考えた。

夜一夜なやみ明かさせたまひて、日さし上がるほどに生まれたまひぬ。男君と聞きまふに、かく忍びたることの、あやににいちじるき顔つきにて、さし出でたまへらんこそ苦しかるべけれ、女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るものならねば安けれ、と思すに、

 解説 

男の子であったか、これは大変なことだ。女であったらまだ良かったのにと光源氏は思った。平安時代の女や姫君たちは、屋敷の奥深くにいて人目に触れることは殆どない。だから、何となく紛れ、あまたの人の見るものならねば安けれ、

人目に付く機会がないので、ごまかしようもある。男はこうはいかない。宮中にも出仕する。当然人々の目に晒される。

やがて誰からともなく、いちじるき顔つき 父親の光源氏より柏木に似ているということにならないとも限らない。それが困ったことだと言うのである。

 

しかしそう思ったその後に、光源氏はこんな風にも思った。

朗読② 

また、かく心苦しき疑ひまじりたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし、さてもあやしや、わが世とともに恐ろしと思ひし事の報いなめり、

 解説

今回の件は、わが世とともに恐ろしと思ひし事 かつて自分がしたことが、そのまま自分に帰ってきたということ。桐壺院は何も知らないで亡くなったが、自分は知ってしまったことが違うのだが。

ある意味、知らないということは幸せなこと。

生まれたばかりの子(のちの冷泉帝)を胸に抱いて、何と幸せな事と嬉しがっていた桐壺帝。

しかし今回は違う。光源氏は全て知っている。

 

色々な思いがあるが冷静になろうとする。こんな風に自分を納得させていた。

朗読③ 現世で色々と報いを受けているので、来世の罪は軽くなるだろうと、光源氏は思う。

この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪もすこし軽みなんや、と思す。

 解説 

藤壺との密通は、死後に重くその罪を問われるだろう。しかしどうして生きている内に、このような目にあうことになったのだろう。むかはりぬれば、報いを受けること。それはかつて自分が犯した罪の

報い。生きながら現世で苦しみ生きることで、

後の世の罪もすこし軽みなんや 光源氏は死後受ける罪は少しは軽いものになるかもしれないと

思う。

そのように自分に言い聞かせることによって、女三宮への思い、柏木への恨めしさ、そして何より

この度生まれてきた子には何の罪もない。このような複雑な思いを呑み込もうとする光源氏。

第二部以降の光源氏は、周囲に思いを致し、自分を抑え、周りを支える人として描かれている。もう五十歳に近い光源氏。

 

一方、お産をした女三宮はどうしているのだろう。

朗読⓸ 宮はあのお産の恐ろしい経験で、情けない身のことを心底感じられて、

          死んでしまいたいと思われる。

宮は、さばかりひはづなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬことの恐ろしう思さるけるに、御湯なども聞こしめさず、身の心憂ことかかるにつけても思し入れば、さはれ、このついでにも死なばやと思す。

 解説

ひはづ ひ弱な とか、華奢(きゃしゃ)な という意味。そんな体で、漸くお産をした女三宮は、自らの運命を呪うように

死なばやと思す もう死んでしまいたいと思う。御湯なども聞こしめさず、周囲の勧める薬湯なども

口にしない。

 

このように出産後の憂鬱な日々を過ごしていると、周囲の女房達がこんな風にささやいているのが

耳に入る。

朗読⑤

大殿(おとど)は、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見たてまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でたまへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」とうつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、さのみこそは思し隔つることもまさらめと恨めしう、わが身つらくて、尼にもなりなばやの御心つきぬ。

 解説

大殿(おとど)は、いとよう人目を飾り思せど、光源氏は複雑な思いを隠して、周囲に本心を見せようとはしない。女三宮への態度はこれまでと特別変わる所はない。普通の男親のように、生まれた子にどのように接していいか分かっていない。これは普通の事であるが、女三宮に仕える 老いしらへる人 

口さがない年取った女房達は、この態度に少し気に食わない所があって、ぶつぶつと文句を言う。

おろそかにもおはしますかな。 少し冷たいのではないかなどという。

しかし古女房達の言いたいことは次のようである。かばかりゆゆしきまでにおはしますを」 こんなに可愛い皇子はいないのに と言う。女三宮は女房達の話を 片耳に聞きたまひて、聞くともなく耳に

して、このことが心に突き刺さる。そしてわが身の不運が情けなくて、

尼にもなりなばや 尼にでもなるしかないというところまで追い詰められていく。

この前後の文に同じ ばや というフレ-ズがくり返されている。

このついでにも死なばや 尼にもなりなばや

ばや というのは、~したいということ。死にたい、尼になりたい ということ。女三宮の出家の願いが、芽生えた瞬間であった。

 

女三宮はその思いを光源氏に伝えるが、当然許さない。出家を止めた光源氏には別の思いが

あった。光源氏の心に次のような感情が生まれていることを見逃さないようにしたい。

朗読⑥ 出家などいたわしくて、先の長い人生でもあるので、「気を強く持っていきましょう」と

          薬湯を差し上げる。

また、いとあたらしう、あはれに、かばかり遠き御髪(みぐし)()ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見ゆる人も、たひらかなる(ためし)近ければ、さすがに頼みある世になむ」など聞こえたまひて、御湯まゐりたまふ。

 解説

出家したいと言われて、光源氏の目に留まったのは長い黒髪。もったいなくて可哀想と思う。

あはれに、かばかり遠き御髪(みぐし)()ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、

 

こんな黒髪を持つ人の出家はとても痛々しいので。そして光源氏はこんな風に思う。

朗読⑦

いといたう青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さま、おほどきうつくしげなれば、いみじき過ちありとも、心弱くゆるしつべき御さまかなと見たてまつりたまふ。

 解説

いといたう青み痩せて、 色青白くげっそりとした女三宮の様子は、おほどきうつくしげなれば、おっとりとして可愛らしく見える。

心弱くゆるしつべき御さまかなと見たてまつりたまふ。

光源氏は自分が望んだことではないとは言え、彼女を許してあげたいような人だと思う。

 

女三宮に平和な日常が戻ってくるのも遠くないのではないかと思われる矢先のことである。光源氏の世界は根底から揺す振られる。光源氏の世界が安定して人々が心穏やかになごんでいる瞬間に、

いつも彼は光源氏の世界に大きな動揺を齎す。その人は朱雀院。

朗読⑧ 朱雀院は女三宮のお産は平安だったとお聞きになって、逢いたく思っておられた。

           しかしこの所、お患いの知らせばかりなので心配されている。女三宮は父・朱雀院に

           もう会えないのではと、ひどく泣かれている。この様子を光源氏は人を介してお伝え

           したので、朱雀院は夜に紛れて山を下りられた。

山の帝は、めづらしき御事たひらかなりと聞こしめして、あはれにゆかしう思はすに、かくなやみたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにかと、御行ひも乱れて思しけり。

 さばかり弱りたまへる人の物を聞こしめさで日ごろ()たまへば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつらざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、「またも見たてまつらずなりぬるにや」といたう泣いたまふ。かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひこければ、いとたへがたう悲しと思して、あるまじきこととは思しめしながら、夜に隠れて出でさせたまへり。

 解説

出家した朱雀院はお産は平らかだったと聞いて安心していたが、その後病気の知らせばかりで心配していた。女三宮はもう父の朱雀院に会えないのではとひどく泣いている。光源氏はこのことを人を介して申し上げる。朱雀院は御行ひも乱れて思しけり。仏道修行も手につかない。聞く所によると女三宮は、「またも見たてまつらずなりぬるにや」父上にはもう会えないと涙に暮れていると。世を捨てた朱雀院としては、あるまじきこととは思しめしながら、

出家の身としてはあり得ないことではあるが、院は山を下りられた。

 

あまりに突然のことで、光源氏は虚を突かれた。どうされましたかと恐縮している。朱雀院は決然と

こう言い放つ。

朗読⑨

なほ、まどひさめがたきものはこの路の闇

 解説

この世を捨てた私でも、見捨てられないのが我が子への思い。そして先立たれるようなことがあれば、悔いが残るので世間の非難も顧みずこうしてやってきたと仰る。光源氏は涙交じりに語る朱雀院を女三宮のもとに導く。

 

久し振りに会う親子。女三宮は父にこう訴えた。

朗読⑩

宮も、いと弱げに泣いたまひて、「生くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしたまいたるついでに、尼になさせたまひてよ。」と聞こえたまふ。「さる御本意(ほい)あらば、いと(とうと)きことなるを、さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かえりて事の乱れあり、世の人に(そし)らるるやうにありぬべきことになん、なほ(はばか)りぬべき」などのたまいまはかぎりのさまならば、

 解説

女三宮は訴える。父上、この機会に、尼になさせたまひてよ。 私を出家させて下さい と言う。

朱雀院は驚き動揺して、こう答える。「さる御本意(ほい)あらば、いと(とうと)きことなるを、さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かえりて事の乱れあり、世の人に(そし)らるるやうにありぬべきことになん、

なほ(はばか)りぬべき」などのたまはせて、

「宮よ、仏道に生きることは尊い事です。しかしお前は、まだの先の長い若い人である。後で間違い起きて世間の非難を招くことがあり勝ちなので、出家は思い留まりなさい」と仰る。

 

と答えた次の瞬間、彼は光源氏に向き直りこう言う。

朗読⑪ 

大殿の君に、「かくなむ進みのたまふを、いまは限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ思ひたまふる」とのたまへば、「日ごろもかくなむのたまへど、邪気(ざけ)などの人の心

たぶろかして、かかる方にすすむるやうもはべなるをとて、聞きも入れはべらぬなり」と聞こえたまふ。

 解説

光源氏に、「このように自分から望んでいるので、余命いくばくもないと言うならばためらう場合ではない。功徳のあるようにしてあげたい。」と仰る。これに光源氏は答える。「宮さまはここのところそう仰っているのですが、物の怪などが取り付いてこうした気持ちを起こさせることもあるので、取り合わないでいるのです。」という。

 

しかし光源氏にそういわれて却って朱雀院の心は決まってしまったように見える。

朗読⑫ 光源氏は思い止まるように申し上げているうちに夜明け方になった。朱雀院はどう

           思ったのか、僧を入れて宮の御髪を下ろさせる。これを見た光源氏は悲しく無念で

           こらえきれず泣く。

とかく聞こえ返さひ思しやすらふほどに、代明け方になりぬ。帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたまひて、御祈祷(いのり)にさぶらふ中に、やむごとなう尊きかぎり召し入れて、御髪(みぐし)おろさせたまふ。いと盛りにきよらなる御髪をそぎ棄てて、忌むこと受けたまふ作法悲しう口惜しければ、大殿(おとど)はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ

 解説

かねてから朱雀院は悩んでいた。光源氏と女三宮の関係がどうもよそよそしいとの話。

帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべし

私の姿が人目に付くことだけは避けねばならない。夜明けも近い、時間もない。ついに朱雀院はわが子の始末は自分でつけるとばかりに、僧を呼び入れる。御髪(みぐし)おろさせたまふ。

女三宮は、いと盛りにきよらなる御髪をそぎ棄てて、出家を果してしまった。

兄・朱雀院と弟・光源氏の関係が、このような形ですれ違いの中で結末を迎えた。朱雀院は西山に

去っていく。光源氏はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ

姿が変わってしまった女三宮を見て、光源氏はこらえきれずにひどく泣いた。

 

「コメント」

何ともなあという感じ。朱雀院というか、この地位にある人にありがちな一人合点、気まぐれさには驚く。しかしこれで厄介な問題のけりはついた光源氏。