250607⑩「第五段(関守)」
今回は「伊勢物語」の第五段 関守 を読む。直前の第四段 西の対 と同じ人間関係に基づいて
いる。
朗読①
昔、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びていきけり。みそかなる所なれば、かどよりもえ入らで、わらはべの踏みあけたるついひじのくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に、夜ごとに人をすゑて守らせければ、いけどもえあはでかへけり。さてよめる。
人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
二条の后に忍びて参りけるを、世の聞こえありければ、兄たちの守らせ給ひけるとぞ
解説
現在の解釈から説明する。
昔、男ありけり。 昔ある男がいた。
東の五条わたりに、いと忍びていきけり。 東の五条は平安京の中央の朱雀大路の東側で左京の
五条である。
直前の第四段では、ここに住んでいるのは仁明天皇の女御であり、文徳天皇の母である藤原順子であると考えられた。順子は五条后と呼ばれる。この五条の屋敷の主である。その屋敷に男の恋人も住んでいたのである。いと忍びて は、こっそり。第四段では 本意にはあらで をこっそり忍んでと解説する説と響きあう。第四段では男が通ってくるのは、寝殿の 西の対 に住む二条后こと藤原高子が目当てであった。
みそかなる所なれば 男がここに通っていることは世間には秘密にしておきたい恋である。同じ意味の密 は漢文訓読調であるのに、みそか は和文で用いられるという区別がある。
かどよりもえ入らで、わらはべの踏みあけたるついひじのくづれより通ひけり。
男は秘密の恋なので、女の住んでいる家の門から堂々と入れない。壁の壊れたところからこっそり
出入りしたのである。密通は深刻なことであるが、壁の破れはユーモラスである。
「源氏物語」の蓬生の巻に、光源氏が須磨に去ったのち末摘花が貧しさに直面し、屋敷が荒れ果てたという場面がある。ここでも垣の破れが語られている。
朗読②
かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を、馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。
解説
荒れ果てた屋敷の場面が誇張してユーモラスに描いてある。総角 は童、少年のことである。今、読んだ文章の後半を現代語訳する。
末摘花の家の戸は草で閉ざされてはいたが、屋敷への侵入者がいた。屋敷を取り巻いている築地塀がともすれば崩れ勝ちになり、崩れたところもある。馬や牛が勝手に入り込んだ跡が、いつの間にか道のようになっている。春や夏の季節には末摘花の屋敷の中で、牧童たちが、牛や馬を放牧して草を食べさせる始末である。彼らのやり方は目に余る。
「伊勢物語」第五段と似ている。北村季吟の「湖月抄」は江戸時代に掛かれた「源氏物語」研究の決定版である。その中で、蓬生の巻の表現は、伊勢物語第五段の わらはべの踏みあけたるついひじのくづれ を念頭に置いていると指摘している。「伊勢物語」では土の垣が崩れた屋敷に住んでいるのは二条后であった。それに対して、「源氏物語」蓬生の巻では、風変わりな末摘花が住んでいるというコントラストが面白い。
伊勢物語に戻る。
人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、この屋敷を訪れる人は殆どいない。
だから業平の訪れは人目に付きにくいものであった。但し二条后の周辺にはそれほど多くの女房達はいない。だから業平が通っていることが彼女たちの口から漏れて、家の主に伝わりにくかったとしても言える。けれども男は何度も通ってきたので、家の主も気が付いた。この主は五条宮の女主人である。順子を指すと現在は考えられている。
その通ひ路に、夜ごとに人をすゑて守らせければ、家の主、順子は、業平と高子のスキャンダルが世間に広まるのを恐れた。それで業平の侵入口に番人を常駐させ、業平が通ってくるのを阻止しようとしたのである。
いけどもえあはでかへけり。さてよめる。男は女に会いにいっても警備員が厳しく、女に会えずに空しく引き返した。
この第五段は全般的にユーモラスなのでコメディとして楽しめる。けれどもこれを悲劇として捉えれば、「源氏物語」の浮舟の巻の世界になる。匂宮は都から宇治まで浮舟に会いに出かけたが、薫が命じた警備員の警備が厳しくて、会えずに泣く泣く都に戻る。紫式部は浮舟の巻を書きながら、「伊勢物語」第五段が脳裏をよぎったのではないだろうか。
さてよめる。この様な状況で男は歌を詠んだ。
愛する女に、こうした事情であなたに会えなかった。とても辛いと訴えたのである。
人知れぬ とあるが、人が知ったからこそ厳重な警備体制が敷かれたのである。無論、わが通い路を誰にも知られたくなかったというのが男の本心。二人の恋を邪魔する警備員を 関守 に例えている。通行人を止める 関守 と、恋の成就を妨げる人間とを重ねている。
よひよひごとに 毎晩毎晩、自分が逢いに行く日には、うちも寝ななむ ぐっすり眠りこんでいてほしいものだなぁ。文末のなむ は他人に~して欲しいなあと願うことで、あつらえ の終助詞という。
とよめりければ、 この男の歌によって状況が変化する。
いといたう心やみけり。 文章に主語がない。現在ではこの歌を受け取った女、二条后が心を痛めたと解釈する。男が何としても会いたいと歌で訴えたので、二条后は心が苦しくなった。心やみけり。 は気に病むとか 心を痛めるの意味である。
あるじ許してけり。この あるじ は五条宮に住んでいる順子と考えられている。順子は一度は高子のスキャンダルが世間に広がるのを恐れて、業平との愛を妨害した。でも業平の歌があまりにも切なく、加えて二条后が心を痛めているようなので、男の訪問を黙認し見逃すようにしたというのである。
二条の后に忍びて参りけるを、世の聞こえありければ、兄たちの守らせ給ひけるとぞ
この部分は語り手のコメントである。これまで語ってきた物語の種明かしがなされる。業平が二条后のもとに通っていることが、世間で噂になっているので、順子は二条后の兄たちに見張りをさせた。
ということが、この話の真相なのだ。高子の兄弟には国経、基経達がいる。基経は長良の三男であるが伯父の良房の養子となり、藤原氏として初めて関白になった有能な政治家であった。彼らは業平の恋をせき止めたことが、通行人を通さない関守の様だと称えられているのである。以上が第五段の
現代における解釈である>
過去の解釈の歴史をひも解く前に「古今和歌集」を見ておく。この歌は恋3に入っている。632番長い詞書がついている。
朗読③
東の五条わたりに人を知りおきてまかりかよひけり。しのびなる所なりければ、かどよりしもえいらで、垣のくずれよりかよひけるを、たびかさなりければあるじききつけて、かの道に夜ごとに人をふせてまもらすれば、いきけれどえあはでのみかへりてよみてやりける。業平朝臣
人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ
解説
「伊勢物語」との違いは、歌を詠んだ後で状況がどんなに変化したか、全く触れていない点である。又、女の実名も出ていない。業平の歌を目にした女が心をいためたこと、それを知った家の主が業平の訪問を許したことが、「伊勢物語」第五段には描かれている。業平の歌には人を動かす力があったと「伊勢物語」では強調されている。「伊勢物語」はさらに
わらはべの踏みあけたるついひじのくづれより通ひけり。 とあり、ユ-モラスな筆致で笑いを提供していた。
「古今和歌集」には子供たちの傍若無人な振る舞いについての言及はない。
では第五段の解釈の歴史を掘り起こす。まず一番古い注釈書である「和歌知顕集」から始める。鎌倉時代に書かれた。
直前の第四段は、東の五条 に業平が通い、この第五段も 東の五条 の辺りに業平は通っている。
二つの段は同じ登場人物と考えるのが自然である。けれども「和歌知顕集」は、第四段は順子と高子だと氏名を特定していたが、この第五段では違うというのである。第五段の舞台は、五条堀川で藤原長良の屋敷であるとする。順子の屋敷・五条宮ではないとするのである。長良の長男である国経が
この屋敷の主である。つまり第五段の主を「和歌知顕集」は、二条后・高子の兄である国経のことだとするのである。
人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ の歌の後、いといたう心やみけり。 とあった。主語が明記されていないが、「和歌知顕集」は業平自身が耐えられないほどの恋心に苦しんだとする。家の主である国経は、業平の苦しみを理解し、気付かない振りをして時々は
高子に通ってくるのを許したというのである。「和歌知顕集」は、業平が高子の実家にまで通ってきたと考えたのである。「源氏物語」の賢木の巻で、光源氏が朧月夜の住む右大臣の屋敷に忍びこんでいくスト-リ-と似ている。右大臣と彼の娘の弘徽殿女御は光源氏を憎んでいるので、光源氏と朧月夜の関係を知った後は許すことなく光源氏を追い詰め、到頭須磨に退去させた。「伊勢物語」とは
対照的である。
二番目に古い注釈書「冷泉家流伊勢物語抄」を見る。やはり鎌倉時代に成立した。「冷泉家流伊勢物語抄」は第四段の大后を二条后としたが、ここでも染殿后をこの家の主と考える。清和天皇の母である染殿后・明子は高子のもとに業平が忍んでくるのを阻止。所が業平の歌を知って、彼女の怒りは解けた。これが いといたう心やみけり と表現されているのだとする。この場合の やみ は 悩む とか 苦しむ とかではなく、終わる とか 心が安らかになる などの意味になる。又、憐憫の心という解釈も書かれている。染殿后は業平の密通を怒っていたが、彼の歌を読んで、苦しい恋に悩んでいる業平に憐憫の情を抱いたのである。染殿后は弘徽女御よりは歌の心が理解できる女性だったと
いうことであろう。
「冷泉家流伊勢物語抄は「古今和歌集」の仮名序に書かれている、和歌の力がここまで発揮されたと指摘している。
紀貫之の書いた「古今和歌集」の仮名序を読む。
朗読④
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
解説
天地 は天の神々と地上の神々と採る解釈と、文字通り天と地ととる解釈の二つある。神々説の方が有力である。優れた歌は、天の神や地の神を感動させる力がある。恐ろしい鬼の心にも、あはれと思わせる力がある。男と女の仲を接近させ、融和させる力がある。獰猛な武士の心を和ませる力がある。としているのである。神々の視点から眺めると、業平の歌に感動した神仏が番人たちを眠り込ませ、恋の成就を助けたという構図になる。
やがて時代は室町時代の応仁の乱の頃になる。「伊勢物語」の解釈に新機軸を打ち出した一条兼良の「愚見抄」を見てみよう。彼は混乱した社会を理性の力で乗り切ろうとする合理主義者である。現代にも通じる実証的解釈が一条兼良の特徴である。彼は第四段と第五段は同じ状況を描いていると
考える。但し主は染殿后であるとしている。
いといたう心やみけり。 は、業平が心の中でひどく憂えたこと。あるじ許してけり。は、染殿后が業平をあはれに思い、関守に命じて警備をそれとなく緩めたことと解釈している。文脈に即した厳密な解釈をモット-とする一条兼良が、心やみけり。 の主語を業平であるとしているのは注目に値する。
心やみ の主語は現在では二条后高子であると当然のように考えている。但しこの解釈はずっと後になって、江戸時代の契沖に至って初めて出現した説である。
この第五段には、業平の歌が素晴らしかったので、その和歌に触れた人間が心を動かされたというメッセ-ジが存在する。現代では業平の 人知れぬ~ の歌に、最初に感動したのは業平と相思相愛の仲の高子であったと解釈している。高子は業平の歌を詠んで心を悩ました。その史実を知った家の主も、業平と高子の逢瀬を大目に見ることにした。これが現代の解釈であるが、業平の歌の力がそれほど強くは感じられない。業平と高子の逢瀬を心よく思っていない染殿后の怒りさえも、業平の歌の力が溶かしたと読んでこそ、歌の力が発揮されたと感じられるのである。業平の歌は主の心に直接響いたと解釈するのは理由のないことではない。あるいは業平は最初から家の主にも、この歌を読ませるつもりだったのであろう。
さて戦国の時代の宗祇の解釈に進む。宗祇も、業平、二条后、染殿后が登場人物であると考えている。業平の歌については、意味は平明であるが、よくよく読んで歌に込められた業平の心を理解すべきと言っている。
心やみけり。に関しては、業平の歌が染殿后の心を和ませたと解釈している。宗祇の弟子の牡丹花肖柏が聞き取った宗祇の講義録は、「染殿后心に少し業平をいたわり、憐憫したまうようなる心なり」とある。もう一人の弟子の島田宗長が聞き取った宗祇の講義録には 寛宥 という言葉が記されている。染殿后は業平の恋心の切なさを彼の歌から知り、許したというのである。
そして細川幽斎の「闕疑抄」になる。一条兼良以来の解釈を集大成している。染殿后が業平の歌を知って、憐憫の情を抱いたという解釈である。細川幽斎の「闕疑抄」興味深いのは次の一節である。
朗読⑤
たび重なりければ、 というところをよく思ふべし。
伊勢の海の あこぎが浦に 引く網も 度重なれば あらわれにけり
この歌、この物語にて詠みけるが、心しとしと遊ばせる。
解説
伊勢の海の という歌は、西行法師 俗名 佐藤 義清 が悲恋ゆえに出家した土地する伝説の中に見られる。謡曲の「阿漕」や落語の「西行」にもなっている。「古今和歌集六帖」という歌集に、魚の鯛を詠んだ歌がある。
逢ふことを 阿漕の島に 曳く鯛の 度重ならば 人も知りなむ
又鎌倉時代末期の和歌集に 「拾玉和歌集」がある。そこには
逢ふことを 阿漕の島に 曳く鯛の 度重ならば 人知りぬべし 読み人知らずの歌もある。
これらの歌が姿を変えて、西行のエピソ-ドに入り込んだのである。
「源平盛衰記」という物語にも、この歌が出ている。度重ならば がキ-ワ-ドである。「伊勢物語」
第五段にも、度重ならば とあった。秘密の情事は一回二回ならごまかせるが、何度も繰り返すと
露見する。
西行が出家する場面を「源平盛衰記」で読む。
朗読⑥
さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐れある上臈女房を思いかれ進らせたりけるを、「あこぎの浦ぞ」といふ仰せを蒙りて思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽栄は秋の夜の月西へと准へて、
有為の世の契りを遁れつつ、無為の道にぞ入りにける。あこぎは歌の心なり。
伊勢の海 あこぎが浦に 引く網も 度重なれば 人もこそ知れ
といふ心は、かの阿漕の浦には、神の誓にて年に一度の外は網を引かずとかや。この仰せを承って西行が詠みける、
思ひきや 富士の高嶺に 一夜ねて 雲の上なる月を見んとは
この歌の心を思ふには、一夜の御契りはありけるにや。重ねてきこしめす事のありければこそ、阿漕とは仰せけめ。情ながりける事どもなり
解説
西行は身分の高い女房に恋をして一度は契った。そして次はいつ会えるかと質問すると彼女は「あこぎ」という言葉で答えたというのである。その心は 度重なれば 人もこそ知れ 女が口にした
あこぎ の歌を知らなかった西行は、自らの無知を恥じ出家し、歌の道に入ったと伝えられる。細川幽斎の「闕疑抄」は、この阿漕の浦の歌を、第五段は同じ状況を語っている。もしかしたら西行の伝説は「伊勢物語」第五段をもとにして作られ、増殖したのではないかと暗示しているのである。平安時代の「伊勢物語」第五段から中世の西行の悲恋伝説が創作され、それが謡曲や落語にまで広まっていったと考えると面白い。現在の古文教育の現場でなされている「伊勢物語」の本文解説とは異なる
解釈が、鎌倉や室町時代には積み重ねられていた。
それが中世や近世における文学創作のエネルギ-源であった。その一例を紹介した。
それでは「伊勢物語」の解釈の歴史に戻る。江戸時代の北村季吟は「伊勢物語拾穂抄」を著した。
いけどもえあはで について、行けども行けども と心落ち着けて見るべし。様々沽却して忍び入らんとすれども の心なり。業平の焦燥感を読み取っている。業平は何度も繰り返しても、二度と二条后には会えなかった。どうやっても入り込めないので、関守が寝てくれるしかないと思って、
人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ という歌を詠んだ。その
深い絶望感に、染殿后は同情し憐憫の情を催したのである。
季吟と同じ時代の契沖は、主は順子である、心を病んだのは二条后であると読み取っている。ここでやっと現代の解釈と一致した。長い道のりであった。また契沖はこの第五段は直前の第四段よりも、時間的に以前の事を語っていると指摘している。第四段は女が屋敷から去った後なので、確かに
契沖のいう通りである。契沖は「源氏物語」の注釈書も著し、その説は本居宣長の「玉の小串」にも度々引用されている。そういう契沖なので、ついひじのくづれ に関しては、王朝文学との類似を指摘している。
まず「枕草子」の 人にあなづらるるもの という段に、ついひじのくづれ があると指摘している。また「源氏物語」からは須磨の巻 が指摘されている。須磨に滞在中の光源氏に花散る里から手紙が届いて、長雨に築地所々崩れてなむ と書いてあった。光源氏は都に残っている家来に、花散る里の
屋敷を修理するように指示する場面である。また浮舟の巻もあげている。匂宮が初めて宇治を訪れ、浮舟と密通した際に門から入らずに、警備員のいない西表・西側の葦垣を壊して中に入ったとある。
契沖の指摘によって、「伊勢物語」の世界が膨らんでいく。
荷田東満の「童子問」は、「伊勢物語」と「古今和歌集」の前後関係について考察している。「古今和歌集」の成立は905年で確定している。「伊勢物語」の成立はよく分かっていない。荷田東満は「古今和歌集」が先に成立し、その詞書を用いて「伊勢物語」が書かれたと考えている。現在は「伊勢物語」の最終的成立はかなり遅れるものの、「伊勢物語」の根幹となっている部分は「古今和歌集」より先に成立していたのではないかと考えられている。けれども、長い時間を掛けて「伊勢物語」は書き足されていったので、「古今和歌集」の言葉を用いて「伊勢物語」が書かれた段もあるとされる。「伊勢物語」は段によって「古今和歌集」との前後関係が変わってくる。
この第五段がどちらであるかは分からない。荷田春満は 二条の后に忍びて参りける 種明かしの部分について、この段は作り物語なので実名の当てはめはナンセンスであると言っている。この余計な種明かしを書いた人物は、「伊勢物語」の価値を貶める罪人であると批判している。要らざる人名の当てはめによって、業平と二条后は密通という無実の悪名を被ってしまったと嘆いている。現在は
最後の種明かしまでを含めて、「伊勢物語」の本文だと見做している。但し人物名の種明かしがなされるまでは、ある男とある女の物語として読まれた訳である。「古今和歌集」でも歌の作者は
在原業平であるが、女の名前は明記されていない。けれども「伊勢物語」の始まったばかりの部分は、業平と二条后こと藤原高子との悲恋がモチーフである段が続く。やはり二条后の存在は否定できないと思う。先ほど紹介した契沖の「勢語臆断」では、ついひじのくづれ について、「枕草子」や「源氏物語」との関係が指摘されている。「源氏物語」を読むと第五段の明らかな影響を受けていると認定できる場面が数か所ある。「藤裏葉」の巻は、「源氏物語」を第一部、第二部、第三部と分けた場合に、第一部の最後に位置する巻である。この巻で夕霧と雲居の雁との結婚が行われる。二人はいとこ同士で、幼い頃から一緒に育てられ、相思相愛であった。けれども雲居の雁の父親である内大臣・かつての頭の中将が、夕霧の父である光源氏への対抗心から二人の結婚に反対したのである。内大臣は次第に態度を軟化させ、二人の結婚を認めても良いと感じ始める。
「藤裏葉」の巻の冒頭を読む。光源氏の娘である明石の姫君が、東宮に入内する準備が進んでいる。それにつけても、夕霧の心は複雑であった。宰相の中将とあるのが夕霧である。
朗読⑦
御急ぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、わが心ながら執念きぞかし。あながちにかう思ふことならば、関守の、うちも寝ぬべきけしきに思ひ弱りたまふなるを聞きながら、同じくは、人悪からぬさまに見果てむ」と念ずるも、苦しう思ひ乱れたまふ。
解説
夕霧の心を語る直接話法が、いつの間にか間接話法に変わっている。本居宣長は文脈の乱れを
正そうとして、間接話法に変えたがっている。けれども「源氏物語」ではよくある現象である。さて、
関守は内大臣かつての頭中将である。彼が気弱になって娘と夕霧との結婚を認めても良い思い始めたことを、関守の、うちも寝ぬべきけしき と例えている。
北村季吟の「湖月抄」はここには、「伊勢物語」第五段の
人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ が引用されていると指摘する。うちも寝ななむ とは、 姫君のことを夕霧に許さばや と説明している。季吟は第五段の
あるじ を染殿后・藤原明子と理解しているので、内大臣が染殿后と同じように二人の仲を あるじ許してけり。 と思うようになったというのである。それでも夕霧は黙認されてこっそり通うのではなく、
はっきりと向こうから折れてきて、堂々と通うようになりたいと思う。これも「伊勢物語」で言えば、
本意にはあらで、や 第五段の 忍びて という通い方ではなく、婿として晴れ晴れと認められたいという気はするのである。
「コメント」
「古今和歌集」より古い可能性もあって、影響を与えているかも 「伊勢物語」恐るべし。