250705⑭「第九段(東下り その2(富士の嶺・隅田川)

前回は第九段 東下りの前半 宇津の山 のくだりまでを読んだ。今回は富士山の場面と隅田川の場面である。

それでは富士山の場面を読む。

朗読①

富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。

 時しらぬ 山は富士の() いつとてか 鹿子(かのこ)まだらに 雪のふるらむ

その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

 解説

まず歌の解釈から説明する。富士の山 を見れば、駿河国の旅が続いていることが分かる。宇津の山 を過ぎると急速に視界が広がる。富士山が見えてくる。

五月のつごもり 五月 は、夏の盛りである。つごもり は月の末日。月末のこと。夏の盛りに富士山の雪を見て男は驚く。

 時しらぬ 山は富士の() いつとてか 鹿子(かのこ)まだらに 雪のふるらむ

富士山が擬人化されている。富士山は、今をいつだと、思っているのだろうか。今は夏なのに冬とでも思っているのだろうか。裾野から見ると、富士山にはまだらに雪が積もっている。その模様は鹿毛並みに、斑点があるのでそっくりである。

その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ねあげたらむほどして、

男が感じた驚きを、語り手が読者に伝えようとして解説している箇所である。規格外の山であることを強調している。富士山を都で例えていうと、比叡山を20個以上積み上げた高さである。

なりは塩尻のやうになむありける。なり は、形とか姿という意味。塩尻 は、塩を作る塩田にある砂山の事とされる。

その山に海水を注ぎ、塩分を白く結晶させる。円錐形の形をしている。その砂山に塩が白く結晶している様子は、富士山の山肌に雪が積もっている形と似ていると言うのである。但し都人は比叡山を毎日目にはしていても、海水で塩を作る作業を実際に見たことはない。塩尻の例えは分かりにくかったことであろう。これまでの解釈の歴史を振り返っても、塩尻のことについてはよく分かっていない。

 

最も古い鎌倉時代の「和歌()顕集(けんしゅう)は、九州の志賀の海士(あま)が塩を作る塩竃のわきに据えておく壺のことだと言っている。「伊勢物語」の第六十一段 染河 は、男が筑紫(つくし)に行く話である。その時の見聞だという。漢委奴国王 の金印が出土した志賀島である。万葉集にも志賀の海士が塩を焼く歌が見られる。その志賀島で、塩(かま)の傍に置かれた壺の中に凝縮した塩が溜まり、それを取り出すと根元が太くて、末が細い、雪が積もったように美しい姿になる。それが塩尻の正体で、富士山の姿に似ているというのである。

 

二番目に古い注釈書である「冷泉家流伊勢物語抄」「伊勢物語」の本文を種にして、まったく別の物語を創作している。本文と対比しながら説明する。

富士の山を見れば、富士山は我が国で一番、位の高い山で天皇の地位である。即ち清和天皇を指している。

五月のつごもりに、雪いと白うふれり。 富士山にも例えられる清和天皇は、貞観18年9月のつごもりに出家し、水尾の里に遁世した。雪は年の終わりに降るので、清和天皇の御代の終わりに例えたのである。雪が深く積もると、訪れる人もくる人も少なくなる。これも清和天皇が退位したので、臣下たちが去ってゆき淋しくなったことの比喩である。なお、史実では清和天皇の出家は11月29日、29歳である。翌年には退位し、翌々年に逝去。

  時しらぬ 山は富士の() いつとてか 鹿子(かのこ)まだらに 雪のふるらむ

富士山に例えられる清和天皇は、若いのに自分の人生の終わりを悟り、出家されたことだ。鹿の皮の鹿子まだらの模様が夏にははっきり見えるが、年の暮れには消えてしまう。その様に清和天皇の生前には、取り巻いていた臣下たちが姿を消し消えてしまった。

その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ねあげたらむほどして

比叡山は業平のことで、富士山は清和天皇のことである。業平の身分は従四位下である。天皇の位までには二十もの位がある。清和天皇と業平との身分の隔絶が20程あるという意味である。

なりは塩尻のやうになむありける。塩尻 は、富士山に似た形をしている。富士山は元、裾の方は太いが、末、先の方は細い。その様に清和天皇は若くして即位したものの、先細りの人生だったという意味である。

相当に強引であるが、ここには業平と二条后との恋を妨げていた清和天皇の退位という大きな事件が隠されているというのである。

私は物語文学の隠し味は秘密だと思う。「冷泉家流伊勢物語抄」は「伊勢物語」の秘密を読み取っている。その結果、「冷泉家流伊勢物語抄」の解釈は、光源氏と藤壺との秘密を語る「源氏物語」の世界と似てきた。

 

次に合理主義者の一条兼良の「愚見抄」を見てみよう。

もう富士山を清和天皇の比喩、或いはシンボルと見る解釈などは眼中にない。塩尻 シホシリ については、シレコシとする本文があることを指摘し、「伊勢物語」の本文を定めた藤原定家が、塩尻 については不明のまま とした姿勢を高く評価する。一条兼良の意見を聞く。

朗読②

では案ずるに、本文に疑わしきを書くといふことあり。疑わしきことをば、疑ひておくが清見の心なり。それを愚者は知らぬと言へば恥に、思ひて抑えて義理をつくることあり。定家卿は世の人に代わりて、つまびかならぬこと事をばさておきて、一決せられず、最も思慮深き仕業なり。塩尻といふことも色々の説あれども、確かなる証文なければ人の問うにも、知らざる由、答へはべるにや。

 解説

聖賢の心は、「論語」に記されている講師の教えという意味である。大意を説明する。古代中国の講師の言葉が記録されている「論語」には闕疑(けつぎ)・疑わしきを()く 疑わしいことに関しては決定を保留するということが書かれている。ところが愚かな人間は、知らないことは恥だと考え、こじつけとしか思えない無理な解釈を捏造(ねつぞう)する。藤原定家は知らないことは、そのままにする姿勢を貫いた。ある人から 塩尻 について質問されても、分からないと答えた。

 

この箇所に感動したのが、細川幽斎である。細川幽斎の闕疑抄(けつぎしょう)のタイトルの由来はここなのである。細川幽斎の闕疑抄(けつぎしょう)は、一条兼良の、知らないことは知らないで通すというが、和歌の道でも

大切であり、素晴らしい言葉であると称賛している

 

島田宗長の「宗長聞書」は、時しらぬ~ という歌について、宗祇の教えを書き留めている。富士山の威容に驚いている歌だから、この歌のように仰々しく大げさに読むのが良い。元気がないような歌い方はよくない。スケールの大きい自然を詠む時には、物々しく読みなさいと言うのが宗祇の教えである。宗祇は「冷泉家流伊勢物語抄」のように、富士山を天皇の比喩と考える解釈はしない。自然を詠んだ歌と解釈している。

江戸時代にも 塩尻 については様々な解釈がなされたが、最終的結論は出なかった。

 

それでは第九段の最後、都鳥 の場面に進む。

朗読③

なほゆきゆきて、武蔵の国と(しも)(ふさ)の国との中にいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その川のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや船に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをおりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ(いを)を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、

 名にしおはば いざ言問はむ みやこどり わが思ふ人は ありやなしやと

とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。

 解説

まず現在なされている解釈から説明する。

なほゆきゆきて 富士山の次はいきなり、武蔵国と下総国の国境となる。伊豆国と相模国は省略された。武蔵国は東京都と埼玉県そして神奈川の一部。下総国は現在の千葉県の北部、茨城県の南西部である。

いと大きなる河あり。 隅田川の畔で、男と友人たちは一まとまりになって座っていた。渡船に乗り込む準備をしていたのであろう。

思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、 わびあへる  わぶ は、自分をめぐる状況が思わしくない為に記憶を失うこと。あへる だから、みなしょんぼりしている。思えば都からとんでもなく遠くへ流離(さすら)ったことだとみんなは、都からの日々を思い出している。まだ先がある。

渡守、「はや船に乗れ、日も暮れぬ」といふに、 渡し守はぐずぐずしている男たちに、早く船に乗るように催促する。

みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さっきは わびあへる 、ここでも ものわびしくて 未来が閉ざされていて展望が開けないのである。明るい未来が期待できないので、楽しかった昔のことを思い出す。都に残してきた家族や恋人との思い出である。

さるをおりしも、 みんなが都のことを思い、切ない気持ちになった丁度その時、

白き鳥のはしとあしと赤き、(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ(いを)を食ふ。白き鳥の の は、同格の の である

色の白い鳥であって、はし 即ち(くちばし) と、足の部分が赤い鳥。なお且つ、(しぎ)の大きさなる 鴫の大きさ くらいの鳥が目に入った。(しぎ) は、西行法師の 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮れ の歌が有名であるが渡り鳥である。大きさは雀からカラスくらいまで。その (しぎ) と同じくらいの鳥が、水の上を泳ぎ回りながら(いを) を食べている。

京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。都では見たことがない鳥なので、誰もその鳥の名前を知らない。

渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、

そこで渡し守に鳥の名前を聞くと、「これこそ、都鳥です」と教えてくれた。渡し守は都から来た人が誰一人として、都鳥という鳥の名前を知らないことを訝しんでいるのである。都鳥はカモメ科の鳥で、ゆりかもめ のこととされる。これなむ のなむ は、意味を強める係り結びの なむ である。「源氏物語」の浮舟の巻で、船で宇治川を渡る匂宮に向かって、渡し守が「これなむ橘の小島」と地名を教える場面を連想する。隅田川の渡しで鳥の名前を聞いて、業平は歌を詠んだ。

そして都鳥に呼び掛けている。

 名にしおはば いざ言問はむ みやこどり わが思ふ人は ありやなしやと

名におう は、名前を持っているという意味。おはば は、もしお前が本当に都という名を持っているならば というニュアンスである。「都鳥よ、もしお前が都という名前を持っているのであれば、都のことを尋ねよう。私の愛する人は元気に暮らしているかどうか。」

とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。と詠んだところ、船中の人は泣いてしまった。

 

ここでこれまでの解釈の歴史を振り返る。まず最も古い鎌倉時代の「和歌()顕集(けんしゅう)であるが、この隅田川の部分が欠落している。次にやはり鎌倉時代の「冷泉家流伊勢物語抄」。業平は東下りはしていないという立場である。富士山の雪が清和天皇の退位と出家を意味しているという解釈は既に話した。都鳥についても驚くべき解釈を繰り広げている。本文と解釈を並べて解説する。

なほゆきゆきて、武蔵の国と(しも)(ふさ)の国との中にいと大きなる河あり。業平は東山にある藤原良房の別荘に蟄居させられていた。それから摂津国にある藤原長良の屋敷に移された。藤原長良(ながら)は吹田川の北側に家を作っていた。南側には

長良の長男の(くに)(つね)が住んでいた。この吹田川を物語では隅田川と言ったのである。この時、長良は武蔵守である。国経は下総守であった。このことを武蔵の国と下つ総の国との中 と表現したのである。なお吹田は平安貴族の遊覧する場所であったが、吹田川という川は存在していないようである。

その川のほとりにむれゐて、 清和天皇の次に即位した陽成天皇(清和天皇と高子の子)元慶(がんぎょう)3年 879年5月に吹田に行幸された。陽成天皇の母は高子・二条后で、彼女の父は藤原長良、天皇の外戚である。陽成天皇に付き従う公卿たちが、吹田川のほとりに集まっていた。

かぎりなく遠くも来にけるかな、吹田は摂津国なので都からは遠い。

渡守、「はや船に乗れ、日も暮れぬ」といふに、中国の帝王学の書物である 「貞観政要」 という本には、「君は船の如く、臣は水の如く。」とある。君主は船のような存在で、臣下は水のような存在である。どういう臣下を持つかで水に浮くこともあるが、転覆することもある。よって船は天皇のことであり、陽成天皇を指している。渡し守は船である天皇を補佐し、正しい方向へと舵取りをするし関白の比喩である。ここでは関白の藤原基経を指している。基経が船に乗れといったのは、業平への助言である。清和天皇の怒りによって勅勘を受けて蟄居謹慎している業平に向かって、新しく即位した陽成天皇に許され、宮仕えを始めなさいと勧めたのである。日も暮れぬ とは、清和天皇がすでに退位したということである。

乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、業平が陽成天皇に仕えることを、そこに集まっている貴族たちは心よからず思った。何故ならば、彼らは陽成天皇が清和天皇の実の子供ではなくて、二条后と業平の密通によって生まれた子であることを知っていたからである。なお補足すると、このスキャンダルは「大鏡」などにも書かれていて広く知られていた。

但し歴史的事実であるとは考えられない。

京に思ふ人なきにしもあらず 二条后を今でも愛する業平は、早く会いたいと思っていた。

さるをおりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ(いを)を食ふ。

この鳥は陽成天皇の比喩である。中国の皇帝や我が国の天皇の(まつりごと)は、天を(かけ)るように行われる。よってこれに例えられるのである。鳥に例えられる陽成天皇は、白い衣服を着用する。足の部分は紅梅色の袴をはいている。天皇の唇は赤く美しかった。このことを、白き鳥の、はしとあしと赤き と言ったのである。(しぎ) は漢の李王のことである。威勢が大きかった李王は、(しぎ)公 といわれた。(しぎ)の大きさなる、 は、陽成天皇の勢いが極めておおきいことを例えている。

水の上に遊びつつ(いを)を食ふ。陽成天皇が船に乗って吹田川を遊覧して、とれたばかりの魚を食事として召し上がったということである。

京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。みな人 は、その場にいる全員という意味ではない。3人である。一人は業平、残りの二人は業平と蟄居謹慎している紀有常と平貞文。この三人は歌の名人なので、三名人即ちみな人 である。三人はずっと東山そして吹田川にいたので、都の現状に疎くなっていた。船に乗っているのが誰なのか、すぐには分からなかった。

渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、業平は関白である基経に「あの人は誰ですか」と質問した。基経の返事は「あのお方こそ、陽成天皇である。」というものであった。都をとる人、これを都鳥と言ったのである。業平はわが子が天皇になったことを知り歌を詠んだ。

 名にしおはば いざ言問はむ みやこどり わが思ふ人は ありやなしやと

今、国を取り仕切っている陽成天皇よ、そなたは母親である二条后の居場所を知っていることだろう。それを教えておくれ。私は早く会いたいので。

とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。船は陽成天皇の比喩である。こぞりて は、おそりて 即ち恐れてという意味である。罪の子である陽成天皇は自分の父親である業平が、このように詠んだのを浅ましく思い、また恐れて泣いたのである。

思いもよらない解釈であった。「源氏物語」の薄雲の巻で、冷泉帝が()()の僧都から藤壺が光源氏と密通して生まれたと教えられ驚く場面がある。その場面と似ている。作品が成立した時代は「伊勢物語」が先である。けれども「源氏物語」のように「伊勢物語」を読みたいという中世の読者たちもいた。彼らが「冷泉家流伊勢物語抄」のような解釈を生み出したのである。

 

室町時代の一条兼良は「冷泉家流伊勢物語抄」など眼中にない。都鳥は カモメ のことであると言っている。都鳥は、この「伊勢物語」第九段の歌以来、好んで歌に歌われるようになった。なお、ゆりかもめという言葉を含む古典は見当たらない。一条兼良がかもめ と言ったのは、ゆりかもめ を含むかもめ なのである。カモメは歌にも漢詩にも詠まれている。

 

戦国時代を生きた宗祇は優れた鑑賞力の持主である。彼の鑑賞を読む。

朗読④

大きなる河あり。業平、旅行の態、ここにも止まらず、かしこにも安らわず、遠国に至れり。都は遠くになるにけっく、大河に向いて、この河を渡りてまた、いとど隔たらんことをおもふべし。故に大きなる河とかける言葉、心あるべし。以下の言葉ども、いずれもあはれなり。よく工夫すべし、余勢あるべし。

渡し守、はや船に乗れ、船にも乗りかねたる態なり。常の船渡りには変わりて、心の進まざるなり。

なほざりには見るべからずとぞ、

名にしおはば いざ言問はむ この歌はただ武蔵と下つ総の中に、大きなる河ありといふより、みな人もの悲しくて と言う。去る折しも白き鳥よと言葉にて言ひたるを、この歌の心にこめて見はるるべきなり。かぎりなく余勢侍るべし。船こそりて、傍らの人も感涙を催す心なり。船中の人々なり。

 解説

宗祇の説を伝える伊勢物語肖聞抄」の一節である。遠国 は遠い国。余勢 は余情のことである。

宗祇は読者が感動するには、ある種の工夫が必要だと言っている。工夫とは登場人物になり替わって、その心の中を覗き込み理解し共感する読書姿勢のことである。そうであってこそ、物語の余勢、余情が理解できるのである。表現の際の余勢、余情を感じ取ることで、読者と作者と作中人物が一つに結ぶのである。

 

次に細川幽斎の闕疑抄(けつぎしょう)に進む。細川幽斎は都鳥を詠んだ万葉集の歌を指摘している。大友家持が難波の堀江で、奈良の都を偲びながら詠んだ歌である。

 舟競ふ 堀江の川の 水際に ()()つつ鳴くは 都どりかも 20 4462

都鳥を詠んだ最も古い用例であるとされている。

 

室町時代の観世(もと)(まさ)の作である謡曲・隅田川にも、この歌は引用されている。わが子梅若丸をかどわかされた母親は、わが子を探し求めて都から隅田川まで来る。梅若丸が葬られた塚で、わが子の幻を見て声を聞くという悲しい物語である。その一節を朗読する。

朗読⑤

()にや舟ぎほふ 堀江の川のみなぎはに、()()つつなくは都鳥。それは難波江これは又隅田川の東まで。思へば(ぎり)なく遠くも来ぬるものかな。さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも 乗せさせ給へ渡し守 さりとては載せてたび給へ。

 解説

墨田区の母寺(もくぼじ)に梅若塚がある。万葉集の歌と「伊勢物語」第九段が融合している文章である。細川幽斎は謡曲「隅田川」を知っているので、そこに折り込まれた万葉集の和歌を引用したのであろう。但し伊勢物語の都鳥の歌が、万葉集の大友家持の歌を引用したかどうかは分からない。

江戸時代の契沖はこれまでの注釈書で触れられてこなかった古典文学との関連を沢山指摘している。隅田川については「更級日記」で あすだ川 と書かれていることを(いぶか)しんでいる。しかも作者の菅原孝標の(むすめ)は、武蔵国と相模国の境であると書いている。又渡し守や舵取りが乗船を急がせることは、「土佐日記」にもあると契沖は指摘している。「伊勢物語」の都鳥を本歌取りした歌は沢山あるが、契沖は藤原俊成の一首だけ引用している。

 隅田川 ふるさと思ふ 夕暮れに 鳴くねも添ふる みやこどりかな

業平が感じていた旅の心細さと、都に残っている女性を思う心を、俊成は本歌取りして業平の心になって歌っている。

そのことに契沖は感動して、俊成の歌のみを書き記したのであろう。

 

今回は富士山の場面と隅田川の場面を読んできた。この場面は好んで美術品に描かれている。講師が大好きなのは、竹久夢二が描いた都鳥の挿絵である。大正6年に出版した吉井勇の「物語絵入り伊勢物語」で描かれた。吉井勇は「日本文学全書」というリーズの「伊勢物語」の本文に基づいて訳している。わが国では最初の古典文学に関する活字本である。その為に吉井勇の口語訳は第八段と第九段を一つにしており、今私たちが読んでいる第八段と第九段が別の段である「伊勢物語」とは違っている。

 

それはともかく、竹久夢二の都鳥の挿絵は、カラ-印刷である。海を思わせる青くて大きな川の上に、船が浮かんでいる。船の後方では船頭が竿をさしている。船の前の方には、業平とお付きの集団が座っている。その三人だけが描かれ、友人たちや他の乗客たちは省略されている。船のすぐ近くを一羽の都鳥が飛んでいる。それがカモメを思わせる。空には色が付いていない。けれども私はこの

挿絵を見る度に、若山牧水の短歌を連想する。

朗読⑥

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあおにも 染まずただよう

春のそら 白鳥まへり (ばし)(あか)し ついばみてみよ 海のみどりを

 解説

牧水の「海の声」の一節である。明治41年の刊行である。竹久夢二はこの牧水の歌を心の中で思い浮かべながら、青い海の上を飛ぶ白い鳥を描いたのかもしれないなどと、空想は膨らむ。又、若山牧水も「伊勢物語」を思い浮かべていた可能性もある。

 春のそら 白鳥まへり ばし)(あか)し ついばみてみよ 海のみどりを 

この歌は「伊勢物語」の 白き鳥の、はしとあしと赤き、(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ(いを)を食ふ。 という箇所をかすめているのではなかろうか。若山牧水と竹久夢二、そして「伊勢物語」三者の世界の近さを感じる。

 

「コメント」

 

「伊勢物語」からここまで行くのか。梅若塚に行ってみよう。