250517⑦「第一段(初冠)」
今回は第一段「初冠」を読む。「伊勢物語」はどこの出版社の本でも、ほとんど同じ本文である。「伊勢物語」の夫々の段のキ-ワ-ドを抜き出してタイトルとすることがあるが、必ずしも統一されたものではない。この第一段も「初冠」の他に、わかむらさき とか いちはやきみやび と呼んでも構わない。鎌倉時代から今までの読者は、この段をどのように読んできたのだろうか。
第一段を読む。
朗読①
むかし、男、初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり。この男かいまみてけり。思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける
狩衣の裾をきりて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず
となむおひつきていひやりける。ついでおもしろき事ともや思ひけむ。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
解説
まずはこの段がどのように解釈されているかを知る。物語、説話のほとんどは、今はむかし と始まる。作中人物にとっては今なのだが読者から見ると昔の出来事である。男 は ある男である。現代では5W1H を特定しないのが普通である。但しこの 男 には在原業平の面影があると説明される。初冠 は男が初めて冠をかぶるのは元服したからで、大人の印である。「伊勢物語」は主人公の 男 が、大人になった時からスタ-トした。
奈良の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。奈良の京 は、平城京。男は普段は京の都、
平安京で暮らしている。
春日の里 は、現在は奈良公園の辺り。現代人には鹿が沢山いるイメージである。第一段を描いた芸術作品でも、鹿の姿が描かれている。しるよしして の しる は、同地を所有しているという意味である。狩にいにけり。 狩に出かけている。狩 は、鷹狩の事で、天皇をはじめ成人した貴族のたしなみの一つである。
その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり。 女はらから 母親を同じくする姉と妹、その二人が住んでいた。
なまめいた は、上品で優雅、まだ成熟していない瑞々しいというニュアンスである。男も元服を済ませたばかりだが、女も若々しかったのである。この男かいまみてけり。 男は偶然、美しい姉妹の姿を見た。物陰から覗いたのではなく、偶然に見たのであろう。男が姉と妹どちらを好きになったかは書かれていない。物語では姉の方に好意を持つことが多い。
思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。ふる里 は、奈良の平城京。
思ほえず、 は、女性たちの存在が、男の予想を大きく越えていたことを示している。はしたなく は、中途半端で落ち着かいというニュアンス。
これほど美しい姉妹が古い都となった奈良に存在するとはと驚いたのである。都が移り今は寂しくなった奈良で、姉妹が暮らしているのはアンバランスだという意味である。男の心は完全に混乱した。
男の、着たりける狩衣の裾をきりて、歌を書きてやる。男の の が落ち着かない。本居宣長は随筆「玉勝間」の中で、男の の のの文字僻事なり と述べ、この の はない方が良いと指摘している。狩衣の裾を切って歌を書きつけたりは男である。男の、の があったままでは、狩衣の裾を切って歌を書いたのが女の側であると解釈される危険性があると本居宣長は言っている。現在は男は着ている狩衣の裾を切って、それに歌を書きつけて女に贈ったと解釈している。
その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
忍ぶの葉や茎を布に擦り付けたものである。陸奥の信夫里の特産品で、乱れ模様のある石に忍草の葉や茎を押し付けて、布を染めたと伝えられている。信夫 は現在の福島市である。忍草は羊歯の事であるが、和歌では亡き人を偲ぶとか恋を忍ぶなどの掛詞として用いられる。
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず
「伊勢物語」には全部で210首の和歌が含まれるが、その最初の歌である。
むらさき は、紫の草 と書く植物である。根が紫での染料である。若むらさき の 若 は、若々しいと意味。
なまめいたる 若々しい上品さを表している と、響きあっている。この 春日野 には、うら若い
むらさき が映えている。
あなたたちの美しい姿そのものです。私は むらさき の根で染めた 信夫摺の狩衣 着ている。
この狩衣 の模様のように、あなたたちを見た私の心は激しく乱れてしまった。
となむおひつきていひやりける。なむ~ける は係り結びである。おひつきて は、未だに解釈がはっきりしていない問題個所である。藤原定家が書写した写本では、をいつきて とある。現在では
おいつきて と読み、すぐに 直ちに とする説が有力である。おい は、追いかける という意味である。また、おいづきて と読み、老生して大人ぶった とする説もある。ついでおもしろき事ともや思ひけむ。語り手の視点から、男の行動についてコメントしている。「源氏物語」で言えば、草子地にあたる部分である。この歌を詠んだ男は、自分が偶々着ていた 信夫摺の狩衣 の模様が、これまた偶々垣間見た美しい姉妹ゆえに激しく乱れた自分の心の比喩として、ぴったりだと面白く思ったのであろうか。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
といふ歌の心ばへなり。
これも語り手のコメントである。男が詠んだ歌の背景を読者に解説している。この歌は、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」にも入っている。作者は河原左大臣 源融である。
「古今和歌集」では第四句の表現が違っている。乱れそめにし → 乱れんと思ふ 私の心がこれほどまでに乱れているのは、誰のせいなのでしょうか。自分のせいではなく、あなたのせいなのです。あなたを恋するが故に、陸奥の信夫里で染めた しのぶもぢずり の文様のように、私の心は激しく乱れているのです。「伊勢物語」の男の歌は、源融の本歌取りであると、語り手ははっきりと読者に教えている。
昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。これも語り手のコメントである。昔の若者はこんなにも、いちはやきみやびをしたものだった。言外に、今の若者はこんなにも情熱的な恋は出来なくなって
いるというニュアンスが込められている。
いちはやき は 素早い。おひつきて を直ちに、すぐに と解釈する説と響きあう。みやび は、情熱的で、洗練されているという意味である。この みやび という言葉は、この箇所にしか使われていない。しかし記念すべき第一段に使われているので、「伊勢物語」全体が、みやび の文学として読者に記憶される。
ここまでは現在の時点で主流となっている解釈を説明してきた。ここに至るまでには、どのような解釈の変遷があったのだろうか。まず一番古い注釈書である、鎌倉時代の「和歌知顕集」を見よう。
朗読②
この男は業平なり。初冠とは初めて司たまはるを言ふなり。仁明天皇の承和八年正月七日、右近大夫将監になれり。年十七歳。この女は雅樂頭近江の権大掾、紀有常が娘殿なり。姉は十九歳、妹は十七歳なり。
解説
5W1Hが確定されている。初冠 は元服ではなく、叙爵だと解釈されている。初めて官位を賜り従五位になることを叙爵という。男は業平で十七歳、女は紀有常の娘で姉は十九歳、時に承和八年 841年。この年の一月七日に業平は叙爵し、二月二十二日に奈良に行き、三月二日に戻ったと言っている。垣間見 についても詳しく状況を説明している。有常の娘たちは都の若い貴公子が、鷹狩に来るというので好奇心からこっそり見物していた。それを男の方でも物陰からこっそり見たのである。男と女の出会いは、鷹狩をしている春日野であった。女が自分の家の部屋で座っているのを、男が
物陰からのぞき見するのではない。
「和歌知顕集」は おひつきて の箇所は、どのように説明しているのであろうか。姉と妹は春日野で狩をしている業平を見てから、家に戻ろうとした。業平は自分の歌を従者に持たせて、帰宅途中の
姉妹を追わせた。使いの者は二人に追い付いて、業平の歌を渡したというのである。現在は
おひつきて を すぐに、直ちにと解釈しているが、「和歌知顕集」は文字通り、帰り道で追いついたと解釈している。
ついでおもしろき事ともや思ひけむ。現在は語り手が歌を詠んだ男の心を推し量っていると解釈している。「和歌知顕集」は違う。業平から恋の歌を贈られた女たちは、業平様とお近づきになれるチャンスだと喜んだことだろうとする。ここから先がさらに驚かされる。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに という歌は
業平から和歌を贈られた女たちが、業平に返した返事の歌だというのである。但し自分たちの作った歌ではなくて、源融の作った歌をそのまま、自分たちの心を代弁するものとして、借用したというのである。女たちの返歌はこう解釈される。
あなたは私たちを見て心が乱れたと仰いました。ところが私たちの方も、颯爽と鷹狩をされるあなたを見て、心が激しく乱れております。現在の解釈では紀有常の女達は、ただ男の一方的な恋の対象になっているだけである。「和歌知顕集」では女たちも積極的に行動している。
「和歌知顕集」に次いで古いのは、「冷泉家流伊勢物語抄」という注釈書である。やはり鎌倉時代の
解釈を伝えている。ここでも男は業平で、女は紀有常の女たちであると特定されている。但しいつの出来事であるかという時間の特定は、「和歌知顕集」と違う。「冷泉家流伊勢物語抄」を読む。
朗読③
初冠 は元服のはじめなり。これは業平十一歳より、当時の真雅僧正の弟子にてありけるを、十六の年承和十四年三月二日に仁明天皇の内裏にて元服するなり。童は曼荼羅なり。承和十四年三月三日の祭の勅使に行くなり。この使には必ず検非違使の見目好く世に綺羅ある人のするなり。その頃然るべき人なかりければ、にはかに二日、業平元服させて三日勅使にするなり。
解説
初冠 を 元服 と取っているが、元服と同時に叙爵したという理解である。業平は少年時代には
曼荼羅と呼ばれていたとある。真雅僧正 は弘法大師の弟である。業平は極楽の馬頭観音の化身とされているから、空海の密教思想とも関連するのかもしれない。おひつきて の箇所は、おびつきて と解釈している。おび は着物の帯である。
その部分を読む。
朗読④
従来には男女に契りには帯をやりけり。会はむと思うには帯をかへし、会はじと思ふには帯を留む。幾日の夜、会はむと思ふには、数を結びて返しけり。されば業平、金を持たずにはあらず、上古の男女の契りを思ひて、狩衣の裾を切りて帯のようにつけて、春日野の歌を書きてやるなり。おひつきて とは、衣の裾を切りて帯のように作るをいうなり。
解説
現在では全く顧みられない珍しい解釈である。古代では男が女と会いたいと思う時には、女に帯を贈る風習があった。女がその男と会いたくないときには、帯を手元にとどめて返却しない。男とあっても良いときには、返却する。その時にはいくつかの結び目があって、女が結んだ結び目の数で、何日の夜に来なさいという女からの承諾なのである。業平はその時金を持ち合わせていないのではない。
古代の風習に従って、狩衣の裾を帯のようにして女に遣わしたのである。
女からの返事を待つ心からである。
「冷泉家流伊勢物語抄」は、源融の歌についても珍しい解釈をしている。業平は女たちに
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず という歌を贈った後で、自分と同じような歌を詠んだ人がいたことを思い出した。そして 源融の歌を口ずさんだというのである。自分と源融が同じような歌を詠んだことを面白いことと思ったのである。この様な解釈を聞くと、
現代人の私たちは戸惑う。一切無視するのも一つの姿勢である。第一段の物語から派生した別の
物語として楽しむこともできる。
室町時代の一条兼良は「愚見抄」を著した。彼は男に 在原業平という実名を当てはめる。
朗読⑤
むかし、男、初冠して、今の世の中なれど、和させとむかし物語のように書きなしはべる。大方は住みにし方は昨日も今日も昔になれり。去年は今年も昔になれば、理に背かぬことなるべし。男といふは、業平の中将を言へり。初は初なり。冠 は爵なり。五位の冠といふは、業平の中将初めて叙爵したることを言へり。その里にいとなまるいた女はらから住みけり。ある説に、これは紀有常が女二人あることをいうとなり。例えば、誰人となんありけむとなし。
解説
一条兼良は、男は業平であるとするのにも、女には実名の当てはめを拒否する。どこにも証拠がないからである。初冠は元服説ではなく、叙爵説を採っている。摂政関白として朝廷人の頂点にあった一条兼良らしい見解である。
おひつきて に関しては、やがて、とりあえず、やみてやる心なりと 述べている。これは現在の主流説と一致している。
次の一節は一条兼良の学問が、現代の国文学の水準にあることを証明している。
朗読⑥
つひで、面白きことともや思ひけむ。これよりは物語の作者の心なり。中将ことのつひでおもしろきことと思ひて、かかるすき技をしけるならしと言へる心なり。
解説
一条兼良は作者の心と言っているが、これを語り手の心とほんの少し言い換えれば現代の解釈と
なる。「冷泉家流伊勢物語抄」は、研究というよりは創作、フィクションであった。ところが一条兼良が打ち立てた近代的解釈は、この後揺り戻しに会う。
一条兼良の次の世代である連歌師・宗祇の解釈に進む。宗祇の考えは、弟子の残した講義録に記されている。牡丹花宗白が書き残した宗祇の講義録「肖聞抄」を読む。最初に紹介した「和歌知顕集」の説が部分的に復活するのである。
姉妹は春日野に出かけて、業平が鷹狩をするのを見物していた。男は彼女たちの帰宅を追いかけ、帰る道で追いついて歌を贈った。すると女たちは源融の歌をそのまま用いて、男への返事としたというのである。宗祇は男は業平であるが、女は紀有常の二人女ではないという。初冠 は元服説である。宗祇は元服してすぐに奈良に行ったのではないと言う。
朗読⑦
コチュウの議は、初冠して奈良の京に狩したると続けてみるにや。とうりゅう はしからず、初冠してとは、業平元服のはじめを書けり。その後いつにても奈良の京に狩したることを、狩にいにけり と記したるなり。はじめに初冠を書きで、末に終焉の事を書けり。一分の心見えたり。すなわちこの物語全編の心なり。
解説
宗祇は次のように言っている。これまでの注釈書は、業平が初冠をしてその後直ちに奈良の京に
鷹狩に出かけたと考えているようだ。私たちはそのような説を採用しない。まず、この第一段の初冠であるが、これは元服であり、業平の人生の始まりを書いている。最後の第百二十五段では、業平の死去を書き記している。「伊勢物語」は最初の第一段と末尾の第百二十五段とが照応している。これにより「伊勢物語」全体が、業平の人生を描こうとしていることが分かる。
宗祇は「源氏物語」に関しても、全体像を重視している。五十四条の二番目に置かれた 帚木の巻 が実質的には冒頭であった。帚木 は遠くからは見えるが、近づくと見えなくなるという不思議な木である。五十四条の最後に置かれた 夢の浮橋(「宇治十帖」の最後)という巻のタイトルとも響きあい、「源氏物語」全体のテーマを示していると述べている。
宗祇は「伊勢物語」と「源氏物語」を同じように読んだのである。第一段は業平の元服の事実を書いた。ここから業平の恋愛人生が始まった。そして最初の恋愛を語ろうとして、おもむろに
奈良の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。
と語り始めた と、宗祇は把握する。先ほど紹介した「冷泉家流伊勢物語抄」は、叙爵した翌日に
奈良に向かったと解釈していた。宗祇はそうではないという。私も成程と思う。元服ないし叙爵した事と、奈良に向かった事とは、直接の因果関係はない。この男かいまみてけり。に関して宗祇は、源氏物語などに見ゆ と述べている。「源氏物語」のどの巻を念頭においているのだろうか。姉妹二人を
同時に見るという点では、宇治十帖の 橋姫 の巻であろうか。橋姫の巻で、薫は宇治の山里で暮らすには不似合いな姉妹の存在を知ったのであった。さて宗祇は、業平が
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず の歌を詠んだ後は、
一条兼良が提示した作者のコメントであるという説を無視する。「和歌知顕集」へと先祖返りするのである。
「肖聞抄」の一節を読む。
朗読⑧
おひつきて 人に追いつきたる とは、いふべからず。かの女のゆきたる所を慕いて尋ねて遣わす心なり。ついでおもしろき 河原の左大臣の歌を、今、女の返歌に用いたるを、次いでしかるべきこととや思ひつらむといふ心なり。といふ歌の心映えなり。女のあやしのチュウなり。
解説
業平は鷹狩をしていて、偶然に目に入った姉妹に心を乱して
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず という歌を贈った。
おひつきて は、追いついてという意味である。女が春日野 から自宅に戻る途中で追いついたというのである。歌を贈られた女は、源融の歌をそっくりそのまま用いて業平に贈った。私の方も、業平のように心が乱れていますという意味である。男も女も恋の歌のやり取りを楽しんでいる。これが 一早き雅と見做したのである。男は女を見たらすぐに歌を贈った。女は有名な歌を自分たちの心を表すに最適な表現だと思い、これを代用した。素晴らしい恋の展開であり、「伊勢物語」のスタートとして誠に相応しい。このように思ったのであろう。
細川幽斎の「闕疑抄」へ進む。ここでも不思議な解釈がなされている。初冠は元服の事と取る。また春日野 で鷹狩をしたのは、元服した後ならいつでも良い。また女が源融の歌をそのまま用いて、
業平への返事としたというのも、宗祇と同じである。所が、おひつきていひやりける。 の主語を、宗祇は業平と考えている。細川幽斎は、女だと考える。細川幽斎の解釈の興味深い点は、文脈の理解で
ある。
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず となむ ここまでが、業平が主語の部分である。
そしてここで句点を打つ。つまり となむおひつきていひやりける。 という縁結びではなく、~なむ で文章は終わっていると考える。おひつきて からは女が主語となって、新しい文章が始まる。女は
春日野 を移動しながら、鷹狩をしている業平に追いついて返事の歌を渡した。
細川幽斎が理解していた第一段は次のようになる。もう一度、途中から本文を読む。敢えて主語を
補った。
朗読⑨
男の、着たりける狩衣の裾をきりて、男歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎりしられず となむ。女、男におひつきていひやりける。ついでおもしろき事ともや、女思ひけむ。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに といふ歌の心ばへなり。昔人は、男も女も、かくいちはやきみやびをなむしける。
解釈
細川幽斎の「闕疑抄」はこのような解釈をしている。江戸時代の「伊勢物語」の本文には挿絵がついている。鹿が佇んでいる野原で、女に仕える女房が、男の従者に手紙のようなものを渡してしている絵柄である。女からの手紙には、源融の歌が書いてあったのである。現代の解釈からは、この挿絵の絵柄は理解不可能である。なお、
思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、の箇所で、細川幽斎は「源氏物語」で光源氏が夕顔を初めて見た時の驚きは、まさにこんな感じだったろうと推測している。女が源融の歌で自分の心を代弁させたのは、同じ夕顔の巻で語られる空蝉の歌と同じであると細川幽斎は指摘している。
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな という歌を空蝉は光源氏に贈ったが、これは伊勢の歌である。細川幽斎は「伊勢物語」と「源氏物語」の共通点をしっかりと見据えている。
江戸時代に「源氏物語」を集大成したのは北村季吟である。この季吟は「伊勢物語拾穂抄」という本を書いた。季吟は一条兼良の唱えた、現代にも通用する合理的な解釈と、宗祇から細川幽斎までの「古今和歌集」の物語的な解釈を二つ並列する。そして最終的にどちらの解釈を採用するかは、読者それぞれに好むところに従うのが良いと結論している。季吟は古今伝授の流れに自分が繋がっていることを誇りにしているので、宗祇や細川幽斎の説を否定できない。けれども一条兼良の唱えた物語の作者のコメントであるという説に、心が傾いているようである。
荷田春満の「童子問」は、源融の歌に拘る。「古今和歌集」では第四句は 乱れむと思ふ となっているのに、「伊勢物語」では 乱れそめにし となっている。どちらが正しいのかという疑問である。但し源融の歌を、女からの返歌と取るか、男の歌に対する作者もしくは語り手のコメントととるかついては、それほど拘っていない。
所でこの第一段は松尾芭蕉の奥の細道」にも影響を与えている。忍の里の一節を読む。
朗読⑩
あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさと行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童の来りて教ける。「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり。と云。さもあるべき事や。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り
解説
旅人は しのぶもぢ摺りの石 を見たいので麦畑に立ち入り踏み荒す。地元の人は怒って、石を谷底に突き落としたというのである。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り
陸奥の農民が田植えをしている。古式ゆかしい手つきを見ると、この石でかつて もぢ摺り を染めていた人々のあでやかな手つきが偲ばれる。芭蕉は昔を偲ぶために陸奥を旅している。この句を詠んだ時に芭蕉は、「伊勢物語」の業平を偲んでいたのであろう。芭蕉は北村季吟の弟子なので、源融の歌についての二つの解釈を知っていた筈である。
業平が詠んだ歌に対する作者の解説なのか、それとも女たちから業平に贈られた返しの歌なのか。芭蕉が懐かしく偲んでいる「伊勢物語」の昔は、男が女に歌を贈り、たちどころに菜から返しの歌が来るという みやび の世界だったのかもない。
「コメント」
いやはや、ここまで書くのは大変。芭蕉にまで広がりをもつとは。歌枕 とは知っていたけど。