260329 52 幻の巻(2) 最終回
この物語が千年前の作品であることに驚く。「源氏物語」は世界最高の文学作品とか、世界最古の
長編小説とか言われることがある。日本語で書かれているので我々は手にとって楽しむことが出来る。個性豊かな登場人物、起伏に富んだストーリ-。今も昔も変わらない人の心の襞を一つ一つ描き取っていく繊細な筆遣い。大胆でドラマチックな構成。「源氏物語」は今の私たちの目で見ても、本当に面白い。一度読みだしたら止まらなくなってしまう。こんな小説はほかにはない。
今日は幻の巻の第二回。前回はこんな話で終わった。光源氏に子供は三人。この中で唯人の女の子をもたらした明石の君。光源氏との関係をもった女性で今も健在なのは明石の君だけである。
秘密の子・冷泉帝の母・藤壺はとうに亡くなった。夕霧の母・葵上も。明石の君というのは今も昔も
物語において特別な存在である。
そして彼女こそこの物語の中で、光源氏と諸々の事を長々と語り合った最後の女性となった。
その場面は
夕暮れの霞たどたどしくをかしきほどなればやがて明石の君の御方にわたりたまへり。から始まるので、春の終わろうとする頃、 久しうさしものぞきたまはぬに、おぼえなきをりなればうち驚かるれど、 光源氏とは久しぶりの対面。
まさかお出ましになろうとはという感じで明石の君もはっとしているが、そこは彼女の事、慌てるでも
なく落ち着いた様子である。
光源氏の心も自然に和らいで、明石の君にこんな風に話しかける。
朗読①
こなたにては、のどやかに昔物語などしたまふ。「人をあはれと心とどめむは、いとわろかべきことと、いにしへより思ひえて、すべていかなる方にも、この世に執とまるべきことなくと心づかひをせしに、
おほかたの世につけて、身のいたづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに思ひめぐらししに、命をもみづから棄てつべく、の野山の末にはふらかさんにことなる障りあるまじくなむ思ひなりしを、末の世に、今は限りのほど近き身にてしも、あるまじき絆多うかかづらひて今まで過ぐしてけるが、心弱う、もどかしきこと」など、さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、思したるさまのことわりに心苦しきを、いとほしう見たてまつりて、
解説
光源氏は言う。「人に思いを寄せこれに執着することは、いとわろかべきことと 見苦しいことだと 昔から分別しているし、この世に執とまるべきことなくと心づかひをせしに、そしてこの世に執着しない
ように用心してきた。ことに
身のいたづらにはふれぬべかりしころほひ 特にあなたと出会った頃、自分はこれまでと覚悟して
いた。あの頃はわが命もこれまでと思うところがあったし、 この経験の中で山奥の誰も知らない所で息絶えてもそれはそれで構わないと思っていた。それがどうしたことか幸いにも命を拾い、あなたとも出会って、都へ帰るという自分でも思いもしなかった栄華を手にした。それだけではない、子供や孫たちにも恵まれ、次々と人間関係にも恵まれ次々と人間関係が広がっていった。
余命が少なくなった身でありながら、あらずもがなの 絆 に引きずられて生きてきたのは、何と意気地がなくて歯がゆいことか。出家もできなかった。」と光源氏は明石の君に語り掛けた。
明石の君は静かにその話を聞いていたが、しかし彼女は何もかもお見通しであった。光源氏が出家できない理由は、彼の話してくれたようなことではないことを。光源氏はとにもかくにも優しい人。そのことを知っている明石の君は思う。光源氏は今、目の前にいる自分のことを気遣って、須磨・明石を流離ったこと、明石の地でもうけた子がやがて東宮に嫁いで、宮たちを次々と生んでいつの間にか
沢山になった子供たち、孫への愛情に引き摺られて、出家をできないのだと話してくれた。けれども
それは嘘。そして光源氏が出家できない真の理由はこんな事でないことを知っている。
今の文章に さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、 とあった。一つのことへの思い、それを悲しく思う。このことによって今なお、出家の決意ができないでいる。明石の君はそのように見抜く。
光源氏のたった一つの事とは何であろうか。いうまでもなく、それは紫の上への愛着、執着。
亡き紫の上のことが今なお、忘れられず彼女のことを思うと涙して動揺している自分がいる。そんな自分では、およそ清らかに出家の道に赴くことなどできるわけがない。光源氏自身が言うことはないけれど、しかし光源氏がそうした思いを抱いていることを明石の君はお見通し。文章に
心苦しき いとほし とあった。そのような光源氏を 辛いであろう気の毒な事と思う明石の君がいる。
すべてが分かったうえで、明石の君はやさしい心遣いを示す。
「あなた様のようなお方と違っていつ亡くなっても いつ出家してもいい年の方でも、いざその段階に
なると家族や血に繋がる者たちのことが気になって、綺麗さっぱりと世を捨てることなどできないものの様でございます。気残りがあるのに無理矢理出家するなとは、軽はずみなことですよ。」
ここからは明石の君の言葉に耳を傾けよう。
朗読②
思したつほど鈍きやうにはべらんや、つひに澄みはてたまふ方深うはべらむと、思ひやられはべりてこそ、いにしへの例などを聞きはべるにつけても、心におどろかれ、思ふより違ふふしありて、世を厭ふついでになるとか、それはなほわるきこととこそ。なほしばし思しのどめさせたまひて、
解説
出家をするという思いが本当に固まるまで十分に時間をかけること。それが傍目には愚図愚図して動きが鈍いようにしか見えないかもしれないが、そうした方がついに出家を果たした時には、
つひに澄みはてたまふ
心が澄み切って悟りの境地に辿り着けることになるのでしょう。何か突発的な事件にはっとして、慌ただしくとっさに混乱状態で出家してしまうことへの諫め。それはこの物語の中で様々な形で繰返し語られることであるが、迷い続ける光源氏に、寄り添った明石の君。そして明石の君が辞去したのち、
光源氏は勤行を続けた。
そして一つの季節が去り、また次の季節が来る。春が去り夏が去り、そして秋がやってきた。八月、紫の上の一周忌である。
朗読③
御正日には、上下の人々みな斎して、かの曼荼羅など今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の御行ひに、御手水まゐらする中将の君の扇に、
君恋ふる 涙は際も なきものを 今日をば何の 果てといふらん
と書きつけたるを取りて見たまひて、
人恋ふる わが身も末に なりゆけど 残り多かる 涙なりけり
と、書き添へたまふ。
解説
今の文章に 御正日 とあったが、命日の事。その日、紫の上の一周忌の法要が光源氏によって催され、沢山の人々が集まってということになると私たちは想像する。しかしそうではなかった。むしろそのようなことを避けるかのように、すべてはありふれたものであったが、紫の上の一周忌を機に、光源氏はついに覚悟を決めて出家を果たすと、それは素晴らしい、さすが光源氏の出家であるという称賛の声が挙がるだろうが、それはどこか白々しい印象を私たちに与えるのではなかろうか。しかし現実には出家はなかった。命日には 上下 の人たちが精進して、あの 曼荼羅 などを供養する。
いつものように 宵 の勤行をやる時、御手水 を差し上げる女房の 中将の君の扇に
君恋うる 涙は際も なきものを 今日をば何の 果てといふらん
亡き方を慕う涙はいつまでも果てしなく流れますのに、今日をなぜ 果て の日 というのでしょう。
という歌が書いてあった。彼女は紫の上が目にかけていた女房である。
光源氏はこう返した。
人恋ふる わが身も末に なりゆけど 残り多かる 涙なりけり
亡き人を慕う私の命ももう残り少なくなってきたけど、いつまでも尽きることのない残りの多い涙であることよ。
こうして盛大でもない紫の上の一周忌であった。
秋が終わり冬が来る。渡っていく雁を見て光源氏はため息をつく。
朗読④
神無月は、おほかたも時雨がちなるころ、いとどながめたまひて、夕暮の空のけしきにも、えも言はぬ心細さに、「降りしかど」と独りごちおはす。雲居をわたる雁の翼も、うらやましくまもられたまふ。
大空を かよふまぼろし 夢にだに 見えこむ魂の 行く方たづねよ
解説
神無月はただでさえ、時雨が多い季節なので、光源氏はひとしお涙がちの物思いに沈んでいる。渡っていく雁もあの世とこの世を通うものと羨ましく思う。
大空を かよふまぼろし 夢にだに 見えこむ魂の 行く方たづねよ
雁は死者と現世をつなぐ鳥として認識されていた。雁は死者の世界へも飛んでいける鳥なのである。そして歌に実際にあらわされたのは、雁ではなくて まぼろし である。この歌が光源氏の人生で
最後の歌である。この まぼろし とは何のことか。実に昨年の四月にこの放送を始めた時、すでに説明した。それはこんな歌が物語に出てきたからである。
尋ね行く まぼろしもがな 伝にても 魂のありかを そこと知るべく
この歌は光源氏の父、桐壺帝が最愛の后・桐壺更衣を亡くして、悲嘆にくれる中で詠む歌である。桐壺の巻。
まぼろし とは、不思議な術を使って死者の世界にも自在に行くことの出来る人のことをいう。その まぼろし ・不思議な術を使う男が もがな 、自分にも欲しいということ。さらに言うと、桐壺帝の歌は中国の 白居易 の作った 長恨歌を 前提にしている。長恨歌において、楊貴妃を失った玄宗皇帝はある日、現れた幻術士のお陰で、死んだ楊貴妃が今どこでどうしているかを知ることが出来た。桐壺帝はそのエピソ-ドをもとにして、桐壷更衣を偲んでこう歌ったのである。
桐壺更衣を探し出してくる不思議な男・まぼろし が私のところにもいたらいいのになあ という意味である。
こうした所からこの放送は始まった。そして一年、再び話は同じようなところに戻ってきた。光源氏の物語の最初と最後において、光源氏もまた、父桐壺帝度同様な嘆き、悲しみ、絶望の中にいる。物語のはじめに父・桐壺帝が
尋ね行く まぼろしもがな 伝にても 魂のありかを そこと知るべく という歌を歌ったのは、光源氏は知らない。知っているのは読者だけである。
物語最初の桐壺の巻と、物語の終わる幻の巻 とは、このように首尾呼応して、物語は今、実に美しい図形を描いて完結しようとしている。「源氏物語」は最愛の后を失った桐壺帝の嘆きを描くことで幕を開け、同じく最愛の人を失った嘆きに沈む光源氏の姿を描くことで終わる。「源氏物語」という物語は、愛する人を永遠に失った男の嘆き、悲しみを主題にした物語として、そのモチ-フによって作者・紫式部によって明確に示された。
大空を かよふまぼろし 夢にだに 見えこむ魂の 行く方たづねよ
紫の上を失った光源氏は41番目の巻・幻の巻で、このように嘆いて空を仰ぐ。確かに紫の上は亡くなったのち、光源氏の夢にさえ出てこなかった。彼女はこの世に未練をいささかも残さなかった。死の瞬間に心乱されることもなく、逝ったと考えることが出来る。例えばあの藤壺は死んだ後も、光源氏への思いを断ち切れずに光源氏の夢枕に立った。朝顔の巻である。あるいは六条御息所は死んだ後も光源氏への思い、執念を棄てることができず死霊となって姿を現した。
それに対して紫の上は光源氏の夢に姿を現さなかったことは一つの救いである。
紫の上が光源氏の夢に出てきたら、彼女はこんなにこの世に未練を残していたのかと私たち読者は気の毒になってしまうし、光源氏も夢で紫の上に会ったら心乱され、悩み、自分の出家どころではなくなる。夢に出てこないというのは、光源氏にとって救いなのである。楊貴妃の行方を知ってしまった玄宗皇帝は、実は可哀そうな人である。知ったところで会えるわけでもない。結果的に楊貴妃の事がいつまでも消えないという、実に残念なことになったのである。
一年経っても光源氏の夢に紫の上は出てこない。これで光源氏はついにこのような振る舞いに出る。
朗読⑤
人の御文ども、「破れば惜し」と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所どころより奉りたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結ひあはせてぞありける。みづからしおきたまひけることなれど、久しうなりにける世のことと思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、げに千年の形見にしつべかりけるを、見ずなりぬへきよと思せば、かひなくて、疎からぬ人々二三人ばかり、御前にて破らせたまふ。
解説
紫の上はもういない。そのことを改めて自分に言い聞かせるように、自分の未練にけりをつけるかのように、最愛の紫の上の記憶の全てを火の中に投げ入れた。それは紫の上が書いた手紙。光源氏が須磨・明石に流離った頃、都の紫の上から届けられた手紙の数々、若いころの紫の上がそこにはそのまま生き続けている。それは光源氏に残された紫の上そのものといってよい。
かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 同じ雲居の 煙とをなれ
煙となって消えていった紫の上の心と言葉。それが光源氏の人生において大きな意味を持っていたことは、少し前の文章でもこうあったことで明らかである。
朗読⑥
今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今はと世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること尽きせず、やうやうさるべきことども、御心の中に思しつづけて、さぶらふ人々にも、ほどほどに物賜ひなど、おどろおどろしく、今なん限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人々は、御本位遂げたまふべき気色と見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く悲しきこと限りなし。
解説
ついに出家を迎えるべき時が近づきつつある。その覚悟がいよいよ固くなってきた。光源氏が文を焼いたことはそうした印象を与える。
光源氏の人生の最後を語る為の巻は、次のような文章で締めくくられる。
朗読⑦
年暮れぬと思すも心細きに、若宮の、「雛やらはんに、音高かるべきこと、何わざをせさせん」と、走り歩きまたふも、をかしき御ありさまを見ざらんこととよろづに忍びがたし。
もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬ間に 年もわが世も 今日や尽きぬる
朔日のほどのこと、常よりことなるべくとおきてさせたまふ。親王たち、大臣の御引出物、品々の禄どもなど二なう思しまうけてとぞ。
解説
一年が終わろうとしている。何もわからず若宮・あの三の宮。彼は今日も元気に走り回っている。その姿を見ながら、光源氏の今年一年は終わろうとしている。そして光源氏の人生もこうして終わろうと
している。こんな思いを
もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬ間に 年もわが世も 今日や尽きぬると噛みしめている。
物思いして月日の経つのを知らずにいたが、その間にこの一年も、わが人生も今日でいよいよ
終わってしまうのか。
年が改まると、光源氏の所には新年のあいさつに親王や大臣が来るであろう。彼らへの引出物を
用意する光源氏を描いて、作者紫式部は静かに筆を置こうとしている。
光源氏の出家の場面が描かれることはない。彼は最後まで眩しく美しかった。心静かに新年を迎えようとしている光源氏は、往年より輝いていた。
御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えたまふ。 とある。
光源氏の御容姿は、昔ながらの光り輝く美しさの上に、またとなくご立派にお見えになる。
光源氏の五十年の人生は、こうして静かに幕を下ろすのであった。
「コメント」
あっという間の、「源氏物語」と過ごした一年であった。原文の香りを嗅ぎながら、物語の
エッセンスの解説を聞いた。
我々素人にはこの講義が適切であったと実感。講師に大感謝です、有難うございました。
光源氏の物語はここで終わる。「年もわが世も」尽きたと述懐する源氏は、再びその姿を現すことは
ない。この幻の巻は、紫の上の死後の源氏の一年の経過を、歌を中心に語りつづってきた。その
出家も死も、ついに物語の中で描かれることはなく、後の巻で回想されるにすぎない。宿木の巻(宇治十条)によれば、嵯峨の御寺にこもり、やがて没したという。