260621⑫「第七段(かへる波)、第八段(浅間の嶽)」
今日は第七段と第八段を読む。男は都を離れて旅に出ている。一つ前の第六段 芥河 は、業平と二条后との愛の破滅を描いていた。第七段からは一転して東下りが始まる。「伊勢物語」のテーマは恋から旅へと大きく変わった。
第七段は尾張国と伊勢国の境の海岸であるが、第八段は信濃国の浅間の嶽、浅間山になる。
朗読①
昔、男ありけり。京にありわびて、あづまに行きけるに、伊勢・尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白く立つを見て、
いとどしく 過ぎ行く方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな
となむよめりける。
解説
まず現在、この段がどのように解釈されているかを話す。
むかし、男ありけり。 昔、ある男がいました。在原業平のイメージを濃厚に帯びた男である。
京にありわびて、あづまに行(い)きけるに、
ありわびて は、そこにいることが辛く感じられるということである。男は都にいることが辛くなった。
その理由は直接には書いてないが、その直前の第六段に二条后との悲恋を描いていたので、その
影響を読み取ることが可能である。恋愛の不祥事は、文学では主人公が旅に出る最大の動機付けであった。
あづま は、都から見て東の方である。逢坂の関から見て東とする説と、現在の関東地方を指すと
いう説が有力である。その他現在の三重県を含む東海道の国々を、あづま とよぶこともある。
伊勢・尾張のあはひの海づらをゆくに、男は伊勢国・三重県、尾張国・愛知県の国境に差し掛かった。
浪のいと白く立つを見て、 海岸地帯である。都を後にした男は、初めて海を見たのである。
所で、京にありわびて、あづまに行きけるに、伊勢・尾張のあはひの海づらをゆくに、 ということで
あるが、これは二通りに解釈できる。一つは、男の旅は最終的には関東地方、或いは更にその先の陸奥などの東を目指しているので、伊勢 と 尾張 は既に東に入っており、男は東に足を踏み入れているとする立場である。私は東に向かう途中であるとみる方が良いと思う。
浪のいと白く立つを見て、男が今、目にしているのは、伊勢湾であろう。
白い浪が打ち寄せている。そしてその浪も、もと来た方に戻っていく。その様子を見ていた男は歌を詠んだ。
いとどしく 過ぎ行く方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな
過ぎ行く方 の 方 は、方角、方向という意味の 方 と、遠浅の入り江という意味の潟、干潟 との掛詞である。
うらやましくも うら にも海岸、入り江という 浦 が響いている。潟と浦は縁語である。
初句の いとどしく は、益々、一層という意味で、第三句の恋しきに 掛かる。男は都への悲しさが一層募っていくのである。なお、過ぎ行く方 の 方 は、方角方向とする説が有力だが、過ぎ去った頃と解釈する説もある。
うらやましくも かへる浪かな 浪は打ち寄せた方向に戻っていく。けれども自分は都を離れ、刻一刻と都から遠のいて行くばかり。都に残った誰かに贈った歌ではなく、自分の心に歌を詠んだので
ある。自分の心に語り掛けたのであろう。独詠歌という。因みに男と女が互いに歌をやりとりすることを贈答歌という。「伊勢物語」では恋愛の場面では、贈答歌が多いが、旅の場面では、失われた愛を男が嘆く場面では独詠歌が詠まれる傾向がある。
この歌は二番目の勅撰和歌集である「後撰和歌集」に入っている。巻19、羇旅1352番。
朗読②
あつまへまかりけるに、すきぬる方こひしくおほえけるほとに、河をわたりけるになみのたちけるを見て 業平朝臣
いととしく すきゆく方の こひしきに うら山しくも 帰る浪かな
解説
ここには、あつまへまかりけるに、 とあるが、詠まれた場所が、伊勢・尾張のあはひの海づらをゆくに、という場所の限定がない。しかも歌を詠んだのが、海づら ではなく、河をわたりける 時とある。河から流れ出る河口辺りでは大きな浪が白く立つ時がある。また旅人が大きな川を渡る際に、都から遠く離れてしまったという旅情を感じる歌は沢山ある。それでも「伊勢物語」第七段のように海岸に
打ち寄せる波を見て詠んだとする方が、旅人の悲しみが際立ち効果的である。海辺に打ち寄せた浪が、もと来た方に戻っていくからである。
それでは現在の解釈が定まる以前には、第七段はどのように読まれ続けてきたのであろうか。最も古い注釈書である
「和歌知顕集」。この本は業平の東下りはなかったという立場である。平安時代の歴史書の中には、東北に下ったことは全く書かれていない。だから「伊勢物語」の男も東下りはしていない。但し物語の表向きは、東に下ったことにして表現してあるというのである。
次に古い注釈書が「冷泉家流伊勢物語抄」である。やはり鎌倉時代のものである。ここにも業平は
東下りの旅はしていないと書いてある。第六回でも紹介したが、大切なので再度披露する。
朗読③
むかし、男ありけり。京にありわびて東の方にいきけるとは、実にありわびて、東にゆくのはあらず。二条后を盗み奉ることあらわれて、東山の関白 忠仁公・良房のもとに預けるをいふなり。東という字につきて、あづまというなり。
解説
良房は摂政なので関白ではない。良房は東山、現在の岡崎公園の辺りに別邸を持っていた。その
東山に業平は預けられ監視下に置かれた。そのことを業平は東、即ち東に下ったと誇張して書いたというのである。直前の第六段の芥河のあたりで、二条后が連れ戻された結果であると、「冷泉家流伊勢物語抄」は言っている。業平は恋愛事件で処罰されたのである。それでは実際に東下りをしていないとすれば、伊勢とか尾張という国名はどのように解釈するのであろうか。
「伊勢物語」というタイトルは男と女の陰陽和合の物語であるから、そのようにつけられたという説で
ある。このことは第三回で話した。伊勢の国の伊勢には女と男という意味があるので、二条后と業平の男女関係という意味になる。尾張には、終わり、最後という意味があるので、二人の愛の終わりを意味する。あはひ はまさに男女関係という意味である。
海づらをゆく は海岸線、浦を見ながら行くとことなので、即ち愛を終わったことを恨むことを意味している。
かへる浪かな は、涙が零れるという意味である。現代の古文解釈の立場からすると、こじつけ以外の何者でもない。但し「冷泉家流伊勢物語抄」は、このやり方で第七段から第十五段まで続く。東下り章段を解釈し通すのである。つまり東下りはなかったとする立場でも、「伊勢物語」の本文は読み通せるのである。これは驚くべきことである。「伊勢物語」の文体は柔軟性に富むので、どのような読み方をしても、それなりの解釈が可能である。
それらの中で、最も感動的な読み方はどれなのか。そして現代に最も必要な読み方はどれなのか。それを突き止めることが古典の研究だと思う。
さて室町時代の一条兼良は、書かれている通りに文章を解釈する立場である。この第七段には都での恋愛で苦しんだ業平が、傷ついた心を慰められるかもしれないと思い、2、3人の友人を誘い東に下り、奥州まで足を延ばした旅の始まりであると見做している。いとどししく の歌が「後撰和歌集」に載っていることも、業平が東に下った証拠であると一条兼良は考えているのであろう。当時、「後撰和歌集」の写本の中には、この歌の作者を読み人知らずとしているのがあるそうである。むしろ、読み人知らずの方が古い形で、作者は業平とするのは、「伊勢物語」に影響されて変更されたとする説もある。「古今和歌集」以外の勅撰和歌集では、詞書の信憑性がそれほどでもない。
戦国時代には宗祇が登場する。業平が恋愛ゆえに罪を得て、東国に流された時のことであると宗祇は考える。東下りはあったとする立場である。
宗祇の鑑賞力はとても細やかである。弟子の牡丹花肖柏が書き残した宗祇の講義の本・「肖聞抄」を読む。
朗読④
浪のいと白く この言葉、又感あるなり。都を離れてよろずもの悲しかるべき時は、浪の白く寄せ帰へるを目に立ちてあはれなるべし。いとおしく過行く方の、この歌日心あらはなり。浪の寄せては帰へり帰へりするを見て、都を思ふ心催さるるさまなり。歌ざま、あはれ深く侍り、よく吟味あるべし。理の
安く聞こゆる歌をば、なほ深く思ひ入りて、見侍るべしとぞ、 しとき 言わざるべしとぞ云々。
解説
宗祇の鑑賞力は繊細である。感あるなり。 の 感 は感動の事。吟味 は、味わうこと。悲しい時には白いものが目に染みる。意味の平明な歌の中に、作者の複雑な心境が読み込まれているのを、
読者は読み過ごしてはならない。これが宗祇の教えである。
細川幽斎の「闕疑抄」は、一条兼良と宗祇の説をまとめている。その後は国学の祖とされる契沖が登場する。契沖は業平の東下りが実際にあったと考え、二条后との秘密の愛が原因だろうと想像して
いる。業平の東北への旅が、歴史書に見えない理由は、業平が平城天皇の孫であるので書くのを
憚ったのか、二条后や藤原氏への配慮のために、歴史書は業平の旅を棄て置いたのだろうと述べている。
荷田春満の「童子問」も、業平は罪を得て東国に配流されたとする立場である。なお、荷田春満は、業平の歌の、過ぎ行く方の 恋しきに という部分が分かりにくい。文法的には 過ぎぬる方、過ぎにし方 が正しいと言っている。確かにそうかもしれないが、宗祇が教えてくれたように、業平の心に成りきれば、このままでよいのではないか。
私自身の立場を表明しておく。
「冷泉家流伊勢物語抄」の解説は客観的解釈から離れすぎている。けれども文学的、物語的には、非常に面白く感じる。
一条兼良の合理的な解釈には、現代に通じる客観的な解釈を感じる。宗祇の、登場人物の心を読み取る姿勢には、文学的芸術的な面白さを感じる。様々な読み方が立体的に積み重なっている。一つ一つは矛盾しあい、相互補完的な関係にある。それが「伊勢物語」という作品の豊かさと同時に魅力だと思う。
それでは第八段に進む。
朗読⑤ 第八段 浅間の嶽
むかし、男ありけり。京やすみ憂かりけむ。あづまの方にゆきて、すみ所もとむとて、友とする人、ひとりふたりしてゆきけり。信濃の国、浅間の嶽に煙の立つを見て
信濃なる あさまのたけに 立つけぶり をちこち人の 見やはとがめぬ
解説
第七段の伊勢国と尾張国との国境の次はいきなり、信濃国の 浅間の嶽 となるので、読者は驚かされる。まずは現時点での解釈を確認しておく。
むかし、男ありけり。 昔、ある男がいた。その男には在原業平の影が濃密に漂っている。
京やすみ憂かりけむ。 語り手のコメントである。男が旅に出た理由は、漠然と住みずらいことがあったのだろうと推察している。直前の第七段では、京にありわびて とあった。具体的な理由としては、二条后との悲恋と破局が想定することが可能であろう。
あづまの方にゆきて、すみ所もとむとて、友とする人、ひとりふたりしてゆきけり。
第七段では、単に あづまに行きけるに、とあった。この第八段では すみ所もとむとて とあり、新天地で自分をめぐる人間関係を、新たに構築できる場所という意味ある。男が東国でも、女性との恋愛を繰り返すことが暗示されている。
また、友とする人、ひとりふたり 同行していたという点も第七段にはなかった。業平を含めると
ニ、三人で旅をしていたことになる。
信濃の国、浅間の嶽に煙の立つを見て 浅間の嶽 は、長野県と群馬県の国境にまたがっている。
噴煙の立ち上る火山として有名で、平安時代の「狭衣物語」に歌が詠まれている。散文の部分は省略して歌だけを読む。
朗読⑥「狭衣物語」
くらべ見よ 浅間の山の 煙にも 誰が思ひか 焦れまさると 狭衣
あさましや 浅間の山の 煙には 立ちならぶべき 思ひとも見ず 宰相母
解説
「狭衣物語」の中の歌である。どちらの歌も浅間山には煙が立ち上っている。最初の歌。私の恋心は、浅間山の噴煙にも匹敵する勢いで、激しく燃え心が熱くなっている。後の歌は、浅間 と形容詞の 浅ましい の掛詞である。
一番目の歌
お見受けしたところ、あなたの恋心は浅間山の噴煙とは比べ物にならない。呆れるほどに細々としたもの見える という意味である。第八段でも、業平は浅間の噴煙を詠んでいる。
信濃なる あさまのたけに 立つけぶり をちこち人の 見やはとがめぬ
をちこち人 をち は遠い所、こち は近い所。をちこち人 は、浅間山の遠くの人も、近くの人も という意味である。
見やはとがめぬ は、見て驚くという意味の 見咎める という動詞の中に、反語を表す やは が割って入った表現である。これを見て 見咎めない 、見て驚かない人が果たしているのだろうかと、いやいない。浅間の噴煙を見た人は、誰もが驚くのだというのである。けれども噴煙が激しく高く上がったとしても、直前の第七段では、伊勢国と尾張国の一帯を旅していたのだから、そこから浅間の
噴煙が見えるはずはない。本文で 煙の立つ見て あるのは、どこから見たのか分からない。すぐ近くなのか、遠くからなのか。第八段が配列されている位置が謎なのである。なお、第八段と第九段が
一つに融合している「伊勢物語」の写本がある。その場合は、信濃国の次は三河国になるので、読者はさらに混乱する。
さて 信濃なる~ の歌は、鎌倉時代の「新古今和歌集」に業平朝臣の歌として入っているが、明らかに「伊勢物語」の影響であろう。元は、信濃国の民謡で、自分たちの国には 浅間の嶽 というすごい山がある。噴煙を見た人は誰も腰を抜かす筈であるという歌であったのだろう。ところがこの歌は、業平が詠んだ歌とされ、東下りの旅立ちの部分に配列された。すると業平の二条后への恋心があまりにも激しいので、みんなに気付かれてしまうに違いないという意味にもとれる可能性も出てきた。さらには二条后との恋が露見し、人目に触れ、浅ましい、いけない恋だと咎められた という風にも解釈できる。そうはいっても旅人が、浅間の噴煙を見て都では見ることの出来ない、異次元の火山を見た驚きが詠まれているという解釈が妥当であろう。
それでは第八段のこれまでの解釈の歴史を堀り起こす。
まず最も古い鎌倉時代の「和歌知顕集」である。業平は実際には東下りはしていないのだが、表現上は東に下ったかのように書いているという解釈である。都に住み辛くなった理由は、恋の心にほだされたからだと言っている。二条后への恋心に業平の心が縛られて、身動きが取れなくなったというニュアンスであろうか。そして、友とする人たちの名前を挙げている。紀俊定 という男で、彼は阿波守に任命されて赴任するので、業平に同行したと説明している。時に貞観七年 866年 4月29日の事と言う。業平41歳。「古今和歌集」に四首、選ばれている歌人である。阿波なので、都から見て
東国とは逆の方向である。不思議である。「伊勢物語」第四十八段は、業平の友人が旅に出るので彼へのお別れの歌を贈ったという内容である。その歌は「古今和歌集」に載っていて、紀俊定が阿波介 となって赴任する際に、業平が詠んだ歌とされる。「和歌知顕集」には、この第四十八段の注釈部分が脱落しているので、そこに何が書かれているのかが分からないのが残念である。
次は「冷泉家流伊勢物語抄」である。やはり鎌倉時代の成立である。これも業平が東下りをしていないという立場をとっている。「冷泉家流伊勢物語抄」の独特の解釈を詳しく説明する。
むかし、男ありけり。 これは在原業平のエピソ-ドである。
京やすみ憂かりけむ。あづまの方にゆきて、すみ所もとむとて、 第七段で説明した様に業平が二条后を盗みだそうとした故に、東山にある藤原良房の別荘に預けおかれた事をいうのである。
友とする人、ひとりふたりしてゆきけり。東山の別荘に預けられたのは、業平の他に二人いた。紀有常と平貞文である。この二人は業平の友人なので、業平が二条后を盗みだした事件にも関与したと見做され、押し込められたのである。
信濃の国 業平は信濃の国に旅をしていない。これは品、即ち身分の苦しみのことである。品の苦 を信濃国と行ったのである。業平は二条后を盗み出した科により殿上人の地位を失い、左遷された。これが業平の身分の苦しみである。
浅間の嶽に煙の立つを見て 浅間 という地名は、浅ましい心のシンボルである。煙は恋のことで
ある。即ち、業平と二条后との関係は、浅ましい恋なのである。
信濃なる あさまのたけに 立つけぶり をちこち人の 見やはとがめぬ
自分は浅ましい恋故に、身分が転落する (品の苦)を味わっているのに、世間の人はどうして私たちの悲しい恋に気付き、どうしたのかと尋ねてもくれないのだろうか。
尚、「冷泉家流伊勢物語抄」は、浅間の煙の起源について、悲しくも恐ろしい伝説を紹介している。
朗読⑥
この煙は昔ありける女の、男を恨みて死にたりけるが、燃えて石につきて今に消えるといふなり。ある説に曰く、昔、信濃国にありける男、女を深く思ひけるが、かの女を捨てて新しき女を具したりければ、かの女深く嘆きて、谷に身を投げて死ぬ。男これを見て、ただ捨てむことの疎ましさに木を切りかけて焼きければ、その火、石につきて今に至るまで消えずといふ。よりて浅間の煙をば、恋に寄するなり。
解説
何とも痛ましい恋の煙である。愛する男に棄てられた女の恨みはどこか、「源氏物語」の六条御息所の怒りの炎を連想させる。
室町時代の一条兼良の「愚見抄」は、「和歌知顕集」や「冷泉家流伊勢物語抄」の解釈を無視している。業平の東下りはあったとする立場である。「愚見抄」の第八段の解釈は、この 浅間の嶽 は、
富士の様に煙立つといへり と記してあるのみである。友とする人、の名前を挙げていないのは、
人名の当てはめを否定しているからである。富士山の煙は「古今和歌集」仮名序で、恋心の比喩で
あると書かれている。浅間の嶽 にも、その富士山と同じだというのである。
戦国時代の連歌師・宗祇は、文学上の解釈に優れていた。この段でも読者が心掛けるべき点をあげている。業平はこれまで都で暮らしていたので、浅間山の不思議な姿を初めて見た。旅は苦しいものであるが、珍しいものに触れた時は、面白く感じて興が涌くものである。このあたりの旅情の実態を、読者は深く味わうべきだと、宗祇は助言している。
江戸時代の直前、関ケ原の戦の頃に、細川幽斎が「闕疑抄」を著す。彼は鑑賞力に優れていた。友とする人 の箇所について、それまでになされてこなかった鑑賞を披露している。都に住みわびて いる業平であるから、どうして友達が沢山いることがあろうか。ひとりふたり と書くことで、業平には友人が少なかったと、彼の孤独をそれとはなしに指摘しているという。歌に関しては、浅間の煙を見た人は、みんな驚く筈なのに、それほど反応を示さない人がいたことを、業平は面白く感じたのだと言っている。なお、細川幽斎は、伊勢尾張から浅間の煙が見えた可能性があると考えていたようである。
浅間の煙については、東海道からも見える位、盛大に上がってだろうとのべている。
江戸時代には、北村季吟の「伊勢物語拾穂抄」が書かれた。季吟は次の第九段に 道知れる人もなくて、まどひいきけり とあるので、第七段の尾張国のあたりから東海道をそれ、中山道などを通って、浅間の近くまで行ったのだろうと推測している。
国学の祖である契沖は、浅間山の煙は東海道からは見えないと言われるけれども、見える場所も
あると言っている。
但し荷田春満の「童子問」は、浅間山の煙がどんなに高く立ち上っていたとしても、伊勢や尾張から見える筈がない。浅間山が見える場所で、歌を詠んだのだと言っている。荷田春満は、友とする人、の 友 は、ここでは従者の事だと主張している。私はこれに説得力を感じる。友 ではなくて、供 だと
主張。というのは、業平に同行する友人が二人ならば、馬に 人だけで業平を含めて三人いるわけである。馬の口を取る人が三人、荷物を持った人が三人、何かと身の周りの世話をする人が三人。総勢12人の旅になる。そうなると、孤独なる流離の旅というイメ-ジから遠ざかる。業平が従者を二人連れただけで、旅に出る方が淋しさでは勝る。
なお、荷田春満は、業平が供を2、3名連れて旅立った第八段の影響をうけたのが、「源氏物語」の
須磨の巻 であると言っている。須磨の巻で、光源氏が旅立つ場面を読む。
朗読⑦
三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける。人にいつとも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れたる限り、七人、八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちたまふ。
解説
光源氏が須磨に旅立つに際して、日ごろから自分に仕えてくれる腹心のお供、従者を7、8人連れた
だけで都を離れたのである。荷田春満はこの 須磨の巻 の場面は、「伊勢物語」の第八段を踏まえているので、「伊勢物語」の方も 友 ではなくて、 供 なのではと主張する。この八段に影響をうけた紫式部は、光源氏の場合はさすがに2、3人のお供では少な過ぎると考え、七人、八人ばかり と書いたのだろうと 荷田春満は言っている。
なお、「源氏物語」の 若紫の巻 で、童病の治療の為に北山を訪れた光源氏に、お供の従者達が
世間話を語ってくれる場面がある。そこに、富士の山、何がしの嶽 という山の名前がでてくる。「湖月抄」などの「源氏物語」の注釈書は、この何がしの嶽 は、浅間山の事だと説明している。富士山と並び称されるのが 浅間の嶽 浅間山 なのである。いずれも東国にそびえる山であり、噴煙を立てる火山である。恋心の激しさを象徴する山なのである。「伊勢物語」を描いた美術作品には、旅人が
大きな山を見て驚く絵柄が見受けられる。絵を描いた画家たちも実際には見たことはなかったかも知れない。芸術に素人の私の目には、その山が第八段の浅間山なのか、次の第九段の富士山なのか、長い時間を掛けて観察しても区別できない。富士山ならば円錐形をしているはずだとみるのだが、それだけでは区別できない。富士山と浅間山が並び称されるのも納得できる。
「コメント」
ここでもあそこでも、「源氏物語」への影響のオンパレ-ド。古典の学びの最初は「伊勢物語」にすべき。