260315御法(みのり)の巻(2)

今日の話は前回の続きで、紫の上は三の宮・中宮が生んだ三番目の皇子を呼んで 

「まろがはべらざらざらむに、思し出でなんや」 と声を掛けた。

「私がお側におりませんことになりましたら、思い出して下さいますか。」

 

そして紫の上はこんな風に言う。

朗読①

「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花のをりをりに心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむをりは、仏にも奉りたまへ」と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば立ちておはしぬ。とりわきて()ほしたてまつりたまへれば、この宮と姫君

とをぞ、見さしきこえたまはんこと、口惜しくあはれに思されける。

 解説

「三の宮よ、あなたは大きくなったら、ここ二条院にお住まいになって、この対の前に植えられた紅梅と桜を折々にお楽しみ下さい。その時には仏さまにもお供えしてください」と申し上げると、宮は頷いて紫の上の顔を見つめている内に涙が落ちそうになったので、立って行ってしまわれた。紫の上はこの三の宮と姫君とをとりわけ心にかけてきた。それで紫の上は口惜しくあはれに思されける。

残り惜しく、しみじみと悲しく思わずにはいられなかった。

厳しかった夏が過ぎて秋がやってきた。紫の上の体調も涼風の中で少し持ち直したように見える。

 

中宮が宮中に帰る時が来た。

朗読②

中宮は参りたまひなんとするを、今しばしは御覧ぜよとも聞こえまほしう思せど、さかしきやうにもあり、内裏(うち)の御使の(ひま)なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。

 解説

中宮は参りたまひなんとするを、今しばしは御覧ぜよとも聞こえまほしう思せど、

紫の上は、中宮が宮中に戻るのをもう暫くご滞在くださいと思っているが、申し出るのは出過ぎたことではあるし、帝からの帰参の催促の使者がしきりにあるのも気掛かりである。

ついに別れの時が来る。

あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。

もはや紫の上は中宮の部屋に出向くことが出来ないので、それで中宮が二条院の東の対から、紫の上がいる西の対へお出ましになる。

 

ここで中宮は紫の上を見て、はっとする。

朗読③

こよのう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれど、来し方あまりにほひ多くあざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花のかをりにもよそへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世を思ひたまへる気色、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。

 解説

中宮が見た紫の上の様子であるが、紫の上の衰弱は疑いもない。紫の上はこれまで見せたことの

なかった美しさを見せていた。紫の上の体は、こよのう痩せ細りたまへれど、すっかりやせ細っていたが、それが却って

あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ 紫の上はかくも品格があって美しい人であったのかと、人をして息を呑ませる。

かつての紫の上は、来し方あまりにほひ多くあざあざとおはせし盛りは、

これまではあまりにも にほひ に満ちて華やかであったが、今はどうであろうか。天性の、ありのままの姿でいようとしている紫の上の中から、彼女本来の美しさが輝き出している。

その様は、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、と中宮の目には映った。

らうたげ は、可憐な、守ってやりたいような魅力。その魅力こそ彼女が、この物語に登場した時から、彼女が自然に備えていた天性の魅力をあらわす言葉である。これはまさに、原文で読まないと

分からない部分である。

紫の上が初めて物語に登場した若紫の巻。そこでは らうたし らうたげ という言葉が、紫の上の

可憐さを象徴する言葉として、5回も使われている。

 

若紫の巻 を思い出して欲しい。高校の教科書にも出てくる、誰でも知っている場面である。紫の上が初めて物語りに登場するシ-ン。

朗読④

つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、(かむ)ざしいみじううつくし。   ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。

 解説

いとらうたげ 顔の様子がなんとも可愛らしく、眉のわたりうちけぶり、眉の辺りはまだ整えてなく、

そのままになっている。

その らうたげ らうたげ  紫の上の魅力を完璧に表す言葉が、この御法(みのり)の巻で帰ってきた。盛りの時の美しさが衰え、それらが枯れ果てて、紫の上が物語に登場した時から持っている本質的な可憐さが残った。

紫式部は、衰えたものの中にも、かけがえのない美が残っている様を繰り返し描いてきた。

 

中宮が別れの為に紫の上の下にやってきたのは、風の強い日であった。

朗読⑤

風すごく吹き出でたる夕暮れに、前栽(せんざい)みたまふとて、脇息によりゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、「今日は、いとよく起きゐたまふめるは、この御前(おまえ)にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」と聞こえたまふ。かばかりの(ひま)あるもいとうれしと思ひきこえたまへる御気色を見たまふも心苦しく、つひにいかに思し騒がんと思ふに、あはれなれば、

 おくとみる ほどぞはかなき ともすれば 風にみだるる 萩のうは露

 解説

紫の上は庭を見ようと体を起こす。そして脇息に寄りかかってようやく見ている。光源氏もここにやってきて、「紫の上が今日は起き上がっておられる。中宮のお側にいらっしゃると、ご気分も晴れ晴れとなさるようですね。」と申し上げる。

この程度のことを うれしと思ひきこえたまへる御気色を見たまふも心苦しく、 

紫の上は 本当にお喜びなされる光源氏の顔を見るといたわしくて、いよいよと言う時にはどんなにお嘆きかと思うとしみじみと悲しい気持ちになってしまう。そして光源氏を宥めるようにこんな風に歌う。

おくとみる ほどぞはかなき ともすれば 風にみだるる 萩のうは露

おくとみる  おく は、起きる の意と、霜が置く の置く の掛詞。こうして私が一寸起きている、それだけでも何と儚いことでお喜びなさるあなた。しかし秋萩の上の霜は、風に吹かれてすぐに乱れ飛んでしまうように、私もつかの間の事です。喜んでばかりいないで心の準備をなさってください。

ということ。

光源氏が庭先に目をやると、萩は風に吹き折られそうにしている。光源氏はこれを見て、堪えきれなくなり次の歌を詠む。

 ややもせば 消えをあらそふ 露の世に おくれ先だつ ほど()ずもがな

露のように儚いこの世の命ではあれけれど、一緒に死にたいものです。光源氏は、紫の上の死を

前提にして歌っている。さらにここに中宮の歌もある。

 秋風に しばしとまらぬ つゆの世を たれか草葉の うえとのみ見ん

秋風に吹かれて散っていく露のように、私たちの命も同じことでしょう。

 

そしてその中宮に紫の上がこんな言葉をかける。

朗読⑥

「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。言ふかひなくなりにけるほどといひながら、いとなめげにはべりや」とて、御几帳ひき寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、「いかに思さるるにか」とて、宮は御手をとらへたてまつりて泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して限りに見えたまへば、御誦(みず)(きょう)の使ども数知らずたち騒ぎたり。

 解説

紫の上は中宮に言う。「もうお引き取り下さい。気分が乱れ苦しくなりました。このように衰弱した様子ではご無礼になります。」と言って、御几帳を引き寄せて横になる。その様子はいつもより、 

常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、力なく儚いように見えた。

中宮がその手を握ると、紫の上はまことに消えゆく露の心地して限りに見えたまへば、

本当に消えゆく露そのままのご様子で、もはやご臨終と見えるものだから、慌てて僧たちを呼んだり慌ただしくなった。

 

朗読⑦

()一夜(ひとよ)様々のことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明けはつるほどに消えはてたまひぬ。

 解説

紫の上は世が明けようとする頃、静かに息を引き取った。実の子ではないが愛する中宮に手を取られ亡くなった。

 

当時三歳の中宮(当時は明石の姫君)が、大堰(おおい)の山荘から光源氏に引き取られ、紫の上の待って

いる六条院に初めてやってきた頃の事。薄雲の巻での事。次のように描かれていた。

朗読⑧

何事とも聞き分かでされありきたまふ人を、上はうつくしと見たまへば、遠方人のめざましきも、こよなく思しゆるされにたり。「いかに思ひおこすらむ。われにて、いみじ恋しかりぬべきさまを」と、うちまもりつつ、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ

多かり。

 解説

まだ赤ん坊と言っていい、何事もわからず無邪気な姫君を見て、紫の上はこの子を うつくし と思う。心底可愛らしいと思う。そして自らの(ふところ)に入れて、乳房を押し当て乳を飲ませようとする。この動作は当時の貴族たちにとって、どういうことであったか。普通、乳母がいる。こんな場面は平安時代の文学にはないし、こんな描写はしない。このように育てられた姫君が中宮になって、今度は紫の上の手を取ってその死を看取ったということ。このエピソ-ドは、血のつながらない母と子の関係として印象的であるし、作者 紫式部は、これを意識的に描いている。

 

今、光源氏はどうしているか。紫の上の予想以上に動揺し、見ていて痛々しい。紫の上はどのように送られ、その顔は安らかなものであったのか。光源氏に代わって沈着冷静な夕霧が呼びこまれる。

光源氏が「夕霧よ、紫の上の事はお前がしてやってくれ」と紫の上の横たわる側に彼を呼ぶ。

 

その後の事は、今や錯乱している光源氏に代わって、夕霧が伝えてくれる。彼の目に映った紫の上の様子はどのようなものであったか。

朗読⑨

御几帳の帷子(かたびら)をもののたまふ紛れに引き上げてみたまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油(おおとなぶら)を近くかかげて見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげにめでたうきよらに御顔のあたらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さんの御心も思されぬなめり。

 解説

御几帳 は移動式のパーティション。御几帳 の向こうが見えないようにかけてある 帷子、 それを引き上げて見る夕霧。

夜が明けようとする時分で暗い。彼が灯を近づけて、紫の上の顔をはっきりと見ようとする。その灯りに浮かび上がった紫の上の顔はどんな様子であったか。

彼女の顔は、飽かずうつくしげにめでたうきよらに御顔のあたらしさに、

生前の表情のままであった。どこまでも可愛らしく、見事に気高くきれいに見える。

 

安らかな顔をして、その天性の魅力はいささかも損なわれていなかった。光源氏の様子は?

朗読⑩

大将の君も、涙にくれて目も見えたまはぬを強いてしぼりあけて見たてまつるに、なかなか飽かず

悲しきことたぐひなきに、まことに心まどひもしぬべし。御髪(みぐし)のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、つゆばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。()のいと明きに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすことありし(うつつ)の御もてなしよりも、言ふかひなきさまに何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬところなしと言はんさらなりや。

 解説

夕霧も私たちも一体化して二条院に駆け付けて、そこに横たわる紫の上を間近に見つめているかのような錯覚を覚える。そんな描き方がされている。まず目に飛び込んでくるのは紫の上の髪。

御髪(みぐし)のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、

漆黒の黒髪が無造作に体の方に、彼女の体と同じように長さに打ちやられている。ふさふさと綺麗で、もつれもなくつやつやと美しい風情は限りない。そして黒髪の中にお顔が白く光り輝くように見えている。

(うつつ)の御もてなしよりも、言ふかひなきさまに何心なくて臥したまへる御ありさま

今は全てから解放されて、ありのままの紫の上である。それが私たちに見せてくれた、紫の上の最後の表情であった。

 

「コメント」

とても素晴らしいヒロインが、自分が生んだ子ではなくて3歳から育てた娘に看取られ亡くなる。光源氏の悲嘆。源氏物語のクライマックス。