第155回奈良学文化講座「女帝たちの時代」

 

講師  「飛鳥時代の3人の女帝」   吉村 武彦(明治大学名誉教授)

     「古代を彩った女帝たち」   瀧浪 貞子(京都女子大学名誉教授)

日時  平成29年6月23日(金)   18時~21時

会場  よみうりホ-ル

 

「飛鳥時代の3人の女帝」   吉村 武彦」

(はじめに)

・飛鳥時代とは 

飛鳥に王宮を建てたのは舒明天皇で岡本宮という。その前の敏達妃の推古天皇は豊浦、小墾田で

飛鳥ではない。飛鳥時代とは飛鳥に都の有った時代を表すが、今日は推古天皇から持統天皇

までの時代として話す。

 この時代に推古-敏達天皇皇后・皇極・斉明-舒明天皇皇后(皇極重祚)・持統-天武天皇皇后という

 女性天皇が即位している。

・推古天皇

欽明天皇の皇女で、敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺(蘇我馬子による)の後を受けて、初めての

女性天皇。蘇我氏の主導の下に、聖徳太子を摂政とする。崇峻暗殺の中での緊急措置であった。

 ・皇極(斉明)天皇

 再婚し舒明皇后となる。候補としては非蘇我の山背大兄皇子(聖徳太子の子)がいたが曽我蝦夷

  ・入鹿の意によって天皇となる。そして息子中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足による乙巳の変を

    目撃する。曽我入鹿暗殺である。乙巳の変後、孝徳天皇(皇極天皇の弟)へ譲位する。初めての

    生前譲位である。今までは終身制であったが、ここから皇位の継承方法が変化していく。

 

そもそも女性天皇には、「つなぎ」という役割があり、本来直系で皇位を継承したかったのである。

・孝徳天皇

皇極天皇は長子の中大兄皇子の即位を希望していたが、年少の為実現せず、弟の孝徳天皇即位。難波宮となる。

孝徳天皇と姉一家、皇極、中大兄、孝徳妃(中大兄の妹)の関係は良くなく、孝徳は失意の中で

死去。

・斉明天皇

孝徳天皇と妃の間人皇后との子はなく、小足媛との間に有名な有間皇子がいた。16歳であったが、

罪を得て刑死。そこで、やむなく皇極天皇が重祚して斉明天皇となる。62才。

大土木工事を行ったとして、批判される。この時代、大陸では唐が強大となり朝鮮半島情勢も緊迫

した。百済支援として、遠征軍を九州 筑紫の朝倉宮に進める。ここで、斉明は死去。

中大兄が称制(即位せずに政務をみること)し。663年、遠征軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗。

・天智・天武天皇

天智は斉明没後、暫く称制していたが668年即位し近江宮を作る。天智没後、弟の大海人皇子

(天武天皇)と長子の大友皇子との皇位継承争いとなる。壬申の乱(672年)である。

この時、重要なのは天智天皇が「直系相続」を主張したことである。これが次の時代の大きな問題と

なる。大海人皇子勝利し天武天皇となり、皇后鸕野讚良(後の持統天皇)。685年天武天皇死去。

・持統天皇

天武死後、しばらくは皇后鸕野讚良が称制する。長子草壁皇子の有力な皇位継承候補の

「大津皇子」を、謀反を理由に排除。しかし草壁皇子は、遺児軽皇子(7歳)を残して早世。

これからの持統天皇の生涯目標は、孫の軽皇子(文武天皇)への皇位継承であった。

「持統天皇の活躍」

思いもかけない長子草壁皇子の天皇即位前の早世で、生涯の目標は孫(軽皇子)の即位となる。

この為、長男草壁皇子の妃(天智の4女、阿閇皇女)、草壁皇子の王女・氷高皇女)→元正天皇、

更には中臣鎌足(藤原鎌足)・橘三千代と協力して達成する。

 その際の課題は大きかった。

●天武天皇の皇位簒奪者としてのイメージの払拭

 天智天皇は皇位継承を直系とすることを決定し、大伴皇子とした→弘文天皇。よって弟の大海人

  王子は皇位簒奪者となってしまう。古代から兄弟での皇位継承は多々あるので、持統天皇は

  問題はなしと主張した。

●孫の軽皇子の皇位継承権

 

 持統天皇は草壁皇子の有力競争相手の大津の皇子は刑死させ、草壁の即位待っていたが、

 思いがけず早世。よって孫の軽皇子の立太子、即位が次の目標となる。しかし問題点は

 大きかった。

・天智天皇の主張の「直系」を一旦否定して、天武天皇の兄弟相続を正しいとしたこと。

 今度は直系を主張した。

・草壁は天皇即位せずに早世したこと→直系として皇位継承権がはたしてあるのか。

・よって軽皇子はいわゆる直系ではない。

・有力競争相手がいた。 

・軽皇子の成人までどうつないでいくか。

●つなぎの天皇の設定

 持統→元明→元正→文武天皇(軽皇子)

「文武天皇(軽皇子)の誕生までに持統・元明・元正天皇の為した事」

 

「古代を彩った女帝たち」                                         京都女子大学名誉教授 瀧浪 貞子

古代とはいつか。日本史では一般的に奈良・平安時代を指し、大和政権時代を含めることも有る。

今日は持統を中心に、その長男・草壁皇子の妃(元明天皇)、娘(氷高皇子→元正天皇)、

孫(文武天皇)の孫の孝謙天皇(称徳天皇)について話す。

「持統天皇」

その生涯は、夫 天武天皇の遺業の達成と、長男 草壁皇子の即位。草壁皇子の死の後は、孫の

軽皇子(文武天皇)の皇位継承にかけられた。草壁ファ-スト、軽皇子ファ-ストの人生であった。

●その事蹟

・孫の軽皇子即位までの繋ぎとして即位した。

・大津皇子を刑死

 草壁皇子の有力競争相手の大津皇子(姉 大田皇女の長男で大来皇女の弟)を、謀反を理由に

  刑死させる。

・天武天皇の遺業の達成

 浄御原令の頒布  日本最初の体系的法令

●吉野行幸 31回

 これは歴代天皇で最多。この行幸を調べると、草壁皇子の命日・壬申の乱に関係する時期に合

  致する。孫の軽皇子(文武天皇)の即位を祈願したものと推察される。行幸は文武天皇即位の年で

  終わっている。

●藤原宮への遷都

 天武帝の時代から検討されていた遷都。藤原宮へ。この目的は、政治への影響の強い豪族勢力の

  力を割くこと。飛鳥の地から、離れることで豪族中心から天皇主導に変えようとした。

●万葉集編纂の指示

 講師は編纂の指示は持統天皇とする。きっかけは草壁皇子の死と、孫の軽皇子の即位を目的と

  したと。

 草壁皇子・軽皇子と続く直系の皇位継承の正統性を表明したのである。それは第一巻に示されて

  いる。

・宮廷歌人の柿本人麻呂に命じた草壁皇子への挽歌が、29首もあることでも理解される。

  天智・・・9首、天武・・・7首。

・孫の軽皇子が皇位継承者であることを認識させる歌。

(東の野にかぎろひの立つ見えてかえりみすれば月傾きぬ) 柿本人麻呂

 月を亡くなった草壁皇子に見立て、今から上る朝日を軽皇子としている。

日並(ひなめし)皇子(みこ)(みこと)の馬()めて み(かり)立たしし 時は来向ふ) 柿本人麻呂 

 軽皇子が亡き父(草壁皇子)と同じように、安騎(あき)()で馬で狩猟をなさっている。→軽皇子の正統性を

  主張している。

●文武天皇即位 

 念願の軽皇子が文武天皇として14歳で即位、持統天皇は初めての太上天皇(院政)となる。

   しかし24歳で早世。ここでまた、次の手が必要となる。

「元明天皇の登場」   持統天皇の妹で、草壁皇子の妃

又も思いもかけない文武天皇の早世で、その長子首皇子(聖武天皇)即位までの繋ぎが必要と

なった。この為、急遽即位。草壁皇太子の妃でしかなかったのに。

・平城遷都

 これも又、豪族の本拠地から離れることで彼らの影響力を減じようとしたのである。

・古事記の完成 

  天武天皇から続く編纂作業の完成。

・譲位

老いを理由に、娘・氷高皇女(元正天皇)に譲位し太上天皇となる。

「元正天皇」  氷高姫皇女 元明天皇の娘。美女として知られる。

 軽皇子(文武天皇の姉)。天皇としては異例なことに、未婚。まさに文武天皇の長子・聖武天皇まで

  中繋ぎの役割。母から娘への皇位継承であった。

●養老律令の編纂

●藤原一族、橘諸兄などの協力で、(おびと)皇子(聖武天皇)への皇位継承を行う。

 

かくして三代の女帝のバトンタッチで天武天皇直系の皇位継承が完成した。→聖武天皇

 

「孝謙天皇(重祚して称徳天皇)」

生い立ち

聖武天皇((おびと)皇子)と光明皇后(藤原安宿媛(あすかべひめ)、藤原不比等(ふひと)と県犬養三千代の娘)の娘。即位前は阿部内親王。安積皇子が早世したので、女性で初めての皇太子となった。今までの女性天皇は、常に中継ぎとしての天皇即位であったが孝謙天皇は最初から天皇になるべくしてなった。聖武天皇は阿部内親王に譲位し、聖武天皇没後は光明皇后が後見した。

●皇太子擁立

従兄弟の藤原仲麻呂との協調関係で政権を運営する。しかし、最初からの女性天皇で藤原氏との

親しい関係が様々な問題を発生させる。特に従兄弟の藤原仲麻呂との関係は密であった。聖武天皇の違勅である皇太子擁立を廃し、大炊王(父は舎人親王)とする。後の淳仁天皇である。

●淳仁天皇に譲位し上皇となる

●弓削道鏡との関係

孝謙上皇が病気の際、加持祈祷に験の有った弓削道鏡を寵愛するようになった。これで淳仁天皇、藤原仲麻呂と敵対関係となる。しかし反乱を起こした恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は失敗し敗死、

淳仁天皇を廃位させ、配流とする。重祚して称徳天皇として再即位する。道教を法皇として、

称徳天皇・道鏡の時代が始まる。

●混乱の拡大

道鏡への反感の高まり、後継問題で関係者を粛清したり、混乱は拡大していく。

異母妹 井上(いのへ)内親王の配流及び謎の死・淳仁天皇の配流先での謎の死。(藤原仲麻呂)の反乱。

●終焉

称徳女帝は発病し、数か月で崩御。たちまち道鏡は失脚し、下野国分寺に配流される。

ここで持統天皇から始まる天武系の天皇の系譜は終了し、天智系の白壁王が光仁天皇として即位する。

●まとめ

最初から男の皇太子として育てられ、藤原一族のバックアップを受けて順調であったが、道鏡の出現から人生が狂ってしまった。本来は聖武天皇の違勅を受けて皇太子を擁立し、役割は終了するはずであったのに。

 

「コメント」

最初の吉村先生の講義は、飛鳥時代を俯瞰的に眺めただけでも興味深い所はない。おさらいであった。

瀧浪先生は、資料も良く準備されていて初めて聞くポイントもあって、久し振りに楽しめた。

一番興味深く聞いたのは持統天皇。天智天皇の第二皇女として生まれ、長女大田皇女と共に叔父の天武天皇の妃となる。太田皇女の早世によって皇后となる。姉(太田皇女)の遺児が大津皇子である。

父天智天皇崩御によって、その遺児大友皇子(弘文天皇)と夫 皇大弟大海人皇子とが皇位継承を争って壬申の乱となり、勝利し天武天皇となる。

長子が草壁皇子でその妃が、妹 安倍皇女(後の元明天皇)。何とも人間関係が混み合って複雑な中で、息子の草壁皇子・孫の軽皇子(文武天皇)・その子の首皇子(聖武天皇)へのル-ト作りに

生涯を懸けた。

その執念が第一であるが、聡明さ、企画力、実行力には何とも言いようがないほどである。そして妹(元明天皇)、孫(元正天皇)にも全面協力させて実現に向けて行く姿は恐ろしいほどのど迫力である。女帝たちは、夫・遺児たちへの献身で、中継ぎとして懸命に生きて行くのである。この中で、すこし違って共感しえないのが、孝謙女帝。 

父・母の無理を押し付けられて気の毒ではあるが。

今回の講義は久し振りに興味深く聞いた。自分の興味と講義とがマッチすることは少ない。