第149回奈良学文化講座 「青海原を越えて~日本を変えた遣唐使たち」」

                                   

講師  森  公章     東洋大学教授      「遣唐使とは何か、そのはじまりと交流の軌跡」

     古瀬 奈津子   お茶水女子大学教授  「8世紀の遣唐使と阿部仲麻呂」

日時  平成28年10月19日()    18:00~21:00                                  

講演会場    よみうりホ-ル

 

遣唐使とは何か、そのはじまりと交流の軌跡」   講師  森  公章     東洋大学教授

「遣唐使とは」  広辞苑

国際情勢や大陸の先進文化習得の為に、20回にわたって唐に派遣された公式使節。150人~200人/1隻。

630年が最初、唐末の混乱の為に894年菅原道真の建議によって廃止。

〇唐  618年~907年

  唐の高祖(李淵)が建立。律令制が整備され、政治経済が大発展し世界的な文明国となった。周辺国は朝貢した。

  当時の日本のお手本。遣唐使により、文化・政治・宗教・工業技術等を習得した。

〇遣唐使一覧

  1回  630年  

  2回  653年  道昭(飛鳥寺創設・行基は弟子)・定恵(藤原鎌足の長男)

  3回  654年  高向玄理

    7回  702年  栗田真人・山上憶良

  8回  717年  養老元年  藤原宇合・僧玄昉・阿部仲麻呂・吉備真備・井真成 

      帰便で菩提僊那(大仏開眼供養の導師・バラモン僧)来日。

 11回  752年  吉備真備

        帰便で鑑真来日、仲麻呂難破し帰国果たせず。

  16回  804年  最澄・空海

  19回  838年  小野 篁 渡航失敗 隠岐の島に流罪

  20回   894年 菅原道真 中止

〇遣唐使の区分

     途中経由地の朝鮮半島の政治情勢、航路等により前期後期に区分される。

 

    前期 1回から7回  

      航路 北路(朝鮮半島沿い) 派遣隻数 1~2隻 

  後期  8回から20回  派遣隻数4隻

      航路は南路(南シナ海を横切る難路)

〇東アジアの政治情勢

  前期の遣唐使は7世紀の東アジアの政治情勢、特に韓半島の三国抗争と唐との関係に大きく影響された。

  当初日本は百済を応援したが、唐-新羅連合軍との白村江の戦い(663年)に大敗し、その後唐の日本侵攻を恐れた。

  新羅が韓半島を統一する。しかし唐-新羅関係の複雑化で日本は翻弄される。→今の日本も同じ。

〇遣唐使の構成   150人~200人/1

  簡単に言えば、使節団(外交官)、随員、船員(70人)、留学者(留学生・留学僧・技術研修者)

〇記録

  「日本書紀」「続日本紀」には遣唐使の報告、途中の紅海事情、遣唐使団員リストなどが記録されている。

  又唐の公式記録にも、断片的にある。

 

遣唐使以前には、有名な聖徳太子の遣隋使がある。「日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや

〇遣隋使

  大和政権から隋に派遣された使節。608年(小野妹子)・614年(犬上御田鋤)・・・。日本側記録では3回であるが、

  隋の記録では6回。最初の頃は皇帝(煬帝)に道理に合わない国で無礼であると立腹させている。

  

「8世紀の遣唐使と阿部仲麻呂」                   古瀬 奈津子   お茶水女子大学教授

阿部仲麻呂の遣唐(717年 養老元年 元正天皇)から、1300年の記念すべき年。(何か取ってつけたようだな。)
8回 702年~を遣唐使の後期とする。

前期との相違点

 ・韓半島の政治情勢の変化   白村江以降新羅の統一、唐-新羅の連合と反目。ヤマト政権は様子見に徹していた。

 ・遣唐使の再開

   飛鳥・奈良時代と、唐を真似た律令制施行、飛鳥浄御原→藤原→平城と都移転も完了、国家も安定して

きた。

 ・航路の変更  北路→南路

 ・派遣隻数  

   前期は1~2隻であったが、後期は4隻体制。到達・帰還の可能性の向上を狙う?

〇阿部仲麻呂

  717年(9回)遣唐使の一員。唐名 朝衝(ちょうしょう)晁衝(ちょうこう)。博学多才で玄宗皇帝に寵遇(ちょうぐう)され、又帰国船の海難事故にも阻まれ

  現地で死去。唐の官僚として活躍、一説には科挙にも合格とも。

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」  百人一首・古今和歌集 

  この歌は帰国に際し、蘇州にて詠んだ。

・この時の同じ船の人々

  藤原宇合(不比等の三男)、吉備真備・僧玄昉・井真成(唐名 長安で墓が見つかった人)

・この遣唐使出発に当たり、春日の御蓋山(みかさやま)で安全祈願の祭祀があった。和歌はこの事に由来する。

・752年(12回)の帰国船に乗ったが、安南に漂着し、帰国出来ず。別の船で鑑真来日。

(唐の官人として栄達)

(文人との交流)  王維・李白・・・・

(阿部仲麻呂送別会)

  最後の出発に当たり、唐の人達が送別会を開き、詩を贈った。多数の詩が残っている。

・玄宗皇帝「惜別の御製」

・王維「秘書晁衝(ちょうしょう)に日本国に()えるを送る」秘書 仲麻呂の官名、晁衝 漢名)

・李白「晁卿衝を(きゅう)す」

・その他多数

「コメント」

夕食後の眠い時間ではあるが、今日は居眠りもせず興味深く聞けた。

前半 森教授

  遣唐使全体を俯瞰して、全体像をクリヤ-にしてくれた。素人にはこれが一番。細部は各人の好みでやればいい。

  こういう先生には好感する、著書を読んでみよう。20回の派遣回数でで到達せず、帰還せずが多数。

官命を受けて命を的に、知識欲と好奇心で荒海に臨んだ人々の勇気に脱帽。当初はエリート階級も行っているが、

後半は行ってエリ-トになるのだという一旗組が多くなる。

後半 古瀬教授

  この人は、対照的に重箱の隅タイプ。まあ、古墳発掘に向いている人だが、聞いている方はたまった物では

ない。よく、居眠りしなかったものだ。腹が立っていたからかも。いかにもお茶大の優等生。

  レジメは面白いのだが、講師はこれを一字一句読むだけ。それなら家で読もうと途中退席。老い先短いのに我慢して

聞くことはない。

 

それでも、今日の講義はとても興味深い所で、頭が整理された。参考文献に「遣唐使 阿部仲麻呂の夢」 上野 誠が

出てきたのには、えっ、あのオッチャンが書くの、遣唐使を。

個人的には阿部仲麻呂タイプは嫌い。大変な官費を使って勉強に行って、帰国せず自分だけ文明国でエンジョイ。

それで「ああ 日本は懐かしい」とは何事であるか。金を出してくれた国民に奉仕するのが筋だろう