250503⑤「業平をめぐる女性たち」
今日は「伊勢物語」に登場する女性たちについて考える。「伊勢物語」は全部で125段ある。登場する女性の名前が記されてなくとも、この段の女性は似ていると感じる。「伊勢物語」には全部で何人くらいの女性が登場するのであろうか。
「伊勢物語」の最も古い注釈書が、鎌倉時代の「和歌知顕集」である。現代の観点からは荒唐無稽で、信じるに耐えないと見做されている。業平は極楽の馬頭観音の化身であるという立場である。
馬頭観音は人間が真実の恋愛を忘れていることを憐れみ、在原業平という人間としてこの世に現れた。そして多くの女性と契り、彼女たちの心を悩ませ、その苦しみを通して悟りへと導いたとされる。
このことは第二回でも触れた。業平は契った女性の数は3733人であった。これだけの数の女性たちの悩みを、解消したという立場である。3733人という数字はどこから来たのであろうか。
一方では、37という数字そして33という数字を大切にする。その37と33を組み合わせれば3733になるのかもしれない。また沢山とか膨大とかいう意味を3700という数字で表現することがある。
「和歌知顕集」の一節。
朗読①
されば得たる所の女、三千七百三十参人也といへども、聞く人道に耽友いふべき女ばかり選んで、わずかに十二人を選んで、この物語にあらわし書きたるなり。ただし、色を好まぬにはしな配りても、高樹に近づきがたく、形愚かにしても人の心を取りがたく、心ながらはずしてもわが身を養いがたかるべきなり行なれば、かの業平朝臣、しなを設けんが為に、平城天皇の御孫四品阿保親王の第五の男と生まれて、人の心を留むるがために、形世に優れたり。身を修めて罪をなさじがために、心をやわらげて和歌をよく作る。※ 聞き取り不良
解説
業平がかかわった女性は3733人もいる。その中から僅かに12人を選び、自分と彼女たちとの恋愛遍歴を、自ずから「伊勢物語」の中に書き残したというのである。馬頭観音は人間社会に生まれてくるに際して、身分が高くなくては高貴な女性たちには近づけない。また美貌に生まれると女性の心を引き付けられる。心をしっかり持たないと彼女たち救えないと考えた。それで平城天皇の孫、阿保親王の五男という高い身分に生まれ美貌にも恵まれ、心をしっかり保つために和歌の名手となったというのである。「伊勢物語」には12人の女性たちが登場する。これが「和歌知顕集」の理解である。
阿保親王 平城天皇の第一皇子
その12人は誰なのか。再び「和歌知顕集」の一節である。
朗読②
第一は紀有常が女、第二には忠仁公が女、文徳天皇が后、染殿后なり。第三には、小野良実が女、小野小町なり。第四には左大臣藤原冬嗣の女、仁明天皇の后、五条の后なり。第五は中納言藤原長良の女、清和天皇が后、二条の后なり。第六は せん卿が女、小泉の女なり。第七には、文徳天皇の皇女・恬子内親王、伊勢の斎宮なり。第八に、筑紫の染河の女、これには名なし。第九には、中納言在原行平の女、清和天皇の更衣、貞数親王の御母なり。第十には、大納言のぼる卿の女、めずらしの前なり。第十一には、周防守在原仲平の女、養い妹なり。第十二には、大和守藤原ツナカゲが女、今の妻女伊勢にありけるを、伊勢を退きただしてその後にマシコの前と出でたるなり。
その十二人の女の名を変えて様を変えて、この物語の中に八十四段に乱れ書きたるなり。
※ 聞き取り不良
解説
業平が書き残していた恋愛日記は八十段余りであって、そこには12人の女性との思い出が具体的に書き綴られていたというのである。
第一に紀有常の女、業平の幼馴染、筒井筒の女である。3733人の最初の相手であり、20年以上業平の妻であったとされる。二人目からは道ならぬ恋の相手が続く。第二に、染殿后 、摂政藤原良房の女、明子、文徳天皇の后である。清和天皇の母。第六段 芥河 では、二条の后と呼ばれた 高子 が、いとこの女御のもとに仕えるとあったが、業平はその二人のどちらとも関係したことになる。第三に小野小町、色好みの業平と色好みの小野小町との恋愛ゲ-ムである。
小野小町は極楽の如意輪観音の化身である。第四は、第54代仁明天皇の后である藤原順子。第五に、清和天皇の后である二条の后。藤原高子。業平は第54代仁明天皇の后、第55代文徳天皇の后、そして57代清和天皇の后というように、三大の天皇の后と契りを結んだことになる。第六に、紀長谷雄の妹、彼女とは契りはない。業平を恋焦がれて死んでしまった純情な女性である。「伊勢物語」第四十五段 行く蛍 の背景である。紀長谷雄は漢詩人として有名であるが、彼は業平の友人だったという設定である。第七に伊勢の斎宮、天皇に仕える后たちとの密通だけでなく、神に仕える神聖な斎宮とも密通し、業平はタブ-への挑戦を続ける。第八に、筑紫の染河の女、これは第61段 染河 の背景である。ここで読者は不思議に思うかもしれないが、業平は東下りをして武蔵国、陸奥国で交際した女たちはこの12人には入っていない。地方の女の女はこの染河の女が代表しているのだろうか。違うのである。「和歌知顕集」は、業平は実際には東下りをしていないという立場なのである。この不思議な解釈については、第6回の講義で説明する。
第九に、清和天皇の更衣・在原文子。兄である行平の娘なので叔父姪の関係で、天皇の后との密通でもあった。
第十には、めづらしの前、この女性は古今和歌集にも歌が出ている。寵 と書いて、ちょう とか うつく とか呼ばれた。ここでは めづらし と呼んでいる。経歴のよくわからない女性だが、「和歌知顕集」は彼女と業平が関係があったと考えている。第九十九段 ひをりの日 の背景である。第十一に、兄にあたる在原仲平の娘。仲平が亡くなった後、自分の姪に当たる仲平の娘を、業平は妹のように可愛がった。その二人がいつしか愛し合うようになったという設定である。
第四十段 すける物思ひ の背景である。第十二に、女性歌人の伊勢。彼女が業平の最後の妻という設定である。業平自筆の日記を発見したが、自分の登場する段を省略し、代わりに ましこの舞 という女性のエピソ-ドを書き入れたと「和歌知顕集」は説明している。第六十二段の女、このましこの舞であると言っている。以上が3733人の中から厳選された12名の実名である。所で江戸時代に
書かれた井原西鶴の「好色一代男」は 世之介 という男の恋愛を主題にしている。世之介 の 世 という字には、世の中・社会という意味のほかに男女関係という意味もある。54歳の人生が描かれている。54というのは、「源氏物語」の巻の数である。
「好色一代男」の一節を読む。
朗読③
心と恋に責められ、五十四歳まで、たはむれし女三千七百四十二人、少人のもてあそび、七百二十五人、手に日記にしる、井筒によりて、うないこより、巳来、腎水を、かえほして、さても命は、ある物か
解説
「好色一代男」の巻一である。3742とあるのは、業平の3733人を目標にして、その数を超えるように努めて、9人凌駕したのである。加えて世之介は725人の稚児とも関係した。世之介は数字の上では業平を越えた。そしてそれらの記録を手日記に書き留めている。これは業平の恋愛日記を意識している。世之介が憧れるほどに多くの女性を愛した業平であったが、「伊勢物語」にはわずか12人女性との思い出しか書かれていない。その中から一人伊勢が消えて、 マシコの舞 が追加されているので、正確には13人である。これまでに多くの恋愛小説が書かれたが、パタ-ンとして10種類くらいかと思う。「和歌知顕集」はそれを12人のヒロインとしたのであろう。「和歌知顕集」がリストした12人の女性の実名はその倍も受け継がれている。
冷泉家に伝わった「冷泉家流伊勢物語抄」という本がある。そこでも3733人という数字と、その中から選ばれた12人の名が述べられている。名前は「和歌知顕集」と同じである。「和歌知顕集」と「冷泉家流伊勢物語抄」の説を紹介してきたが、この二つの本は女性の実名を告げるだけでなく、「伊勢物語」の夫々の段について、5W11Hを書き記すことである。5W11Hを明らかにすることが「伊勢物語」を読むうえで重要と考えている。但しそれを証明する歴史資料は存在しない。
根拠不明なのである。例えば、第一段は
むかし、男、初冠して、奈良の卿春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。
と始まる。「和歌知顕集」はこの段について、承和8年2月22日に行く、3月2日に帰る と述べている。所が「冷泉家流伊勢物語抄」では、承和10年2月2日、祭りの勅使に行くなり とある。承和8年は17歳の時。承和14年は23歳。因みに 「三十六人歌仙伝」という本に、業平17歳の年に右近衛の将監に任命され、23歳で蔵人にと書かれている。「伊勢物語」の第一段が始まった年を、「和歌知顕集」が17歳とし、「冷泉家流伊勢物語抄」が23歳とするのはそれなりの理由がある。なお、信頼できる六国史の一つである「続日本後記」には、業平が従五位下に任じられたのは25歳の時と書かれている。
ここで「伊勢物語」と「源氏物語」の読まれ方を比較しておこう。「源氏物語」は作り話であるが、中世においては歴史的な人名や出来事、場所を下敷きにしていると考えられていた。これを準拠という。それを否定したのが本居宣長である。
本居宣長は いづれの御時にか という 「源氏物語」の書き出しについて、これまで醍醐天皇の御代などと限定して読まれていたが、いつの時代のどの天皇の時代であってもよいと明快に答えている。「源氏物語」の研究においては5W1Hの当てはめを否定したのは、江戸時代後期の本居宣長なのである。
「伊勢物語」の研究者で、5W11Hの当てはめを否定したのは、室町時代の一条兼良であった。「伊勢物語」の研究は「源氏物語」の研究とは別の経過をたどっている。一条兼良は応仁の乱の頃の摂政関白で、混乱と戦乱の時代を合理的な知性と和の精神で乗り切ろうとした。彼が書いた「伊勢物語」の注釈書が「愚見抄」である。類稀な知性の持ち主にしか書けない名著である。一条兼良が「愚見抄」で12人の女性の名前を当てはめる説を否定する部分を読む。
朗読④
業平の中将の通いはべる女は、自ずから物語の中にその名を顕しはべるは申すに及ばず。また代々の選集などの中にその歌につきて、ままその作者を載せはべることあり。さるを近古の末釈に一々その名を顕しはべる。いとおぼつかなきことなるべし。例え、その世に生まれあひたるとも、かかるみそかわざを遍く人、知るべからず。いはんや、数百年の後に出でて、数百年の後をおし測ることは、例え明哲の口伝たりといえども、信用に足らぬことなるべし。
解釈
合理的な一条兼良の立場ははっきりしている。「伊勢物語」の中に業平が関係した女の名前が書かれている場合がある。それはもちろん信用していい。また「古今和歌集」をはじめとして歴代の勅撰和歌集に時として、「伊勢物語」で女が詠んだ歌が載っていて、作者名が書かれている場合がある。それも信じてよい。但し「和歌知顕集」などが「伊勢物語」のほとんどの段で登場する女の名前を確定しているのは、甚だ疑わしい。例え、業平と同時代に生まれ合わせたとしても、業平と妻との関係などは極秘の出来事であり、多くの人が知っているはずがない。まして業平より数百年後に生まれたものが、数百年前の出来事を推測して語っている内容は、例え、立派な知識人からの口伝えであったと
しても信用は出来ない。
本文に実名が書かれている場合に、一条兼良は「伊勢物語」の本文に実名が書かれている場合や、勅撰和歌集に歌の作者が明記されている場合を除き、「伊勢物語」で女とあったならただの女であり、それ以上でも以下でもないという。
一条兼良は本居宣長より300年も前の人物である。「源氏物語」の場合には、本居宣長から近代的解釈が確立して現代に至ったが、「伊勢物語」の場合には応仁の乱の時代を生きた一条兼良によって、近代の古文解釈の原点が形作られた。但し むかし、男ありけり の男に関しては、一条兼良は業平のことだと認めている。この姿勢は一条兼良以降、暫くは踏襲される。
江戸時代の直前、細川幽斎が、室町時代の「伊勢物語」研究を集大成した。「闕疑抄」である。
「闕疑抄」の一節である。
朗読⑤
むかし、男と言うは こちゅうの説 なり。信用せず、むかしと読み切りて、男 と読むなり。男と言うは業平のことなり。
解説
細川幽斎の説を分かりやすく言い換える。業平を むかし男 と呼ぶのが「和歌知顕集」などの古い注釈書の説であるが、信用してはならない。むかし と、ここで息を継いで 男 と読むのが良い。この男 というのは全ての段で、在原業平である。むかし男という業平がいたのではなく、昔、一人の男がいて、その男が業平を指しているというのである。これが細川幽斎の考えである。
第一段 初冠 には いとなまめいたる女はらからすみけり とある。
女はらから について、細川幽斎は次のように言っている。
朗読⑤
古説は紀有常が 女はらからあり というを、これを用いず、詠み人しらずの類にすべし。誰ともなきをば、その名を誰と顕してやうなきことなり。
解説
細川幽斎は一条兼良を受け継いでいる。男は業平。だが女は確かな証拠がなければ、詠み人しらずとするのだというのである。江戸時代に細川幽斎の「闕疑抄」を悉く否定したのが荷田春満である。荷田春満は、むかし男 と続けて読むのは間違いで、むかし 男と切って読むという「闕疑抄」は正しいという。けれども 男 が、業平というのは間違いだと断定する。「伊勢物語」第百二十五段全部が業平の事ではないし、そもそも「伊勢物語」は作り話であるという。
そして「闕疑抄」が第一段の 女はらから について、彼女たちの実名を明らかに出来ないという点に関して次のように言っている。
朗読⑥
むかし男を 業平という古説に 有常が女はらからあり という説、出で来るべし。これを用いざるからは、むかし男のだれともなきをば、業平とあらわし足ることはいかにぞや。男を業平といわば、この女も名をあらわすべし。ともにその証なきことなれば、この古説に紀有常が名というもしひて肯じがたし。ただこの 女はらから を誰とも名をあらわさんを然るべき説とも褒め難し。
解説
彼の「伊勢物語童子問 」の一部であった。彼は一条兼良から細川幽斎にその後も受け継がれてきた解釈を、矛盾していると批判している。「闕疑抄」が男が業平のことだというのであれば、この女はらからの実名を当てはめるべきだろう。女にだけ紀有常の女という説を否定し、男にだけ業平という実名を当てはめるのは基準がぶれている。「闕疑抄」が、おんなはらから は紀有常の女たちではないといったのは、そこだけ見れば正しいがその解釈方針が男に関しては徹底していない。なので「闕疑抄」の姿勢は全体から見ると褒められない。これが荷田春満の考えである。現在の「伊勢物語」解釈の基本姿勢である。まとめると、「伊勢物語」の読み方は人名の当てはめについて、大きく三つの立場があったことになる。
第一に、男は業平とし、女たちにも実名を当てはめる立場
第二に、男は業平であるが、女たちには証明されない限り実名を当てはめない立場
第三に、男にも女にも実名を当てはめない立場
この三つが存在する。また女に実名を当てはめる際にも、「和歌知顕集」と「冷泉家流伊勢物語抄」
では、同じ段に登場する女に違った名前が当てはめられる場合がある。現代では書かれてあることを書かれてある通りに解釈するのが原則である。だから本文にないことは読み取らない。けれども鎌倉時代の読者は、なぜ本文には明記されていない女性たちの実名を詮索してきたのであろうか。最大の理由は、実際にあった出来事を敢えてぼかして、誰のことだかわからないようにして書かれたのが「伊勢物語」であるという作品理解があったからである。「源氏物語」は作り物語だからそうではない。虚構の世界を現実に近づけようとして、準拠という方法論が採用された。歴史的事実が、虚構の下敷きになったとされた。
「伊勢物語」は作り話ではなく歌物語である。現実にいた人物が、現実に存在した女たちに恋の歌を贈る。そしてその歌が残っているという理解である。だから「伊勢物語」の5W11Hが突き止められるはずだとされたのである。けれども人名の特定と時間の当てはめには困難が伴う。そのことを第二段 西の京 を例にとって説明する。
朗読⑦
むかし、男ありけり。奈良の京は離れ、この京は人の家まだ定まらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされけり。その人、かたちより心なむまさりたりけり。その人、かたちより心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うち物語らひて、かへり来て、いかが思ひけむ、時は三月のついたち、雨そほふるにやりける。
おきもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめくらしつ
解説
詳しい解説は第8回で述べるが、ここでは男が西の京にいる女と関係し、弥生の一日、即ち3月の初めに歌を詠んだと書いてある点に注目しよう。
「和歌知顕集」の説明を読む。
朗読⑧
この西の京の女と申すは、左大臣良房の大臣の女。染殿后なり。このことは承和九年二月のこととみえたるなり。
その時業平十八、女十七、東宮十六歳なり。
解説
本文に 弥生ついたち とあるので、「和歌知顕集」が 二月のこととみえたるなり というのは疑問。承和九年 は、842年。業平は確かに18。この年に嵯峨天皇が崩御し、後の文徳天皇が東宮になった。文徳天皇は827年の生まれなので、承和9年には「和歌知顕集」のいう通り16歳である。染殿后 こと、藤原明子の生まれ年は828年と829年説とがある。842年には14歳か15歳。「和歌知顕集」がいう 、女十七、 と言っていることと食い違う。何よりもこの 承和九年 は、業平の父親である 阿保親王が深くかかわった承和の変が起きた激動の年である。この年に業平が恋愛に夢中になっていたとは考えられない。「和歌知顕集」の人名当てはめと時代の特定には無理がある。
それではもう一つの「冷泉家流伊勢物語抄」はどう説明しているだろうか。
朗読⑨
西の京に女ありけり とは二条の后、いまだ東院の御息所にて、長岡京の西の方にある時のことなり。時は弥生ついたち とは貞観13年の3月ついたちなり。
解説
「冷泉家流伊勢物語抄」は、西の京の女 は清和天皇の后・二条后・藤原高子であると当てはめている。男は無論、業平である。そしてこの歌が詠まれたのは貞観13年の3月ついたち だと言われている。871年。業平はすでに47歳、高子は30歳。年齢的に二人がここに登場するには無理がある。「和歌知顕集」「冷泉家流伊勢物語抄」も、5W11Hを特定したいという熱意は伝わってくるが、根拠はなく明らかこじつけになっている。厳密な解釈をモット-とする一条兼良は、
おきもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめくらしつ
という歌は、「古今和歌集」に業平の歌として載っていると述べるに留めている。女の名前もいつの事だったかも触れていない。細川幽斎の「闕疑抄」は、男は業平、女は誰ともわからないという立場である。「闕疑抄」に対して激しい敵愾心を燃やす荷田春満は、女に実名を当てはめるべきではないという立場である。それで「闕疑抄」への批判はないかという、そうではなくやはり批判している。この歌は「古今和歌集」に確かに在原業平の歌として載っている、だから「伊勢物語」の第二段は業平の歌をもとにして作られたものである。けれども業平と明記せずに、本文には 男 と書いたことで、この第二段の 男 はすでに業平ではなくなっている、即ちこの段に登場する 男 を、業平としたくないというのが、「伊勢物語」の作者の意向なのだ、または時代設定は
奈良の京は離れ、この京は人の家まだ定まらざりける時に とあるが、
平安京が定まったのは794年、業平が誕生する30年も以前である。「伊勢物語」は登場人物も年代も史実を作り替え、文字通りの作り物語として完成した。これが荷田春満の基本姿勢である。それは女たちだけではなく、業平も同じことだというのである。
私は29歳から64歳まで大学で文学という科目を教えた。それ以前は大学院生であった頃には、
私立の中高一貫の学校で非常勤講師を務め予備校でも教えた。中学生、高校生、受験生を相手に「伊勢物語」を教えるときには、荷田春満の厳密な姿勢を踏襲した。けれども私は教室で教えながら悩んだ。教育の立場からはそうあるべきなのだが、文学の観点からは違った風景が見えてくるからである。現代では否定されている解釈を種として、世阿弥の謡曲や井原西鶴の文学が生まれている。これからも生まれるであろう。考古学には複合遺跡と呼ばれる遺跡がある。同じ敷地の土の中に、
古代・中世・近世・近代と様々な年代の遺跡が積み重なって埋蔵されている遺跡の事である。
「伊勢物語」はまさに文学上の複合遺跡と言える。その最も上部に位置している近代的解釈が、古文教育では教えられている。けれども近代的解釈の下には、細川幽斎が「闕疑抄」で集大成した室町時代の読み方が存在している。さらにその下には「古今和歌集」や「冷泉家流伊勢物語抄」などの、荒唐無稽とされた鎌倉時代の読み方が存在している。鎌倉時代には、歴史的事実と矛盾する読み方も存在していた。「伊勢物語」はそのような解釈も含んで大きな文化の流れを生み出した。文化上の複合遺跡として「伊勢物語」を捉えることで、この文学作品の魅力が発展できるのではないだろうか。私はそういう立場から、大学生には文化・文学としての「伊勢物語」の生命力を教えた。この古典講読でもその姿勢を貫きたいと思う。
それでは「伊勢物語」に登場する12人の女性の名を列挙した「和歌知顕集」の箇所をもう一度聞きながらお別れします。
「コメント」
これだけたくさんの人が、各時代にわたって「伊勢物語」を論じているのに心から驚き、改めて「伊勢物語」の重要性を認識した。