250510⑥『伊勢物語』の解釈の多層性」

今回は「伊勢物語」を解釈することの難しさと楽しさについて話す。前回の最後に「伊勢物語」は文学作品としての複合遺跡であると述べた。同じエリアの中に、古代から現代まで様々な時代の遺跡が

重なり、堆積しているのが複合遺跡である。「伊勢物語」もそれと同じである。時代によって異なる解釈がなされてきた。多層性とか重層性という言葉がぴったりである。私がこの事実を知ったのは大学に入ってからであった。「源氏物語」や「古今和歌集」、そして「伊勢物語」などの王朝文学が、鎌倉時代や室町時代にどのように読まれてきたかに興味を持った。この時に出会ったのが 片桐洋一 の著作であった。中世において「古今和歌集」がどのように解釈されてきたかを掘り起こしてきたのが、彼の中世古今集注釈書解題」というシリーズであった。全部で6巻。これを読むと「古今和歌集」の読み方が、「伊勢物語」や「源氏物語」の読み方と密接に結びつき、日本文化の根幹を形成していることが理解できた。

片桐は「弘安十年古今集方注」という書物を著す。弘安十年は1287年。二度目の蒙古襲来の6年後である。どのような内容なのか具体的に述べる。

古今和歌集 巻11 恋522番  

ゆく水に かずかくよりも はかなきは 思はぬ人を思ふなりけり 読み人しらず

川を流れている水の表面に筆で数を書き留めることは出来ない。そうと知りつつ、水に数を書こうとするのは空しく、儚い行為である。同じように自分を愛してくれない相手を思い続けることも空しいことだ。この歌は「伊勢物語」第五十段 鳥の子 にも載っている。「弘安十年古今集歌注」はこの歌を

どのように解釈しているのだろうか。

朗読①

ゆく水に かずかくよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり

日本記に曰く、清寧天皇の御代の時、丹後の希夫(まれお)、ちおが弟なり。我よりも優れたる人を思ひかけてかく申しければ、女の曰く、我に志しあらば前なる川に毎夜数を書き、百夜に万字たらん時にあはむという。叶わずと言わんとすれば、事切れぬ。行きて書けども数なし。さて女いざ数見むとて、男と連れてゆきて見るに数なし。女の 数のなければ会わじとて帰る時男の曰く、されども数書く水は跡もなし。君は辛さのみしてと言い、川に身を投げて死す。それよりしてはかなき恋は ゆく水に 数書くというなり。この歌は小町が業平を恨みて詠むなり。

 解説

(せい)(ねい)天皇 は22代の天皇である。雄略天皇の皇子とされるので5世紀の天皇である。その天皇の御代にある男が、自分より身分の高い女を好きになった。女は男に無理難題を突き付ける。「あなたは毎晩家の前を流れる川の水に、数字を書きつけなさい。それが百夜続いたら会ってあげましょう。

男は一度も流れる水に数字を書きつけることが出来ない。そのことを女から非難されて、そのことがとても辛いと言って男は川に身を投げて死んだ。このことがあってから、儚い恋を、 ゆく水に数かく というようになった。この故事を踏まえ「古今和歌集」の歌は、小野小町が移り気な業平を

恨んで詠んだというのである。「古今和歌集」では詠み人しらずであるが、作者は小野小町である。「伊勢物語」第五十段の登場人物も、在原業平と小野小町だというのである。小町には、自分に好意を示した深草少将に 百代通い を要求し、その結果男が死んだという有名な伝承がある。ところが 「弘安十年古今集歌注」 では、小町が業平を恨んでいる。

女から難題を吹っ掛けられて死んだ男に、女である自分を例えているのが興味深い。片桐洋一の「中世古今集注釈書解題」 全六巻には、このように面白いエピソ-ドが満載なのである。そして片桐洋一の「伊勢物語の研究」は、学生時代以来、半世紀近く私の座右の書である。研究編と資料編の二冊がある。このうちの資料編が、私の「伊勢物語」研究の伴走者であった。私の「源氏物語」研究の伴走者は、増註 源氏物語湖月抄 という三冊のシリーズであったが、「伊勢物語」研究の場合は、この片桐洋一の「伊勢物語の研究」資料編であった。「伊勢物語の研究」資料編には、14種類の

書物が紹介されている。その14種類の中で、私が繰り返し読み続けているのが、これまで何回も取り上げてきた「和歌知顕集」「冷泉家流伊勢物語抄」「愚見抄」「肖聞抄」「宗長聞書」そして「闕疑抄」である。この本は図書館でしか閲覧できない。図書館で閲覧するのであれば、竹岡正夫「伊勢物語全評釈」という分厚い研究書もある。この本には11種類の古い注釈書が紹介されている。片桐洋一の本は、細川幽斎の「闕疑抄」までであったが、竹岡正夫の本は荷田春満の「童子問」をはじめ中世以降の「伊勢物語」の研究書が網羅されている。また現在でも入手しやすい本としては、「新日本古典文学体系」の「竹取物語」「伊勢物語」を勧める。私の恩師である秋山虔先生による「伊勢物語」の解釈と、細川幽斎の「闕疑抄」が載っていてとても便利である。

 

次回からは「伊勢物語」を第一段から順に読んでいく予定である。その時には現在の「伊勢物語」の読み方だけではなく、これまでの「伊勢物語」の読まれ方も併せて説明する。過去の解釈の上に現在の解釈がある。現在の解釈の底に埋もれている古い解釈を知ることで、狙いの読み方が見つかるであろう。その為、過去の注釈書、研究書のタイトルを頻繁に口にする。

まず「和歌知顕集」は最も古い鎌倉時代の注釈書である。人名を当てはめようとする姿勢が顕著である。また、「冷泉家流伊勢物語抄」は冷泉家に伝わったとされる「伊勢物語」の注釈書で、鎌倉時代の成立である。これもまた人名当てはめと5W1Hに拘っている。藤原定家の孫の時代に、三つに分かれた家の一つが冷泉家である。

「十六夜日記」を書いた阿仏尼の子孫である。三つの家の中で最も権威をもったのが二条家である。その教えは、室町時代以降は「古今伝授」となって、細川幽斎や北村季吟に繋がる。

「愚見抄」は一条兼良が書いた。優れた先見性と合理主義の産物である。室町時代の応仁の乱の頃に成立した。この「愚見抄」は、歴史書や勅撰和歌集などで証明されない 5W1H の当てはめを

否定している。二条家の教えを伝える「古今伝授」を最初に受けたのが連歌師の宗祇である。宗祇の「伊勢物語」の解釈は「肖聞抄」「宗長聞書」。この二作は連歌の傑作とされる「水無瀬三吟百韻」に繋がった牡丹花肖柏と島田宗長が、宗祇の教えを書き留めたものである。

これらの研究書の説の中から、信じられる部分だけを書き残し、信じられない部分を取り除いたのが、細川幽斎の「闕疑抄」である。関ヶ原の戦いの直前である。

その「闕疑抄」のすべてが疑わしいという立場から、全面否定した書物が江戸時代に書かれた。荷田春満の「童子問」である。童が先生に細川幽斎の「闕疑抄」が正しいかと尋ねると、先生がこれは間違いだ、その根拠はこれこれだと答える問答体のスタイルである。

さて荷田春満が否定していた細川幽斎の「闕疑抄」でもすでに否定されていたのが、鎌倉時代の「和歌知顕集」「冷泉家流伊勢物語抄」の解釈であった。「和歌知顕集」「冷泉家流伊勢物語抄」を片桐洋一の著作で読んだとき、私は仰天した。業平が馬頭観音の化身であるという説にも驚いた。

 

けれども最も驚いたのは「冷泉家流伊勢物語抄」の、業平は実際には東下りをしていないという解釈であった。「伊勢物語」の第七段 かへる浪 の本文とそれに対応する「冷泉家流伊勢物語抄」の

解釈を並べて読んでみよう。

朗読②

第七段の本文

むかし、男ありけり。京にありわびて東にいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、

 いとどしく 過ぎゆく方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな

とてなむよめりける。

「冷泉家流伊勢物語抄」

むかし、男ありけり。京にありわびて東の方にいきけるとは、実にありわびて、東にゆくのはあらず。二条后を盗み奉ることありわれて、東山の関白 忠仁公・良房のもとに預けるをいふなり。東という字のつきて、あづまというなり。

 解説

「伊勢物語」第七段 かへる浪の本文には 京にありわびて東にいきけるに、 とはっきり書いて

ある。にも拘わらず 業平は東下り をしていないと主張している。現代の古文教育の立場からは、

反発を通り越して、あきれ返るしかない解釈である。「冷泉家流伊勢物語抄」の説を言葉を補って

現代風に訳しておく。

 

「伊勢物語」第七段の本文には

むかし、男ありけり。京にありわびて東にいきけるに、と書いてある。

男とは在原業平の事である。一つ前の第六段 芥河 で、業平は二条后を盗みだそうとして失敗したと書かれている。そのことが露見して業平は都に留まることが困難になった。だからといって東国に

下ったということではない。時の権力者は摂政まで上った藤原良房である。彼は東山に別荘を持っていた。その東山の別荘に業平は預けられ、処分を受けていたことを誇張して、業平が東に下ったと

表現したのである。つまり東山の東という字を根拠にして、東国へ下ったと

拡大解釈したのである。・・・・

よく言えば掛詞、悪く言えば駄洒落である。一口に東山と言っても広い。「冷泉家流伊勢物語抄」には関白良房とあるが、正しくは摂政である。藤原北家の全盛をもたらした良房は、東山の白河に別荘を持っていた。白河亭とか呼ばれた。桜の名所としても有名である。後の時代には白河天皇に献上され、白河院と呼ばれるようになった。現在の岡崎公園の辺りであろう。ここに押し込められ、蟄居謹慎していたというのである。

 

ならば第七段の 

伊勢、尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、 の部分はどのように説明するのであろうか。 読んでみる。

朗読③

伊勢、尾張のあはひ とは 后と業平の あはひ なり。男女の契りの終わりの あはひ なり。あはひ といふは、二人の交わりなり。伊勢は陰陽の議、尾張とは今かくおしこめらるれば、男女の契りの果てのまじわりといふ議なり。海づらをゆくに とは、別れを恨みゆくなり。海づらをゆく とは 恨み の議なり。かへる浪かな とは、泣く涙かな という議なり。

 解説

掛詞と駄洒落を駆使しているが、それなりに筋道は通っている。第三回で「伊勢物語」という作品の由来を考えた。その際に伊勢の 伊 は陰陽の陰・女性という意味であり、伊勢の 勢 は陰陽の 陽 で男という意味である。だから「伊勢物語」というのは、男と女の物語、夫婦が和合する物語であるという説を紹介した。ここにその説である。業平が伊勢の国に行ったとあるのは、業平が二条后と自分の恋について考えを巡らしたという意味になる。尾張の国に行ったというのは、二条后と業平の恋が失敗し、終わりを迎えたということであるという。海づらをゆく は すなわち、海岸を見ながら

ゆくというのが表面的な意味である。別れは、しばしば恨み、無念に思うとの掛詞が用いられる。

かへる浪かな と業平が詠んだのは、二条后との別れがあったことを恨み、涙をこぼしたという意味になる。

 

「冷泉家流伊勢物語抄」は以下全て、このような調子で解釈している。すなわち業平の東下りはなかったというのである。因みに「冷泉家流伊勢物語抄」より先に成立した「和歌知顕集」の業平は、東下りはしていないという立場である。

「伊勢物語」の表現だけを読めば、あたかも東国へ下っているかのように書かれている。但しよく読めば、業平が東国まで下っていないということが良く分かると述べている。

歴史資料や公卿たちが残した日記の中には、在原業平が関東に下ったというような記述は存在しない。そこでこのような解釈が生まれてきたのであろう。

 

この東下りをしていないという説を否定し、即ち東下りをしたとするのが、合理主義者である一条兼良である。彼の著した「愚見抄」を読む。

朗読④

ある説に、業平は東に下らず、この物語に東国の名所を現しはべるは、東山(ひんがしやま)あるいは都近き所に形取りていふ といえり。これは大いなる誤りなり。東に下ることは、古今、後撰、大和物語などに分明にのせたる故は、これに過ぎたる証拠あるべからず。またある説に、奥州などの遠き名所を言えるは、業平それまでは下りはべらめど歌につきて、その所に生きて詠めるように書きましはべる。これ作り物語のならいなりといえり。この説はまことに一理あるに似たり

 解説

一条兼良は、男は在原業平を指しているという立場である。勅撰和歌集で、業平は東に下ったと書かれているからには、実際に東国に下っていたと考える。一条兼良の真意を訳しておく。

世の中には全く誤りの説を説く(やから)がいる。その一つが、業平は東下りをしていないという説である。「伊勢物語」の中に、東国の数々の名所が取り上げられているのは、業平が実際には東山もしくはその近くで体験したことを、このように誇張して書いたというのだ。この説が誤りである証拠には、業平が東下りをしたことは、「古今和歌集」や「後撰和歌集」などの勅撰和歌集、「大和物語」などの歌物語にもはっきりと書かれている。なるほど、歴史書などに業平が東下りをしたことは書かれていないが、これら以上に確かな証拠は存在しない。また次のような説もある。業平が遠く奥州まで旅をしたとして地名を出していることは、東下りをしたことは事実だが、そこまで遠くは旅をしていない。けれども遠地まで出かけ実際にその場で歌を詠んだように書くのは、作り物語の書き方の流儀である。こちらの説は一理あるように感じられる。

 

「冷泉家流伊勢物語抄」が否定されている。但し業平が陸奥まで足を延ばしたことについては、作り物語であるからには、多少の脚色はあるだろうと認めている。けれども、都から一歩も外に出ていないという説・東山蟄居説を一条兼良は認めていない。但し合理主義者である一条兼良は、業平が実際に陸奥まで旅をした可能性になおも拘る。そして大江匡房(まさふさ)が書いた「江家次第」に、業平が陸奥で小野小町のしゃれこうべを見たという話を持ち出す。これは業平が実際に陸奥まで旅した証拠かもしれないと述べている。「江家次第」(ごうけしだい)は、平安時代後期の有職故実書。

 

宗祇も業平は東下りをしたと考えた。宗祇の弟子の島田宗長は、宗祇の教えを次のように書き止めている。

朗読⑤

京にありわびて、業平流罪のことなり。伊勢尾張途中に種々比喩あり。これ用うべからず。山界、所々、魚界これを しい すべし。業平流罪の時なり。東国へ下向の時分なり。

 解説

魚界 は漁場のこと。宗祇は、業平が二条后との恋ゆえに罪を得て、東国へ流されたと理解している。古い注釈書には伊勢 という地名が、業平と二条后と男女関係の比喩であるとか、尾張 というのが、男女関係の終わりであるなどと述べられているが、これを採らない。実際に旅に出て目に見る山や海を、苦しい心で眺めている業平の心を思うべきである。しかもただの旅ではなく、罪を得た人間の旅なのである。この様に宗祇は言っている。

細川幽斎の「闕疑抄」は一条兼良の説をそのまま載せている。悉く「闕疑抄」の説に反旗を翻した荷田春満の「童子問」はここでも細川幽斎を批判している。男を業平だと固定して考えながら、さすがに陸奥までは行ったことがないとか、大江匡房(まさふさ)の書物を信用すれば、業平は陸奥まで足を延ばしたなどという妄説を唱えているのだ。男は業平ではなく、「伊勢物語」は作り話であるという前提に立てば、何の問題もない。この様に荷田春満は述べている。その後で孟子の類を引用する。「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず」→書物に書いてあることを頭から信じ込み、批判精神をもって疑わないのでは、最初から書物など読まない方が良い。

 

荷田春満のすべてを否定するという考えも行き過ぎと思うが、一条兼良の説をそのまま踏襲してきた宗祇や細川幽斎の姿勢を考えると、荷田春満の批判も成程と思われる。

一条兼良は「冷泉家流伊勢物語抄」の説を信じなかったが、大江匡房(まさふさ)は、業平が陸奥で小野小町のしゃれこうべを見たと述べた説は信じたのである。

 

今回は、「伊勢物語」の注釈書には様々な解釈の問題点と可能性を孕んでいることを説明してきた。

ここで片桐洋一の名著「伊勢物語の研究資料編」に集約されている注釈書の中から、もう一つ「伊勢物語難儀註」という本を紹介する。難儀は解釈の困難な言葉という意味である。

「和歌知顕集」や「冷泉家流伊勢物語抄」と同じように、荒唐無稽と言われる注釈書である。

それでは「伊勢物語難儀註」の 花橘ということ の冒頭部分を読む。「伊勢物語」第六十段 花橘 に関する解説である。

朗読⑥

「伊勢物語」第六十段 花橘

むかし、男ありけり。宮仕えへいそがしく、心もまめならざりけるほどの(いえ)()()、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使にいきけるに、ある国の紙承(しぞう)の官人の妻にてなむありと聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。去らずは飲まじ」といひければ、かはらけとりていだしたりけるに、さかなたりける橘をとりて、

 さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする 

といひけるにぞ思ひいでて、尼になりて山に入りてぞありける。

 解説

昔、男がいた。宮仕えが忙しく一心に愛情を注いでやらなかったので、妻は心から愛しますという人に従って他国へ行ってしまった。元の夫が宇佐神宮の勅使として派遣される途中で、たまたま地方の

役人の妻となっている元の妻に再会する。「当家の主婦に酌をさせよ。と言ったので主婦は酌をしたが、男は(さか)()として出された橘を手にもって、

  さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする 

と詠んだので、その女は元の夫と知りわが身を恥じて尼になったという話である。

橘の花の香りには昔の恋人を思い出させる力があるという。男は元の妻・自分を見限った女に対して、「昔の夫の事を覚えていますか」と聞いたのである。

 

では「伊勢物語難儀註」は、どのように解説しているだろうか。説話のような印象を受ける。

朗読⑦

むかし、業平、北祭りの使に指されたる時、(りょう)(どう)なくして死しまさんとしけるを、女いうよう、(りょう)(どう)をば我厭わぬべし、死することなかれと言わば、七十に出で立つほどに女言うごとく、その出で立ちの料銅いとなみてすでにわかれり。さて、祭事(まつりごと)終わりて後、帰りて女を見るになかりけり。男いかにとしてなきみるらんとして、女をたずぬれどなし。さて思ひかねて

初瀬に参りて祈念しければ、その行く末も知らぬなり。住吉へ申せと夢の告げありけり。やがて住吉へ詣りて申せどもその(しるし)もなかりけり。さては受難せんとてありける所に至りてみれば、下女水汲みたり。もしやとおもひて、かの女の言ふよう、このあたりに京のや住むと問ひければ、神主殿こそ京の人の見目良き女房の身の売りけるを買い、やがて御前して下りたまひたりと言えばあはれそれと思ひて、やがて行きて女の(ゆかり)と名乗りてありければ、様々にもてなし引き出物などして酒飲みけるに、女かねてより心得て(さか)()に橘をたるを見て、男、この歌を詠みけり。

 さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする 

かく詠みて男、京に帰り上りてけり。さてその後、花橘を袖の香と例うことはあり。さて祭を渡りし故、近衛の中将とはいふなり 聞き取り不良あり

 解説

挿入されている歌は同じだが、「伊勢物語」第六十段とは全く違ったスト-リ-になっている。「伊勢物語」では夫から愛されていない事に不満を抱いた妻が、夫を見限って去った。「伊勢物語難儀註」では夫の晴れ姿の為に、妻が我が身を売って費用を工面するという、女の自己犠牲が主題になっている。内容を訳す。

昔、業平が北祭・賀茂神社の葵祭の勅使に任命された事があった。石清水八幡宮の祭を南祭というのに対して、賀茂祭を北祭という。所で、勅使にふさわしい姿を整えるためにはかなりの金額が必要なのにその金がない。業平が絶望して死のうと思い詰めていると、妻が「お金は自分が何とかします」と言って工面した。男は無事に務めを果たせた。

所が、祭が終わって家に帰ってみると妻がいない。大和国の初瀬・長谷寺に参拝して、観音様に女の居場所を教えてもらおうとした。すると夢のお告げがあり、「私は知らない。住吉大社に行け」と教えられた。業平はすぐ、摂津の住吉まで行ったが手掛かりはなかった。男は絶望して死のうとして、井戸に身を投げようとすると、そこに水をくむ下女がいた。業平が「この辺りに都から来た女がいないか」と聞くと、下女は情報をくれた。美しい都の女が我が身を売ったところ、住吉の神主が彼女を買い、ここに連れてきたという。男はそこを訪れて女の縁者と名乗り、酒のもてなしを受けた。女は

業平が来たことを察知し、酒の酒菜に橘の花を差し出した。男はそれを見て

  さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする 

という歌を詠んだ。こういうことがあってから、橘の花の香りを袖の香と似ているというようになった。また、賀茂の祭の勅使を見事に務めたので、業平のことを近衛中将と呼ぶようになったのである。

「伊勢物語」第六十段の本文を解説しているのではない。これに触発されて別の新しい物語を創作しているという趣である。そしてこの「伊勢物語難儀註」は新たに別の物語を作り出していく。室町時代に作られた物語の一つに「すずめ草紙」がある。美しいすずめの娘と結婚しようと多くの雄鳥が来て求婚する。その中に鶴がいる。鶴はこれまでこんなに多くの人が雀に恋をしてきた。私もそうである。だから私を婿にしてほしいと言い募る。

 

「すずめ草紙」の一節を読む。

朗読⑧

在原業平、狩の使 に指されたまふ。貧しかりけるに如何ありけむ。務めたまはむ力なし。しかるに最愛の女、有常が女、この狩の使を務めたまはむはいかにありなんと思ひ、我が身を売りてもと願いたまひけるに、遠国より五位の守、すべしとて、上りし人ありき。五位の官をば、(よね)二千石にてありぬ。さてその女我が身を二千石に代えて、遠国の人の手に渡るなり。業平は狩の使を務めたまふ。しかるに業平、このことを後、聞きたまひて妻女の行方を知らず。

 解説

こののち、業平は住吉明神や伊勢大神宮に祈っても、妻の行方は分からなかった。ところが伊勢国のある人の所に立ち寄った所、有常の女と再会した。女は酒の(さか)()に橘の枝を添えて出した。業平はそれを見て、歌を詠んだ。

  さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする 

細かな違いはあるが「伊勢物語難儀註」と同じ話である。「伊勢物語」第六十段から「伊勢物語難儀註」が作られ、次には「伊勢物語難儀註」から「すずめ草紙」が作られたのである。この様に「伊勢物語」は注釈書を経由して読まれ続けることで、次の時代の新しい文学活動の源泉となっていった。

 

「コメント」

 

「伊勢物語」の影響力、広がり方には再度驚く。各段の解説より以上に、この六回の解説は

理解には有難い。